冬の江ノ島

冬季の江ノ島へ行ってきました。2月ごろです。まだまだ寒い時期でしたが江ノ島界隈は天気が良く、すっきりとした気持ちよい風が吹いており、とても気持ちのいいものです。外国人観光客が減ったと言われていましたが、定番の鎌倉高校前で下車すると、外国人観光客がまだまだたくさん来ていることが分かります。日本人観光客もなかなかの数の人たちがいます。

サーファーの人たちはこの時期でも泳いでいますが、普通の人はさすが海に入ったりするようなことはありません。それでもビーチを歩いて美しい海の景色と冷たくて気持ちのいい風を楽しんでいました。

冬の江ノ島へ行って特にいいと思えるのは、富士山が見えることです。夏でも絶対に見えないと言うことはなく、時には富士山が見えることもありますが、そのようなチャンスはあまりありません。やはり江ノ島から富士山を見たいのであれば、この季節が一番です。

鎌倉学園前方面から見た江ノ島。稲村ケ崎の向こう、白いに富士山がうっすらと見えている。

海の透明度も高く、とてもきれいです。人がうじゃうじゃ入っていない分、きれいなのでしょうし、海水中のプランクトンのような微生物の数も少ないからかも知れません。運が良ければ魚が海面からジャンプして飛び出す様子を見ることもできます。大変に素敵です。

後嵯峨天皇のレガシー

高倉天皇の息子で、安徳天皇の異母弟にあたる守貞親王は、幼少期に平家とともに都落ちし、壇ノ浦の戦いで救出されて京都に還るという壮絶な運命を経験した人ですが、勝者の鎌倉幕府の目線からすれば旧敵の人間関係に属すると見られており、皇位継承者としては見られてはいませんでした。本来であれば守貞親王が皇位継承をしない以上、守貞親王の子孫が皇位を継承する可能性は非常に低く、悪い言い方をすれば血統のスペアのような存在であったと見ることができるかも知れません。

ところが、同じく高倉天皇の息子で安徳天皇の異母弟にあたる後鳥羽上皇が承久の乱で失脚し、後鳥羽上皇の系統が鎌倉幕府によって朝廷から一掃され、守貞親王の息子の後堀川天皇が即位。天皇経験していない守貞親王が院政を行うという異例の状態に入ります。その後後堀川天皇は早々に退位して四条天皇が即位し、後堀川天皇の院政の時代になるはずでしたが、後堀川天皇は病没し、四条天皇は不測の事故で亡くなります。

鎌倉幕府は後鳥羽上皇の系統の人々を朝廷から一掃する方針だったはずですが、四条天皇を最後に「非後鳥羽」系の相応しい人物がいなくなってしまい、後鳥羽天皇の孫にあたる後嵯峨天皇の即位を見ることになります。

後嵯峨天皇の立場からすれば、自分が天皇になることは決してないと思っていたでしょうから、運命の激しい変転に驚いたことでしょう。守貞親王も源平の政変に翻弄された人だということや、遡れば天武天皇の子孫が孝謙上皇の時代に全滅に近い状態になってしまい、藤原氏の画策も手伝って天智系に皇統が帰って行ったということを思うと、たとえ天皇家であってもやはり運命に翻弄されるものなのだと考え込んでしまいます。

その後嵯峨天皇ですが、長子の宗尊親王は鎌倉幕府の要請で宮将軍として鎌倉に下ることになります。その次の息子が後深草天皇に即位し、後嵯峨上皇の意向で、その次息子が亀山天皇に即位します。天皇家でも摂関家でも将軍家でもそうですが、親子相続はわりと穏便に収まるものの、兄弟相続になると、どちらの子孫が正当かということで紛糾の火種になることが少なくありません。天智天皇と天武天皇の子孫がおそらく最も有名な例だとは思いますが、そういうことを知りつつも兄弟相続をさせた後嵯峨天皇の意向にはその真意を測りかねるところがどうしても残ります。単に下の息子の方がかわいかったというだけかも知れません。ただ、当時は血の論理に基づいてすべてが順位付けされますので、そこを乗り越えてまでというのは余程のことのようにも思えます。後深草天皇の子孫が持明院統、亀山天皇の子孫が大覚寺統と二つに分かれてやがて南北朝時代につながっていきますので、後嵯峨天皇のレガシーは後世に相当なダメージを与えたと言うこともできそうです。

