長州藩士たちの苦しみ

長州藩は関ケ原の戦いの時に毛利輝元が徳川家康に騙されたことの恨みを250年間忘れずに語り継いできた藩だったことで知られています。考えようによっては、加藤清正とか福島正則とか小早川秀秋とかは家を潰されているわけですから、毛利輝元が領地の大幅削減で済んだことは運が良かったとすらいえるのですが、この家康の僅かな温情が、250年後に仇となったとも言えそうです。

毛利家はたとえば足利義昭が信長のところから亡命してきた時に受け入れてあげたり、南朝の子孫をかくまってあげたとかの噂があったりするようなおうちですから、幕末、京都に潜伏する長州藩士たちが、孝明天皇を誘拐して天皇の命令書とかを乱発すれば倒幕できると考えたとしても、それは彼らの伝統的な方法論とも言えるので驚くにはあたりません。きっと池田屋に集まった長州藩士たちは過去の歴史をよく学んでいて、後白河天皇とか後醍醐天皇とかの人生も踏まえた上で、孝明天皇誘拐計画を話し合うことにしたのでしょう。そしてそれは新選組に察知され、踏み込まれ、死者が出て、京都の長州藩士は逃げ回らねばならないハメになってしまいました。

孝明天皇は、将軍後見職の立場だった徳川慶喜を非常に厚く信頼しており、長州関係者は尊王攘夷を大義名分に幕府を論難しようとしていましたが、そういった反慶喜につながる行動を非常に嫌がって、そんなやつらは追放だ!という状態になっていましたから、長州藩士たちはますます、孝明天皇を抱き込んだ慶喜が憎く、やはり実力で天皇を誘拐するしかないと思い詰めていったようです。慶喜がそこまで孝明天皇から高く評価されていたのは、慶喜の母親が有栖川宮家のご出身の正真正銘の皇族であったため、慶喜には半分皇族の血が流れていたことが大きいと思います。排他的な京都の公家社会の中で、孝明天皇は慶喜のことを単なる武士と扱わず、親戚みたいに扱ったというわけです。ですから、長州藩士がいくら孝明天皇を暴力で誘拐したとしても、そんなことで天皇の信頼を得たりすることができるわけないんですけど、やはり、ちょっと思い詰め方が尋常ではなかったというか、一度そうしようと決心してしまったら、途中でやめられなくなってしまったんでしょうかねえ。

池田屋で一旦ひどい目にあった長州藩士たちは故郷から応援の兵隊たちも呼んで体勢を立て直し、京都の西側の標高の高い土地に陣取って、京の都を見下ろす形で京都制圧の計画を実行しようとしました。彼らは京都市内になだれ込み、御所に火をつけて孝明天皇を誘拐しようとしたんです。要するに池田屋で相談して決定する予定だったことを、ちょっと遅れてやっぱり実行に移すことにしたというわけです。徳川慶喜は孝明天皇から禁裏御守衛総督という肩書を与えられます。本来幕府の人間だったはずの慶喜はこれで朝廷のために働く人物へと転職したことになるんですが、まあ、やっぱり一言でいえば優秀なんでしょうねえ。慶喜は必勝の体制で長州藩の軍隊を迎え撃つことができました。まず慶喜から長州軍に対して降伏勧告が出されましたが、当然の如く無視ですので、後は実際に戦って勝てば官軍、どっちが強いかはっきりさせるしかないという状態になったんですね。御所に実力で侵入しようとする長州軍を幕府軍は迎え撃ち、たとえば御所に西側の蛤御門には当時の銃撃の弾痕が今も残っているそうです。私も何度か蛤御門には行ったんですが、恥ずかしながらどこに弾痕があるのかよく分からなかったのですが、見る人が見ればわかるのでしょう。戦いの当初、長州軍が優勢になった時があって、彼らは御所内部へと乱入していきましたが、西郷吉之助が率いる薩摩藩の兵隊たちが慶喜の率いる幕府軍の応援に入り、形成は簡単に逆転して長州軍は総崩れとなり、長州の兵隊たちはちりじりになって、懇意にしてもらっていた公家の屋敷とかにかくまってもらおうとしたんですね。もちろん、公家の方たちは困って出ていけと言ったに違いないんですが、長州の兵隊たちは簡単には出て行ってくれません。で、慶喜は公家の家々に火を放つという決心をします。後先考えずに燃やしたものですから、京都中が火の海になり、信長が残したものも秀吉が残したものも勢いよく燃えてしまったらしいんですが、京都は応仁の乱以来の焼け野原になったそうです。勝つためならなんでもやるという覚悟の決まった決断ができるところは慶喜の凄いところですが、そのために一般市民が焼け出されるのはやむを得ないとする割り切りもまた慶喜らしい冷めた感じも見出すことができる出来事だったと思います。この時、長州側のリーダー格の久坂玄瑞が逃げ込んだ鷹司邸で自害するなどしているため、彼らにとっては非常に凄惨で残酷な記憶になったことは間違いないと思います。

