慶喜助命運動‐フリーメイソン人脈を頼って亡命も視野に

徳川慶喜は1867年の秋に大政奉還をしたわけなのですが、薩長両軍はそれでも慶喜に対する追及の手を緩めず、遂に武力による京都御所の占領という手段に訴え、事態を戦争に持ち込もうとします。慶喜は近代化が進んだ幕府軍が実は張子の虎だと気付いていたため、武力衝突を慎重に避けましたが、同時に、時間が経てば薩長政権は空中分解し、朝廷は自分を頼ってくるであろうことにも確信を持っていたはずで、そういうことであるから、とにかく武力衝突さえしなければいいのだとの戦略のもと、幕府軍を引き連れて京都を離れ、大坂城に入ります。これは戦略的撤退であったはずですが、実際には慶喜が再び京都に入ることはありませんでした。この判断は小手先の効果は期待できましたが、大局的には政局に対するイニシアチブを発揮できなくなるという大きなデメリットを伴うものであり、政治家としての徳川慶喜はこの段階で自分で運命をコントロールできない立場になってしまうことになりました。

慶喜は忍の一字で事態が好転するのを待ちましたが、江戸における薩摩藩邸関係者の治安攪乱運動がおかしな感じで功を奏し、江戸では薩摩藩邸焼き討ちにまで事態が発展してしまい、ことの次第を知った大坂城の徳川将兵たちはいきりたち、慶喜は将兵たちを抑えきることができず、遂に将兵に出撃を許し、事態は鳥羽伏見の戦いに発展します。徳川軍は大坂から京都へ鳥羽街道と伏見街道の二手に別れて進軍し、途中、薩長軍に阻まれ、通せ通さないの押し問答があって、そのまま流れで戦闘状態に入っていきます。この戦いで徳川軍はほぼ完全な敗北を喫したのですが、やはり大きな理由としては充分に考え抜いた戦略や作戦があったわけではなく、感情に任せて漠然と京都まで行こうということしか頭の中になく、実際の戦闘になったときに何をどうしていいのか分からないという部隊があまりにも多かったということを、彼らの敗因として挙げることができるでしょう。要するに深い考えもなければ、必ず成し遂げるする覚悟もなく、やってみて難しいから逃げかえるという体たらくを世界中に露呈してしまったのでした。対する薩長軍はここで敗ければ死ぬ以外に選択肢はないとの覚悟だけは決まっており、碌な戦略はなかったと思いますけれど、その覚悟の点で徳川軍を圧倒することができたと考えていいと思います。勝海舟の回想によれば、薩長軍は防衛ラインが一本しかなく、後詰の予備兵力もなかったため、徳川軍がどこか一か所でも突破していれば、簡単に瓦解していた可能性があったのですが、そのようなことは全然起きませんでした。私個人の想像を交えるとすれば、徳川軍は優勢な兵力に安堵してしまっていて、誰もが自分だけは安全なところに居たいと考えるようになっており、全員が無責任なまま敗れて行ったのだという気がしてなりません。無責任とは本当に恐ろしいものです。徳川軍は近代化された陸軍連隊を投入していましたが、彼ら陸軍連隊は長州征伐戦争では、ほとんど何も仕事をしておらず、鳥羽伏見の戦いでも同様にほとんど何も仕事をしていなかったそうです。新選組だけが極めて勇猛果敢に事態に立ち向かい、他の部隊に比べて極端に多い戦死者を出しています。鳥羽伏見の戦いでは、薩長軍が自らを天皇の軍隊であるということを宣言する目的で錦の御旗を担ぎ出し、それで徳川将兵が腰砕けになったと説明されることがありますが、私はそれは徳川将兵の言い訳のように聞こえてしまってなりません。そもそも、当時、錦の御旗をそれ以前に見たことがある人はいませんでしたから、薩長が錦の御旗を引っ張り出してきても、果たしてそれがなんなのか、きちんと認識され得たのかどうか、私は怪しいものだと思っています。錦の御旗については、この鳥羽伏見の戦い以前に使用された例は後醍醐天皇と足利尊氏の時代にまで遡らなくてはならないそうで、それも太平記にそういうのがあったと書かれているだけで、誰もそれを見たことはやはりなかったのです。ですから徳川将兵が後の時代になって「だって、錦の御旗に逆らうことなんてできないじゃないか」と言い訳の材料としてそれを使ったに違いないと思えてしまうのです。