後嵯峨天皇の息子たちは一人が将軍、二人が天皇ですので、それだけ聞けば実に豪華なのですが、何となく光源氏の息子たちを連想させるものがあり、考え過ぎかも知れませんが、白河上皇、鳥羽上皇、崇徳上皇の間に起きた悲劇性をも想像させます。

北条氏の調停により、両統が交互に天皇に即位することになり、持明院統の順番が来れば持明院統から推薦された人物を、大覚寺統の順番が来れば大覚寺統から推薦された人物を北条氏が天皇に選ぶという形になっていきますが、持明院統がわりと団結していたのに対して、大覚寺統は複数人推薦して来るなど、ちょっと浮ついたところがあったようです。極めて異色と言われる後醍醐天皇は大覚寺統ですが、そういうある種の落ち着きのない空気の中で育ったからこそ、良くも悪くも破天荒、独特、特殊、掟破りな人物に成長したのかも知れません。

北条氏は天皇の人選ができるというところまで権力を伸長させることができましたが、結果として後醍醐天皇を生み出し、鎌倉幕府の滅亡を招来することになりますので、様々なことはまことに糾える縄の如しです。





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鎌倉防衛戦

1324年、後醍醐天皇が日野資朝などの側近とともに謀議した鎌倉幕府打倒計画が露見し、六波羅探題によって処分が下された正中の変は、鎌倉幕府とその実質的オーナーの北条氏の力が天皇をも超越ほどの強大さを持つことを示す事件でしたが、同時に北条氏の滅亡へ至る道筋への入り口になったとも言えるかも知れません。

北条氏は源氏を滅亡させた後、ライバルになる大型の御家人を順番に潰していき、所領を増やし、日本で最も強大な「家」に発展していましたが、却って鎌倉幕府を北条氏だけで支えなくてはならなくなるというジレンマに陥っていたのかも知れません。

後醍醐天皇が流刑先から脱出して挙兵し、北条氏の差配で足利尊氏が関東から派遣されたものの、足利尊氏は一転して後醍醐天皇の味方につき、続いて新田義貞が関東で挙兵します。足利尊氏の反転までは北条氏の存続が危うくなるということはおそらく誰も想像していなかった、想定外のことだったと思いますが、足利尊氏が反旗を翻してから鎌倉幕府の滅亡まで僅か三週間。騒々しく、慌ただしい、あっという間のできごとです。

鎌倉は三方が山に囲まれ一方が海という天然の要害で守りやすく、防衛に適していますが、新田義貞が鮮やかに攻略できた背景の要因には、やはり北条氏を支える人材が枯渇していたということがあるかも知れません。有力御家人を潰し続ける以上、足利新田にとっても明日は我が身と思わざるを得ず、足利新田が源氏系だったのに対し、北条が平氏系ということもあって、ちょっとした切っ掛けさえあれば崩れてしまう、危ういバランスの上に北条氏は立っていたのかも知れません。

尤も、足利尊氏が鎌倉幕府の戦力の中心だったと考えれば、そこが裏切るのはやはり厳しいことで、ナウシカがクシャナの味方をして風の谷に襲い掛かったり、『カリオストロの城』でルパン三世が伯爵に抱き込まれてクラリスを連れ戻すみたいな展開ですから、北条氏に対して気の毒だという印象も抱いてしまいます。

鎌倉に入るには切通しを通らなくてはいけませんが、巨福呂坂、極楽寺坂、化粧坂の3つの切通しから新田義貞軍が鎌倉侵入を試みます。狭い道路を通過するにはどれほどの大軍であっても細長くならざるを得ず、守る側は通せんぼの部隊を設置して、後は上から矢を射かけたり、石を落したりすることが可能なため、突破するのは容易ではありません。新田義貞軍はこれらの切通しからの侵入を諦め、稲村ケ崎を伝って海側からの侵入を試みることになります。

