ナウシカは自己中心的救世主

『風の谷のナウシカ』は、全身に満ちた愛情を全力で発揮する救世主のような人物として描かれている。映画版と漫画版では内容にかなりの違いがあるが、ナウシカが救世主としての役割を負っているという点で共通している。フィクションであるからこそ可能なことなのかも知れないが、映画でも漫画でも、ナウシカが博愛を全力で実践していることには感動できるし、だからこそ私も繰り返しナウシカを繰り返しみてきた。

だが、同じ作品を観続けていると、違った見方もしたくなってくるものでもある。新しい発見は気づきがあるからこそ、繰り返し見ることができるのだとも言える。最近、改めて数回ナウシカをみ、かつ漫画を読んだこんで、ナウシカの博愛は実はエゴイズムの発露なのではないかという視点を持つようになった。

というのも、ナウシカは特別な苦行も修養もしているわけではないからだ。イエスは山中に40日籠り、悪魔の誘惑に打ち勝つことで救世主としての目覚めを得た。仏陀は苦行を否定したが、それは実際に自分で苦行を行い、苦行は無駄だと悟ったからだ。近代日本で言えば西郷隆盛島津久光に島流しにされている間に漢籍などを読み自己教育をして鋼の精神力と常人とはかけ離れた才気を発揮し人望を集めるようになった。

ナウシカにはそのような自己変革の機会はない。物語が始まった時からナウシカは既に天才的に風に乗ることがうまく、生得的な才能として人間以外の生き物とコミュニケーションをとることができ、人を限りなく愛するという哲学も最初から持っている。

そのように思うと、ナウシカが生まれつき救世主的なのはなぜかと言う疑問が湧いてくる。修練や自己訓練によって会得したものでないとすれば、ナウシカは単に生まれ持った本能に従って生きているだけであり、たまたま本能が救世主的だったと結論しなくてはいけないのではないかと思えた。

修練や思考を経て会得したものではないため、ナウシカは自分の判断でかなりのことをやってしまっている。例えば怒りに任せて人を殺してしまう場面は映画でも漫画でも描かれている。ナウシカが風の谷を離れなくてはなった時、自分の判断で地下の植物園の水を止め、植物たちに枯れて死にゆく運命を与えいている。そしてこれはネットでもよく言われていることだが、漫画版では腐海によって浄化され、ナウシカたちも同時に滅亡するようプログラムされており、その後、完全に汚れのない新生人類が生まれてくることになっていたはずなのが、ナウシカは自分の感情の赴くままに新生人類の卵を破壊している。仮に全ての命に愛を与えることを彼女が自己教育によって自分に課している義務なのだとすれば、新生人類の破壊するという行為はできないだろう。しかし、彼女はそうではなく、感情のまま突っ走るだけであり、かつそれでも失敗しないだけの運動神経の持ち主であるからこそ、あたかも慈愛と才能に満ちた人物に見えるのであり、救世主に見えるのである。

だが、それが宮崎駿の設定ミスだとも思えない。原作者は最初からナウシカは究極のエゴイストだということを自覚的に設定していたのではないかという気もする。映画でも漫画でも人を殺した後、自分が怒りに任せて何をするか分からないという台詞が挿入されている。つまり原作者は最初からナウシカは倫理で行動しているのではなく感情で行動しているのだと明確に描いているのだと言える。

だが、これをして、なんだ、ナウシカってただの自己中なのか、興ざめだな。ということにはならない。ナウシカが救世主であるという位置づけに変化は起きない。映画でも漫画でもナウシカは現生人類にとっての救世主としての位置づけに変化はない。イエスはユダヤ教の教会である種の破壊行為を感情的に行ったが、救世主は神の預言を授けられている存在であるため、感情に従って突き進むことにより人類を救うことができるのだと言うこともできる。

また、ナウシカの内側には神の預言者たる救世主としての一面と同時に新生人類を抹殺する悪魔の一面の両方が存在すると考えれば、むしろナウシカが相矛盾する性格を一人で抱える普通の人間なのだと考えることができれば、作品理解が更に深まるというか、作品を通じて世界や人間をより深く理解することの糸口になるかも知れない。『カラマーゾフの兄弟』では、無垢で誠実なミーシャが修道院長から修道院の外の世界を生きるよう命じられる。ドストエフスキーの計画では俗世に出たミーシャは黒いキリストになる予定だったという。おそらく『悪霊』はミーシャの俗世版だと言えるはずだ。