慶喜の大坂城脱出についても、同じような説明ができるのではないでしょうか。敗走して帰ってきた徳川将兵たちに対し、慶喜はみんな明日もまたがんばろうというような感じの訓示を述べ、その夜のうちに側近とお気に入りの女性たちだけを連れて軍艦で江戸へ脱走します。この慶喜の行動について、慶喜は水戸徳川家の尊王思想的教育を受けて育ったので、錦の御旗の話を聞いて戦意を喪失したとの説明があると思いますけれど、私は違うと思います。慶喜は素晴らしい頭脳を使って自分の保身しか考えていない人でしたから、徳川将兵たちに対して「どうしても、京都まで行きたいというから、許可してやったのに、自分たちより遥かに少ない敵軍に圧倒されて敗走して来たわけだから、お前たちのために俺が命を張る義理はないし、明日から頑張ってもお前たちに勝てるわけないし、このまま大坂城に残って俺が指揮官だということになったら、後で切腹させられるかも知れないし、繰り返すけど、お前たちのために切腹する義理なんかない」と思っていたに違いないのです。そして、脱走を決心した時、錦の御旗が出てきたからというのは良い言い訳にできるとも、その優れた頭脳で考えついたに違いありません。慶喜は、感情で動いてしまって少数の敵にやられてしまう無能な徳川将兵たちを愛していなかったでしょうし、そんなやつらのことはどうでもいいから、見捨てても心が痛まないとの、ある意味非常に適切な判断をして大坂城を脱出したのだと思います。勝てる見込みのない無責任な将兵たちに自分の運命を委ねるより、自分の命が助かるために自己の判断で行動した慶喜の判断は正しかったと言えると思います。彼は兵隊たちを見捨てたという意味で、司令官としては失格でしたが、実際に自分の命は助かったわけですから、九死に一生を得たナイスプレーであったと言えると思います。

これから先、薩長軍のことを新政府軍と呼ぶことにしたいと思いますけれども、西郷吉之助は新政府軍を率いて江戸を目指します。西郷は慶喜を殺す気まんまんだったのですが、西郷の意図を阻む様々な策略が発動されました。まず、慶喜の完全無抵抗な姿勢です。慶喜は朝廷に書いた手紙で謝罪し、抵抗しませんから攻めて来ないでくださいとのお願いもしています。そして本人は上野の寛永寺に引きこもって謹慎の姿勢を貫きました。西郷はこの慶喜の非暴力無抵抗主義を無視することにしました。飽くまでも慶喜を天皇に対する謀反人ということにして、切腹させるか斬首にするかはともかく、殺す気で江戸へと進んだのです。

次に西郷の前に現れたのは、幕臣の山岡鉄舟です。山岡鉄舟は勝海舟に頼まれて、西郷と勝の下交渉のために進撃中の西郷を訪問したのです。ここで西郷は慶喜を他家にお預けにするとの案を示しましたが、山岡鉄舟はそれだけはどうかご容赦くださいと頼み込んだそうです。というのも、武士が他家にお預けになった場合、ほとぼりが冷めたころに切腹させられるというのがわりとよくあることだったらしく、どう考えても慶喜の他家お預かりは切腹のための下準備だとしか思えなかったからなんですね。ドラマなどでは山岡鉄舟の懇願に西郷がほだされたり、その後の勝海舟との会談で、西郷が説得されたりしていますが、実際には、西郷は山岡鉄舟の懇願を一蹴し、慶喜を殺す決意を全く揺るがすことなく、江戸へと進撃を続けたそうです。

西郷の決心をぐらつかせたのは、イギリス公使パークスだったそうです。イギリスは薩英戦争以来、薩摩とは友好関係を樹立しており、イギリス公使のパークスは、国際世論を味方につけたい新政府としても心強い相談相手みたいな感じだったと思うのですが、そのパークスが西郷の陣を訪問し、慶喜を殺すことは国際法に違反すると通告したというのです。国際法では戦闘意欲を喪失した敵を殺してはならないということになっているため、恭順の意を示して謹慎している慶喜を殺すことはできないし、そんなことをしたらイギリスは新政府を支持しないし、他の諸国もそうするだろうと、通告したというか、西郷を脅したんですね。西郷はここで決心をにぶらせてしまったようです。

