飛鳥時代をがっつりざっくりと語る



飛鳥時代がいつから始まったのか。から、始める必要があるかも知れません。もし、神武天皇が神話上の人物ではなく実在し、本当に高千穂から近畿地方に移住して橿原で即位したと信じるのなら、飛鳥時代は1000年ぐらい続いたことになります。もちろん、そんなに古い時代から続いているとは誰も信じないでしょうし、私も信じてはいません。

ただ、雄略天皇の時代までくだれば、大和朝廷の少なくとも原型のようなものはできていた可能性はあると思いますし、継体天皇の即位が西暦500年ごろだとすれば、それよりもう少し前、西暦400年代あたりからは飛鳥時代が始まっていたかも知れません。津田左右吉先生が『建国の事情と万世一系の思想』で「三世紀のころであろうと思われるスシン(崇神)天皇から後は、歴史的の存在として見られよう」と書いていますので、その辺りから後のことは信じるに足りる記録なのかも知れません。

まず最初の議論は継体天皇は本当に応神天皇の子孫なのかという見も蓋もない話からなのですが、動かぬ証拠があるわけでもなく、確認のしようもありません。ただ、女性の血統は遡れば神功皇后あたりまでいけますし、その先に辿ることも不可能ではないので、女系オッケーなら、かなり古い血統があると考えることができると思います。仮に継体天皇を初代だと認定するとしても、そこから今日まで1000年以上続いていて、充分に長い歴史があると言うこともできるかも知れません。

崇峻天皇の暗殺事件に触れなくてはいけません。暗殺された可能性のある天皇は何人もいますし、前述の継体天皇も皇子と同じ日に亡くなっていることになっていますが、父子が同じ日に亡くなると言うのは通常考えにくいため継体天皇暗殺説もあるほどです。ただ、崇峻天皇の場合は議論の余地なく、一致して暗殺されたことが認められている唯一の天皇ですので、そういう意味では記憶にとどめるべき歴史上の人物ではなかろうかと思います。

蘇我馬子は崇峻天皇が自分のことを嫌っていると察し「俺の推薦で天皇になったんだろうが、穴穂部皇子みたいになりてえのか、おらおら」と、東漢駒という不思議な名前の人物を送り込み殺させてしまいます。東漢駒はその後調子にのって馬子の娘を口説いたために殺されてしまいます。オズワルドとジャックルビーみたいな感じです。

蘇我馬子は続いて推古天皇を推します。「穴穂部皇子から守ってやったんだから、その礼をしてもらうぜ」と言ったかどうかは分かりませんが、推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子鼎立仏教推進連合政権が確立されます。聖徳太子が遣隋使を送りますが一回目は中国側の資料にあるだけで、日本側の資料に最初に出てくるのは二回目の遣隋使の小野妹子です。小野妹子は「隋の煬帝の返書をもらいましたが、帰りに百済で盗まれました」と嘘をつくので一回流刑、その後で聖徳太子から「責任取れよな。もう一回行ってこい」と言われて命がけの第三回遣隋使になります。

聖徳太子は法隆寺も作ったし、四天王寺も作ったし、推古天皇とも仲が良く、蘇我馬子とも順調で自分も蘇我氏の血が入ってますから、仲良く安泰、以和為貴、仏法僧を大切にすることで推古天皇の次の天皇になるかも知れない人でしたが、最期は殺された可能性が指摘されており、それができる人物がいたとすれば蘇我馬子ではないだろうかと私は想像しています。聖徳太子は馬小屋で生まれて厩戸皇子と呼ばれていますが、馬小屋で生まれたと言うのはネストリウス派キリスト教が仏教とかと一緒に日本に入って来て、信仰として受け入れたかどうかはともかく、その文化的な影響を受けて作られた伝説なのではないかなあと、これも単に想像しています。

蘇我馬子が亡くなり、次が蘇我蝦夷、そしてその息子の蘇我入鹿が時代を担います。天皇家を乗っ取る勢いがありましたし、聖徳太子の子孫を全員死に追いやったりしていましたので、中臣鎌足が「こりゃ、やばいなあ。蘇我入鹿は殺した方がいいなあ。ついでに家は中臣というくらい中くらいの家柄だけど、殺したついでに出世できるかなあ」と軽皇子に相談します。ですが「ああ、軽皇子ってあんまり大したことないなあ。やっぱ中大兄皇子かなあ」と思って次に中大兄皇子に相談を持ちかけて、乙巳の変で蘇我入鹿を殺します。蘇我入鹿は皇極天皇に助けを求めますが、皇極天皇は中大兄皇子の実のお母さんですから、息子の味方をしたので、蘇我入鹿は助からず、親父の蘇我蝦夷も反撃不可能と理解して翌日に自ら命を絶ち、蘇我氏本宗家は滅亡してしまいます。飛鳥時代の後半戦が始まります。