新田義貞が海に剣を投げ入れれば潮が引き、稲村ケ崎の周辺が干潟になって、そこから新田義貞軍が鎌倉市街へと侵入したとされていますが、稲村ケ崎は干潮時は確かに干潟ができて、潮干狩りもできるため、その干潮時を狙うということは十分に考えられることだと思います。ただ、果たして馬が干潟を勢いよく走っていけるものかどうか、ずぶずぶと足をとられてしまって身動きできなくなってしまう可能性はないのかという疑問が残らないわけでもありません。暴れん坊将軍が海辺で馬を走らせている様子はテレビで見たことがありますから、或いは砂は乾きが速く、干潮時は馬でも難なく通れたのかも知れません。乗馬の経験があれば分かるかも知れないのですが、そういう経験がないのでそこは憶測するしかありません。結果として新田義貞軍が実際に鎌倉に入ったことは事実ですので、馬でも通れると考えるべきかも知れません。

江ノ島界隈
稲村ケ崎を藤沢側から見た写真

鎌倉市街戦が始まり、新田義貞軍が火をつけて回り、北条氏一門は東勝寺に集まって集団で自決したとされています。自決の場所は鶴岡八幡宮から近い山がちな場所ですが、慰霊の目的以外では入ってはいけないとの看板が出されており、とても興味半分で入っていけるような雰囲気のところではありません。私も看板の前まで行きましたが、そこから先には進む気になれず引き返しました。市街戦になると守る側はどうしても弱くなります。攻める側は完全武装で失うものは最大でも自分の命だけですが、守る側は家族の生命と財産も守らなくてはいけないので、後先考えずに命知らずに戦うということだけではすみません。そのため、防衛線を突破されれば観念するしかないものなのかも知れません。ベルリン攻防戦ではソ連軍が侵入した後もブランデンブルク門と総統官邸を中心とするエリアが死守され、その間の市民の犠牲は振り返られなかったわけですが、そういうことの方がむしろ異常というか、通常の観念から逸脱しており、市街戦になれば速やかな事態の収拾を双方が図るという姿勢が求められるべきとも思えます。パリ解放の際、ドイツ軍司令官のコルティッツがヒトラーの命令を無視して穏やかにパリ市を連合軍に引き渡しますが、高く評価されるべき好ましい姿勢のように思います。

鎌倉陥落はほんの数日でのできごとですから、北条氏の人たちも何が起きているのかよく分からない、何が何だかわからないうちに自決に至った、実感を伴わないうちに命を落とすことになったという場合が多かったのではないかと思います。私だったら頭では分かっていても心が追い付いていかないのではないかと思えます。鎌倉武士は禅を好んだと言いますが、座禅を組むことにより死生観を養い、いつでもそういう時のための心の準備をしていたのではないかとも思います。ただ、若い人には難しいのではないかなあとも思い、やはり気の毒という言葉が浮かんできます。

鎌倉はその後、足利尊氏が政務を執る場所として使ったことはありますが、基本的には歴史の表舞台から姿を消していきます。水戸光圀が鎌倉を訪問したことがあるようですが、明治以降、風光明媚な湘南の保養地として知られるようになり、今日のような観光地になります。

藤沢鎌倉辺りは風通しがよく、春夏秋冬を通じて気分良く過ごせるいいところだと私は個人的にとても好きな場所です。

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元寇の「勝因」

元寇の「勝因」

元の皇帝クビライからの国交の申し出は事実上の降伏勧告であると判断した鎌倉幕府の執権の北条時宗は、元から送られてきた中国人の使節を斬首までして頑なにクビライからの申し出に応じようとはしませんでした。

国交を求める使節は何度となく送られてきたわけですが、国書の内容は戦争か和平かを迫る内容であったと受け取ることができ、元サイドの日本を脅迫する姿勢はある程度明白なものだったと考えて良いように思います。それでいてすぐに船団を出さずに使節を送り続けたのは、「どのみち日本は海の向こうで遠すぎる。征服するのは骨が折れるので先方が脅迫にびびって朝貢してくれるようになったら都合がいいのだが」という心理が働いていたのではないかと私は推量しています。