関連記事
クシャナの後ろ姿

クシャナの後ろ姿

大学の授業で『風の谷のナウシカ』を二年ぶりに学生たちにみせることにした。私の世代にとってナウシカは常識の範疇に入るが、今の大学生たちにとっては古典映画の部類に入るのではないかと思えるため、ナウシカを見せることにはそれなりに意義があると思ったからだ。

どのクラスでどの映画をみせたかを考えるのが面倒なので担当しているクラス全てで「上映会」をしてみた。しばらくの間、私は映画館の映写担当者のような気分だった。何度も繰り返し同じ映画を見ることになったが、これはなかなかいい経験だった。特に自分が好きな映画なら、贅沢な経験だと言っていい。大学の教室のスクリーンで見るなら、ちょっとミニシアター並の迫力があるし、繰り返し続けて見ることで気づかなかったことにも気づくことがきる。そして好きな映画をみんなで見て、給料がもらえるのだ。これほどいいことはない。私はそれこそ神に感謝したい気持ちになった。

以前から気づいていたことだが、今回あらためてほれぼれとする心境で見たのはクシャナの後ろ姿だった。クシャナはかっこいい。そこに異論のある人はいないだろう。宮崎駿が力を尽くして天才的な頭脳と威厳のある女性を描き込み集約したのがクシャナだからだ。クシャナのイメージは烏帽子御前に引き継がれている。

クシャナの後ろ姿で印象的な場面は二つある。一つはまだ未熟な状態で孵化を待つ巨神兵をたたき起こし、迫り来るオームの群れに破壊的な光線を発射させた直後の場面。そしてもう一つは死んだナウシカがオームたちの神秘的な力により蘇生している瞬間を見上げている時だ。この二つの場面に於けるクシャナの心境はそれぞれ違っており複雑なものだが、その立場は一貫している。以下にクシャナの心境と一貫した立場を述べたい。

巨神兵を強引に孵化させ、その光線を発射させる場面では、その直後、ビキニ環礁の水爆実験を連想させる巨大な破壊が起きる。風圧でクロトワがのけぞる瞬間である。クシャナはのけぞることなく、すっくと戦車の上に立ち、火の七日間で世界を滅亡させた呪わしい破壊力を見届ける。彼女の目的は迫り来るオームを殲滅することにあるため、人が開発した巨神兵の威力に満足しているはずであり、映画の設定上彼女はオームを憎んでいるはずなので、人の力によってオームが撃退できる可能性があることにやはり満足しているはずである。そのような後ろ姿は自然を克服し、望むものを手に入れるために力を尽くす近代人を代表している。仮に現代も近代の延長線上にあるとすれば、クシャナは我々近代人の代表であり、巨神兵の破壊力は近代人の自然に対する勝利の瞬間であるとも言える。

もう一つは、ナウシカがオームの神秘的な力によって蘇生する場面だが、オームに追われ命からがら助かったクシャナとクロトワが無力そうにその様子を見上げている後ろ姿もまた、我々近代人を代表している。死んだ人間が生き返るはずがない。しかそのような常識を無視し、ナウシカが蘇生しているという、飽くまでも映画の中での出来事ではあるが、その信じがたい光景、クシャナがこれまで信じてきたものとは真逆の現象が目の前に起きているという事実に降伏せざるを得ない無力感と、同時にオームの神秘性を信じざるを得ず、死者が蘇るという無条件の感動を否定することもできず、何をどう思い、何をどうすればいいのか分からずに、ただ現象を見つめるしかない彼女の後ろ姿は、やはり人間の力を信じ、自然の神秘を信じようとしなかった近代人を代表しているのである。さらに付け加えるとすれば、見たものしか信じないという合理精神は、見たものは信じるしかないとするやはり合理的な潔さを彼女がいい意味で持っていると言えるかもしれない。

人間を自然の対立項として捉えるという発想法は多分に二十世紀的なもので、おそらく二十一世紀人は少し違った感覚を持っているはずだ。人は自然と対立するのではなく、人も自然の一部であり、自然の中で生きているという発想法は私の幼少年期の頃よりはより一般的なものになりつつあるように思える。それはおそらく私の幼少年期に於いては自然が克服すべき対象であったのに対し、現代では自然との調和へと世の中の関心事が移行したことと無関係ではないし、逆説的だが人は開発についてやれることはやり尽くしてしまったために、関心の方向が変わったのかもしれない。

