伊藤博文が枢密院議長という「院政」というか「黒幕」的な立場に引っ込んだ後、薩摩閥の黒田清隆が内閣総理大臣の職を引き継ぎます。第一伊藤内閣で農商務大臣を務めていた黒田は、その職責を逓信大臣の榎本武揚に兼任させた他は、伊藤内閣と同じ閣僚で走っており、実質的にも伊藤の内閣というか、黒田清隆色というのはあまりなかったかも知れません。
黒田清隆は憲法制定や議会設置という伊藤博文のレガシーを現実のものにするという面倒くさい仕事をさせられる運命にあり、相当に苦労したように見受けられます。憲法公布の翌日には「超然主義」と呼ばれる演説をしていますが、これは今後、議会が設置されても内閣総理大臣は天皇に対して責任を負うだけなので、議会が何を言ってもそんなことには影響されないという宣言なわけですが、伊藤博文が作った明治憲法では衆議院に予算の審査権があるため、行政は議会ノーと言えば何もできなくなるわけですが、そういったことを無視した発言ですので、どこまで黒田清隆がその辺りを理解していたか、ちょっと首を傾げたくなる一面でもあります。
黒田清隆は酒癖が悪いことであまり評判が良くなく、酒に酔った勢いで妻を殺害したという噂すら立った人ですが、函館戦争で旧幕府軍が降伏する際に榎本武揚の助命嘆願を熱心にしたおかげで、榎本武揚との関係はよく、薩摩閥の人たちからは距離を置かれるようになった一方で、旧幕臣との関係は終生よかったようです。捨てる神あれば拾う神ありという言葉がふと頭をかすめます。
黒田内閣では列強との間で結ばれた不平等条約の改正に期待がかけられていましたが、私個人はこれは黒田に期待するのはちょっとかいそうだったのではないかと思えます。日清戦争と日露戦争によって日本は実力を証明することで列強は条約改正に乗ってくるようになりましたが、黒田清隆内閣の段階ではまだまだ新興国で、そもそも相手が交渉のテーブルについてくれない、または交渉のテーブルについてもっと不平等なことを要求してくるのが普通と言えます。
外国との不平等条約が改正できないということへの国民の不満というか当時新しい商業として勃興した新聞の煽りによって黒田内閣の文部大臣をしていた森有礼が暗殺されるという惨事も起きていますが、これはできもしないことを「やれ、やれ」という無理難題の煽りの結果ですので、気の毒という以外に言葉がありません。もっとも、森有礼はちょっと「西洋かぶれ」が過度な人で、日本人がみんな西洋人と結婚したら自分たちも白人の仲間入りできるみたいなかなりトンデモなことを唱えたこともある人で、「悪いのは森有礼だ」という人が出てくる人がいても多少は納得しますが、そういうのは言論でやるべきで、暗殺されなければならないほどの落ち度もなければ影響力もない人物のように思えます。
そのように黒田清隆の人生も、また黒田内閣も波乱に満ちたものでしたが、外国との交渉がうまくいかなかったり、酔っ払って井上薫の家に入り込んだりする不祥事もあり、辞任へと追い込まれていきます。んー、やはりお酒はほどほどに、でしょうか…。