鎌倉のお好み焼き‐津久井‐

先日鎌倉へ行った際、ふらっと入ってみたお好み焼きのお店が、津久井である。以前からお店の存在には気づいていたし、ちょっと入ってみたい気持ちもあったのだが、今回は初めて「お庭を見ながらお食事できます」との文言のある看板があることに気づき、それはいいと思って入ってみることにした。鎌倉駅にほど近いにもかかわらず、やや小道へと入っていかなくてはならないため、一見隠れ家風で雰囲気は満点だ。都内で隠れ家風なら果たしていくら払うのかと戦々恐々としかねないが、お値段は良心的で、安心して食事ができることは請け合いだ。お店で働いているおば様たちの雰囲気は良く、きっとおば様たちは働くのが好きで、楽しみつつ真剣にお仕事をされているのだという印象を得た。素晴らしいことだ。古民家風の店内は谷崎潤一郎が陰影礼賛で述べている和風ベースの近代建築という感じで、これもまたたまらない。昭和前半の雰囲気で、レトロというよりは古き良き日本という言葉が当てはまる。

おば様たちがやや忙しすぎたからだと思うのだが、お好み焼きがいつまでも焼けなくて、その原因は火が通常の半分しか点いていなかったということが分かった。隣のテーブルの素敵なマダムたちが働いているおば様たちに声をかけてくれて、点検してもらってようやくわかった事実だった。とはいえ、そのような小さなことで動揺するような私ではないので、どうってことはない。お好み焼きが最終的に焼ければそれでいいのだ。焼きあがったお好み焼きはあんまりおいしくなかったが、雰囲気の良いお店なので、気にしない。気にしない。一休みである。



江ノ島から鎌倉まで歩いたらこうなる

江ノ島から鎌倉までは、歩こうと思えば歩けるし、今まで何度かやったけれど、とても疲れるということがあまりに明白なため、今回を最後に二度とやらないと決心をした。今回は江ノ島から鎌倉まで江ノ電沿いに徒歩で歩くとどんなものに出会って、どんな風になるのかの最終報告みたいな内容だ。

まず、小田急片瀬江ノ島駅を降りれば、すぐに江ノ島付近の海岸に出られる。そしてこんな風景を見ることができる。

江ノ島の西の浜

江ノ島の西の浜だ。片瀬江ノ島駅から徒歩3分ぐらいのところにあるので、簡単に到着できること請け合いである。さあ、出発だ。

ロコモコのお店から辛うじて見える江ノ島の灯台

江ノ島の西の浜から東へ向かおうとすると、すぐその場で目に付くのがロコモコのお店だ。これは以前に撮影したものだが、仮にロコモコのお店に入ったら、このような景色を見ることができる。江ノ島から鎌倉まで徒歩で二時間くらいかかるので、先にロコモコで腹ごしらえをしておくのも大切なことだ。

ロコモコのお店を出て、藤沢から鎌倉方面へ向かうと、腰越あたりに出てくる。下の写真は藤沢から見て腰越エリアに入る境界線になる岩場のものだ。岩場を超えれば腰越であり、現代の行政区分とは異なる、鎌倉時代人にとっての鎌倉の入り口のそのまた入り口のエリアに足を踏み入れることになる。

腰越の手前の岩場

この岩場を超えれば、腰越エリアになるのだが、腰越もまた岩場である。江ノ電が通っているために掘削されているが、こんな感じだ。

義経と弁慶が頼朝に足止めされた腰越

平家を討滅した義経が鎌倉へ帰還した際、頼朝は腰越から進ませなかった。英雄気取りで帰還した義経は目と鼻の先の鎌倉へ入ることのできないもどかしさを兄に伝えるために手紙を書いたが、それが有名な腰越状だ。義経が腰越で書いた哀切のこもったこの手紙が頼朝の心を動かすことはなかった。義経はここで諦めて京へと引きかえし、頼朝に追われる日々を送ることになる。

哀切に満ちた悲劇の腰越を超えれば、今や世界的に有名な観光地になった鎌倉高校前だ。ここの踏切には主として中華圏の観光客が日々押し寄せている。実際、風光明媚だし、湘南ファンとしては外すべからざる名所だ。

