日本国憲法と抵抗権

現行の日本国憲法について、私は個人的にはなかなか悪くないとは思っているのですが、なんとなく、どうもすっきりしないもやもやしたものがあります。それは抵抗権が明記されていないことです。

現行憲法の草案を書いたのがGHQで、本来明治憲法には改正規定が書かれていなかったにもかかわらず帝国議会で改正手続きを経て「改正」されたことになっています。明治憲法が「法治主義」(法律にさえ書き込めば何をやってもいい。言論弾圧でも思想弾圧でもなんでもありじゃ、おらー)なのに対して、現行憲法では「法の支配」(法にはその規範となるべき精神やモラルがある。法の理念に反するようなことはたとえ法律に書き込んでもオーケーになるわけねえだろ、そんなのは無効だ。ぼけ)に変更されました。一般に前者が大陸法と呼ばれ、後者が英米法と呼ばれます。

GHQの草案は、天皇という日本独特の存在に配慮を示しつつ、英米法的な精神を日本に根付かせたいとの願いを込めて書かれたものと私は個人的に理解しています。

ただ、そうなると一つだけ解せないのが日本国憲法には「抵抗権」が明記されていないことです。アメリカの独立宣言(憲法の一部というか、根幹と言ってもいいかも知れないですが)では革命の権利(暴政に対して抵抗する権利)が明記され、修正条項でも武装の権利が明記されています。抵抗するためには武装が必要ですので、念入りに修正条項に武装の権利を盛り込んだのだと言えます。

これはアメリカ建国の根本理念に関わる問題ですので、たとえGHQの憲法草案チームが法律の素人だったとしても知らないはずがありません。普通の日本人が憲法9条を知っているのと同じくらい、常識的に知っていたはずです。

しかし、日本国憲法に抵抗権が書き込まれなかったのは、もしそれを書き込むと当時日本を占領中だったGHQに対して抵抗権を盾に暴動なり反乱なり旧軍の蜂起なりがあることを懸念して敢えて書かなかったのではないかという気がします。暴政に対して抵抗する権利はほとんど基本的人権と言ってもいいくらいですから、ここはもしかすると現行憲法の瑕疵と言えるかも知れません。もちろん、選挙がしょっちゅう行われて有権者がこいつダメダメじゃんと思えば落選させることもできるわけですから、敢えて抵抗権を主張する必要はないとも言えますし、現代の解釈では抵抗権はあまりに自明の権利なので書いてなくてもそれ権利はあるのだという考えもあるようです。そうすると国の自衛権も書いてないけど明々白々に存在するという解釈の余地を認めることにもなりますから、私にはそれぞれの立場の人が自分の都合のいい部分だけを主張しているように見えてしまうようにも思えます。

さて、憲法に関する論議には八月革命説を欠かすことはできません。1945年8月に革命が起き、その結果として現行憲法が生まれたのだとする説です。ただし、その説を採る場合、誰が革命をしたのかという点が極めて重大のように思えます。当時の状況から見て、革命の行為主体はアメリカ軍ということになってしまい、外国の軍隊が革命を起こすということは原理的にあり得ず、それはいわゆる「侵略」ということになってしまわざるを得ないのではないかと思えます。そういう意味で八月革命説はちょっと無理があるのではないかなあと思えます。

このあたりのことは「神学論争」の範疇とも思えますので、あんまり深入りすると疲れるだけという気もします…。




石橋湛山内閣‐リベラル首相の短命内閣

石橋湛山は東洋経済新報を基盤にリベラルな経済政策を主張し、日本の植民地主義にも反対で、植民地を広げるよりも貿易で繁栄を追及すべきとする「小日本主義」と呼ばれる思想を持っていた人だったと考えられています。

時代が戦後に入ると第一次吉田茂内閣で大蔵大臣を務めますが、後に公職追放されてしまいます。石橋湛山のような軍拡否定主義者が公職追放されることに疑問が残ってしまいますが、東京裁判では検察側「高橋是清軍拡主犯説」みたいなものを否定する証言をしたり、戦時補償債務でGHQと対立したりというのがあったので、そういうのが陰に陽に影響したのかも知れません。