さて、総仕上げは勝海舟です。勝は江戸の三田にあった薩摩藩邸に入った西郷隆盛を訪問します。この時、おそらく西郷はすでに慶喜を殺すことを諦めており、両者の話し合いは穏やかなものだったと言います。なにしろ、勝海舟が慶喜の命の代わりに持ってきたお土産が素晴らしいわけですね。徳川軍は完全に無抵抗で江戸城を明け渡すというわけです。そしてもし、この申し出を西郷が断った場合は、江戸を火の海にして徹底抗戦するというわけですから、西郷にとっては楽に江戸城を手に入れられる絶好のチャンスでもあったわけで、これで慶喜助命問題は決着しました。勝は三田の山に位置した薩摩藩邸から見える江戸の街を指さして、こんなに素晴らしい場所を戦火から救わなくてはならないと西郷を説得したそうですが、このエピソードは西郷を脅した話なんだと理解するのがいいと思います。もし慶喜を殺したら、江戸を火の海にして抵抗する。その結果生じる如何なる不都合も責任は西郷にあると勝は言っていたわけですね。

勝海舟の回想によると、それでも西郷が慶喜を殺すことにこだわった場合は慶喜をイギリスに亡命させることでパークスと話がついていたそうです。私、思うんですけど、慶喜は側近の西周の紹介でフリーメイソンのメンバーになっていたんじゃないかと思うんですが、パークスもフリーメイソンのメンバーで、勝海舟もやっぱりフリーメイソンのメンバーだったんじゃないかという気がするんです。で、一連のできごとはフリーメイソンの互助的な機能が功を奏したんじゃないかなと思えなくもないんですね。まあ、ここは想像です。でも、そんな風に考えるといろいろ辻褄が合うように思えるんですよね。

このようにして、慶喜は徳川家康以来受け継がれてきた徳川家の全ての遺産と引き換えに助かることに成功しました。慶喜は水戸で謹慎し、その後は静岡で引退生活を送り、晩年は明治天皇と会見して名誉回復して公爵として都内で暮らし、20世紀まで生きました。私は慶喜のこのような開き直った生き方が嫌いじゃありません。歴代将軍の中で最も長寿な人であったそうです。

これで慶喜は完全に歴史の表舞台からは消え去り、政治とも無関係になります。また、徳川復権の可能性が全くなくなった以上、新政府が日本を代表する唯一の政府になったはずなのですが、それでも新政府軍はいけにえを求めて北上していきました。それはまた次回以降にやりたいと思います。



鳥羽伏見の戦いと徳川軍の敗因

大政奉還という劇的な政権移行が行われた後も、朝廷は徳川慶喜を頼りにしており、外交を含む当面の各行政事務は徳川が執行することになり、新しい政権にも徳川慶喜を入れた、徳川中心の新政府づくりの流れが生まれます。

岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛は徳川慶喜の智謀に恐れをなしますが、最終手段として武力による御所制圧という結局はかつて長州が試みたことと同じ手段に訴えます。

有名な小御所会議が慶喜を排除した形で開かれ、慶喜の官位と徳川氏の領地の剥奪が決められ、松平春嶽と徳川慶勝が二条城へ行き、その決定を慶喜に伝えます。慶喜は即答を避け、また軍事的な衝突も回避するために徳川軍とともに大阪城まで撤退し、様子を見るという作戦に出ます。慶喜の腹の内ではそのうち慶喜抜きの新政府は瓦解に近い状態となり、泣きついてくるだろうという計算があったと言われています。しかし孝明天皇が亡くなってしまった後ですので、慶喜は以前ほどの優位性が得られたかどうかはちょっと何とも言えないところです。

松平春嶽と徳川慶勝が再び大阪城の慶喜を訪問し、官位と領地の返上について確認しますが、同時に近日中の慶喜上洛についても合意されたと言われています。松平春嶽は心中では慶喜にシンパシーを抱いていたとも言われていますので、新政府内部に慶喜親派がいることと、近日の慶喜上洛が合意されたことは、慶喜的には自分の狙い通りに物事が動きつつあると見ていたかも知れません。実際に慶喜が会議にも出席することになれば、弁舌で負けることはなく、しかも元将軍で母親は宮様という圧倒的な威光がものを言い、主導権を握れると睨んでいたのではないかと思います。