鎌倉高校前の踏切。世界的な観光名所だ。

鎌倉高校前を過ぎると、鎌倉高校前と同じ感じに風光明媚な七里ヶ浜で、ここはここで七里ヶ浜高校がある。

七里ヶ浜あたりまで歩けば、そろそろ疲労困憊してくるが、徒歩マニアとしてはこれからが本番だ。これを我慢して歩き続けると、稲村ケ崎だ。

稲村ケ崎
稲村ケ崎

桑田さんの歌で有名なことはもちろんだが、歴史的にみても極めて重要な位置にある。鎌倉幕府の襲撃を意図した新田義貞が稲村ケ崎まで兵を進めた時、陸路は北条氏が固めていて進撃が困難になった。新田義貞は稲村ケ崎の海側に騎馬兵力を進めて鎌倉市街に侵入した。伝承では神剣を海に奉納したら海が割れて陸地が見えたと、モーセの十戒みたいな話になっているが、現実にはどうだったのだろうか。干潮時であれば陸地が見えることは確かで潮干狩りなどに大変適しているらしい。相模湾は遠浅なので、干潮時に広い陸地が見られることに異論はない。だが、新田義貞は騎馬兵力を率いて鎌倉市内に突入したのである。果たして海水をふんだんに吸っている砂地で馬が進撃できたかどうか。とはいえ、実際に新田義貞は鎌倉に突入し、北条氏は滅亡した。とすれば、或いは本当に稲村ケ崎の海側を通ったのかも知れない。

更に極楽寺、長谷、和田塚と歩き、由比ヶ浜までくれば、疑いなく鎌倉エリアだ。この辺りまで来るとくたくただし、風光明媚な相模湾を見るよりも、なるべく近道をして鎌倉駅へ行き、電車で帰りたいと考えるようになる。もはや歩くのも物憂く、はっきり言って江ノ島から鎌倉まで歩いたのを後悔するレベルだ。由比ヶ浜から内陸へ入る道を歩いていると、大正末期に建てられた洋館の旅館であるかいひん荘があった。

かいひん荘

明治時代、和洋折衷の木造建築が各地に作られたが、相模湾から東京湾にかけてのエリアに限って言うと、関東大震災で多くの木造建築が失われ、復興の時により本格的な西洋建築が好まれるようになった。大正末期から昭和初期にかけて、石やコンクリートの洋風建築が増えたわけだが、かいひん荘も大正末期に建築されたものだ。現代でこの時代に残る建築物は少ない。空襲で多くが失われてしまったからだ。そうわけでかいひん荘の建築は非常に貴重なのである。

このように歩くことはいい経験になるが、とにかく疲労困憊が激しいのでしょっちゅうは無理だ。徒歩は人の心を明るくするがやり過ぎると疲労困憊してブルーになる。今、壮絶なのでそろそろ終わるが、もうこんなブルーはちょっと経験したくないので、二度と同じことはしない自信はある。興味のある人はお試しになるのがいいでしょう。実を言えば藤沢から鎌倉へは二度とご免ですが、鎌倉から藤沢で同じコースを歩いたことがありませんから、これだけは思い出にやっておきたいと思っているのです。



関連動画 
稲村ケ崎

鎌倉の牛かつ

江ノ島電鉄鎌倉駅を降りてすぐのところに、牛かつのお店がある。

その名の通り牛をさくさくに揚げたお料理を出してくれるお店で、食べ方は普通の豚カツと同じだ。ただ、牛らしい味の濃さというかコクというか、クセみたいなものもあって、好きな人にはたまらないおいしい揚げ物料理になっている。豚カツの場合、甘味があってもちろん素晴らしいのだが、牛のようにややクセの強いお肉の揚げ物も、とてもおいしい。私は羊もOKなタイプなので、牛のクセは大歓迎であり、肉の味をもろに感じるカツというスタイルでも大喜びである。お店で大喜びしている動きは見せなかったが、あるいは表情で見破られたかも知れない。写真を見ていただければ分かるが、揚げ方は非常にあっさりとしたレアで、豚のように完全に火を通す必要のないことの強みを生かし、表面サクっと、やや下はジューシーに、その更に下は生肉の食感という風に一口でいろいろな味が楽しめるのも魅力のうちだ。ごはんとお味噌汁がおかわり自由なのは言うまでもないだろう。

値段は決して安いといえるものではなかったが、高くはない。このお店の近くの銀のすずのアップルパイのセットよりも安いので、良心的だとすら言えるかも知れない。

なんとなくお店の中を見渡したり、説明書きみたいなものを読んでいると、このお店はもともと京都のお店だということが分かってきた。京都に本店があって、敢えて東京の食通の集まる首都圏の観光地鎌倉に勝負をかけてきたのだろうか。

牛を食べるのだから、近代に入ってから発達した食文化だということになるが、横浜で牛鍋が生まれたように、新しい文化は新しく発展した土地で花開きやすい。京都のような古都で、牛の文化って発達するのかな?と一瞬思ってしまいそうだが、京都は明治に入っておおいに発展し、戦後に入って停滞したと言えるのではなかろうか。京都市内を散策すると、古典的近代と呼ぶべきレトロチックなレンガ造りのインフラ設備とか、教会とか、明治風の建物がたくさんあることに気づく。近代以前の建築物は案外あまり残っておらず、明治風建築の海の中で時折、ポツリポツリと近代以前の建物があるという感じだ。最近は戦後風の建物も立ててほしいという京都市民の要望が強いために、だんだん現代的な建物が増えて、京都は京都らしさを急速に失っていった。今は50年前や100年前に比べると、京都らしさと呼べるようなものは何も残ってはいないのではないだろうか。私が歩いてもそう思うのだから、長年京都をウオッチしている人にはそのような感傷はより強いものになっているのではないかと思える。

