ハリウッド映画では問題の最終解決手段として核兵器が使われることがありますが、アメリカ人は核兵器のリスク(放射能など)をどれくらい理解しているのでしょうか?

「ハリウッド映画では問題の最終解決手段として核兵器が使われることがありますが、アメリカ人は核兵器のリスク(放射能など)をどれくらい理解しているのでしょうか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

『博士の異常な愛情』とか、『渚にて』とか、『チャイナシンドローム』とか、放射線の恐ろしさを伝える作品は英語圏ではいろいろあります。日本人は広島と長崎の惨劇についてよく学んでいますから、確かに日本人に比べれば理解は低いでしょうけれども、「とてつもなく怖いらしい」ということについては、かえって情報が少ないだけに伝説的なものに発展しているのではないかと思います。アメリカ映画で核兵器を使用するのって『エヴォルーション』とか『インディペンデンスデイ』みたいなエイリアンが攻めて来たときとか、隕石が突っ込んでくるときくらいしかないので、もしかするとハリウッドのコンプライアンス的に、核兵器は宇宙から脅威が来た時しか使ってはいけないなどのようなコードでもあるんじゃないですかね。



全人類が突然あと一年で死滅するとわかったら、人類はどのような行動に出ると思いますか?

「全人類が突然あと一年で死滅するとわかったら、人類はどのような行動に出ると思いますか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

『渚にて』というSF小説では、放射能汚染により人類が次第に死に絶える中、最後に残ったオーストラリアの人々が静かに滅びの日を待ちます。もちろん、そうではない、不心得な人がいることも示唆されますが、主たる登場人物が最後の瞬間まで文明人として自律的・倫理的な振る舞いを保ちます。私もそうありたいと思いますし、本当に死滅すると分かると何に手を付けていいのかもわからなくなってしまいますから、多くの人もそんな感じになるのではないでしょうか。



アニメ映画『GODZILLA-怪獣惑星』のやれることは全部やってる感

アニメ版の『GODZILLA-怪獣惑星』は、とにかくやれることは全部やってる感が強く、私はなかなか満足することができました。まず第一に「終末後」の世界という設定がなかなかいいように思えます。過去、ゴジラは何度となく日本列島に上陸して来ましたが、人間サイドが多大な知恵と努力を注ぎ込み、原則的にゴジラは撃退されてしまいます。赤坂憲雄先生が指摘していらしたようにゴジラは太平洋で戦死した日本兵のメタファーであるとすれば、日本人が繁栄を楽しみ俺たちのことを忘れるということは受け入れがたいと異議申し立てをするかのようにして上陸してきたとしても国土を完全に破壊し尽くすことなく、皇居を破壊することもなくギリギリのところでゴジラは撤退せざるを得なかったと言うことになります。ゴジラは終末的危機をもたらすことはあっても終末は必ず回避されていたわけです。

ところが今回の作品では、ゴジラをして地球の頂点に立たしめ、なぜかわからないが狙い撃ちされる地球人は大急ぎで地球を撤退。あてどない宇宙への放浪の旅に出ます。時代は既に終末後になっています。地球人を宗教的に支えている宇宙人が登場しますが、背の高い美しい金髪の人々で、オカルトの世界では金星人などの宇宙人はブロンドの美少女などの説がありますから、そういった都市伝説も入れ込みつつ、主人公の榊大尉はイケメンで、彼を慕う部下にはきちんと美少女が配されており、キャラ設定にもぬかりないといった感じです。IT技術があほみたいに進歩していて宙に画面が浮かび上がりAIのおかげでいかなる複雑な状況も瞬時に分析可能です。人々がとるものもとりあえず避難宇宙船にはスタートレックや2001年宇宙の旅、またはスペースコロニーを想起させるものがあり、再び意を決してゴジラと対決する人類の武器はモビルスーツならぬパワードスーツで、要するにイケメン、美少女、陰謀、勇気、未知のテクノロジーなどが詰め込めるだけ詰め込んであり、地球で人が頂点に立てないというのは猿の惑星みたいな感じもありますから、そういう要素も取り込んで、作り手がやりたいことは全部やっている、やれることは全てした感に溢れています。ゴジラ撃滅を企図して上陸した地球の地上はもはや得体の知れない植物と有毒がガスで満ちており、もはやナウシカといった様相すら呈しています。更に言うと一体しかいないはずの強敵ゴジラを倒したら、次にもっとでかいラスボス風ゴジラが登場するというのは、永遠にもっと強い敵が出てくるドラゴンボールみたいな感じになっていて、アニメファン、SFファンともに楽しめる内容になっていると思います。

