私もそれくらいなんじゃないかなあと思います。黒澤明、溝口健二、小津安二郎あたりの人たちが生き生きと仕事をしていた時代ってそれくらいですよね。
異論を入れるとすれば、もう少し後の時代になると大島渚とか北野武の時代になってくると思うのですけれど、仮に黒澤・溝口・小津と大島・北野に区分した場合、前者はある種の耽美的映像主義者たちで後者はエモいのを追求するロマン派的映像主義者のような気がします。で、やはり私は甘いので、後者の方が心に残ります。
「死後の世界や幽霊の存在が証明されたら殺人罪の重さや裁判に影響を与えますか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。
死者の霊魂が存在することが証明されたとします。そして仮にその霊魂は人間と自在に話すことができるようになったとします。しかし、霊魂の証言が証拠と採用されるかどうかについては、少し難関が待ち受けていそうな気がします。たとえばDNA捜査は時に誤った判断がくだされることもあるわけですから、重大事件では慎重に取り扱われます。それだけで決定的な証拠になることはありません。では霊魂の証言はどうでしょうか?黒澤明監督の『羅生門』に登場した死者の霊がそうであったように、霊魂も自らの名誉のために嘘をつく可能性は否定できません。しかも霊魂は偽証罪に問われませんから嘘はつき放題です。従いまして、霊魂の証言を検証する技術的なハードルを越えることができれば、裁判にも影響することになると思います。後は先例の積み重ねによる微調整の問題になっていくかも知れません。
アンナカレーニナはトルストイが描いた自ら不幸を招く愚かな女性の代名詞のように語られる女性です。尤も、村上春樹さんが『神の子らはみな踊る』で、女性登場人物がアンナカレーニナを読み返し、より深く彼女の心の動きを理解できるようになったと書いているように、単に愚かな女性として結論づけて終わるのではなく、それは誰にでもあり得る、誰もが心の内に抱える地獄の一面なのだと考えるとすれば、アンナカレーニナのことを自分の人生と照らし合わせて考えることができるかも知れません。福音書にはイエスの言葉として、天国はあなたの心の内側にあると書かれていますが、人は誰もが心の中に天国と地獄の双方を抱えるのが普通のことであるとの立場を採るとすれば、トルストイの作品を自分の人生に役立てることもできるかも知れません。
遠藤周作さんも女性の心の中の暗い炎のようなものを描くことに大変に熱心であったと個人的には思えます。遠藤周作さんは神と人間の関係性、西洋と東洋の形而上的な対立関係のようなことに関心が深かったため、そういう方面から解説されることも多いですが、その一方で、例えば『スキャンダル』で、女性のある種の野生のようなものと、それに対して強い関心を抱かざるを得ない男性の野生の双方を描こうとしたほか、女性の心を描こうと大変に苦心したことが様々な作品から読み取ることができます。
その代表とも言えるのが、『深い河』の成瀬美津子であり、成瀬美津子は遠藤周作の女性観を集約させたような人物であって、悪女としての性質を存分に発揮しつつ、その物語の最後で聖母のような存在へと生まれ変わっていくという点では遠藤周作さんの願いを込めた存在であるとも言えます。作品中に於いて成瀬美津子が『テレーズデスケルウ』の熱心な読者であることが描かれます。夫を殺そうとして裁判にかけられた恥辱にまみれた女性とも言えるテレーズに対し、成瀬美津子は深い共感を抱きます。自分の内側にある暗い炎、破壊衝動、容易には整理がつかないエロスとタナトスでどうにかなってしまいそうな自分を、テレーズデスケルウに投影しているというわけです。
小説を読んだり映画を観たりという、物語に触れる行為はほぼ例外なく自分を投影する行為と言ってもいいかも知れないのですが、アンナカレーニナとテレーズデスケルウと成瀬美津子は女性が自分を投影しやすい存在かも知れません。『ボヴァリー夫人』を付け加えるのもありかも知れません。また作者が男性ですから、男性が投影した女性像であるとも言え、男と女の深い溝を埋めようとする作業こそ、小説の醍醐味なのかも知れません。
自分を投影するという意味では、男性の場合であれば『マクベス』を読んで、黒沢映画の『羅生門』を観て自分を省みるというのも悪くないかも知れません。