まあ、いずれにせよ、そういうわけで、近代以前にある程度の資本の蓄積が進んだであろう京都で近代的発展があるのは自然なことだと言えば自然なことで、ちょっとお隣の大阪は大正から昭和にかけて東洋屈指のモダン都市としてその発展を享受したのだから、京都もその余波を受けていても不思議ではないというか、その方が自然なのだ。そんなことを考えながら、ふーむ、京都の牛カツかあといろいろ思いを巡らせれば私は鎌倉の小さなお店のカウンターに座りながら日本の150年の近代史を遡ることができて、楽しみは倍増するのである。

よくよく考えてみると、Dandelion chocolateというカフェも京都から鎌倉へきている。京都はなかなかにモダンな都市だ。京都を侮ってはならない。鎌倉のことを書いているのに京都のことばかりになってしまった。鎌倉については今後もいろいろ紹介しますので、鎌倉市民の方がお読みになられたら、何卒ご容赦・ご理解を。

ビーガン的な生活に憧れてはいるのだが、まだまだな…



鎌倉のDandelion Chocolate

江ノ島電鉄鎌倉駅を降りて小町通の方へ行く地下道の手前にDande Lion Chocolate鎌倉店がある。今まで一度も入ったことがなかったのだが、せっかくブログもしているのだし、時間もあるし、通りかかったのだからと考え、思い切って入ってみた。お店の構えはとてもオシャレでやや気圧されてしまうし、ちょっと階段を上がらなければお店に入れないし、反対方向の駅の自転車置き場みたいなところから人が出てくるので、やや敷居が高く、お店に入るにはちょっとした決心が必要だ。

このお店は入ってみて正解だった。第一にそんなに高くない。いろいろスイーツを頼めば高くつくかも知れないが、ちょっとした時間潰しで看板商品らしきホットチョコレートを飲むだけなら、慌てなくても大丈夫だ。ホットチョコレートの容器もオシャレで眺めているだけで楽しい感じのものだ。一階にグッズも売っていて、テイクアウトでもイートインでも一階のレジで支払いをする。お店の経営方針なのだと思うが、店員さんは美男美女だ。私の前にレジに立っていた二人組の女性は、イケメンの店員さんの接客を受けてややハイテンションになっていた。私がレジにたどり着いたときには、接客してくれる人もかわいい女性店員さんにバトンタッチされていて、その徹底ぶりに感心してしまった。

二階に階段であがって向こう側にJR鎌倉駅が見える席に座った。カフェの席から駅が見えるのはけっこう楽しい。鎌倉駅をこんな風な角度から見たのは初めてだった。

カフェでもレストランでも、雰囲気・接客・お料理がほどよく快適なものでないとテンションは下がる。この3つが揃えば少々高くてもいい経験になるのだが、揃わない場合はお値段で妥協してほしいとつい思ってしまう。たとえば前回鎌倉に行った時に入ったカフェはとてもおいしかったが接客がひどかったのでトラウマレベルの経験になった。で、今回のDande Lion Chocolateはどうかというと、雰囲気・接客が素敵で、ホットチョコレートは余分な甘みがなくてとてもおいしかった。特に冬の寒い日に飲むのは最高だ。マシュマロがサービスになっていて、自分でとるのだが、苦みのあるホットチョコレートを飲んで小さなマシュマロを食べるのも悪くない。甘いのが好きな人も納得できる、苦みのあるおいしいホットチョコレートだった。鎌倉でお勧めのカフェと自信を持って言うことができるが、さっき公式HPを見てみたところ、どうも京都が発祥の地のようだ。京都はレストラン・カフェ方面で侮るべからざる底力を持っている。大学生が多く、彼ら・彼女たちによってレベルが維持されているのだろうか。『タレーランの事件簿』でも、そういった京都の良さが上手に描かれていて、さぞかし京都の大学生は幸福だろうなと思ったが、京都でいろいろなものを追求したカフェやレストランがあっても違和感がない。重厚な京都のカフェが鎌倉にも出店しているのがDande Lion chocolateなのだろう。京都を歩くのが好きな人が鎌倉を歩くのが好きな可能性は高いので、戦略としては正しいはずだ。

入ったのは午後6時過ぎの客足が多くても不思議ではない時間帯だったし、午後8時で閉店なので、この時間帯に稼がなくてはいけないはずなのだがガラガラだった。京都の本店が大いに成功しているので、その余力で鎌倉店が運営されていて利益は二の次なのかも知れない。伊豆や箱根に利益はどうでも良さそうな感じの博物館や美術館がたくさんあるが、そういう感覚でオープンされてお店なのだろうか。