元寇は二度ありましたが、どちらも大がかりなもので、一度目の場合は水夫も含めて約40000人と伝えられており、クビライはかなり本気だったことが想像できます。一方で、現場がどれだけ本気だったかは怪しいのではないかとも思えます。対馬、壱岐では惨劇の限りが尽くされたと伝えられているものの、博多に上陸した後は一夜で引き返しています。日本側の記録では元軍の勢いは凄まじく、一部では元軍を敗走させることができたものの、全体としては機動的な元軍を防止することができず、撤退戦を余儀なくされています。ところが元軍の方では左副都元帥の劉復亨が負傷したこともあり、日本軍の抵抗が想像していた以上に激しい判断して引き返したと推量することができます。合戦だけであれば一人でも生き残って敵の最後の一兵を倒した側の勝ち、または敵の大将の首を取った側の勝ち、ということで収まるかも知れないのですが、敵地に入って敵を打ち破り占領するというのはよほどの圧倒的な戦力差が必要になり、元サイドとしては先が思いやられ、断念して引き返したのではないかと思います。敵地いで戦争する場合、上陸戦が最も困難で、元寇の初回で激戦の末とはいえ博多湾上陸に成功した以上、それを棄てて引き返すというのは、戦意が必ずしも高くなかったと考えるのが通常ではないかと思いますので、現場のやる気は必ずしも高くなく、それが結果として撃退できたことの要因ではないかと思います。

二度目の場合、元軍は高麗の兵と中国の兵を合わせて総勢14‐15万での日本征服を企図します。二倍以上の兵力を準備したのは、今度こそ恒久的な占領を狙うという意図があったと考えるのが自然です。しかし、高麗から出発した船団がわりと順調に出発したのに対して、旧南宋から出発した中国の船団は待ち合わせの期日になっても姿を現さず、高麗ルートの軍が孤軍奮闘することになります。ただし、前回とは違い博多湾には防塁が築かれていたため、思うように浸透することがません。高麗ルートの将兵の心境としては自分たちが苦労して平定した後に南方ルートから来た軍が楽々と上陸するのは不公平ではないかとの思いが去来したのではないかと私は推量します。

南方ルート軍は約束していた合流地点へは向かわず、防禦が薄い平戸に上陸して半分陸上、半分船上の陣地を構築します。高麗ルート軍と合流して大宰府を攻めるという作戦で、これが実現していれば博多湾の防塁は全く意味がありませんので、或いは元軍はいい線まで行っていたかも知れません。一方で日本軍は当初の戦闘は九州の武士に任せていたものの急遽新たな軍事力を編成し九州へと向かわせていますので、場合によっては両軍主力による決戦が行われたかも知れません。結果としてどっちが勝ったかはなんとも言えませんが、そのような決戦が行われる前に暴風雨により元軍はほぼ壊滅。司令官は現場を離脱し、陸上に残された兵隊たちは惨殺されるか捕虜にされるかという結末を迎えます。

このように見ていくと、元寇の戦いは「敵失」によって勝利できた、或いは撃退できたということができそうです。一度目は現場の戦闘意欲の低さによりことなきを得、二度目は暴風雨という自然現象に助けられています。更に言えば、南方ルートの船団の出発が遅れたことにより、南方ルート軍と高麗ルート軍の合流が遅れ、決戦になる前に暴風雨が来たとも言えますので、相手のスケジュール管理の甘さに助けられたと考えることもできなくはありません。

滅びるモノはまず内側から腐っていくというのは歴史の鉄則ではないかと私は思っていますが、元寇に関して言えば、幕府側の防戦意欲が高く、防塁を建設するなどして有効に敵の足止めに成功したということと、相手のいろいろな意味での計画の甘さの双方に勝因を求めることができ、多くの教訓を得ることができるのではないかと思います。

その辺り、太平洋戦争では真逆ですので、そういうことも含めて自分が日々を生きる教訓にできるのではないかとも思います。

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源平の戦いをざっくりがっつり語る
源氏滅亡の諸行無常

北条氏の権力掌握の凄まじい道のり

鎌倉幕府では、当初こそ源氏直系がその最高権力者として認められていましたが、北条氏が相当に高い覚悟と明白な意思を用いて源氏直系を途絶えさせ、その後の将軍は藤原氏の人物を迎えた摂家将軍を置いて傀儡化しますが、摂家将軍の藤原頼経が自ら政治を担当する意思を持ち始めると追放します。また、その次の将軍は皇族の人物を迎えていわゆる宮将軍を擁立しますが、宗尊親王は追放、その次の惟康親王も追放、その次の久明親王も追放しています。最後の宮将軍である守邦親王は鎌倉幕府滅亡の時に行方不明で、多分道連れの運命を辿ったのではないかと想像できます。

以上の流れだけでも、北条氏に担がれると人生がダメになるというか、権力ゲームに弄ばれて失意の晩年を送るか早世するという運命が待っており、北条氏の苛烈さというか「将軍は使うモノ」という信念のようなもの感じられます。