さて、この三部作の続きが果たしてどうなるのか、ここまでいっぱいに広げた風呂敷をどうやってしまいこむのかに注目せざるを得ませんね。



量子論とテレポーテーション

21世紀の今日、量子技術は我々の生活とは切っても切れない存在です。パソコンの集積回路から何から先端技術には量子論が応用されているそうです。

さて、その量子論で行くと、ちょっと無理無理な感じはあるものの、テレポーテーションが可能になるそうです。量子の世界では粒子と粒子がある種の兄弟関係のような密接な状態になると、互いにコピーし合い、一旦関係性が構築されると、どんなに離れてもコピーし合う関係性は維持されるという性質があるのを応用するのだそうです。

ある実験で、光の粒子を取り出して何十キロか離れた島に持っていきます。兄弟関係のあるもう一つの粒子は実験本部みたいなところに於いておきます。何をどうするのかは知らないのですが、実験本部の粒子を変質させると、同時に何十キロから離れた粒子も変質するということが分かり、アインシュタインが「なわけねーだろ」と言っていた量子の世界が存在することがはっきりしたということらしいのです。

では、粒子の兄弟関係を利用したテレポーテーションとはどのようなものなのかというと、兄弟関係のある粒子が地点Aと地点Bに配置された場合、移動させたい物体Xを地点Aで粒子と同化させると地点Bに原子レベルで完全に同じものが生成されるというのです。この時、地点Aにある物体は原子レベルで崩壊しますが、地点Bにはオリジナルと全く同じ、100パーセント同じものが誕生するので、結果としてテレポーテーションできたというわけです。

しかし、何かがもやもやして納得できません。仮にこの技術でMrスポックが地点Aから地点Bへとテレポーテーションした場合、確かに地点Bには完全なMrスポックが登場します。完全に同じ100パーセントMrスポックですので、それをMrスポックではないと言い張ることは不可能です。しかし、地点AのMrスポックは崩壊しており、もうちょっとはっきり言うと地点AのMrスポックは死んでしまい、地点Bに完全なMrスポックが誕生したということになります。

ドラえもんのどこでもドアのようなもので瞬間移動した場合、ドアをくぐる前ののび太としずかちゃんは死んでおり、ドアの向こう側に完全な、思考回路も記憶も100パーセント同じのび太としずかちゃんがこの世に誕生するということになります。もし、自分だったらどうでしょうか。地点Aにいる「私」は死に、地点Bに100パーセント完全な私が登場した場合、地点のBの私は本当に「私」なのでしょうか?量子論で行けば地点Bの私は完全にオリジナルです。しかし、地点Aの私は死んでいるのです。その時、私は生きているのでしょうか?それとも死んでしまったのでしょうか?

ここはもはや哲学の問題かも知れません。「個」とは何かという問いかけにつながるかも知れません。仮に将来、この技術でテレポーテーションが現実化した場合、人は移動するごとに死と再生を繰り返すけれども、誰もそのことに気づかないという現象が起きるかも知れません。私なら怖くてテレポーテーションの技術を利用したくはありません。しかしながら一方で、「それはかつて写真を撮られると魂を抜かれると信じていた人たちと同じような妄言だ」という人も現れることでしょう。その時に周囲の同調圧力で「試しに」テレポーテーションしてしまうかも知れません。ちょっと想像すると怖いような…見たいような見たくないような…。という感じでしょうか。

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ホーキング博士によると地球には人類があと1000年くらいしか住めないらしい件