鎌倉駅前の銀のすずのアップルパイ

先日、音楽に関係する要件があるので、鎌倉に行った。しばらくは鎌倉に時々行くことになると思う。で、鎌倉駅についた後、約束の時間までどうしようかと思ってふらっと入ったのが、銀のすずというカフェである。確かに入り口は微妙であった。バーンっと大きな写真がある。男の人二人が和装で正座しているのだが、オーナーのご先祖様らしい。で、創業は天保六年となっている。想像だがお茶屋さんだったのだろう。多分。で、それはいい。ただ、大きいバーンという看板は確かにいろいろ考えさせられるものではあった。というのも、たとえば熊本県に行けば漱石が泊まった宿という看板があって、私は少年時代に父親に連れられて旅行した時に一度だけその看板を見たことがあるのだが、漱石の顔がバーンっと大写しになっているものだった。そりゃ、二百十日の舞台になったのはこのお宿なんでしょうけれど、漱石だって生きていれば旅行もするし、旅行すればどこかの宿には泊まるのだから、漱石の人生にちょっとでもかすっていれば、漱石のドアップ看板バーンはちょっといかがなものか、観光客目当てが分かりすぎはしないかという印象を持ったのだ。なので、銀のすずの前に立った時、その看板の存在は、このお店が微妙だということを表しているのだと気づくべきだったのだ。

しかし、疲れていた私は寒かったし雨が降っていたのもあって、あまり考えずに銀のすずに入った。カフェなんて、そんなに変わらないだろう。どこへ入っても大差ないさ。あっちにルノワールがあるけれど、ルノワールは都内にもある。銀のすずはここしかないのだから、一見の価値ありと踏んだのだった。で、あまりフレンドリーとは言えないお店の人に席を案内されたのである。お店の人はフレンドリーでないというよりも、なんとなく慣れていないというか、接客業のプロ意識に欠けている感じがするというか、都内であれば短期のアルバイトでも気合の入っている人に出会って敬服してしまうのだが、そういう気合を感じられないことにやや怪訝な思いがないではなかったが、都内と比べれば神奈川県下はそういう気合の入らない接客業の人は多い。都内と比べればその比率は半端なく高い。神奈川県をdisっているように思われるかも知れないが、私も神奈川県民なので、なにとぞおゆるしをねがいたい。ついでに言うと、星野珈琲店もフレンドリーではないという点で私は行く度になんとなくショッキングなのだが、チェーンのどの店舗に入っても店員さんが迷惑そうにしているので会社の方針なのかも知れない。私に問題がある可能性もあるが、コメダ珈琲店でそのように感じたことはないし、普通そのようなことは感じない。

それはそうと、次にメニューを見てその高さにひっくりかえりそうになった。ケーキセットで2000円前後という強気の価格帯である。今さら雨の晩秋の夜に安いカフェを求めて歩くことは難しいと思ったので、やむを得ずアップルパイのセットを頼んだ。安い方のセットを頼むと、それはエスプレッソの値段だというので、ブルーマウンテンのちょっと高いセットにした。エスプレッソとブルーマウンテンの違いで300円ほどの差があった。普通のカフェでエスプレッソとブルーマウンテンで300円も違わないだろう…。と思っても入ってしまった以上は後の祭りである。しかもお皿が出てくるのはとんでもなく遅い。お店の人はギャルソン的な立場の男の人がたった一人だけで、注文を聞くのもお皿を用意するのも下げるのもこの人がしているのだ。文句を言うのはかわいそうだと本を読みながらじっと我慢。カフェに入って我慢するとはどういうことかと首をかしげたくなったが、とにかく我慢で張学良に関する本を読んだ。私は以前から張学良氏についてはいろいろ関心があったが、この待ち時間の間の読書を通じ、更に深く彼のことを理解し、あ、なるほどと思うところがあったので、それはそれでまたブログに書きたい。近いうちにyoutubeの配信も再開したいので、配信再開の一報は張学良氏についてにしようかとも考えている。(シャア論考にするかも知れないが)

それはそうとして、歴史上の人物について大きく理解を深める程度の待ち時間があるカフェはそれ自体どうなのかとも思うが、私は読書の休憩のつもりでiphoneを取り出し、鎌倉 銀のすず で検索した。あまりの評判の悪さに驚いたが、いちいちもっともだとも思った。お店の人の対応は微妙で高い。鎌倉駅前の立地はそんなに偉いのかといわんばかりの随分な言いようである。星1つ、2つが目立った。分かる。理解できる。お料理もそこまでおいしくないとの評価もあった。銀のすずの名誉のために付け加えると、コーヒーとお料理はすばらしかった。あまりのおいしさに椅子から落ちそうなほどに驚いたのだった。椅子は落ちそうなほどやや微妙だった。なぜ
アップルパイにここまで研究が深まっていながら、インテリアに関する研究は微妙なのか…やはり鎌倉駅前という立地が驕りを生んでいるのかとも訝しんだが、いずれにせよ、繰り返しになるが、アップルパイとブルーマウンテンは最高だった。果たしてあんなにおいしいアップルパイを食べる機会を再び得られるだろうかと思えるほど、人生で最高においしいアップルパイだった。銀のすずのアップルパイは一度は試してみる価値があるのでおおいにお勧めだ。