天皇の誘拐を計画して京都御所を襲撃したわけですから、長州藩は朝敵認定されることになります。ま、当然ですよね。普通に考えてやばいでやつらですから、朝敵認定して幕府が取り締まるのが筋というものだと思います。明治になってから当時のことを振り返り、長州藩をお取りつぶしにすればよかったと気付いた幕府官僚もいたらしいんですが、当時は長州藩を取り潰すというわりと普通のアイデアが議論された形跡はなく、長州藩を武力で威嚇し、責任者を切腹させて領地を削り、そこで講和に持ち込もうと幕府側は考えていたようです。

幕府は諸藩に出兵を命じ、幕府と諸藩の連合軍が長州に迫りました。第一次長州征伐です。興味深いのは、このとき幕府は日本国政府を名乗り、西洋の国際法に準じて宣戦布告状を長州側に送り付けていることです。幕府が急速に近代的なマインドを身に着けていたことが分かります。絶対に勝てないと思った長州藩首脳たちは降伏の意を示し、それは受け入れられ、複数の家老の切腹、領地の削減などを条件に手打ちとなりそうな雰囲気になりました。ただし、長州藩主父子を犯罪人として市中引き回しにするという条件も入っていて、これは受け入れることができないと叫び、長州藩内でクーデターを起こした男がいました。高杉晋作です。彼は「俺は功山寺で待ってる。みんなで萩城へ行き、幕府への降伏の決定を取り消させ、戦争を継続しよう」と同士たちに呼びかけます。最初に功山寺に来たのが伊藤博文で、後から来たのが山形有朋でした。余談ですが、この時の到着した順番が明治になって首相になる順番にも影響したと言われています。まあ、いつも、余談だらけでやってますから、今回だけ余談ですがとことわる理由も特にないんですが、あはは…。

高杉晋作は当初少数で功山寺を出発したらしいんですが、萩城にたどり着くころには同調者が三千人にまで膨れ上がっており、降伏を決めた家老たちは自害して果て、新たな藩の方針が決められて、報告を受けた藩主毛利敬親は、「そうせえ」と答えたことから、藩士たちからそうせえ様と呼ばれたそうですが、毛利敬親も勝手に家臣たちが殺し合う様子を見て、もういろいろ面倒になってしまって、勝手にしろって思ったんじゃないでしょうか。ここまでだけでも果たして長州藩にどれだけの死者が出たのやら…という感じなのですが、これで長州と幕府は再び戦闘状態になりました。第二次長州征伐ですね。幕府側は戦力差から考えて余裕で勝てると思ったはずです。