蘇我氏が完全に滅びたわけではありません。蘇我倉山田石川麻呂が乙巳の変で中大兄皇子の側に味方して出世していましたが、変な難癖をつけられて自ら命を絶つところまで追い詰められます。

「神輿は軽くて〇ーがいいby小沢一郎」と中大兄皇子と鎌足が思ったかどうかは分かりませんが、軽皇子が孝徳天皇に即位して難波宮へ遷都します。しかし意見の対立がおそらく起きたらしく、中大兄皇子が飛鳥へ帰ろうと言い出すと、孝徳天皇がそれを拒否。中大兄皇子は孝徳天皇の皇后で自分の妹の間人皇女も一緒に連れて飛鳥へ帰り、孝徳天皇は失意のうちに亡くなります。暗殺説もありますし、説得力もあると思います。

次の天皇はもう皇極天皇が重祚して斉明天皇になります。斉明・中大兄・鎌足の新たな鼎立時代が始まりますが、いよいよという時に、もしかすると中大兄皇子が弟の恋人を奪ったことで精神的に疲れてしまったからなのか、周到なはずの中大兄皇子が大きなミスをしてしまいます。滅亡百済の求めに応じて軍隊を送ったものの、白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に全滅に近い敗北をします。

そんなはずではなかったでしょうけれど、慌てて近江宮に遷都します。近江宮は内陸にありながら、淀川水系のおかげで水運が良く、それでいて攻めるには難しいです(仮に船団を用いて淀川を遡る場合、大勢の人手を使って船を上流へと引っ張って歩かなくてはならなくなるため、速度が遅く弓矢の格好の標的になる。火攻めも可能)。九州に水城も作り防人も送りますが、求心力はがた落ちです。斉明天皇が亡くなり、いよいよ中大兄皇子は天智天皇に即位しますがほどなく病死します。弟の大海人皇子による暗殺説もありますが、私には判断できません。

天智天皇は「弟(大海人皇子)ではなく、息子(大友皇子)を次の天皇に」と遺言し、大海人皇子は近江を離れて吉野へ下ります。この段階から大友サイド(天智系)と大海人サイド(後の天武系)は互いに敵と見なして兵隊を集めます。大海人皇子は陰陽道にも通じていたと言われ、伊勢神宮ともゆかりの深い人ですが、天祐もおそらくあり大海人皇子が勝利し、大友皇子は自害し、大海人皇子が天武天皇に即位します。

天武天皇は自分が正統な天皇だと主張する目的で『古事記』『日本書紀』を作らせますが、日本書紀が出来上がる前に亡くなってしまいます。持統天皇は藤原京を作り、伊勢神宮に式年遷宮のシステムを導入し、自分が産んだ草壁皇子を天皇にするために、天智天皇が他の女性に産ませた大津皇子を殺させますが、草壁皇子が病死してしまい元の木阿弥になってしまいます。藤原不比等がいろいろ動いて草壁皇子の息子が文武天皇に即位し、この功績で藤原氏は多方面に拡大していきます。それはまた奈良時代のことをがっつりざっくり書くときに改めて。





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聖徳太子は蘇我馬子に殺されたのではないかなあと思う件

聖徳太子をとりまく諸現象は第29代天皇の欽明天皇から始ります。欽明天皇の妻の一人に蘇我稲目の娘がいて、その息子が大兄皇子、後の用明天皇になります。聖徳太子はその用明天皇の息子ですから、蘇我氏系の血統をひく人になりますし、実際の政治行動も蘇我氏をタッグを組んでいます。

しかし、用明天皇がそのままストレートに天皇になれたわけではありません。欽明天皇の死後、天皇になったのは敏達天皇で、敏達天皇は蘇我氏の血をひいていませんので、パワーポリティックスとしては蘇我氏にとって不利な状況が生まれます。敏達天皇はわりとバランスの感覚のある人、悪く言えば「そうせい様」みたいな人で、当時の二大豪族だった蘇我がみ氏と物部氏がそれぞれに矛盾する要求をするたびに許可を与え、どっちか勝った方の味方をするみたいな姿勢が見られます。