北条氏の立場は難しいもので、源氏の血統ではないので他の御家人たちに命令する立場ではなく、平家の系統になるのでどちらかと言えばお家的には人心掌握に必ずしも適切ではものではありませんでした。そのため、上に源氏なり藤原氏なり宮様なりを置いてその威光を借りつつ他の御家人たちを潰していくという壮絶な手法を取って行きます。

例えば梶原景時は鎌倉で総すかん状態になって「これはもう鎌倉では暮らしていけない。京都へでも行って新しくやり直そう」という状態に追い込まれ、上洛中に一族ことごとく討ち取られるという結末を迎えています。

比企能員の場合は会合に呼び出されたところを殺害され、一族も討たれるという大変に悲劇的な展開になります。梶原景時と比企能員は源頼家の側近であり、梶原・比企両者の滅亡は頼家を裸の王様にする効果があったわけですが、要するに源頼家と北条氏との間に相当に深い確執があり、頼家の母親の北条政子が実家を優先して工作を進めたことで、頼家一派の勢力が一掃されたと見ることができます。大変に残酷で、北条政子の心情を推量することは私にはとても難しいことのように思えます。

北条氏は平氏追討で功績のあった和田義盛も追い詰め、和田合戦で和田氏を滅亡させています。和田合戦は敵味方が入り乱れる相当な乱戦になったようで、一歩間違えば北条氏が敗れていた可能性もありますが、北条氏に味方する大江広元が三代目将軍の実朝のドクトリンを公にすることで武士たちが一斉に北条方に味方し、和田一族は最期を迎えました。その後、更にダメ押しで頼家の息子の公暁が実朝を暗殺し、公暁は三浦善村によって殺害され、源氏の滅亡へと至るわけですが、他にも畠山重忠の乱、牧氏事件と目白押しで、文字通り血塗られた権力掌握の歴史と言えます。誰がいつ敵に回るか分からない、誰と誰が裏で結びついているか分からない複雑怪奇な陰謀の世界で、なまなかな考えで近づける世界ではなさそうです。公暁を殺害し、いわば北条氏のために手柄を立てたとも言える三浦氏ですが、この三浦氏も宝治合戦で滅亡しています。

このように見ると、鎌倉幕府は150年近い歴史があるものの、初期においては北条氏が相当に無理に無理を重ねて勢力を広げていったことが分かります。八代執権の北条時宗の時の元寇を経験してからは、内輪もめしている場合ではないという意識が持たれたのか北条得宗家が普通の状態になり、外戚の安達氏も北条氏を支えて行きます。ただし、終盤になると北条氏の家人である長崎氏が力を持つようになり、順序で言えば一般の御家人よりも格下の家の人物が意思決定をするという、当時の価値観から言えば歪な構造が生まれ、やがて滅亡へと至ります。鎌倉は個人的には風光明媚な好きな場所なのですが、飛鳥・奈良時代並みの激しい陰謀と抗争があり、その滅亡の様も後に戦国時代がやってくることを予告するかのような壮絶な歴史が展開された場所と言えます。

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頼朝が義経を排除した理由を考える

源氏滅亡の諸行無常

壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した後、源頼朝は弟の義経を追放し、奥州藤原氏を滅亡させ、更には京都に行って後白河法皇とも話をつけて万事順調に行ったように見えます。一連の戦火で燃えてしまった東大寺大仏の再建は頼朝天下取り事業の最後の総仕上げといった感があります。

しかしながら、それからほどなく頼朝は亡くなってしまいます。吾妻鏡での書かれ方が曖昧でよく分からないことが多く、落馬して川に落ちて溺死したとも、糖尿病だったとも言われます。また、北条氏陰謀論みたいな話も囁かれますが、無理からぬことと思います。

頼朝は血筋こそ素晴らしいもので、源氏の棟梁でなければ征夷大将軍になれないという慣例を築き上げることができましたが、現実的には北条氏の力に頼らざるを得ず、北条氏という実態の上に頼朝というお神輿が乗っかっていたということもできるように思います。北条氏がいなければ何もできないのです。「神輿は軽くて〇ーがいいby小沢一郎」の法則に従い、北条氏は源氏直系を次々と暗殺していきます。あまりに無惨なのでドラマとかにはかえってなりにくいように思えます。