ところがですね、陸戦では長州の大村益次郎が前線し、幕府軍を後退させています。また、関門海峡では坂本龍馬が操る小型軍艦が幕府の巨大軍艦を翻弄し、攪乱していました。混乱に乗じて高杉晋作の奇兵隊が九州に上陸し小倉城へ目指して前進するという、幕府側からすればまさかの事態になってしまいます。小倉城の手前には肥後細川家の部隊が初期的なマシンガンであるガトリング砲を据えて待ち構えており、奇兵隊はそこでしばらく足止めされてしまいます。ただし、奇兵隊の動きを止めることができたのがこのガトリング砲だけだったものですから、肥後細川家の兵隊には休息が与えられず、細川家の将兵たちの不満が膨らんでしまい、彼らは独自の判断で帰ってしまいます。これで小倉城は裸同然になってわけですが、最高司令官として大坂城に入っていた将軍家茂が亡くなったという知らせが入り、幕府軍現地司令官もそれを理由に戦線を離脱。幕府軍は統率を失い、戦線が維持できない状態に陥ってしまいました。長州の勝利でこの戦争は終わりました。停戦交渉のために勝海舟が広島に派遣されています。

この一連の幕府側の敗北に接した慶喜は、第三次長州征伐も計画し、諸藩の兵隊を使わずに巨費を投じて育てた幕府陸軍で長州に乗り込もうと考えたようなのですが、将軍家茂は他界してしまうし、小倉城は陥落するしで、ここは突っ走っても駄目だと判断して断念しています。

幕府軍が全力を挙げた戦いで長州藩が勝ってしまうという誰も想像しなかった展開によって幕府の権威は完全に失墜してしまいましたが、この戦争の最中に京都では薩摩と長州の秘密同盟が結ばれています。この同盟は長州がつぶれそうになった時には薩摩は寄り添うという程度の内容で、決して一致協力して新政府を作るというような遠大なものではありませんでしたが、坂本龍馬が間に入って西郷吉之助と桂小五郎が手を結んだというのは、やはりかなり大きな出来事であったと言えるでしょう。

池田屋事件から長州征伐までの流れを見ていくと、長州がいかに不器用なことをしているかが見えてくる気がします。池田屋事件から京都御所攻防戦に至る流れは、その目的が孝明天皇誘拐という荒唐無稽なもので、こんなことを本気でやろうとしていた彼らが憐れにすら思えてきます。また、長州征伐戦争が始まった時、日本中の誰もが、或いは日本に関する知識を持つ外国人の全てが、長州が滅亡すると信じたに違いありませんから、当然、長州藩士たちも、藩主の毛利敬親も万事休すと死を覚悟したはずです。その時の心情を思うと、やはりかわいそうなくらいに、こいつら、まっすぐでブレないなあと思ってしまいます。一時は現実に流されて長いものに巻かれようと降伏を決めますが、やっぱりやーめたと戦いを継続することになったとき、やっぱりもう一度死を覚悟したはずです。で、勝ったという。この経験は凄いですよね。後に日本陸軍は何でも精神力で突破しようとしますけれど、その基礎になったのは陸軍を作った長州藩士たちの、この時の経験が強く影響したんじゃないだろうかとも思ってしまいます。最終的に勝ったわけですから、彼らはそれは喜んだでしょうけれど、それまでの期間、非常に苦悶しながら、もはや後戻りできないと何かにかじりつくような気持ちで戦い続けた彼らの心情には鬼気迫るものがあるような気がします。そしてそれは良くも悪くも長州藩士たちが建設した日本陸軍の行動様式にも影響したような気がしますので、本当に物事は良いことと悪いことが混じり合っていると思えてなりません。

とはいえ、このような番狂わせがあったりするから、幕末という時代はおもしろいんでしょうねえ。



長州征討戦の幕府の敗因

禁門の変で京都に直接の進軍を試みた長州は孝明天皇から朝敵指定を受け、幕府の命令による西国の諸藩の兵を集めた、いわば正規軍が編成され、長州を包囲します。長州藩では藩論が二分し、恭順派と抵抗派で激しい議論が戦わせられますが、恭順派が勝利し、一旦は和平交渉が行われます。
ところが徹底抗戦派の高杉晋作が藩内でクーデターを起こして勝利し、長州藩の態度は硬化。戦端が開かれるという展開になります。