映画を見て気づきを得るのは幸せなことだ。



関連記事
ナウシカは自己中心的救世主

映画『ダンケルク』とゴジラ

第二次世界大戦では、前半では枢軸国側の圧倒的優位に物事が進んで行きます。近代戦争は「資本力」が物を言いますから、冷静に考えれば資本力に劣る日本・ドイツが、世界一金持ちのトップ2を争うアメリカ、イギリスと戦争して勝てるわけはないのですが、少なくとも前半に於いては気合や戦術、集中力みたいなもので枢軸国が圧倒し「もしかしたら、日独が勝つかも」という幻想のようなもの、または不安のようなもの(立場によって違うでしょう)が世界に広がっていったと言えます。

そのドイツ圧倒的優位を象徴的に示すとともに、ゆくゆくはドイツの敗北をも予言することになった戦いが、ダンケルクの戦いです。フランスのダンケルク海岸に英仏が追い詰められ、逃げ場がなくなるわけですが、ドイツ軍がじわじわと包囲網を縮小していく中、海を渡ってイギリス側へと撤退する、史上最大規模の撤退戦であったとも言えます。ドイツ軍にとっては包囲戦で、英仏軍にとっては撤退戦なわけです。

で、ダンケルクの戦いでのイギリスまでの撤退作戦をダイナモ作戦と呼ぶわけですが、映画『ダンケルク』では、この撤退戦の難しさ、厳しさ、そして最後の鮮やかな成功を描いています。この映画をみて気づいたのは、英仏にとっての敵であるドイツ兵が全く、ほぼ完全に登場しないことです(最後にちらっと物語の展開上、やむを得ず、人影程度に、個性を感じさせない程度にドイツ兵が映りますが、それだけです)。

過去、第二次世界大戦関連の映画は何度となく制作され、とりわけドイツ軍の将兵を如何に描くかというのが演出の腕の見せ所のような面があったように思います。たとえば『バルジ大作戦』では、ナチスが理想とした金髪の沖雅也みたいに顔立ちの整った将校と、彼の身の回りの世話をする老兵の姿は、それぞれに個性を持ち、人間的感情を持っていることを表現することに演出サイドは力を入れていることが、一回でも見ればわかります。ナチスの将兵は時に冷酷に、時に人間的に、時に滑稽に、場合によっては優しい人として描かれたことも少なくはありません。どのように描くかは、演出の考え方次第ですが、ナチスという強烈なイメージを残した歴史的事象であるだけに、腕の見せ所でもあったと言えます。

ですが、ダンケルクでは彼らの姿は先ほど述べたように、ほとんど描かれません。ドイツ軍の飛行機は出てきます。Uボートも話題としては出てきます。ドイツ軍の砲弾の雨あられは描かれます。そのようなメカニックなものはふんだんに描かれるわけですが、人間としては登場しません。

このような演出には、実際には見えない敵が迫っているという不安を表現するのに効果があるように思えますが、敢えて言えば、ジョーズやジェイソンのような得体の知れない存在、日本の場合で言えば人間ではない敵という意味でゴジラのような素材としてドイツ軍を使っているという見方もできるのではないかと思います。尤も、ゴジラは鳴き声に哀切が籠っており、既に指摘されているようにゴジラは南太平洋で死んだ日本軍将兵たちのメタファーと捉えられるのが一般的ですから、ゴジラが必ずしも相応しいたとえではないかも知れないのですが…。

さて、ゴジラをたとえに出すのが正しいのかどうかはともかく、私はこの映画が戦争映画として成り立つのだろうかという疑問を若干持ってしまいました。戦争映画は敵と味方がそれぞれに人間であると描くことに、ある種の見せ場のようなものがあるのではないかという気がしてならないからです。ガンダムでも人気があるのは連邦軍よりもむしろザビ家の人間関係やシャアとセイラの兄妹愛の方にあるように思えますし、『スターリングラード』では冷酷で凄腕なドイツ軍将校が最後に負けを認める際に帽子を脱いで死を受け入れるというある種の騎士道精神を挟み込んでくるわけですし、『風の谷のナウシカ』でもクシャナの人物像は大きなウエイトを占めているわけです。

そう考えると『ダンケルク』という映画は戦争映画ではなくアクション映画なのではないか、或いはある種のサイコホラーなのではないかと言う気がします。それが悪いというわけではありません。確かに見応えのある映画ですから、一回は見てもいい映画だと思います。ただ、戦争映画としてはちょっと物足りないかなあと思ってしまいます。



ユリシーズとオデュッセイアと近代とナウシカ

ジェームスジョイスの『ユリシーズ』は、古代ギリシャの伝説的古典である『オデュッセイア』を下敷きにしています。しかし、オデュッセイアが神話的英雄譚になっているのに対し、ユリシーズの場合は近代人の悲哀に満ちたものになっています。その両者を比べてみたいと思います。