転機は敏達天皇の崩御の時に訪れます。欽明天皇の息子には穴穂部皇子という人物がいて、次の天皇は俺だと思っていたのですが、蘇我馬子の後押しでもう一人の兄弟の用明天皇が即位します。蘇我氏の血をひく天皇の誕生ということになります。怒った穴穂部皇子は蘇我氏とのカウンターパートである物部守屋と同盟しますが、用明天皇の死後、諮られて穴穂部皇子は蘇我馬子に殺害されます。蘇我氏は同じ年に穴穂部皇子と同盟関係にあった物部守屋も滅ぼし、基盤を確実なものとし、蘇我稲目の血をひく崇峻天皇を即位させることに成功します。二代続けて蘇我氏の血統の人物が天皇になったのですから、もはや万全。事実上蘇我氏の天下です。

ところが思わぬ事態方向へ事態が展開します。崇峻天皇が蘇我氏の天下に不満を持っているということが世の中に広まり、蘇我馬子は決心して崇峻天皇を殺害します。それ以前にも安康天皇が眉輪王に殺害されたり、仲哀天皇が九州で暗殺された可能性があるように、天皇殺害の例がないわけではありません。ただ、誰もが実在を認める第26代天皇の継体天皇以降での天皇殺害、実際に起きたとされる天皇の殺害はこれが最初の例です。そして分かっている限りでは実際にその地位にいる天皇が殺害されるのはその後もなく、崇峻天皇が殺害されたのが唯一の例と言えます。

何が言いたいかというと、蘇我氏にとって都合の悪い人物は次々に殺されているということです。ちなみに崇峻天皇殺害の実行犯である東漢駒もその後に殺されています。その名前から大陸と関係のある人物だったのではないかという想像が可能で、蘇我氏が渡来人であった可能性を示唆する傍証になるのではないかと思います。

崇峻天皇の次に天皇になるのは誰かということで、蘇我氏の系統で後の推古天皇の息子の竹田皇子が即位することが期待されていましたが、どうも若い時に死んでしまったらしく、物部氏との戦争の時に戦死したのではないかという説もありますが、ちょうどいい人物がいなくなってしまい、実在していたと一致して認められる天皇の中で初めて女性の天皇が誕生します。推古天皇です。

さて、これによって蘇我氏の血を引く推古天皇がトップに立ち、実際の政治はこれまた蘇我氏の血を引く聖徳太子が摂政になり、そして蘇我氏本宗家の蘇我馬子が現実的パワーの裏書きをするという、3人によるトロイカ体制が成立します。天皇家の権威と蘇我氏の実力が合同した古代日本で初めての非常に安定した政権と言えます。実際に聖徳太子は蘇我氏の念願である仏教の普及に力を注ぎ、法隆寺は建てるは四天王寺は建てるは、仏法僧を大事にしろと憲法に書くは、それはもう蘇我氏の言いなり。こんなに都合のいい摂政はなかなかいません。便利なことこの上ありません。

ところが系図を見ると分かるのですが、推古天皇は用明天皇の皇后であり、聖徳太子は用明天皇の息子ですから一瞬、万事目出度しかなあと思わなくもないですが、聖徳太子は推古天皇の息子ではありません。用明天皇が蘇我氏の系統の他の女性に産ませた子どもです。果たして、気分良く聖徳太子に政治をさせていただろうかという疑問が湧いて来なくもありません。ましてや、本当の自分の子どもである竹田皇子は物部氏との戦争で死んでいて、一緒に従軍していた聖徳太子が生き延びて摂政になって、将来は天皇になるなんて、なんか話がおかしいじゃないかと思うかも知れません。そう思っても不思議はありません。推古天皇は死後に竹田皇子との合葬することを望んでいましたから、彼をとても愛していたことが分かります。また、トロイカ体制というのは時に脆く、ちょっとしたきっかけで崩れてしまうものです。

聖徳太子は蘇我馬子と協力して『国記』『天皇記』を書き残していますが、現在は失われてしまい内容は分かっていません。残っていれば、『古事記』『日本書紀』以上の貴重な書物として歴史の教科書に載るくらいのものだと思いますが、蘇我氏の邸宅に残されていたものが、蘇我入鹿殺害後に入鹿の父親の蘇我蝦夷が自宅に火をつけて自殺してしまったため、内容は全く分かっていません。蘇我氏との協調で書かれている以上、蘇我氏に都合のいい内容になっていたであろうことは想像に難くありませんが、624年に蘇我馬子から葛城の土地を所望されて断ったというエピソードがありますので、推古天皇はどこかの段階で天皇家が事実上蘇我氏のものになって、自分の子どもではない聖徳太子が天皇になるという筋書きを拒否する決断をしたのではないかと思えてきます。