諸藩の兵力は長州藩によって各個撃破されますが、その後幕府軍歩兵が投入され、東方面の戦線は膠着状態に入ります。高杉晋作は西方面の戦線に着目し、九州上陸を画策します。海軍力では幕府軍が圧倒的な戦力を有しており、通常であれば関門海峡を渡ることはとても不可能なことのように思われましたが、巨大な幕府艦隊に対して夜間の接近戦をしかけるという奇策をかけ、坂本龍馬も参加して、これを突破。高杉晋作とその兵力は小倉城を目指して進撃していきます。

小倉藩は幕閣の小笠原氏が藩主をつとめており、長州征討の現地司令官を担当し、各藩に命令する立場にありましたが、長州の積極的な攻勢に対して諸藩は消極的で戦意に乏しく、小倉藩は次第に追い詰められていきます。長州サイドがグラバーから買い入れた最新のミニエーゲベール銃を大量に保有していたことも戦局を分けたとも言えます。幕府軍こそ最新の装備を揃えてはいましたが、長州征討に駆り出された藩の中には火縄銃数十丁というところもあったでしょうから、そういうところはそもそも勝負にならなかったはずです。

熊本藩の細川氏がアームストロング法を所持しており、小倉城の手前に布陣。長州の兵はアームストロング法に阻まれて前進できないという事態に陥ります。長州の兵隊にとって小倉上周辺は「敵地」ですので、戦闘の長期化は兵站の疲弊を招く恐れがあり、仮にここでの膠着状態が長期にわたれば、結果は違っていたかも知れません。

しかし、小倉藩の弱みは細川氏の軍だけにしか頼れなかったという点にあり、まことに心細いもので、結果として細川氏の軍だけが常時最前線に立たされるという厳しい状況が生まれ、細川軍に疲労と不満が蓄積され、最終的には戦闘の継続を拒否し、撤兵します。

アームストロング砲のプレッシャーから解放された長州軍は前進を開始しますが、小倉藩は小倉城に放火して後退。戦闘はその後しばらく続くものの終始長州の有利で推移します。ここに来て小倉軍の戦線が完全な崩壊を見せるという事態に陥らなかったことには、小倉側が背水の陣にならざるを得ず、徹底抗戦したためと考えることもできます。

長州優位の状態で停戦が成立し、講和の使者としては干されていた勝海舟が人脈力を買われて広島へ送られます。長州は朝敵指定が解除され、面目躍如。風前の灯だったはずの長州藩は息を吹き返し、幕府打倒に邁進していくことになります。

ここで気になるのは圧倒的な兵力を誇っていたはずの征討軍がなぜかくも赤子の手をひねる如くに負けたかということなのですが、最大の要因は諸藩の寄せ集めであったため、指揮あ上がらず、それぞれの大名は戦争させられるのを迷惑だくらいに感じていて、積極的な動きを見せようとしなかったことにその要因があるように思えます。大軍よりも少数精鋭の方が充分に役に立つということは源義経や楠木正成の例で証明されているとすら言えるかも知れません。

それを悟ったからこそ、徳川慶喜は直参の兵力で改めての長州攻略を構想しますが、徳川慶喜自身がわりとポジショントークに終始する人で、もし幕府軍精鋭だけで戦線を形成し、おそらくは失敗した場合は自分の責任問題になると考えてそれを撤回。この段階で徳川幕府崩壊は決定的なものになったと考えることもできるかも知れません。

以上のようなことを総合すると、責任感のある上司と少数精鋭の二つが成功の要因ではないかと思えてきます。長州征討ではその両方がなかったために、負けるのは必定だったとすら言えるかも知れません。




関連記事
徳川慶喜と近藤勇
ナポレオン三世と徳川慶喜
クリミア戦争と日本