『オデュッセイア』では、トロイ戦争で勝利したオデュッセウス王が帰還の途中で遭難し、ただ一人、どこぞとも知れぬ島に漂着しますが、そこで女神に愛され、7年にわたって衣食住に不自由のない生活を送ります。オデュッセウス王はそれでも故郷に残した妻子を忘れることができず、再び出航しますが、ポセイドンの怒りによって再び遭難し、またしてもどこぞとも知れぬ島に漂着し、その島のナウシカ姫に救助されます。ナウシカ姫もオデュッセウス王を愛しますが、やはりオデュッセウスは妻子の元へ帰るべく出航し、漸く故郷に帰りつきます。トロイ戦争に出征してからすでに20年の歳月が流れており、オデュッセウス王の妻への求婚者が邸宅に入り浸っていましたが、オデュッセウスが一人残らず成敗し、夫婦はかつてと同様の愛の生活へと戻っていきます。大変に美しく、かつかっこいい英雄的な愛の物語になっているわけです。

一方で、『ユリシーズ』では、主人公の男性であるレオポルド・ブルームのとある一日を描いています。しかし、その内容はオデュッセウスの20年間の不在に匹敵するほどに濃いものです。そして悲哀に満ちており、英雄的な要素は皆無と言って良いものです。オデュッセウスが王であり、トロイ戦争の勝利者であるのに対して、レオポルドは新聞社の広告営業をしています。オデュッセウスがトロイ戦争で完全勝利を収めたのに対し、レオポルドは新聞社のボスに電話で散々に怒鳴り散らされながら、どうにかボスの提示した条件にぎりぎり満たない(!)程度の広告契約をまとめることに成功します。この時点でへとへとです。レオポルドの妻はオデュッセウスの妻と同様に美しい人ですが、オデュッセウスの妻が20年間貞淑であったのに対し、レオポルドの妻はレオポルドがたった一日仕事に行っている間に他の男とそういう関係を結んでいます。知らぬはレオポルドばかりなりというわけです。ダブリンの街を歩くレオポルドは、ナウシカという魅力的な女性を見かけます。オデュッセウスのナウシカ姫と対応関係にある女性です。しかしナウシカがレオポルドを愛することはありません。彼はナウシカの美しさに圧倒され、欲望しますが、自らを慰めるだけで満足しようとします。その他、酔っ払いにつきあわされたり散々な一日を送り、夜遅く帰宅するのですが、彼は妻の様子から妻の情事に気づきます。しかし、彼は黙って眠りにつきます。孤独、虚しさ、抵抗することにすら意味を感じられない現実をオデュッセウスという英雄と対比させるようにして描いたことから、近代人のどうにもならない現実を描いたとして、モダニズム小説の嚆矢のように褒め称えられる作品ですが、まあ、ようするにがっくり来るような話です。

宮崎駿さんは当然にオデュッセイアのナウシカ姫とユリシーズのナウシカの両方をよくよく承知の上で『風の谷のナウシカ』を制作したに違いありません。オデュッセイアで無償の愛を捧げるナウシカ姫と、ユリシーズで男を欲望させるナウシカの両方があのアニメ映画に込められているのだとすれば、今後、『風の谷のナウシカ』を観る際に、更に一歩深く理解できるようになるかも知れません。


クシャナの後ろ姿

オデュッセウスとナウシカ



古代ギリシャ関連の必須の教養と言えば、『イリアス』と『オデュッセイア』です。イリアスはトロイ戦争をモチーフにし、オデュッセイアはいわばその後日譚と言ってもいいものですが、よりドラマ性が高いのは、個人的にはオデュッセイアの方ではないかと思うというか、オデュッセイアの方がおもしろいなあと思います。両者はつながっていますから、作者別人説はあるものの、その双方を知らないことには完全には理解できません。源氏物語が光源氏が主人公の前半と後半の匂宮、薫と浮舟の三角関係の物語の双方を知っていて、ちゃんと読んだと言えるのと同じと言えるかもしれません。

それはさておき、前半のイリアスではフランスのパリの語源になったパリス王子がアフロディーテに黄金のリンゴを与え、その引き換えにアフロディーテは世界一の美女ヘレネを手に入れるというところから始まります。神の力によってヘレネはパリスに与えられるわけですが、ヘレネが人妻だったために話がこじれ、とうとう戦争に発展するわけです。世界で最も古い物語がさっそく人妻との許されざる愛情物語というわけですから、人はいつの世も変わらないとも言えますし、ドラマには人妻との愛なり嫉妬なりといった非常事態的かつ普遍的要素を求められるという点で、こういうものに目を通すのもいろいろ勉強になるなあとも思えます。