ホーキング博士によると地球には人類があと1000年くらいしか住めないらしい件

ホーキング博士によると地球には人類があと1000年くらいしか住めないらしいです。

核兵器によるテロリズムで地球に住めなくなるリスクと、AIが人類を超越して人類を滅ぼすリスク、地球に小惑星が衝突するリスクを全部足して計算したらそうなるということらしいです。英語メディアで大体ざっくりとそういうことが伝えられていましたが、おそらくはその他環境破壊とかそういったものも全部独自の計算式に放り込んで出した結果ではないかと思います。

さて、問題は私たちはそれにどうやって備えればいいのかということです。個人のレベルで予防できるものではありません。戸締りや火の用心に気をつけたり、有機野菜をよく食べるようにしたり、お年寄りに親切にしたり、小さい子供に親切にしたり、隣の人に愛想よくしたりしても地球に小惑星が衝突するリスクことを減少させることはできません。逆に甘いものを食べすぎたり、お酒を飲みすぎたり、運動不足だったり、寝不足だったり、勉強しなかったりしても地球に小惑星が衝突リスクが上がることもありません。

要するにお手上げであり、日々の生活や個人の修練で克服できる類のものではなく、なんとなくどうでもいいというか、気にしても仕方がないという気がしなくもありません。

そうはいっても小さいころに読んだ科学の本によればいずれ太陽が膨張して地球を呑み込んでしまうため、早晩、地球が滅亡することは既に分かっていると言ってもいいわけですので、人類の永続を望むのであれば、長い長いスパンで国とか大企業とか国際金融資本とかフリーメイソンとかのレベルで考えて準備してもらうしかありません。

ホーキング博士はわりと悲観的なメッセージを出す人だと理解していますが、その悲観派のホーキング博士の考えに従うとしても、あと1000年あれば何とかできる可能性があるようです。スペースコロニーの建設や他の惑星への移住などの手段をコツコツ研究していけば人類は生き延びられるというわけです。

ただ、私がちょっと疑問に思うのは、スペースコロニーや惑星移住ようなものはAIが設計して運営していくのではなかろうかということです。ですので、宇宙のどこへ行こうとも人はAIと共に生きていくわけですから、博士の指摘するようなAIによる人間支配、ターミネーター的終末の可能性は排除しきれないのではないかと思えます。AIが危険だからAIの設計する宇宙船に乗るというのは二律背反するのではなかろうかと疑問が残ってしまいます。

また、地球に小惑星が衝突する可能性とMrスポック的な宇宙船が航行不可能になる可能性とどっちが高いか問われれば、誰もが後者であると迷いなく返答するのではないかとも思えます。スターウオーズ的な恒星間移動が通常の状態になるとすれば、現代でも火山噴火で地元の人たちが避難するような感覚で「地球が滅亡したら〇〇へ行こう」と言えるくらいまで後1000年で持っていくしかないかも知れません。その場合、デススターは製造禁止です。

それはそうとして、人は誰しもが明日のことは分かりません。「せめて今日だけは」隣人に対して優しくつもりで日々を送りたいものです。

アメリカ映画『トリフィドの日(人類SOS)』のマッチョな冷戦

60年代らしい、レトロな感じのSF映画です。

ある日の夜、流星群が夜空いっぱいに飛び散ります。翌日になると、流星群を見た人は全て失明しています。目の手術のために包帯をしていた主人公の男性ビルは朝になって包帯を解いてもらうはずが誰も来ないので自分で包帯をとります。世界は一変しており、街を歩く人は盲目の人ばかりです。文明が機能しなくなり、人々の規律が失われていきます。ネヴィルシュートの『渚にて』では人類が滅亡するその瞬間まで矜持を守り抜く人々の姿が描かれますが、この映画ではそんなことはありません。ここぞとばかりに悪さをする人もたくさん登場します。

トリフィドという肉食の植物が各地で繁殖し、人を襲います。植物なに動きます。まるで動物ですが植物という設定になっています。各地で人が襲われ、瞬く間に人がいなくなっていきます。