ネット上では二度と行かないという人の声が多数だった。私ももう一度行くことはないと思う。だが、一度ぐらいは行ってもいいカフェであることは断言できる。




お寿司は突き詰めると回転ずしになる説

音楽に関係する要件で鎌倉に行った際、小町通の回転すしやさんに入った。鎌倉でちょっとお腹がすくとこのお寿司屋さんに入ることが多い。お寿司の素晴らしいところは、食べたい分量だけ注文すればいいところではなかろうか。

かつて、回転すしとカウンターのお寿司は客層的にも価格帯的にもすみわけがなされていた。回転すしはあまりおいしくなけれど、安い。安ければ安いほど良いとの言説のもととことんまで値段を低くし、味のない魚とかでお寿司が握られたり、シャリも適当だったりするが、それは回転すしなのだからそういうものだというものだ。一方で、カウンターのお寿司はステイタスの証みたいになっていて、その頂点にザギンでチャンネーとシース―かもしれないのだが、いずれにせよ回らない寿司は高いことは高いのだが、板前さんのメンツにかけてネタも良く、シャリも良く、好きな女性をデートに誘える程度においしいという、これもある種の神話である。

この回転すしとカウンター寿司の客層と価格帯に関するすみわけの神話と言説は、ほぼ完全に崩れていると言えるだろう。というのも、先日、蒲田に要件があって出かけた際、長時間のミーティングになる可能性があって、お腹がすいてはいけないので昼食に地元のカウンターのお寿司屋さんに入ったのだが、シャリもネタも最悪で、とても写真を撮影する心境にもなれない酷いものだった。値段もそこそこ安かったのだが、このお店は地元の常連さんが夜な夜なお酒を飲みに来てくれることで売り上げを維持しているという感じだった。従って、一見の客からすればテンションが下がること救いがたいものがあった。一方で、回転すしのお店は最近ではネタに力を入れているところも多いし、シャリについても研究しているお店が多い。そして昔よりもやや値段の高いところが多い。私の食に対する考え方は良いものを少しづつなので、研究されている回転寿司屋さんは、心強くかつ感動的であり、尊敬の対象である。

お寿司はかつて、押しずししかなかったという。冷蔵庫がない時代にお店に生のお魚を陳列し、客の注文に応じて握るというのはかなり危険な行為だ。かつて江戸っ子が屋台でお寿司をつまんだ時代、魚もお米もお酢でしめるのが普通だった。一般に大阪寿司は押し寿司で、江戸前はそうではないというようなことになっているが、今は大阪に行ってもお寿司は江戸前みたいなお寿司がでるため、いわゆる大阪寿司は絶滅に近い状態なのではないかと思うし、江戸前寿司も押し寿司がメインなところはないはずだ。個人的な主観になるが、たこ焼きやお好み焼きでは大阪の方がおいしいが、お寿司とおそばラーメン東京の圧勝である。それはそうとして、そういうわけでちょっとお寿司を食べないなと思ったときは割安でけっこうおいしい回転寿司屋さんが最強だと思うのだ。




冬の江ノ島

冬季の江ノ島へ行ってきました。2月ごろです。まだまだ寒い時期でしたが江ノ島界隈は天気が良く、すっきりとした気持ちよい風が吹いており、とても気持ちのいいものです。外国人観光客が減ったと言われていましたが、定番の鎌倉高校前で下車すると、外国人観光客がまだまだたくさん来ていることが分かります。日本人観光客もなかなかの数の人たちがいます。

サーファーの人たちはこの時期でも泳いでいますが、普通の人はさすが海に入ったりするようなことはありません。それでもビーチを歩いて美しい海の景色と冷たくて気持ちのいい風を楽しんでいました。

冬の江ノ島へ行って特にいいと思えるのは、富士山が見えることです。夏でも絶対に見えないと言うことはなく、時には富士山が見えることもありますが、そのようなチャンスはあまりありません。やはり江ノ島から富士山を見たいのであれば、この季節が一番です。

鎌倉学園前方面から見た江ノ島。稲村ケ崎の向こう、白いに富士山がうっすらと見えている。

海の透明度も高く、とてもきれいです。人がうじゃうじゃ入っていない分、きれいなのでしょうし、海水中のプランクトンのような微生物の数も少ないからかも知れません。運が良ければ魚が海面からジャンプして飛び出す様子を見ることもできます。大変に素敵です。