二代目将軍の頼家は修善寺に幽閉され、高い確率で北条氏によって暗殺されています。その弟の実朝は頼家の息子の公暁によって殺され、公暁は北条氏に捕まって殺されるという、暗殺の連鎖が起きてしまっており、そのような事態の流れをコントロールしていたのが北条氏と言われています。繰り返しますが、無理からぬことです。北条氏にはやろうと思えば実行できるだけのパワーがあり、かつ、その後、北条氏の時代が続いたわけですから、後世、そのように考えられたとしても全く不思議ではないように思えます。

さて、北条氏には頼朝の妻の北条政子がいます。息子の頼家は修善寺に幽閉されている時、政子に「寂しすぎるので友達を修善寺に送ってほしい」と頼む手紙を送っていますが、政子それを無視し、代わりに刺客を送ったということになるわけですが、自分の本当の息子に対してそんなことができるのだろうかという疑問がどうしても湧いてきます。母が実家の権力のために実の息子を殺す(北条氏の他の人がそれをやったとしても、少なくとも政子はそれを黙認した)ということが本当にあり得るのだろうか。もし本当だったとすれがそれはさすがに恐ろしすぎるために、歴史が語られる場所では敢えてあまり触れられていないように見えます。

二代目将軍は放蕩が過ぎたとされていますが、はっきり言えば、放蕩くらいどうということはありません。放蕩程度なら、酒と女と遊び仲間を与えておけばいいので「軽い神輿」としていなしていくことができるはずです。梶原景時が死んで守ってくれる人がいなくなったのが彼の死の原因の一つという話もあります。

本来平氏系である北条氏が、源頼朝にベットしてその賭けに勝ったわけですが、より確実なものにするために源氏の直系を根絶やしにしたとすれば、どこかで北条政子も腹を括ったということになりますが、その辺り、全然証拠が残っていないので、推量することも不可能で、小説のように考えることしかできません。

奢れる平家は久しからずの諸行無常とはよく言われますが、源氏の歴史もまた諸行無常で、大変に暗澹たるものです。平家と源氏のご本家は滅亡したにも関わらず、源氏平家政権交代説があるように、その後も武士の時代は源氏系と平氏系の武士(含む、自称)が入れ代わり立ち代わり政権を奪い合い、「源」姓と「平」姓が使われ続けて行ったこともまた興味深いことだと思えます。



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平家を滅ぼした後、義経は鎌倉に凱旋する予定でしたが、周知のように鎌倉の手前の腰越で足止めされ、追放され、最終的には自害に追い込まれてしまいます。

司馬遼太郎さんは『義経』で「義経は軍事の天才だが政治的な白痴で、頼朝の武士政権を作るという意図を理解できずに後白河上皇から検非違使の位をもらったのが原因だ」という主旨のことを述べています。

ただ、私にはちょっと首肯し得ないように感じられます。軍事は政治の延長線上にあるものですし、義経は背後から敵に襲い掛かるという計略で勝利していますし、捕虜には嘘をついて味方に引き入れています。義経が大変に政治的な人物であったことを推量できます。

また、頼朝と義経では政見に違いがあったからだという意見もあります。これは頼朝が武家政権を目指していたのに対して京都で育った義経は平家と同様に朝廷内での出世を目指したという方向性の違いから義経は追放されたというもので、それは確かにおもしろい考え方だと思いますが、私は仮に義経が頼朝の政見に同意して従っていたとしても、やっぱり殺されていたのではないかという気がしてしまいます。

というのも、飛鳥時代奈良時代の天皇家の歴史を見ると、兄弟類縁の殺し合いが絶えません。やはり、家系を自分の息子に継がせるというのがかつては「一大事」であり、頼朝は義経が最初に鎌倉に現れた段階から「いずれ殺すしかない」と考えていたのではないかと思えます。オスマントルコでは兄弟の誰かが皇帝になると、他の兄弟たちはその日に殺されるというのと同じ発想法があったのではないかというように思えるのです。

頼朝が義経に馬を引かせたという話が残っていますが、義経が平家を滅ぼす前の段階でこうなのですから、「源氏の棟梁は誰か」についてははっきりさせておかなくてはいけない、義経が手柄を立てたのなら、義経待望論が起きる前に殺しておかなくてはいけないと頼朝は考えていたのではないかなあと私は思います。

