高橋是清内閣

原敬首相が東京駅で暗殺されるという不測の事態を受けて、高橋是清が政友会の総裁を引き受け、首相の役職も引き継ぐことになります。高橋是清本人が首相を狙っていたと言うよりは、突然起きた混乱をなんとかするために、とりあえず誰かを首相にする必要があり、高橋是清が指名されて事態の収拾を図ったと見るのが適切かも知れません。閣僚を原敬の時のメンバーでそのまま始動しましたので新聞には「居抜き内閣」と揶揄されます。その後、人事で紛糾し、内閣は僅か半年で瓦解してしまいます。期間が短く、本人が準備していたわけでもなかったので、特別な功績らしいものも特にこれと言って見当たりません。

ただ、任期中にワシントン体制の確立があり、外務大臣の内田康哉の活躍が目立ちます。原→高橋の英米協調志向を保ったのはよかったのですが、同時に日英同盟を失いますので、長い目で見ると日本の運命のかじとりについて、ごく僅かな誤差が生じ時間をかけてそれが広がって行ったその第一歩と見ることも可能かも知れません。ただ、その責任を高橋是清に見出すのはちょっと酷かも知れません。原敬の時から内田康哉が進めていたことです。任期中には大隈重信山県有朋が亡くなっています。

高橋是清は首相としての期間は短かったものの、その後大蔵大臣としては手腕を発揮し、日銀の公債引き受けという現代と同じスタイルでリフレーションを起こし、世界恐慌からいち早く脱却するという離れ業を見せています。高橋是清本人が日露戦争の時に公債の引き受け手を募集して歩いた経験から、公債の扱い方をよく知っていたからこそできたのかも知れません。ちなみに日露戦争の時の借金を完済したのは1986年のことで、超長期間での借金はアリだという発想が彼の中にあったのではなかろうかとも思います。

高橋是清について述べる際、その魅力的なところは挫折や失敗を乗り越えて出世していることです。アメリカに留学するも奴隷として売られ、帰国後に官吏の道に就きますが途中で辞めて南米へ鉱山の採掘にでかけます。ところがその鉱山がニセモノだったということが分かり、帰国し、日銀に就職し、日露戦争の戦費を調達し、日銀総裁に就きます。ジェットコースターのような上がり下がりを経験している人ですが、傍から見ている分にはおもしろい人であったに違いありません。また、人生はなんとかなるという大切な教訓を実際の経験から得た人と言えるかも知れません。もう一歩踏み込んで言えば、一度失敗して帰って来た人にまたチャンスが与えられるという意味では、明治の日本は度量の大きい、なかなかおもしろい時代だったのかも知れません。成長期に人材が不足していたというのが高橋是清のような人物の登場の余地があり、低成長時代の現代と比較してもあまり意味はないかも知れないのですが、いずれにせよ、そういうおもしろい人です。

デフレの時には軍拡でインフレを起こし、インフレになると軍拡を辞めるという経済合理性という観点からは実にまっとうなことをした結果、226事件で狙われて最期を遂げてしまいます。その辺りから日本の運命は目に見えて変化していくことになります。
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