その前に聖徳太子は斑鳩に引っ込んでしまい、葛城の土地を譲る譲らないのもめ事が起きる前の622年に死んでしまいます。ただ、亡くなる前から自分の死期を予期しており、ナンパして連れて帰ってきた三番目の奥さんもほぼ同時期に亡くなっています。普通、夫婦が同時期に亡くなることはありません。少なくとも自然死でそういうことは考えられません。三番目の奥さんですから、年齢の差がある程度あったと考えられますので、ますます同時期に死ぬことは自然死ではなかった、事故か自殺か他殺のいずれかで、当時の自殺は自殺を強いられる、即ちほぼ他殺と言っていい場合が多いですから、自殺だったとしてもそれを強要された可能性が残されます。聖徳太子を死に追い込めるだけのパワーのある人物が当時いたとすれば、蘇我馬子以外には考えられません。ついでに言うと、聖徳太子が亡くなった後に前述のような土地問題が出て来たということは、当初はうまくいっていたはずのトロイカ体制が、聖徳太子を排除した後に天皇家と蘇我氏が互いに新しい敵として意識し始めていたことも示唆しているように思えます。

蘇我入鹿が後に聖徳太子の息子の山背大兄王とその家族をことごとく殺害するという事件を起こしていますが、この経緯を考えると蘇我馬子が権力維持のために、竹田皇子が死んだおかげで摂政になった聖徳太子に対して不満を持つ推古天皇と連合して聖徳太子を殺したという筋書きがあったとすれば、その息子の山背大兄王が殺されることも流れとしては矛盾しません。その家族までことごとく命を落としたわけですから、そこに深い遺恨があったか、生存者がいると非常に困るという事情があったかを推量することができます。

以上のように考えると、聖徳太子はいずれかの段階で推古天皇に見捨てられ、蘇我馬子に裏切られて殺された。その息子は蘇我入鹿に殺されたという何とも恐ろしいストーリーが見えてきます。わー、こえー、と自分で書いていても思います。

聖徳太子という称号は後に贈られたもので、生きていた当時は厩戸皇子です。馬小屋で生まれたからそういう名前になっているということですが、まず間違いなくネストリウス派キリスト教の影響を受けたものと思います。当時は仏教が最新の思想として日本に入ってきていたわkですが、一緒にネストリウス派キリスト教も教義はともかく物語としては入ってきていたことが想像できます。後に書かれる『古事記』には天照大神が洞窟に隠れることで太陽が消えてしまうというエピソードがありますが、福音書ではイエスが十字架にかけられた時に日蝕が起きたとされていますので、そこに影響関係を見ることも不可能ではないかも知れません。

『日本書紀』の記述では聖徳太子(呼称はまだ聖徳太子ではない)は天才的な人物で、未来のことは予見できるは、十人の話を同時に聞ける派で超能力者みたいな人ですが、これもイエスの奇跡物語みたいなものに作り上げたいと言う意図によるものではないかと考えることもできます。

最後の疑問として、何故、聖徳太子がかくも神格化されたのかということですが、『日本書紀』には天皇の強さを示すために乙巳の変について書き残し、天皇の地位の簒奪を目論んだ蘇我氏を悪役として書かなくてはいけません。結果として蘇我馬子に殺された人物をイエス並みに神格化することを選んだのではないか、更に言えば当時の人は聖徳太子が死んでから数十年しか経っていませんので、事実関係の記憶の伝承はまだ生々しいものがあり、その悲劇性も手伝って、より意図的に神格化する方向に向かったのではないかなあと思うのです。

仮説です。想像です。個人的見解です。
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第26代天皇の継体天皇は実在したことで異論の出ない最初の天皇です。問題はこの人に天皇の称号が贈られる資格があったかどうかです。悪質な政権の簒奪者であったのか、それとも正統な継承者であったかどうかということに興味が湧いてきます。