こうして起きたトロイ戦争では有名なトロイの木馬作戦が成功し、ギリシャ対小アジア、いわばヨーロッパvsアジアのダイナミズム、歴史の始まりとも言われる長期戦はギリシャ側の勝利に終わります。単なる神話だと思われていたものが、シュリーマンが発掘調査をして、遺跡を見つけ出したため現代ではおおよそのことは実際にあったのだろうと考えられているわけです。

勝利の戦争の帰り、神々に祝福されないギリシャ勢は嵐に合うわ、おかしな一つ目の巨人に出会うわで全滅の憂き目に合い、オデュッセウス王だけがなんとか生きて世界のどこかで生きているという事態にまで追い詰められます。故郷では妻と息子が不安な心境で待っている最中、オデュッセウスは女神に愛されて7年も一つの島にとどまって安楽な生活を送ります。その後、故郷へ向けて出航しますが、ポセイドンの怒りを受けて遭難し、浜辺に打ち上げられたところを心優しきナウシカ姫に助け出されるという展開を見せ、ナウシカ姫もオデュッセウスを愛しますが、彼は意を固くしてナウシカのアガペーに感謝しつつも20年ぶりに故郷へ帰り、不在の間に妻に求婚していた男どもをことごとく討ち取って、ようやくかつての愛と平安の日々を手に入れることになります。

このように見ていくと、オデュッセウスのもてっぷりがおおいに目立ち、なんだかとても羨ましいのですが、ナウシカ姫が風の谷のナウシカの原型になっているに相違なく、同姫が無償の愛でオデュッセウスを救助し、しかも自分の願望を押しとどめて身を引くというあたりに宮崎駿さんがぐっときたのかもしれません。



関連記事
クシャナの後ろ姿

トルストイ『戦争と平和』とナウシカ

トルストイの『戦争と平和』は、ナポレオン戦争を背景に、ロシアの貴族から農民に至るまでの幅広い人々の人生、愛、嫉妬、欲望、寛容、赦し、絶望と希望を描いた大作としてよく知られています。

ロシアがナポレオンとの講和要件を反故にしたことで、ナポレオンは大軍を擁してロシア域内に進軍しますが、補給が思うようにはかどらず、ナポレオン軍は次第に衰退していきます。ベルリン、ワルシャワ、モスクワあたりは何にもない大平原が延々と続くようなエリアで、馬で走れば結構早く移動できるらしいのですが、馬の速度に補給が追い付かず、モスクワを目指す征服者はどうしても補給で苦しむと言われています。ナポレオンしかり、アドルフヒトラーしかりといったところでしょうか。

ロシア軍が戦略的に撤退することで、ナポレオンはモスクワ入城を果たしますが、ロシア側の焦土作戦によりフランス軍は更に衰弱し、補給が届かないまま冬を迎えることを恐れたナポレオンは撤退します。これを境にナポレオンは転落への運命を辿っていくことになりますので、彼の人生を考えると、天才とは運であるとしみじみ思はざるを得ません。ナチスドイツの場合、モスクワ入城には届きませんでしたが、スターリングラード戦では、ドイツ軍はソ連軍の戦略的撤退に引き込まれるようにしてスターリングラード入城を果たし、包囲され、事実上の全滅へと追い込まれていきます。ロシアはその広大な領土が強みであり、ちょっとぐらい相手に譲っても、最終的にはへばらせて勝つという肉を切らせて骨を断つ戦略が可能な国であると言えます。

『戦争と平和』はこういう壮大なスケールの話に人間の心の機微を乗せるという神業をしているわけですが、この作品を読んで風の谷のナウシカを想起しないわけにはいきません。風の谷のナウシカの漫画版では、ナポレオン戦争よろしくトルメキア軍がドルク帝国域内に深く侵入し、聖都シュワを目指しますが、進軍する過程で激しく消耗し、兵隊の数はみるみる減っていきます。またドルク帝国側は蟲を用いた焦土作戦で国土を犠牲にしながら敵を消耗させるという、なかなかやぶれかぶれな戦略で対抗しますが、この構図はナポレオン戦争を想起しない方が無理と思えるほど酷似しているように思えます。もちろん宮崎駿さんのことですから、意図的に意識してそうしているに違いありません。