その狙いが崩れるのは江戸で薩摩藩廷を出入り浪士たちが市中で強盗を繰り返すという事件が頻発し、薩摩藩邸焼き討ち事件が起きたことですが、これによって大阪城で不満を抱えたまま我慢していた兵たちの怒りが爆発。徳川慶喜がしぶしぶ同意するという形で徳川軍が京都を目指して進軍します。徳川軍のフランス式歩兵連隊は鳥羽街道を通り、会津軍は伏見街道を通ったとされています。

徳川・会津軍は慶喜上洛の名目でいわば無害通行を主張して京へ入ろうとしますが、薩摩・長州軍がそれを認めず、両者は交渉しますが、ほどなく交渉決裂ということで実力勝負ということになります。

不可解なのはなぜ徳川軍が敗けたのかということに尽きます。会津軍は必ずしも薩摩・長州軍に比して近代化が進んでいたとはいえず、会津藩が注文した大量の最新の銃が戊辰戦争が終わった後に届き、代金を支払う主体が存在しなくなっていたという珍事も発生していますが、これは翻ればこの段階では薩長に対抗できるだけの近代装備はまだ整っていなかったことの証明と言えるかも知れません。そのため、伏見街道で会津が敗けたことは全く不可解ということもできません。

しかしながら、徳川軍は大金をはたいて充分な海軍力と最新式の陸軍力を持っており、既に列強も簡単には手出しできないほどまで強くなっていて、仮に戦局が長期化すれば、海軍力を使って瀬戸内海を封鎖し、山陽道にも艦砲射撃をかけることで薩長の兵站を遮断するという奥の手があり、そもそもそこまでしなくても徳川の歩兵連隊がきちんと使われていれば薩長が一日で敗走した可能性も充分にあったと考えることができます。勝海舟は後に薩長軍は横一列で厚みがなく、どこか一か所でも突破できればそれで勝てたと回想しています。もちろん、勝海舟は現場にいたわけではなく、後から他の人から聞いてそういう見立てをしているわけですが、兵員の差から考えてもおそらくその見立てに相違あるまいとも思えます。

土方歳三が薩長軍には厚みがないことを見抜き、背後に回って挟撃しようとしますが、伊東甲子太郎の残党が近藤勇を銃撃して重傷を負わせたり、新選組の陣地に砲撃を加えたりと狙い撃ちしてそれどころではなくなり、撤退せざるを得なかったようです。

ただ、初日の戦局は一進一退だったものの、翌日、薩長側に錦の御旗が翻り、それにびびった徳川軍が敗走したとされています。私は錦の御旗にびびって敗走したというのが本当かどうかについては懐疑的です。錦の御旗は楠木正成以来使われたことがなく、要するに誰も見たことがないものですから、果たしてそのような旗がたてられたところで、そうだとすぐにわかるかどうかという疑問が残ります。私だったら旗手を狙い撃ちさせます。慶喜が水戸学を叩き込まれていたことと関連付けた説明もよくありますが、慶喜本人は大阪城にいて現場にはいなかったわけですから、関係ないようにも思います。幕府軍関係者が後日、敗戦の理由について述べる際に「錦の御旗が出て来たから…」と言い訳に利用し、薩長側も天皇を担ぐことで自分たちの正当化を図っていますので、その言い訳は薩長にとっても都合がよく、明治に入ってから、双方関係者がそういうことで話をまとめたのではないかという気がしてなりません。

では実際になぜ敗けたのかと言えば、一点突破する意思を持っていなかったのではないかと推量する他なく、覚悟が決まっていなかったと考える以外にはありません。慶喜本人が「このままでは俺は切腹だ…」と保身で脱走していますから、そもそもいろいろダメなわけです。

敢えて言えば、徳川慶喜は井伊直弼の安政の大獄の結果、政治家としてのデビューが遅れ、実際に自分がイニシアチブをとれるようになった時には既に徳川の命運は尽きていたようにも思え、そこは気の毒に思えまし、慶喜からすれば既に内側からダメになってしまった幕府のために腹を切るのはバカバカしいと思ったとしても責められないような気もしなくはありません。

ただ、徳川慶喜は「百言あって一誠なし」と評されるタイプで保身が全てみたいなところがある人ですから、小手先の議論では勝てても、大久保・西郷のようなタイプが死ぬ気でいどんてきた場合にはやっぱり勝てなかっただろうなあとも思えます。




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