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黒澤明監督の『羅生門』がどれほどよくできた傑作かということについては、もはやここで語るまでもないことです。何度みても、その良さにひきこまれ、何回もみているのにもったいなくてよそに目を向けることができません。本当にいい作品です。
なんと言っても陰影の映像美が素晴らしいです。空、雲、太陽、木漏れ日、人の顔、立ち姿。白黒映画なので全部陰影ですから、当たり前と当たり前ですが、白黒のパワーが全開です。立つ姿だけで物語ることができます。台詞がなくても物語ることができます。男の走る姿、女の座る姿、台詞を必要としないエネルギーに満ちています。谷崎潤一郎の言う陰影礼賛が映画になったらこういう感じか、と思ってしまいます。
三船敏郎の顔芸が素晴らしいです。強さも弱さも余裕も窮地も顔で表現できています。顔の彫りが深いからかも知れません。表情だけで物語ることができます。この点は『エリザベス』にも共通したものです。もうちょっと言うと、動きと表情が男のエロスに満ちています。天分なのかも知れません。訓練ではカバーし切れないものを持って生まれてきた人と言ってもいいのではないかと思います。人生とはそういうものかも知れないです。人生で成功するためには「こんな風になりたい」と憧れをもって努力するよりも、自分の天分を見極め、天分のあるものを突き詰めていく方が効率がいいかも知れないということをこの映画を観ると考えてしまいます。
殺される武士の役の森雅之の彫りも深いです。しかし、顔芸が三船敏郎ほど豊かではありません。怒っている時も悲しんでいる時も喜んでいる時もあんまり変わりません。喜怒哀楽の変化を感じさせません。もし、三船敏郎と森雅之のどちらか端整かと問えば、文句なしに森雅之です。彫刻のように美しい顔をしています。しかし、弱さが似合いません。森雅之タイプが弱さを見せれば、単に情けなく見えてしまいます。一方で三船敏郎が弱さを見せるのも絵になります。かわいいやつに見えます。『七人の侍』でも『椿三十郎』でも時々見せる弱さや困惑が魅力的に映ります。男も女も三船も惚れます。弱さが絵になるというのは実にうらやましいことです。無敵です。やはり、これも天分と考えるのが妥当のように思えます。
京マチ子の顔芸もいいです。京マチ子はちょっとだけ雰囲気が田中裕子に似ていると思います。異論もあるかもしれないですが、仮に原節子や吉永小百合を引き合いに出すとすれば、田中裕子に近いと思います。私の好みが影響していますので、異論のある方に対してはすみませんとしか言えません。泣いても笑っても怒っていても絵になります。京マチ子の説明不可能な魅力は三分の一は訓練、三分の一は魂、残りの三分の一は持って生まれた顔の造形に原因するものではないかと思います。人間が生まれた後で伸ばすことができるのは訓練だけですから、どんなにがんばっても天分のない人は京マチ子になれません。私がいかに努力しようと三船敏郎になれないのと同じです。
霊媒師の岸田今日子が恐いです。本領が発揮されています。絶賛以外の言葉はありません。
誰がどの役にふさわしいかを見極めて適材適所した黒澤明が最終的には一番凄いということなのかも知れません。晩年の『夢』とかぶっちゃけそんなにおもしろくないですし、『乱』もちょっと多弁ではなかろうかと思わなくもありません。そういう意味では『羅生門』は監督の才能、役者さんやスタッフの巡りあわせ、時運の全てがかっちりと合わさって生まれた奇跡とも言えそうな気がします。
人生の成功は持って生まれた天分の見極めにあり、と言えるのではなかろうかと、今回改めて『羅生門』を観て思った次第です。
日本映画の巨匠、黒澤明監督の『乱』はシェイクスピアの『リア王』の翻案作品として、世界的にも著名です。