戦場で無償の愛の行為を実践し、悩み傷つくナウシカの姿に大きな感動を得る人は多いと思いますが、漫画版ナウシカもトルストイなみにスケールの大きな話と人の心の機微、生きる意味、死ぬ意味、幸せとは何かみたいなことをいろいろと考えさせてくれますので、21世紀に生きる我々は、幸いに両方読むことができますから、是非、現代人両方読むべきなどと思ってしまいます。

関連記事
クシャナの後ろ姿

サルトル‐私は何かは私が決める

サルトルは「人間は自由という刑に処されている」と述べました。なんとなく、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』と対比関係にあるのではないかという気もしてきますが、要するに自由には責任が伴うため、自由に生きることには責任相応の苦痛も引き受けなくてはいけません。それができないのであれば、フロムが言ったように自由から逃走せざるを得ず、ホッブスのレヴァイアサンか風の谷のナウシカの巨神兵に全てを預けてしまい、主体性をなくしてうことになってしまいます。

サルトルはそれを赦されることではないと考えました。人間は生まれて来た時はまだ内面が確立されてはいないけれど、やがて成長するに従い、内面が確立し、自分が実際に存在すると感じることができる、実存を獲得します。

問題はここからであり、実存を獲得した人間には当然に選択の自由が与えられており、私がいつ誰と何をどのように行おうと、それは私の勝手というものなのですが、やる以上は責任を持たなくてはいけません。法律論的にそうだという議論も可能でしょうし、道徳的な観点からそうだということも可能でしょうし、あるいは特定の選択をした自分に対して責任があるというような言い方もできるはずです。

それをもう少し敷衍して考えるとすれば、私が何者であるかは私自身で決めると言ってもいいかも知れません。慈悲深い人間である私、或いは悪徳な私、清貧な私、または欲深い私、信心深い私、または無神論者の私、そういったものは全て自分で選んで決めることができますし、選んだ以上は責任が生まれるのです。それはもう「自由という刑」が執行されている状態であり、人としての尊厳を保つためにはこれは受け入れなければならない刑だというわけです。

このような考え方はやはりニーチェの超人を源とするのではないかと思えます。超人とは何かを考えた時に、それはサルトルの示したような自由という刑を受け入れるだけの覚悟を持つ人間のことであり、それはおそらくはアドラー的人間観とも共通するはずです。人は何にでもなれるとアドラーは言いましたが、サルトルはそれを実行せよと私たちに迫ります。責任を持つ主体として何かを選び取ることは、その行為自体が社会参加であり、それをアンガージュマンと言うそうですが、それは個々人が世界に対して責任を負うという厳しい考え方であり、猛々しく颯爽としていますが、果たしてサルトル本人がどこまでそれを実践できたかについてはやや微妙な気がしないわけでもないですねえ。

スポンサーリンク


ホッブスと巨神兵と自由からの逃走

イギリス人のホッブスは、人間には自然権があると考えました。自然権とは即ち自分の存在を保護する権利、ホッブス的な考えて言えば、自分の生存を保護するためなら何をやってもいいという権利とも言い換えることができるかも知れません。現在の我々の法体系でも、完全にホッブスと同じと言っていいかはともかく、人間には自分を守る権利がある、即ち自然権があるということを大きく認めていると言えると思います。一方で、個人が自然権を主張した場合、他者の自然権と対立することが決してないわけではありません。その場合、自己保存の権利を行使するという理由から殺し合いになるということは場合によってはあり得ます。そういう意味では自然権には本質的に限界があるとも言え、今日においてもよく「公共の福祉に反しない限り〇〇する権利がある」みたいに言われますので、自然権には限界が内在していると言ってもいいのかも知れません。

そのため、ホッブスは「人間にはやっていいことと悪いことがある」という前提を考え、議論する余地もないくらいにやってはいけないことについては法律に書いてるあるとかないとか関係なくにやってはいけないとし、それが自然法であるとしました。グロティウスの考え方に共通する部分もあるように思えます。

さて、そうは言っても人間には自然権があるわけですから、有名な「万人の万人に対する闘争」状態が起きる余地は残されており、「自然法なんか知るか!それより俺の自然権が優先じゃぁっ!」という人が絶対に出てくるでしょうから、そこを何とかするために、レヴァイアサンという架空の絶対的に優越した力を持つ存在を想定し、人間は国家の統治をレヴァイアサンみたいな恐ろしい存在に委任することによって、平和と安定が保たれると結論しました。

人間の自由の根本中の根本とも言える自然権を認める前提から出発しながら、最終的にはレヴァイアサンに委任するというのは本末転倒のようにも思えなくもないのですが、ホッブスは清教徒革命でフランスに亡命していますので、国王の主権なり強権なりを肯定するような結論にしたいという政治的な動機なり理由、または背景があったのかも知れません。