関連動画 稲村ケ崎から江ノ島を臨む

後嵯峨天皇のレガシー

高倉天皇の息子で、安徳天皇の異母弟にあたる守貞親王は、幼少期に平家とともに都落ちし、壇ノ浦の戦いで救出されて京都に還るという壮絶な運命を経験した人ですが、勝者の鎌倉幕府の目線からすれば旧敵の人間関係に属すると見られており、皇位継承者としては見られてはいませんでした。本来であれば守貞親王が皇位継承をしない以上、守貞親王の子孫が皇位を継承する可能性は非常に低く、悪い言い方をすれば血統のスペアのような存在であったと見ることができるかも知れません。

ところが、同じく高倉天皇の息子で安徳天皇の異母弟にあたる後鳥羽上皇が承久の乱で失脚し、後鳥羽上皇の系統が鎌倉幕府によって朝廷から一掃され、守貞親王の息子の後堀川天皇が即位。天皇経験していない守貞親王が院政を行うという異例の状態に入ります。その後後堀川天皇は早々に退位して四条天皇が即位し、後堀川天皇の院政の時代になるはずでしたが、後堀川天皇は病没し、四条天皇は不測の事故で亡くなります。

鎌倉幕府は後鳥羽上皇の系統の人々を朝廷から一掃する方針だったはずですが、四条天皇を最後に「非後鳥羽」系の相応しい人物がいなくなってしまい、後鳥羽天皇の孫にあたる後嵯峨天皇の即位を見ることになります。

後嵯峨天皇の立場からすれば、自分が天皇になることは決してないと思っていたでしょうから、運命の激しい変転に驚いたことでしょう。守貞親王も源平の政変に翻弄された人だということや、遡れば天武天皇の子孫が孝謙上皇の時代に全滅に近い状態になってしまい、藤原氏の画策も手伝って天智系に皇統が帰って行ったということを思うと、たとえ天皇家であってもやはり運命に翻弄されるものなのだと考え込んでしまいます。

その後嵯峨天皇ですが、長子の宗尊親王は鎌倉幕府の要請で宮将軍として鎌倉に下ることになります。その次の息子が後深草天皇に即位し、後嵯峨上皇の意向で、その次息子が亀山天皇に即位します。天皇家でも摂関家でも将軍家でもそうですが、親子相続はわりと穏便に収まるものの、兄弟相続になると、どちらの子孫が正当かということで紛糾の火種になることが少なくありません。天智天皇と天武天皇の子孫がおそらく最も有名な例だとは思いますが、そういうことを知りつつも兄弟相続をさせた後嵯峨天皇の意向にはその真意を測りかねるところがどうしても残ります。単に下の息子の方がかわいかったというだけかも知れません。ただ、当時は血の論理に基づいてすべてが順位付けされますので、そこを乗り越えてまでというのは余程のことのようにも思えます。後深草天皇の子孫が持明院統、亀山天皇の子孫が大覚寺統と二つに分かれてやがて南北朝時代につながっていきますので、後嵯峨天皇のレガシーは後世に相当なダメージを与えたと言うこともできそうです。

後嵯峨天皇の息子たちは一人が将軍、二人が天皇ですので、それだけ聞けば実に豪華なのですが、何となく光源氏の息子たちを連想させるものがあり、考え過ぎかも知れませんが、白河上皇、鳥羽上皇、崇徳上皇の間に起きた悲劇性をも想像させます。

北条氏の調停により、両統が交互に天皇に即位することになり、持明院統の順番が来れば持明院統から推薦された人物を、大覚寺統の順番が来れば大覚寺統から推薦された人物を北条氏が天皇に選ぶという形になっていきますが、持明院統がわりと団結していたのに対して、大覚寺統は複数人推薦して来るなど、ちょっと浮ついたところがあったようです。極めて異色と言われる後醍醐天皇は大覚寺統ですが、そういうある種の落ち着きのない空気の中で育ったからこそ、良くも悪くも破天荒、独特、特殊、掟破りな人物に成長したのかも知れません。

北条氏は天皇の人選ができるというところまで権力を伸長させることができましたが、結果として後醍醐天皇を生み出し、鎌倉幕府の滅亡を招来することになりますので、様々なことはまことに糾える縄の如しです。





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鎌倉防衛戦

1324年、後醍醐天皇が日野資朝などの側近とともに謀議した鎌倉幕府打倒計画が露見し、六波羅探題によって処分が下された正中の変は、鎌倉幕府とその実質的オーナーの北条氏の力が天皇をも超越ほどの強大さを持つことを示す事件でしたが、同時に北条氏の滅亡へ至る道筋への入り口になったとも言えるかも知れません。

北条氏は源氏を滅亡させた後、ライバルになる大型の御家人を順番に潰していき、所領を増やし、日本で最も強大な「家」に発展していましたが、却って鎌倉幕府を北条氏だけで支えなくてはならなくなるというジレンマに陥っていたのかも知れません。