戦時補償債務問題では、石橋湛山は政府がこつこつ戦争によって生じた国民や企業への損害を補償していきたいと考えていたようなのですが、連合国サイドでは日本人を甘やかすんじゃねえという考えがあったようです。

後に占領が終わり、公職追放が解けると鳩山一郎内閣に通産大臣で入閣します。吉田茂の政敵に入閣したことから、石橋湛山の公職追放には吉田茂が絡んでいたのではないかという噂もあるようです。

鳩山一郎時代には、中国やソ連と「等距離」な付き合い方を模索していたようですが、当時のアメリカはそういうのはあまり気に入らなかったようです。朝鮮戦争が停戦して間もないころですし、停戦はしたものの終戦ではないので、国際政治の観点から言えばアメリカはソ連・中国とは潜在的な敵同士ですので、そういう意味でアメリカは石橋湛山が気に入らなかったようです。

鳩山一郎の次の自由民主党総裁選挙では、アメリカ一辺倒主義の岸信介と石橋湛山で争いますが、第一回投票では岸信介が若干の優位で一位、石橋湛山が二位だったものの、決選投票では石橋湛山が三位の石井三次郎と同盟して石橋湛山が勝利します。角福戦争なみのドラマチックな展開です。

ただ、直後に病床についてしまい、国会答弁にも立てない容体になってしまったことから65日で退陣してしまいます。石橋湛山については、高い見識を持っていた人という印象が強いですが、その理由としてはこの時の引き際の良さも影響しているかも知れません。

石橋湛山の次は岸信介が首班指名を受けることになります。

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第二次(第三次第四次第五次)吉田茂内閣

芦田均内閣が昭和電工事件で総辞職すると、GHQの民生局は結成されて間もない民自党の総裁吉田茂ではなく幹事長の山崎猛を首相に擁立しようと動いたと言われています。反吉田派の議員もこれにのっかろうとしますが、吉田派の議員たちが山崎猛を説得し、山崎が議員辞職する(新しい憲法下では衆議院議員でなければ首相になれない)ことで、第二次吉田茂内閣が登場します。長く、かついろいろな仕事をした内閣です。この流れは山崎首班事件とも呼ばれますが、白洲次郎が吉田茂に山崎擁立の動きを報せ、吉田がマッカーサーに確認したところ「そんな話は知らない」と答えたということなので、民自党の内部もガタガタしていますが、GHQの内部でもいろいろとガタガタしていたと推量することができます。

民自党は少数与党であったため、議席数の増加を目論んで衆議院の解散を行おうとしますが、憲法の規定では内閣不信任案が議決された場合か、天皇による解散かだけが認められているため、果たして自己都合解散が可能かどうかで議論されますが、与野党共同で内閣不信任案に賛成し、天皇の解散の詔書も用意して、つまり憲法の規定の両方を満たすことで文句ねえだろうと衆議院を解散します。世間から「馴れ合い解散」と言われます。現在は首相の一存でいつでも解散できることになっていますが、それはその後に確立された慣例と言うことができるかも知れません。

このようにして成立した吉田茂内閣ですが、この長期政権の最大の仕事はサンフランシスコ条約の締結によると日本の主権回復と、日米安保条約の締結と言えます。吉田茂はサンフランシスコ条約には日本人参加者全員の前で署名しましたが、日米安保の方は、後世の汚名を被るのは自分だけでいいからと、場所を変え、目立たずこっそりと一人で署名しています。これだけの大仕事をしたのですし、鳩山一郎の公職追放が解ければ鳩山に政権を返すという約束もしていた吉田ですが、更なる長期政権を目指し、衆議院を解散します。抜き打ち解散と言います。

与党の民主自由党が政党名を自由党に改称し、選挙に臨みましたが、自由党が僅かに過半数を超え、野党は改進党、社会党右派左派で議席を分け合うという結果になりました。社会党右派の西村栄一の質問で「自分の言葉で世界政治を語ってくれ」「自分の言葉で語っている、無礼じゃないか」「無礼とはないか」「バカヤロー」という子どもの喧嘩みたいなことで国会が紛糾し、世に言うバカヤロー解散が行われます。