「人間には自然権があるけど、自然法を守れるほど賢明ではないので、強権に委任したい」というのは、なんとなくエーリッヒフロムの『事由からの逃走』を連想させます。フロムはこの著作でナチスドイツがワイマール憲法下で合法的に政権を獲得したのは何故か、何故人々はナチスドイツを支持したのかということについて考察しました。人には強権に委任したい、強権に委任することで自分個人の意思決定という責任から逃れて楽になりたという願望がもしかしたらあるのかも知れず、それはたとえば戦後にアメリカで行われたアイヒマン実験でもある程度は実証されたことだとも言えるかも知れません(アイヒマン実験には再現性に乏しいという理由で批判する人もいるそうなので、当該の実験が絶対に正しいと言い切ることもできないかも知れませんが)。

そのようなレヴァイアサンを連想させるものとしては、『風の谷のナウシカ』の巨神兵を忘れることはできません。漫画版のナウシカでは、絶対的な叡智とパワーを持つ裁定者である巨神兵が、人工物であるにもかかわらず神の如き存在として振る舞い、不正義に対しては鉄槌を加えます。巨神兵を創造したのが誰かは明示されてはいませんが、そうでもしなければ人は殺し合わざるを得ないと考える絶望的な人間観があり、それは著作者の宮崎駿さんの人間観なのかも知れません。

トマスモアの『ユートピア』の理想と現実

15世紀後半から16世紀前半までを生きたイングランド人のトマスモアは、その著作である『ユートピア』で、完全に理想的な世界を表現しています。それは、農業生産が完全自給の世界であり、人々の労働時間は一日6時間と定められ、都市と農村の格差を無くすために、二年ごとに都市と農村の人々を入れ替え、更には最も便利な蓄財のツールである貨幣は廃止される世界です。

以前、フランス映画で、とある地球外の文明人たちが、貨幣のような不便で人の心を濁らせる存在はすでに不要になっている生活を送っていましたが、集会場で物々交換をしていたので、「それではかえって不便ではないか…」という感想を持ってしまい、やっぱり通貨無き社会というのは難しいものなのではないかとも思えます。

もし、トマスモアの描いたような、労働時間も決まっており、一切の格差がないとすれば、それは確かにいい社会のように思えますが、人には経済と労働以外の格差も存在するため、完全に格差を消滅させることは不可能というか、それを目指すとかえって人間性を失うことにもなりかねず、経済に限定して格差をなくし、それをして理想郷だと考えるのは、私はちょっと浅はかなのではないかと個人的には思えます。また、そのような社会は変化のダイナミズムに乏しい可能性が高いように思え、結果として多様性を容認せず、環境要因の変化にももろい社会になるのではないかという気もしなくもありません。

格差はあるけど、平和でお気楽だったのが江戸時代です。武士は今日と同じ明日を生きることができることで安心して仕事をすることができます。しかも、臨時で寝ず番みたいなのはあったとしても、基本的には夕方には家に帰れるという理想的で平安な仕組みです。仮にこれについて社会主義的な批判をするとすれば、そのような安心安定は農村から搾取によって成立していたため、容認し難いということになるのではないかと思います。実際、現代人で武士のような特権階級が実際に存在することがいいと思っている人はいないでしょうから、やはり、江戸時代の武士的平安はトマスモアの理想郷とはかなりの違いがあると言えると思います。

一方、江戸時代の農村では、確かに東北地方の冷害のような深刻なことも起きたとはいえ、農村は農村で高い自治を保ち、かつ、平和で、豪農と呼ばれた家も多かったように、それなりに豊かさを享受していたのではないかと思います。ですが、農村の高い自治というものがくせもので、私の頭には『楢山節考』的な生きづらさが浮かんできてしまいます。

興味深いのは、平和主義者であったトマスモアは平和維持のための強力な軍隊の存在が必要だと考えていたことです。強制力がないと、もっとお金がほしいから一日八時間働くというけしからんという輩が出てくるとも言えますし、都会の生活が好きなので、農村に行きたがらないという人も出てくるということもあるかも知れません。理想郷を他者から狙われないための自衛という意味も当然に入るはずです。一歩間違えれば文化大革命に突入しかねない話とも思えます。トマスモアが考えていたのは、ホッブスのレヴァイアサンとか、ナウシカの巨神兵みたいな感じのものかも知れません。宮崎駿は巨神兵のような存在の必要性を認めながらも拒絶したいという矛盾と葛藤の中をナウシカで描いたのだと思いますが、最近の南スーダンPKOとか、或いは力の均衡による平和とか、パクスアメリカーナとか、いろいろな議論をはらみそうな論題ではあるかも知れません。