主人公のビルは荒れたロンドンで女の子に出会います。学校から逃げ出して貨車に隠れて夜を過ごしていたために流星群を見ておらず、失明していません。二人はロンドンから離れてボートでフランスに逃れます。棄てられた自動車がたくさんありますから自動車に乗ってパリに行き、パリも全滅状態だということを知ります。ラジオでは「こちら東京、街が火事です」みたいなことも流れています。日本人の役の人は全然日本語が言えていませんので「こちら東京、街が火事です」は私の好意的な解釈です。

フランスの田舎の方で目の見える人に出会います。目の見えない人たちを助けている屋敷へと誘われます。ですが屋敷には流星群を見なかったので失明から逃れることができた受刑者たちが、文明の崩壊をいいことに脱走し、屋敷でどんちゃん騒ぎをしています。なんじゃこりゃと思っているうちにも周囲は肉食植物のトリフィドに囲まれています。

慌ててビルと女の子と屋敷に住んでいた女性との3人で脱出します。残された目の見えない人々は受刑者ともどもトリフィドの餌食です。途中で馬車に乗り換えますが、他の車が見つかると馬も放棄です。わりと簡単に「現実的に」いろいろ見捨ててスペインを目指します。スペインの米軍基地ならなんとか助けてもらえるかも知れないからです。ラジオ放送はほとんど流れなくなっていますが、それでも周波数が合うとアメリカ軍の救援に関する放送を聴くことができます。潜水艦に乗っていた人たちは流星群を見なかったので問題なく行動できるため、生きている人はアメリカ軍基地へ来いと言っています。

最終的にはビルと女の子と屋敷にいた女性は見事危機を切り抜けて、途中で出会ったスペイン人夫婦と生まれたばかりの赤ちゃんも一緒にアメリカ軍に助けてもらうことができます。

灯台で研究生活している夫婦が海水をかけるとトリフィドが溶けることを発見してめでたしめでたし。人々が神に感謝して終わります。

60年代のアメリカらしく、主人公のビルはソフトマッチョな中年男性です。力が強く、喧嘩に強く、知恵と見識があり、いろいろな道具を使いこなせます。ラジオも発電機も修理できます。私のように手先の不器用な男にとってはうらやましい限りです。第二次世界大戦後のアメリカの理想の男性像という雰囲気です。舞台はヨーロッパですが、主人公のマッチョな感じが「this is amerca」という感じです。病室でタバコを吸う場面がありますが、今では考えられません。時代を感じます。

冷戦という時代背景も見逃せません。流星群が核兵器だとすれば、トリフィドなる奇怪な肉食植物は敵のスパイか工作員、或いは敵軍の上陸を連想させます。意思を持って拡大していく様子からナウシカの腐海にもちょっと似ているかも知れません。。最後にアメリカ軍の潜水艦に助けられるというのもそういう意味ではよく考えられています。ヨーロッパまで助けに来てくれる兵隊さんありがとうという感じになっています。『風が吹くとき』の老夫婦が静かに核戦争後の誰もいなくなった世界で死を受け入れていくことを思うと、この映画はそのような危機もアメリカンスピリットで乗り越えることができるぜ、という感じです。

レーガンとゴルバチョフの会見で冷戦が終わったと知った時、少年だった私は「ああ、これからの世界は平和になるのだ。しかも日本は西側で勝った側だから気分いい」と思ったものです。しかし世界はそんなに簡単ではなかったということはその後の歴史を学べば明らかと言えるかも知れません。やがてシン・ゴジラが制作されるのだと思うと、SFから時代を読み取ることもできそうです。

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エヴァンゲリオン新劇場版と能

これまでにエヴァンゲリオン新劇場版は『序』『破』『Q』が公開されています。私は最近知ったのですが、能ではストーリーの展開が「序」「破」「急」の順序になるそうです。これまで何度か実際に能をみに行ったことがありますし、動画でも何度も観ていたのですが、そういう順序になっていると初めて知り、言われてみればその通りだと納得し、今まで気づいていなかった自分が恥ずかしいとも思いました。