ざっとあらすじを先に述べます。戦国時代のとある強大な大名の一文字秀虎には三人の息子がいます。太郎、次郎、三郎です。ある日、秀虎は引退を宣言し、家督を太郎に譲ります。ところが三郎が強力に反対します。理由は家督を譲った父親はたちまちに居場所をなくし、兄弟三人は血で血を洗う争いをするに違いないというのです。あまりに悲観的な反対論に秀虎は激怒し、三郎を追放します。太郎が家督を相続した後、秀虎は陣中の大将の象徴である馬印を維持しようとしてもめ事になります。怒った父親の秀虎はもともと自分の居城だった城を出て、次郎の城を訪問します。ところが事情を察した次郎は受け入れを拒否。追放した三郎の城が無人になったので秀虎はそこに宿泊します。そこに太郎、次郎の連合軍が攻めたてて、秀虎は発狂。鳥や獣のように荒野をさ迷うようになります。更に次郎の家臣が太郎を殺害。次郎が当主に収まります。欲望にとりつかれた骨肉の争いです。隣国に逃れていた三郎が秀虎を迎えに行きます。父子再会したところで秀虎は正気を取り戻しますが、三郎は次郎の送った鉄砲隊に撃たれて死んでしまいます。内部でもめていることを察した大名が攻めてきます。一文字家は滅亡します。救いゼロです。
周辺の戦国大名を圧迫し、強烈な存在感を示していたであろう一文字家はなぜあっさりと滅亡したのでしょうか。危機管理という観点から考えてみたいと思います。
太郎、次郎、三郎という相続権利者が三人いる以上、誰かがコントロールしなくてはいけません。秀虎が突如引退を宣言してコントロールを止めてしまえば何が起きても不思議ではなくなります。今で言えばアメリカのような覇権国家が突然「疲れたので、もうやめます」というのと同じです。
そうは言っても国家は基本的に半永久的な存続を前提としますが、秀虎の場合は人間ですからいずれ歳をとって亡くなってしまいます。そのため永遠にパクス秀虎を続けることはできません。いずれ誰かに譲らなくてはいけません。その意味で、引退を宣言し、太郎に家督を譲るというのはさほど間違った選択とは言えません。しかし、一文字家は滅亡してしまいました。秀虎は果たして何をミスってしまったのでしょうか?
最大の問題は秀虎の引退後の行動にあるように思います。秀虎は引退を宣言し、太郎に家督を譲った後も「大殿」として象徴的な存在であり続けようとします。太郎的に言えば、実権を譲られたとしても象徴が残っているのでいろいろやりにくくて仕方がありません。自民党で総理大臣をやった後に〇〇会長とかやりたがるようなものです。ナウシカで言えばドルク皇帝がいつまでも生きているのと同じです。太郎ともめて城を出ていくのも問題です。相手を見捨てるという行動によって「自分にはまだ力があるのだ」ということを誇示しているのです。現代で言えば政界ご意見番と称して日曜日の朝のテレビに出て好きなことを言うようなものです。後任にとってはとにかくうっとうしい存在なので、小泉さんが中曽根康弘さんに有無を言わさずご引退いただいたのと同様に、戦国時代的価値観であれば「死んでもらおう」となります。
この映画からは、一度何かを諦める時は必ず完全に諦めるということをしなければもめごとを大きくし、最悪の場合、滅亡に至るという教訓を汲み取ることができると私は思います。秀虎のハンパに残った欲望が事を荒立て、家ごと吹き飛んでしまったと言えるように思えるのです。太郎が父親の秀虎をかかえこんでいれば次郎が欲を出して太郎を殺すことも起きません。表面的なストーリーを追うと太郎と次郎が人でなしに見えますが、実は親父が危機を呼び込んでいたのです。引退したからと言って余生は何もすることがないというわけではありません。芸術でも遊びでもナンパでも政治や軍事以外のことに注力すればよかったのに、親父はそれを思い切ることができませんでした。
太郎と次郎は楓の方という女性に振り回されて殺し合いを加速させていきます。若い男が女性に振り回されて無理ゲーをするのは普通のことです。そこをそうならないように知恵を使うのが親父の仕事ですが、親父はそれをほっぽらかして、それどころか自分も一緒になって大騒ぎしてプレイヤーを続けたのがいけなかったのです。
人生ではやりたいことをしっかりやって次のステージに向かうとき、引退でも転職でも別れ話でも、一切の未練を捨てる勇気が必要です。その勇気が持てないのはある種の甘えではないかとも私には思えます。このように書くと厳しいようにも読めてしまうかも知れないのですが、一通りやることをやったらそのことはもう心配しなくてよく、次のことに専念できるのだとすれば、人生にはそういう優しさが残されているのだとも言えるようにも思います。
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