選挙結果は自由党吉田派だけでは過半数に届かず、改進党の閣外協力を得てどうにか政権を維持できるというところでしたが、造船疑獄事件が起き、検察に対して佐藤栄作逮捕を延期するよう指揮したことで一機に世論の支持を失います。鳩山一郎政権を作ることを自分の仕事だと信じていた三木武吉が吉田の外遊中に鳩山を総裁とする日本民主党を結成し、内閣不信任案で吉田茂に追い込みをかけますが、吉田は当初こそ解散で乗り切るつもりだったものの、造船疑獄と指揮権発動で世論の支持のない状態では選挙で勝てないと判断し、総辞職します。

吉田茂が首相を務めた長い期間には、朝鮮戦争の勃発やアメリカからの再武装の依頼などもありましたが、吉田は再武装は拒否しつつけたものの、政権の末期で自衛隊を成立させます。吉田茂には平和主義という印象や、再軍備すればお金がかかるので、拒否したという観点から、現実主義者と評されることもありますが、個人的には戦前に官僚なり政治家なりを経験した人は軍がどれほど面倒な存在かということを身に染みており、軍が日本を滅ぼしたという実感もあったでしょうから、軍人の復活を嫌っていたのではないかという気もしなくはありません。

吉田茂の次は鳩山一郎が政権を継ぎ、保守合同、55年体制の確立へとつながっていきます。

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終戦直後に登場した東久邇宮稔彦王内閣は、当初こそ皇族首相による指導力を期待されていましたが、かえって共産主義革命を煽りかねないという不安が頭をもたげ、短命で総辞職します。続いて木戸幸一主導で首相指名されたのが幣原喜重郎でした。久しく政界から遠ざかっていましたが、過去の親英米協調外交路線が評価されての政界復帰となります。

幣原喜重郎首相時代、やはり最大の注目点は新憲法です。新しい憲法は果たして誰が書いたと考えるべきでしょうか。当時GHQに示された松本烝治案がマッカーサーによって拒否され、マッカーサー三原則に基づいてアメリカ軍の法律チームが新憲法草案を書き、日本の議会で多少の修正が行て現行憲法になったと言われていますが、一方でマッカーサー三原則の一つである非武装平和主義は幣原喜重郎の方からマッカーサーに提案し、それをマッカーサーが受け入れて同三原則が作られたとも言われています。

仮に幣原喜重郎が発案者であったとすれば、「アメリカ人が書いた憲法を押し付けられた」という歴史観は正しくないということになり、日本人が自発的に考え出した憲法だという議論をすることは可能です。ただ、一方で、国民の知らないところで幣原とマッカーサーが個人的に話し合って「密約」したとすれば、それをして日本人の総意と解釈することも難しいことのように思えます。更に言えば、マッカーサーの同意を得なければ自由に作れなかったという意味で、制限下に作られた憲法であることは議論の余地がないのではないかとも思えます。

一方、70年変更して来なかったことは日本人がその憲法に同意しているからだという議論があり、またその一方で、改正のハードルが高すぎて憲法が改正できないようにマッカーサーが仕組んだのだという陰謀論めいた議論もあります。

私個人の意見ですが、アメリカでは憲法の修正には議会の3分の2以上の賛成と4分の3以上の州の賛成を必要としていますので、日本の議会の3分の2以上の賛成と国民の過半数の賛成は必ずしもハードルが高いというわけでもないように思えます。日本がこれまで憲法を変えて来なかったことの背景には別の要因があるのではないかと思えます。