能の「序」の段階では、登場人物がゆっくりとした動きで登場し、自己紹介するときもありますし、舞台上で無言でじっと佇む時もあります。いずれにせよ、ゆっくりと盛り上がりのない、言ってみれば退屈で、観客は続きに期待する段階になります。続いて「破」の段階で物語に動きがあり、知られざる秘密が明かされ(古典なので観客は基本、筋は知っている)、告白や暴露があり、新たな問題があり、克服するべき障壁が示されたりします。

最後の「急」では物語が急展開し、激しい対立や慟哭、命のやり取りなどがあって、終結していきます。

エヴァンゲリオン新劇場版の場合、まさしくこの順序通りで『序』はいわば登場人物や設定の紹介です。しかも観客は旧劇場版、あるいはテレビ版やマンガ版からストーリーをよく知っていますので、いわばおなじみのことをなぞっている、なぞりなおしている感じです。映像はCGできれいになりましたし、より21世紀的というか、きらきらしていて、さすが作り直されただけのことはあると思います。ただ、ストーリー的には既に知っていることなので新たな注目点と言われても…。な感じも残ります。

次の『破』では、シンジとアスカとレイの人間関係に大きな変化が現れます。レイが自分の内面に人間的な感情が存在することに気づき、シンジはレイを愛していると自覚します。かわいそうですがアスカはちょっと退いている感はありますが、アスカの人間関係面での交代と重大な負傷は、『序』の段階での曖昧な均衡を破壊するという効果があると言ってもいいと思います。

さて、『Q』ですが、いきなり全然違う展開になっていることは誰でも知っていると思います。「えーっ前作の綾波を返せ!はどうなったの?」「律子さんが世界が終わるのよと言ったのはなしかよっ」と想定を超える物語の展開に唖然としたのは私だけではないはずです。

本当に急な展開で、通常の物語では終了へ入っていけるところが、こんなことになって、一体、庵野先生はこれからどうするんだろう…。と他人事ながら心配になりますが、これについはもはや前人未踏の能の物語構造を超えた世界が作られるのを待つしかないです。

シン・ゴジラ』よかったです。ですが、はやくエヴァンゲリオンの続編をお待ち申し上げております。

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『エヴァンゲリオン』旧劇場版を改めて観て気づく観衆の心理的成長

『エヴァンゲリオン』旧劇場版を改めて観て気づく観衆の心理的成長

『エヴァンゲリオン』の新劇場版はまだ完結していないため、なんとも言えない部分がありますが、エヴァンゲリオン世代にとって旧劇場版はなかなか忘れられない青春の一ページです。今回、改めて旧劇場版をみて、新劇場版とは心理の描き方に大きな違いがあり、それは観衆や作り手の心理的成長とも少なからぬ関係があるのではないかと思えました。

エヴァの旧劇場版では、碇シンジは4人の美しい女性に囲まれた状態で試練を与えられます。綾波レイ、アスカ、律子さん、ミサトさんの4人の女性との心理的相克があり、同時に父親との競合というある種のエディプスコンプレックス、更に言えば父殺しの願望が描かれます。複数の異性が次々現れてプラトニックにせよ、何にせよ主人公と関係性が生まれていくというのは、いわゆる「ハーレム型」と呼ばれる物語の展開になりますが、このような描かれ方は人の厨二的な心の琴線に触れやすいです。

複数の異性がいれば、一人くらいは自分の好きなタイプが登場する可能性が高くなるため、いわゆるセット売りになり、興業的にも有利になるはずです(私は興業とかセールスとかに疎いので、「はず」としか言えないですが)。

世に疎く、心細い生き方をしている碇シンジはまさしく中学生そのもので、アスカとレイが同級生の女の子タイプ、律子さんとミサトさんが年上のお姉さんタイプ(美人で怖い。時々優しい)と住み分けがされており、シンジがレイの自宅へ通行パスを届けに行く場面は初恋の生まれる現場というちょっと照れる言い方も可能で、要するに中学生くらいの男の子が異性に対して求めているものを全て提供してくれています。観客は中二の心で自分の初恋を思い出したりしながら、感情移入していくことができます。

