第二次伊藤博文内閣



松方正義が立ち往生する形で辞任した後を受け、伊藤博文は陸奥宗光、大山巌、黒田清隆山県有朋ら重鎮を閣僚として集めたいわばドリームチーム内閣を目指します。

しかし、当時は議院内閣制ではないため、議会の方は反政府で勢いづいており、政権運営はそう簡単なものではなかったようです。陸奥宗光が列強との不平等条約の改正に尽力していましたが、議会の反政府政党からは全面的な平等条約以外は認められないとの突き上げがあり、じょじょに妥協していくならともかく、安政の五か国条約を一挙に完全平等にするというのはハードルが高すぎて不可能とも言えますので、議会で官側の政党が少数派であったこともあり、早々に行き詰まりを見せて伊藤博文は衆議院の解散に打って出ます。

反政府と見られた各会派は政府の圧力によって議席を伸ばすことができなかった一方で、伊藤との連携の可能性を含んでいた自由党は議席を120まで伸ばします。一方で政府系政党は議席を激減させますが、自由党と合わせれば過半数を抑えられるというところまで持っていきます。政府の圧力で議席が伸びたり伸びなかったりするあたり、相当に裏とか闇とかそういった深かったに違いなく、現代の我々の価値観から言えばおよそ公正とはほど遠い選挙が行われていたに違いないことを伺わせるものです。

野党各派は自由党の星亨攻撃に狙いを定め、旧中村藩主の相馬家のお家騒動で星亨が贈収賄に絡んだという疑いで責めあげられ、衆議院議長不信任案が可決し、伊藤博文は更にもう一度衆議院の解散の挙に出ます。与党が少数だと何も決まらないという見本みたいなことが繰り返されている感が強いです。

ところがこの選挙期間中に日清戦争が勃発し(選挙期間中を狙って伊藤が始めた)、広島で臨時に行われた帝国議会では各会派一致して日清戦争を支持します。

第二次伊藤内閣を語る上で日清戦争は欠かせませんが、陸戦では連戦連勝、開戦の方では軍艦の大きさの違いが日清双方では歴然としており清の北洋艦隊の圧倒的優位のはずでしたが、関門海峡で幕府軍と接近戦をした経験がものを言ったのか、黄海海戦でも接近戦と小回りの利く動きで北洋艦隊は威海衛に撤退します。日本海軍が威海衛を包囲していたところで陸軍が陸伝いに威海衛を制圧し、北洋艦隊は降伏。提督の汝昌が自決するという展開を見せます。

陸奥宗光と共に李鴻章と交渉した下関条約で日本の勝利が確定し、台湾の領有、遼東半島の租借、賠償金二億テールという交渉面でも完全勝利を収め、第二次伊藤博文内閣はそれまでバタバタと倒れていた黒田、山県、松方の政権と比べて長期の政権運営に成功します。

議会の協力がなければ政権運営はできないと悟った伊藤博文は黒田清隆以来の議会と政府は別であるとする超然主義を捨て、自由党の板垣退助と進歩党の大隈重信を閣内に取り込んで挙国一致状態を戦後も続けようとしますが、板垣退助と大隈重信が宿敵化して激しく対立し、伊藤はこりゃ無理だと判断して辞任へと至ります。

いろいろ裏が真っ黒であるにせよ、議会の存在感を政府が理解するようになったという点では日本の民主主義がそれだけ前進したと考えることもでき、そういう意味では憲政の常道への一歩を踏み出したという意義をこの内閣から見出すことも可能なように思います。

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第一次山県有朋内閣



第一次山県有朋内閣について語る際に外すことのできない話題は第一回衆議院選挙のことではないかと思います。現代のような議院内閣制とは違い、政府の議会に対する影響力は低いもので、政府vs議会の構図になってしまった場合は憲法の規定上、衆議院には予算の審査権がありましたので、政府は立ち往生するということにもなりかねませんでした。

衆議院が予算を通さない場合は前年度の予算を踏襲するとも定められていたため、運営できなくなったり機能がストップしたりするわけではありませんでしたが、そのような場合は国策の変更がきかなかったりインフレに対応できなかったりしますので、硬直的な政権運営に陥りやすく、現代を生きる我々にとって議会における予算の審査は当然なされなければならないものですが、当時の明治政府関係者としては「議会というのはなんとやっかいなものか」と思ったに相違ありません。

たとえば新政府からあぶれてしまった人、または旧徳川で新しい時代からこぼれ落ちてしまった人から見れば、議会の開催は政治に復帰する絶好のチャンスであり、また、新聞にもそういう人が多かったので、第一回衆議院選挙では、政府に一泡吹かせてやりたい、薩長藩閥に一発食らわせてやりたいという人たちにわざわざ発言の機会を与えて予算の審議権まで握らせるわけですので、明治新政府がわりとそれまで仲間内でなんとかしていたことが外からの批判に耐えうるものにすることを迫られるようになったとも言え、まあ、そこが民主主義の肝でもありますので、ようやく日本が近代的な国家になれる第一歩がこの選挙だったかも知れません。

議会選挙には「温和派」と呼ばれる政府に協力的な勢力と「民党」と呼ばれる反政府ルサンチマン同盟の戦いで、新聞の煽りもあって「民党」が圧倒的な勝利を収めます。温和派が84議席獲ったのに対し、民党は171議席ですので、ダブルスコアに近い形で勝負がついたわけですが、予算の編成とその執行は政府の姿勢そのものですので、ここを握られた山県有朋は心中極めて苦々しいものがあったに相違ありません。この構図はアメリカの大統領の政党が議会で少数派になったようなものだと考えれば似ているかも知れません。陸奥宗光が民党(野党)の一部を抱き込むことにより予算を通しますが、山県は議会運営に自信が持てないとして辞表を提出。松方正義が次の首相を任ぜられることになります。

陸奥宗光はこの第一回衆議院選挙に和歌山の選挙区から出馬して当選しており、山県は陸奥を入閣させ、彼に議会工作をさせることで難局を乗り切ったわけですが、その後の内閣は次第に議員を抱き込むことで政策を通すというのを常道にするようになり、いわゆる腐敗が深刻化していくことになります。

もっとも、単純に一直線に腐敗していったわけではなく、途中で原敬首相の登場と藩閥政治の終焉という大正デモクラシーも間に挟み込みより複雑にかつ深淵に、そこに新聞の煽りが入るという図式が生まれていきます。その辺りはまた別の機会に述べたいと思います。



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