後醍醐天皇が流刑先から脱出して挙兵し、北条氏の差配で足利尊氏が関東から派遣されたものの、足利尊氏は一転して後醍醐天皇の味方につき、続いて新田義貞が関東で挙兵します。足利尊氏の反転までは北条氏の存続が危うくなるということはおそらく誰も想像していなかった、想定外のことだったと思いますが、足利尊氏が反旗を翻してから鎌倉幕府の滅亡まで僅か三週間。騒々しく、慌ただしい、あっという間のできごとです。

鎌倉は三方が山に囲まれ一方が海という天然の要害で守りやすく、防衛に適していますが、新田義貞が鮮やかに攻略できた背景の要因には、やはり北条氏を支える人材が枯渇していたということがあるかも知れません。有力御家人を潰し続ける以上、足利新田にとっても明日は我が身と思わざるを得ず、足利新田が源氏系だったのに対し、北条が平氏系ということもあって、ちょっとした切っ掛けさえあれば崩れてしまう、危ういバランスの上に北条氏は立っていたのかも知れません。

尤も、足利尊氏が鎌倉幕府の戦力の中心だったと考えれば、そこが裏切るのはやはり厳しいことで、ナウシカがクシャナの味方をして風の谷に襲い掛かったり、『カリオストロの城』でルパン三世が伯爵に抱き込まれてクラリスを連れ戻すみたいな展開ですから、北条氏に対して気の毒だという印象も抱いてしまいます。

鎌倉に入るには切通しを通らなくてはいけませんが、巨福呂坂、極楽寺坂、化粧坂の3つの切通しから新田義貞軍が鎌倉侵入を試みます。狭い道路を通過するにはどれほどの大軍であっても細長くならざるを得ず、守る側は通せんぼの部隊を設置して、後は上から矢を射かけたり、石を落したりすることが可能なため、突破するのは容易ではありません。新田義貞軍はこれらの切通しからの侵入を諦め、稲村ケ崎を伝って海側からの侵入を試みることになります。

新田義貞が海に剣を投げ入れれば潮が引き、稲村ケ崎の周辺が干潟になって、そこから新田義貞軍が鎌倉市街へと侵入したとされていますが、稲村ケ崎は干潮時は確かに干潟ができて、潮干狩りもできるため、その干潮時を狙うということは十分に考えられることだと思います。ただ、果たして馬が干潟を勢いよく走っていけるものかどうか、ずぶずぶと足をとられてしまって身動きできなくなってしまう可能性はないのかという疑問が残らないわけでもありません。暴れん坊将軍が海辺で馬を走らせている様子はテレビで見たことがありますから、或いは砂は乾きが速く、干潮時は馬でも難なく通れたのかも知れません。乗馬の経験があれば分かるかも知れないのですが、そういう経験がないのでそこは憶測するしかありません。結果として新田義貞軍が実際に鎌倉に入ったことは事実ですので、馬でも通れると考えるべきかも知れません。

江ノ島界隈
稲村ケ崎を藤沢側から見た写真

鎌倉市街戦が始まり、新田義貞軍が火をつけて回り、北条氏一門は東勝寺に集まって集団で自決したとされています。自決の場所は鶴岡八幡宮から近い山がちな場所ですが、慰霊の目的以外では入ってはいけないとの看板が出されており、とても興味半分で入っていけるような雰囲気のところではありません。私も看板の前まで行きましたが、そこから先には進む気になれず引き返しました。市街戦になると守る側はどうしても弱くなります。攻める側は完全武装で失うものは最大でも自分の命だけですが、守る側は家族の生命と財産も守らなくてはいけないので、後先考えずに命知らずに戦うということだけではすみません。そのため、防衛線を突破されれば観念するしかないものなのかも知れません。ベルリン攻防戦ではソ連軍が侵入した後もブランデンブルク門と総統官邸を中心とするエリアが死守され、その間の市民の犠牲は振り返られなかったわけですが、そういうことの方がむしろ異常というか、通常の観念から逸脱しており、市街戦になれば速やかな事態の収拾を双方が図るという姿勢が求められるべきとも思えます。パリ解放の際、ドイツ軍司令官のコルティッツがヒトラーの命令を無視して穏やかにパリ市を連合軍に引き渡しますが、高く評価されるべき好ましい姿勢のように思います。

鎌倉陥落はほんの数日でのできごとですから、北条氏の人たちも何が起きているのかよく分からない、何が何だかわからないうちに自決に至った、実感を伴わないうちに命を落とすことになったという場合が多かったのではないかと思います。私だったら頭では分かっていても心が追い付いていかないのではないかと思えます。鎌倉武士は禅を好んだと言いますが、座禅を組むことにより死生観を養い、いつでもそういう時のための心の準備をしていたのではないかとも思います。ただ、若い人には難しいのではないかなあとも思い、やはり気の毒という言葉が浮かんできます。

鎌倉はその後、足利尊氏が政務を執る場所として使ったことはありますが、基本的には歴史の表舞台から姿を消していきます。水戸光圀が鎌倉を訪問したことがあるようですが、明治以降、風光明媚な湘南の保養地として知られるようになり、今日のような観光地になります。