一方で、新劇場版のエヴァでは、重複する箇所もありますし、それが全てではないものの、「綾波レイ」という特定の女性を愛し、彼女を救うためにシンジは力を尽くします。特定の女性を愛して救おうとするのは、大人の男性の心の動きと言えます。『序』がレイとの出会いと絆の生まれる物語であり、『破』はレイを愛していることに明確に気づきレイの救出に力を尽くしています。三作目になると意味不明になってきて、四作目がまだなので、この辺りはまだなんとも解釈も考察もできませんが、新劇場版の最初の二作については以上のような理解が可能だと思います。

旧劇場版と新劇場版の客層は相当にかぶっており、旧版が上映された時に十代か二十代だった人が、今三十代か四十代で新版を観ているのではないかと思います。いい作品や有名な作品は世代を超えることが多々あるので、世代論が全てとは言いませんが、大きな要素ではあると思います。多くの人が若いころは「ハーレム型」を好みあちこち目移りするのに対し、年齢を重ねると特定の相手を愛するという経験をしていくことになります。そのため、若いころは旧版に感情移入でき、年齢を重ねると新版にも感情移入できるという構図が成り立つように思えます。これがもし新版でも全く同じ「ハーレム型」ですと、共感できる人とできない人に分かれるようにも思えます。

まるで観客の心理的成長を見越してそのように作品の感じを変えたのではないかとすら思ってしまいますが、たまたまかも知れませんし、庵野さんの心の変化が主要因かも知れません。そこまでは分かりませんが、時には無意識のうちに、観客と制作者がシンクロするということもあると思いますから、これは、そういう類の話かも知れません。

シン・ゴジラ』も良かったのですが、早くエヴァの新作が観たいです。よろしくお願いします。

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ネヴィル・シュート『渚にて』の救いなき人類滅亡

第三次世界大戦が起き、北半球の強国が核ミサイルの撃ち合いをし、北半球は人が住めなくなってしまいます。北半球で暮らしていた人の中には南半球まで逃げてくることができた人もいましたが、大半は死んでしまいます。人が住めないということは、他の生き物も住めません。北半球は死の世界になり、魚もいない、鳥も獣もいない無機質な世界に変貌してしまいます。

先進国、または準先進国として生き残っているのがオーストラリアです。オーストリアリアの人は当面は安心です。人類再建の使命を果たさなくてはいけません。しかし、放射性物質がじょじょに南へと飛んできます。地軸の傾きがあるために季節の変化によって寒気が北上したり南下したりするので、その波状攻撃で少しずつ南半球も放射線物質により汚染されていきます。もう他に行くところはありません。

北半球に生きている人はいないのかと、いろいろサーチをしてみると、無線信号を発信しているエリアがあります。危険な北半球に決死隊が潜水艦で生きている人がいるかも知れないと探しに行きます。実際に現地に乗り込むと、コーラの瓶が針金かなにかにひっかかり、風に揺られて時々無線機にぶつかっていただけだったことが分かります。希望は全くないのだとはっきりします。

オーストラリアの政府は人々に自殺用の毒物を配ります。どのみち助からないのだから、自分のタイミングでどうぞというわけです。文明は最後まで機能しようとします。電車が動きます。ラジオ放送があります。レストランが開いています。ガソリンスタンドもやっています。ですが少しずつ、物資とエネルギーがなくなり、人も減っていくので、それらは機能しなくなっていきます。この状態になっても働いている人は偉いです。

果たしてどのような最期を迎えたいかをこの作品は読者に問いかけています。どうせ明日はないのだと思ったとき、それまで保っていた矜持を最後まで大切に守り切ることができるかどうか、職業人としての矜持、家庭人としての矜持、社会人としての矜持、或いは人間としての矜持を持って最後までいけるかが問われます。人がいなくなるわけですから、死して名が残るということもありません。飽くまでも自分自身に対して恥ずかしくないかどうかが問われます。