義経ニセモノ説もありますが、私はこちらには否定的です。鞍馬山を脱走した義経は奥州藤原氏に養ってもらい、その後、鎌倉で頼朝と対面し、平家追討→追放→放浪→奥州藤原氏に再び頼るという経路を見ると、奥州藤原氏では義経を本物認定していたと受け取ることができますので、それは違うのではないかなあと思います。

もっとも、最初に奥州藤原氏を訪ねて来たのがそもそもニセモノだったという可能性は残りますが、その段階では平家全盛の時代で、源氏の庶子だと偽って登場するのはあまりうまみがありそうにも思えません。ガンダムオリジンではシャアアズナブルとキャスバルダイクンが入れ替わりますが、それと同じくらい普通ではないことのように思えます。義経がジンギスカンになったというのと同じくらい荒唐無稽に思えます。まあ、こういうことは21世紀の今となってはどうでもいいと言えばどうでもいいことで、ああでもないこうでもないと考えるのが楽しいわけですが。



義経の首は本物か?ニセモノか?

源義経が平家追討を終えた後、頼朝から追放されて各地をさ迷い、最後は奥州藤原氏に裏切られて非業の最期を遂げたということはよく知られています。一般的には義経が後白河上皇から検非違使に任命され、義経が能天気にもそのまま受けてしまったということが武士政権を確立しようとしていた頼朝の逆鱗に触れたとよく説明されます。そのこと事態は私は特に異議はありません。主要な要因だったと思います。

頼朝が伊豆の流刑地で育ったのに対し、義経は京都のお寺で育ちます。価値観が違って当然です。検非違使のような役職のありがたみを噛みしめることができるのも義経の生育環境があったればこそ、だったのかも知れません。しかしながら、義経はそもそもニセモノだったのではないかという人もいます。

頼朝は挙兵後に石橋山で敗れて真鶴から船で千葉へ敗走。その後、鎌倉へとやってきます。京都との位置関係で言えば巻き返しに入っていたと言えます。その時に現れたのが義経で、本人は義経だと言い張るものの、証拠がありません。頼朝が「こいつ、ニセモノじゃねえの?」と疑ってもおかしくないというのです。

義経は最後に奥州藤原氏を頼って東北地方へと行きますが、奥州藤原氏に受け入れてもらうためには過去にステイしていた事実が合っていなければならず、そういう意味ではホンモノだったのではないかなあと思います。義経に関する謎のようなものとしては、義経生存説、東北から北海道へ、更に満州に渡へいってジンギスカンになったというど派手なものがありますが、これは水戸光圀が唱え始めたものらしく、新井白石もアイヌの伝説上の人物が実は義経だったのではないか、のような考えを持っていたようです。江戸時代は平和な時代ですから、そういうことをあれやこれやと考えて楽しむことが流行していたのだろうと思います。

さて、問題は鎌倉に届けられた義経の首がホンモノだったのか、ニセモノだったのかということになります。義経が北海道まで逃げたのなら、首はニセモノでなければいけません。もちろん今となっては証明不可能な話です。義経の首が奥州から鎌倉まで届くのに40日。馬で運んだにしては時間がかかりすぎるので、これは故意に腐敗させ、判別不能にしてから鎌倉に届けさせたというのが水戸光圀の推量です。

和田義盛は義経の首を見て義経を哀れに思い涙を流したという話があります。和田義盛は義経のことが嫌いで、戦地から頼朝に義経の悪口を書き連ねた手紙を送った人です。一緒に戦場に出て戦っていたのにそこまで嫌いということは、和田義盛は義経のことをよく知っている人です。一挙一動にも腹が立って、逐一それを記憶にとどめている人です。普通なら見落とすようなちょっとした特徴まで掴んでいる人です。そのような人がニセモノとホンモノの首の違いに気づかないということがあるでしょうか?「思い込みだよ~」と考えることも不可能ではないですが、思い込みを防止して確認するための首実検です。もしかしてニセモノかな?と思いながら見るのが首実検をする理由です。

そう思うと、和田義盛がホンモノ認定したのだから、ホンモノだったのではないかと私は思います。義経は戦術家だったのだから、もしかして?と思いたくなる気持ちは私にもありますが、平家との戦争の勝ち方は基本、背後からの攻撃ですので正攻法でやったら或いはそこまで優秀ではなかったかも知れません。想像です。

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