これは私個人の人間観にかかわることですが、やはりトマスモア的理想郷を作るためには、その社会に参加する人間に高い倫理性が求められるのではないかと思えます。市場原理主義やグローバリズム、自由経済主義のようなものは、社会主義とは逆の発想のようにも一見思えますが、市場原理主義や自由主義経済は虚偽の表示をしないなどの高い倫理性が求められる仕組みであると私は考えていて、トマスモアであろうと、アナーキズムであろうと、経済リベラルであろうと、個々人に高い倫理性が求められますので、突き詰めるとあまり違わない社会になるのではないかとも思います。

トマスモアはヘンリー八世の離婚に反対して処刑されるという、命をかけて信念を貫いた人ですが、彼自身も、高い倫理性を実践すべく日々自己を教育していたのかも知れません。

『風の谷のナウシカ』を学生に観せた話‐ナウシカの涙

学期の途中、私が担当させてもらっている幾つかのコマでは、映画を観る機会を設けるようにしています。講義内容に合うかどうかはあんまり考えず、半分は学生へのサービスのつもりで、残りの半分は自分が楽しみたいという理由でそういう時間をもうけるようにしています。よくみせるのは『かもめ食堂』ですが、その次によくみせるのは『風の谷のナウシカ』です。

自宅でみるときはノートPCのスクリーンでDVDで観るのですが、大学で学生と一緒に観るときはちょっとしたシネコン並みの雰囲気で観ることができますので、やはり感じ取れるものにかなり違いが出てくるように思います。

なんと言っても世界の名作『風の谷のナウシカ』ですから、学生も水を打ったような静けさでスクリーンに注目します。私の力量ではなく一重にナウシカ大明神のおかげなのですが、学生が集中したくなるものを提供できているという満足感も個人的には得られます。

ナウシカではライフル、短銃、刀剣と戦車で戦争しますから、ミリオタ的にも満足で「ああ、ナウシカは壮大なる戦争映画だったのだ」と言わずもがななことに改めて気づかされます。トルメキアが風の谷を占領する様子をみるとナチスドイツがロシアやウクライナの村々を占領する姿が目に浮かび、ナウシカが気を失っている時に夢に見た過去の記憶、ナウシカが密かに育てていたオームの幼生を取り上げられる場面の無数の大人の手には資本主義の搾取と言う言葉が頭に浮かび、谷の民が蜂起する場面ではレジスタンス、または社会主義革命というような言葉が頭に浮かびます。ドラマチックです。あまりにドラマチックです。そのような場面が連続して登場し、感動しまくりですので、終わった後鏡を見たら顔が真っ赤になっていました。感激で頭に血が上っていたのです。

宮崎駿さんがまだジブリを背負い始める前の作品、どうせ儲からないことを覚悟で徳間書店がリスクを負った作品です。その後の作品のような売らんかながなく、宮崎さんが描きたいもの、美少女、飛行機、戦車、戦争、共産革命がぎっしりと詰まっています。ザ・20世紀です。

私が今回初めて気づいたのは、流砂に埋もれてナウシカとアスベルが瘴気のない清浄な空間へと落ちた後、アスベルがナウシカに「泣いてるの?」と尋ねるシーンでナウシカの目に本当に涙が浮かんでいたことです。今まで何十回もみたにもかかわらず、ナウシカの涙が確認できず、なんとなく不可解だったのですが、涙がちゃんと浮かんでいるということにようやく気づきました。これに気づくと乗数効果的に感動が増すように思えますし、物語の展開が速いにもかかわらず、アスベルとナウシカが二人で地下空間で過ごす時間をやたらとっていることに、淡いながらも「恋」という要素がしっかり入れられてあることにも注目や考察を加えたいような気にもなるのでした。

残念ながら映画が終わる前に講義時間が終わってしまい(それは毎回そうなのですが)、だいたいクロトワの「腐ってやがる早すぎたんだ」あたりで時間終了なのですが、学生たちは何を考えているのか、最後まで観たいと思っているのか、どうでもいいと思っているのか、実は寸止めみたいになってフラストレーションを抱えるはめになっているのか、いちいち聞かないので分からないまま、今学期の映画タイムも終わったのでした。


関連記事
『風立ちぬ』の倫理と愛のエゴイズム
『耳をすませば』の映像美と日本の近代
クシャナの後ろ姿