恐ろしい内容です。最後に逆転とかありません。淡々と人類が滅亡していき、残された人は淡々とそれを受け入れ、残された自由である、自殺のタイミングを選んで死んで行きます。読み終わったら暗くなります。

広島と長崎の放射性物質はバクテリアによって分解されたという話を聞いたことがあります。そのため、同様の事態が起きても意外と生き延びられるかも知れません。『博士の異常な愛情』的解決策もあり得なくもないような気がします。とはいえ、核の冬みたいなのが何百年も続いたらダメそうな気がします。深海で地中から湧き出る熱水を頼りに生きる深海魚くらいしか生き延びられないかも知れません。考えれば考えるほど悲しくなるので、もうここでやめておきます。

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シン・ゴジラとナウシカ

夏休みの話題をさらったシンゴジラでしたが、おもしろかったです。ゴジラシリーズのことはよく知りません。白黒時代のものは、はっきり言うとリアルタイムでみた人以外にとっては多分しょぼいと感じるでしょうし、最近のものもわざわざみたいと思うことはありませんでした。テレビで放送されたのを何度かみたことがあるくらいです。

ただ、今回は評判があまりにいいので、観てきました。官邸内の会議の様子とか、部外者は絶対に見ることができませんから「ふーん、こんな感じなのかぁ」というのも収穫としては大きいです。自衛隊の動きのかっこよさときたら、ああ、庵野先生、実写でエヴァンゲリオンをやるってことですね。と思いましたが、見応えがあります。

現代の国内政治と国際政治をなるべくリアルに描こうとしているのは、むしろそういうのが観たいんだという人にとっては、ニーズに応えてくれていると思います。ドイツはいい国で、フランスは打算的、アメリカは諸刃の剣というスタンスで、「なるほど。なるほど。そういう見方になっているのか」という感想です。

ゴジラは伝統的に放射線の影響による突然変異体として登場します。今回もそうだたと言っていいと思います。子どものころ「ゴジラは放射線と一緒に襲いかかってくるアメリカを象徴しているんだよ」と聞かされたことがあり、どういうことなのか今一つよく理解できませんでしたが、今回のゴジラは原子力発電所を象徴してることは理解できました。

登場人物たちのチームワークと知恵によって、見事に問題がクリアされるのですが、問題解決までの経緯によって訴えられているのは日本人の核に対する本能的とも言えそうなほどの嫌悪感です。やっぱり日本は敢えて再び原子力エネルギーの開発なんかしなくてもいいのではないかなあと、そう思っている人はいいのではないかなあという感想を得ました。原子力を否定するメッセージを観て納得してしまう自分がいましたので、私も深い部分から原子力はよした方がいいと思っているのかも知れません。

原子力について警告を鳴らし、アメリカは諸刃の剣だと表現している部分はナウシカと共通しています。ナウシカの風の谷もトルメキアの集団安全保障の枠組みに入らなければ独立は保てませんが、その枠組みに入るとトルメキアの戦争を一緒にしなくてはいけません。瘴気が放射線を表しているのは言うまでもありません。

シンゴジラでは、アメリカの集団安全保障の枠組みから独立するというメッセージが強いです。日本のことは日本人が自分で決める。したがって、日本で生じた問題は日本人が解決する、という価値観が鮮明に出ています。難しい議論のあることなので、ここではこれ以上深追いしません。英語が下手で物怖じするという感じも出しません。『ブラックレイン』でガッツ石松が「英語がわかんねえんだよ」というような面白いことは起きません。堂々と渡り合う、という印象を観客に与えます。

東京の風景の再現がすばらしいです。『巨神兵東京に現る』を思い出します。『巨神兵東京に現る』がとても好きなので、2時間それをみせてもらえたような気分になれたのもとてもよかったです。

最後のスタッフロールのところでは、取材協力に小池百合子さんの名前があることを確認し、映画館を出ました。小池百合子さんの名前の隣には、枝野幸男さんの名前も出ていたと思います。小池さんには防衛大臣の仕事について取材し、枝野さんには震災対策の時のことを取材したのだろうなあと思います。