ポイントとしては2つあるように思います。まず、第25代天皇の武烈天皇が亡くなった後、他に適切な継承者がいなかったというのはどういうことかということです。そしてもう一つは、継体天皇は第15代天皇の応神天皇の子孫で越前で五代にわたって暮らしていたということなのですが、そんなに血の遠い人に資格はあるのか、またはそもそも本当に応神天皇の子孫なのか、もうちょっと言うと応神天皇って本当にいたのか、更につっこめば応神天皇が実在したとしても本当に仲哀天皇の息子なのか。あたりの血統の正統性です。

武烈天皇については日本書紀で相当に悪い人物だったと記されています。妊婦のお腹を引き裂いて子どもを取り出させたなど、人間性に問題があった、ほとんどサイコパスみたいな人物だったとされています。一方の古事記にはそういうことは書かれていません。古事記はストーリー性重視で国内向け、日本書紀が編年体で外国向けだったとする考えに従うとすれば、古事記の読者に対してはそんな不体裁なことは告げられないけれど、日本書紀の読者、即ち外国人に対しては、懸命に継体天皇の系統の正統性を主張していると受け取ることが可能なように思います。

その武烈天皇ですが、男の子がいなかったので、越前にいる血のつながりの遠い人物を探してきて請うて継体天皇に即位してもらったということになってはいますが、もうちょっと血のつながりの濃い親戚とかも含んで一切適切な男性がいなかったというのは、不自然ではないかなあと思います。まとめて殺されたのでないか、ある種のクーデターが起きたのではないかという想像が働かないわけでもありません。

想像を逞しくするならば、眉輪王が安康天皇を殺害する事件を契機に有力豪族の葛城氏が雄略天皇によって滅ぼされますが、雄略天皇と武烈天皇の同一人物説があり、それをとるならば、雄略=武烈時代に天皇家と周辺豪族の抗争によって適切な人物が死に絶えてしまったという想像も不可能ではありません。ただ、雄略天皇は葛城氏に勝利していますので、武烈天皇の系統が絶えてしまったこととは矛盾します。この辺は推量するしかできませんので、いくらでも仮説をこねくり回すことはできますが、はっきりはしません。

葛城氏の滅亡後は蘇我氏が台頭し、推古天皇の時代に推古、聖徳太子、蘇我氏の連合政権みたいなものができていきますが、蘇我氏は渡来人の可能性が指摘されており、継体天皇の出身地の越前が朝鮮半島との主要な交易ルートの一つだったとすれば、継体・蘇我連合が大和朝廷を簒奪したという想像を働かせることも不可能ではないように思います。蘇我氏全盛の祖となった蘇我稲目は継体天皇の後の時代に出世していますので、矛盾はしません。物部氏は旧来から大和朝廷の内部にいた立場だったため、蘇我馬子によって滅ぼされることで旧来の勢力が最終的に一掃されたという筋書きも考えることができます。ほとんど想像ですので「お前の言っていることは穴だらけだ!」と言われたら素直に認めます。

以上のような想像を積み重ねてみると、雄略天皇の時代までは天皇家と葛城氏の協力関係によって維持されていた大和朝廷がある種の仲間割れを起こし、葛城氏は滅んだものの力の空白が生じてしまい、これをチャンスと見た蘇我氏が雄略またはその子孫を絶やし、継体を連れて来たということもできます。継体天皇は即位後20年間大和に入っていませんが、要するに地ならしができておらず、入れなかったと考えることができ、20年間、誰かが敵対する人を根絶やしにして、ようやく準備が整って大和に入ったと見ることもできます。実は即位についても後から先に即位していたということにしていて、本当は大和に入ってから即位できたのかも知れません。仮説です。仮説。想像です。

そうは言っても、もし、継体天皇が本当に応神天皇の子孫なのかどうかという疑問は残ります。これはもう議論のしようがありません。言い張られたら「そうですか」と言うしかありません。

とはいえ、継体天皇の皇后は雄略天皇の孫娘であり、武烈天皇の妹です。仮に雄略=武烈であったとしても、天皇家の血を引き継いでいる人ですので、もし女系がオッケーだとすれば、継体天皇がにせものだったとしても問題はありません。応神天皇が仲哀天皇の息子ではない可能性が残りますので、もしそうだとすればその子孫の雄略天皇の正統性にも疑問が呈されてくるため、雄略天皇の孫娘の正統性にも響いてはきますが、応神天皇を産んだ神功皇后が天皇家の外戚の息長氏の出身ですので、女系もオッケーということにすれば、どうにかつながります。個人的には天皇家が男系であるべきか女系であるべきか、両方オッケーかということについて意見はありません。以上は全て思考の体操です。





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