藤沢鎌倉辺りは風通しがよく、春夏秋冬を通じて気分良く過ごせるいいところだと私は個人的にとても好きな場所です。

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元寇の「勝因」

元寇の「勝因」

元の皇帝クビライからの国交の申し出は事実上の降伏勧告であると判断した鎌倉幕府の執権の北条時宗は、元から送られてきた中国人の使節を斬首までして頑なにクビライからの申し出に応じようとはしませんでした。

国交を求める使節は何度となく送られてきたわけですが、国書の内容は戦争か和平かを迫る内容であったと受け取ることができ、元サイドの日本を脅迫する姿勢はある程度明白なものだったと考えて良いように思います。それでいてすぐに船団を出さずに使節を送り続けたのは、「どのみち日本は海の向こうで遠すぎる。征服するのは骨が折れるので先方が脅迫にびびって朝貢してくれるようになったら都合がいいのだが」という心理が働いていたのではないかと私は推量しています。

元寇は二度ありましたが、どちらも大がかりなもので、一度目の場合は水夫も含めて約40000人と伝えられており、クビライはかなり本気だったことが想像できます。一方で、現場がどれだけ本気だったかは怪しいのではないかとも思えます。対馬、壱岐では惨劇の限りが尽くされたと伝えられているものの、博多に上陸した後は一夜で引き返しています。日本側の記録では元軍の勢いは凄まじく、一部では元軍を敗走させることができたものの、全体としては機動的な元軍を防止することができず、撤退戦を余儀なくされています。ところが元軍の方では左副都元帥の劉復亨が負傷したこともあり、日本軍の抵抗が想像していた以上に激しい判断して引き返したと推量することができます。合戦だけであれば一人でも生き残って敵の最後の一兵を倒した側の勝ち、または敵の大将の首を取った側の勝ち、ということで収まるかも知れないのですが、敵地に入って敵を打ち破り占領するというのはよほどの圧倒的な戦力差が必要になり、元サイドとしては先が思いやられ、断念して引き返したのではないかと思います。敵地いで戦争する場合、上陸戦が最も困難で、元寇の初回で激戦の末とはいえ博多湾上陸に成功した以上、それを棄てて引き返すというのは、戦意が必ずしも高くなかったと考えるのが通常ではないかと思いますので、現場のやる気は必ずしも高くなく、それが結果として撃退できたことの要因ではないかと思います。

二度目の場合、元軍は高麗の兵と中国の兵を合わせて総勢14‐15万での日本征服を企図します。二倍以上の兵力を準備したのは、今度こそ恒久的な占領を狙うという意図があったと考えるのが自然です。しかし、高麗から出発した船団がわりと順調に出発したのに対して、旧南宋から出発した中国の船団は待ち合わせの期日になっても姿を現さず、高麗ルートの軍が孤軍奮闘することになります。ただし、前回とは違い博多湾には防塁が築かれていたため、思うように浸透することがません。高麗ルートの将兵の心境としては自分たちが苦労して平定した後に南方ルートから来た軍が楽々と上陸するのは不公平ではないかとの思いが去来したのではないかと私は推量します。

南方ルート軍は約束していた合流地点へは向かわず、防禦が薄い平戸に上陸して半分陸上、半分船上の陣地を構築します。高麗ルート軍と合流して大宰府を攻めるという作戦で、これが実現していれば博多湾の防塁は全く意味がありませんので、或いは元軍はいい線まで行っていたかも知れません。一方で日本軍は当初の戦闘は九州の武士に任せていたものの急遽新たな軍事力を編成し九州へと向かわせていますので、場合によっては両軍主力による決戦が行われたかも知れません。結果としてどっちが勝ったかはなんとも言えませんが、そのような決戦が行われる前に暴風雨により元軍はほぼ壊滅。司令官は現場を離脱し、陸上に残された兵隊たちは惨殺されるか捕虜にされるかという結末を迎えます。

このように見ていくと、元寇の戦いは「敵失」によって勝利できた、或いは撃退できたということができそうです。一度目は現場の戦闘意欲の低さによりことなきを得、二度目は暴風雨という自然現象に助けられています。更に言えば、南方ルートの船団の出発が遅れたことにより、南方ルート軍と高麗ルート軍の合流が遅れ、決戦になる前に暴風雨が来たとも言えますので、相手のスケジュール管理の甘さに助けられたと考えることもできなくはありません。

滅びるモノはまず内側から腐っていくというのは歴史の鉄則ではないかと私は思っていますが、元寇に関して言えば、幕府側の防戦意欲が高く、防塁を建設するなどして有効に敵の足止めに成功したということと、相手のいろいろな意味での計画の甘さの双方に勝因を求めることができ、多くの教訓を得ることができるのではないかと思います。

その辺り、太平洋戦争では真逆ですので、そういうことも含めて自分が日々を生きる教訓にできるのではないかとも思います。

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