雄略天皇と武烈天皇は別人なんじゃないかなあと思う件

雄略天皇と武烈天皇は同一人物ではないかという説があります。どちらも人を殺しまくったということで「えげつない」人間ということで共通しており、時代も近いのでそうではないか、ということらしいです。ついでに言うと「雄略」という「武烈」はどちらも激しいですから、呼称も共通しているということなのかも知れません。

ただ、私は別人なんじゃないかなあと思います。というのは人を殺すにしてもその内容が両者の間には随分と違いが見られるように思うからです。

雄略天皇の話をするにはまず安康天皇から始めなくてはいけません。安康天皇は大草香皇子を殺害し、その妃の中磯皇女を自分の皇后にします。大草香皇子と中磯皇女の間に生まれた眉輪王はいわば連れ子になったとして安康天皇の元で暮らすことになったわけですが、安康天皇と自分の母親のピロートークを盗み聞きして自分の父親が安康天皇に殺されたことを知り、仇討ちのために安康天皇を殺害します。

大泊瀬皇子(後の雄略天皇)は犯人探しを始め、まず怪しいと思った八釣白彦皇子を殺します。眉輪王は境黒彦皇子とともに葛城氏の家に逃げ込みますが、大泊瀬皇子は家に火をつけて全員殺してしまいます。他にも自分の皇位継承の邪魔になりそうなのを殺して、雄略天皇になるわけです。

上記の流れを見てみると、雄略天皇は安康天皇の仇を討つという大義名分を利用して、兄たちを殺し、自分が天皇になるために画策していたことが分かります。雄略天皇は安康天皇殺害の黒幕は大草香皇子ではないかと思って殺害したことになっていますが、むしろ全ての筋書きは雄略天皇が書いていて、眉輪王も操り、最後に口封じしたのではなかろうかという邪推を働かせることも可能です。安康天皇も雄略天皇の兄ですから、ゴッドファーザー的に邪魔者を一掃したような印象を抱いてしまいます。人を殺すことはよくありませんが、雄略天皇は合理的な思考と戦略に基づき、目的達成のために人を殺しています。

一方で、武烈天皇はそういうわけではありません。妊婦のお腹を切り裂いて子どもを取り出すなどの残虐な奇行には合理的な目的も戦略もなく、単にマッドなだけです。武烈天皇には適切な後継者がいなかったために越前から応神天皇の子孫の継体天皇を招くという流れになるのですが、前も書きましたがどうも武烈天皇及び近親は誰かによって、或いは豪族連合によって根絶やしにされて継体天皇に来てもらったフシが感じられます(継体天皇が本当に応神天皇の子孫かどうかという議論があり得ますし、本当にそうだとしても応神天皇が本当に仲哀天皇の子どもかどうかという議論もあり得ます、ややこしいです)。その後の天皇は継体天皇の子孫ですから、継体天皇の即位に説得力を持たせる必要があり、そのために敢えて武烈天皇がマッドな人物であったと強調して古事記に書かれたという解釈も可能と思います。

もっとも、雄略天皇の次に即位した清寧天皇に子はなく、雄略天皇の従兄弟筋の血脈の人物を見つけてきて後継者にしますので、構図としては継体天皇の即位の経過と似ていることは似ていますので、同じ人物の同じ出来事を重複して書いてあるのだと主張することは不可能ではありません。

とはいえ、もし重複しているにしては、両者の暴虐ぶりの中身が違い過ぎるんじゃないかなあと思います。証明のしようもないことですし、そうする必要もないと思います。以上は思考の体操です。

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雄略天皇は実在したんじゃないかなあと思う件

一般に第26代天皇の継体天皇の実在については議論がありません。概ね実在したことで一致しています。問題は継体天皇の正統性で、厳しい意見では継体天皇が最初の天皇で、それ以前の天皇は正統性を主張するためのねつ造だと議論する人もいるようです。

初代の神武天皇は、一旦、議論しないとして、2代目から9代目までの天皇は実在しなかったと考えられていて、いわゆる欠史8代と言われます。さて、果たしてどの天皇から以降は実在の人物で、どの天皇から前は実在しなかったのかということについてはわりと興味が湧いてきます。どのような議論をするとしても、継体天皇で充分古いので、別にそれでもいいとも思いますが、もしかするともう少し以前から、天皇はいたのではないかなあという気がします。「継体天皇が最初」というのはある意味では分かりやすすぎて、思考の体操としてはおもしろくありません。

個人的には21代目の雄略天皇は実在していたのではないかなあと思います。理由は簡単で、万葉集の一番最初の歌が雄略天皇のものだとされているからです。昔のことはこの目で見ることができませんし、証言してくれる人もいないわけですから、その痕跡を見ていくしかありません。「その痕跡もねつ造だ」みたいな話をしたらちょっと粗雑すぎる気がしますし、何と言っても思考の体操になりません。

万葉集そのものは信用のある和歌集なわけですから、その一発目に登場するということは、奈良時代の人にとっても実在に疑問はなかった、神功皇后みたいにちょっと触れるには憚られる、みたいなことはなかったのだということではないかと思います。

さて、その雄略天皇の詠んだ歌ですが、

籠もよ み籠持ち 堀串もよ み堀串もち この岳に 菜摘ます児
家聞かな 告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて
われこそ 居れ しきなべて われこそ座せ われにこそは 告らめ家も名も

以下意訳です。
君、名前なんて言うの?家どこ?
俺、天皇。この国の支配者。凄くね?

ということですので、要するにナンパの歌です。聖徳太子もナンパしてますので、ナンパしていたことには別に問題もなければ文句もありませんが、額田王が威勢のいい戦意を鼓舞している歌も残していることを思えば、もし仮に雄略天皇が実在していなくて、それでも実在したことにしたくて、万葉集のデフォで載せたということならば、もうちょっと英雄的な歌を創作してもよかったかも知れません。それに万葉集が本気で苦労に苦労を重ねて時間をかけて編纂されたということに異論のある人はいないでしょうから、小手先の創作もちょっと考えにくいかなあと思います。

以上のような理由で、雄略天皇は実在したんじゃないかなあと私は個人的に思います。個人的な見解です。


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