私個人の経験から言いと、アメリカ人はわりと天真爛漫ですので、そこがアメリカ人のいいところなのですが、あんまり細かいことは気にせず、憲法を書いたのはアメリカ人だが、それを保持し続けているのは日本人だから、日本人は自分の意思で現行憲法を使っているのだと思っている人が多いように感じます。一方で、中華圏の人は現行憲法には敗戦国の日本に対する懲罰的な意味が込められており、それを変更しようとすることは日本人が過去の反省を忘れる歴史修正主義だというように認識している人が多いように感じます。アメリカ人と中華圏の二種類しかサンプルがなくて申し訳ないのですが、中華圏の人とこの手の議論をする場合は相手が感情的に反論してくることが多いので、そういうことはなるべく議論しないようにしています。

永久平和の理想も確かに尊いものですから、現行憲法が悪いとは私は必ずしも思いませんが、現実と乖離している面があるのもまた確かかも知れません。法律に書いていないことは慣習なりコモンセンスで埋めていくのが法律の基本ではないかと私は思っていますので、安全保障や国際貢献に関しては必要に応じて対応することにして、わざわざ感情的な議論を引き起こす憲法改正のような手続きに出なくてもいいのではないかと私個人は考えています。

それはそうとして、幣原喜重郎内閣では第22回衆議院総選挙が行われ、それは婦人参政権もあるという画期的なものでした。その結果は日本自由党が第一党で、日本進歩党が第二党というもので、過半数を獲る政党はなく、幣原喜重郎は日本進歩党に近く、紛糾が生まれ、総辞職に至ります。幣原喜重郎の次は、いよいよ吉田茂の登場です。




東久邇宮稔彦王内閣-敗戦処理をとりあえずなんとかする

昭和天皇のポツダム宣言受諾のラジオ放送により戦争を終わらせた鈴木貫太郎内閣は、これで自分の仕事が終わったとして8月17日に総辞職し、その後継首相として日本の憲政史上の唯一の皇族首班である東久邇宮稔彦王内閣が登場します。

戦争指導のための権威づけとして皇族首相の登場はそれ以前にも何度か取り沙汰されましたが、失政の責任を負わされることへの危惧から皇族首相は忌避される傾向にありましたが、終戦処理は戦争遂行よりも難しいという面もあるので、ここはやはり、皇族首相をという面もあり、また戦争に敗けた後なので、敗戦責任も関係ないので、皇族首相の登場という展開を見せます。

実質的な政務は近衛文麿に任せ、細かい面倒なことは緒方竹虎に任せるという形の宮様首相でしたが、各地の日本軍の武装解除が穏やかに進行したことはこの内閣の功績と見ることができるのではないかと思います。

一方で、戦争の責任は一億の国民全てにあるとする「一億総懺悔」が物議を呼びます。即ち、戦争の責任は国の指導者(場合によっては天皇)にあるはずなのに、国民全員に責任があるとはどういうことだという強い反発も呼んだようです。

私個人は仮にも議会政治が存在した国で国民に責任がないというのは通らないと思いますしので、ある程度、全員にそれなりに責任があると思っています。当時はまだ女性参政権がありませんでしたから、女性には責任がない、または投票権のない子どもには責任がないという意見があるとすれば、それはその通りだと思います。

いずれにせよ、東久邇宮稔彦王内閣は54日の短期間で総辞職を選びます。GHQから自由主義的改革が求められ、見方によっては社会主義的な改革も含まれており、一歩間違えば内閣は立ち往生、ましてや宮様首相ですので共産主義革命に巻き込まれてはやばいという判断が働いたようです。当時はまだ昭和天皇の処遇もはっきりとはしておらず、アメリカには昭和天皇処刑論も世論の三割に達しており、天皇制の維持についても微妙な時期ですので、宮様首相が失政ということになればそういう微妙な問題に飛び火しかねないという感じもありましたので、確かに君子危うきに近寄らずは正しい判断だったかも知れません。イタリアでは王制について国民投票で否決され共和制になりましたが、その時王位継承者の人気不人気みたいなところで決まった部分もあるので、流動しやすい世論に皇室が巻き込まれるのは確かにちょっと微妙な議論を呼ぶことではないかと思います。

東久邇宮稔彦王内閣の総辞職後は、幣原喜重郎が後継首相となり、現代まで続く平和憲法が作られていくことになります。