鎌倉幕府と北条氏の滅亡-レクイエム

北条氏が滅亡する要因の一つとして、天皇人事への影響力の発揮というものがありました。今回はそこから始めてみたいと思います。後嵯峨天皇が上皇になった後、二人の息子に相次いで皇位を継がせたことが全ての始まりでした。二人の息子の子孫たちがそれぞれに自分たちこそが正統な皇位継承の血筋であるとして譲らず、天皇家は二つに分裂することになってしまったのです。片方は大覚寺統と言い、もう片方は持明院統と言います。双方譲らないものですから、鎌倉幕府の執権である北条氏による裁定が求められ、北条氏は二つの系統が交互に皇位を継承してはどうかとする折衷案のようなものを提示し、双方はそれを受け入れました。天皇が交代する時には天皇候補が鎌倉に打診され、北条氏によって指名されるという新しい仕組みも同時に生まれました。即ち、天皇家は自分たちの分裂状態を解消するためには、自分たちで話を収めるだけでは足りず、北条氏を黙らせなければならないというハードルが更に上がった状態になってしまったのです。

北条氏としては遂に次の天皇を指名するところまで力をつけてきたわけですから、得意の絶頂だったかも知れません。しかし、このような天皇指名制度は北条氏支配の終わりの始まりでした。後醍醐天皇という天才なのか超愚直なのか、よく分からない、でも、とにかく強烈な個性を放つ人物が登場し、彼は自分の子孫が正統な天皇家の継承者であることをはっきりさせる必要を感じ、そのためには鎌倉幕府と北条氏を滅ぼさなければならないと考えるに至ります。後醍醐天皇の打倒北条氏の計画はその都度鎌倉にバレバレになり、後醍醐天皇は謝罪させられたり島流しにされたりします。それでもその都度彼は戦いのリングにカムバックし、後醍醐天皇に従う武士も現れて、北条氏を安心させることがありませんでした。

北条氏は当時、よほど経済的にも余裕があったのでしょう、後醍醐天皇と彼を支える楠木正成を打倒するために大軍を鎌倉から近畿地方に送り込んでいます。しかし、戦況は思うように進まず、少数精鋭で守る楠木正成の城も簡単に陥落させることができません。図体ばかり大きく、戦いに勝てない姿はまるで徳川幕府の末期にも通じている旧権力滅亡のよくあるパターンのようにも思えますが、北条氏の軍隊はそこまで怖いわけではないということに人々は次第に気づくようになりました。

北条氏の新手の軍隊を率いた男が足利尊氏で、彼は源氏の本家が滅亡した後は、源氏系統の武士の中で最も権威のある血筋の男でした。鎌倉の御家人ではありましたが、当然、御家人としてもトップクラスです。そして彼は鎌倉を出撃した時、既に北条氏を裏切る覚悟を決めていたと言われています。尊氏は近畿地方で後醍醐天皇に接触し、早々に後醍醐天皇への帰順の意思を示し、新しい時代を作る動きを見せました。北条氏としては肝をつぶしたに違いありません。遠征軍の最高司令官が裏切ったのです。太平洋戦争で言えば、山本五十六がアメリカ軍に協力して連合艦隊を沖縄やフィリピンに向けて出撃させるようなものです。果たして何が起きているのか、あまりのできごとによく呑み込むことができず、鎌倉では混乱が生じたに違いありません。

鎌倉を実際に攻略し、北条氏を滅亡に追い込んだのは新田義貞でした。彼は後に足利尊氏に滅ぼされますが、この時は地理的距離は離れていても志は同じだったというわけです。新田義貞は自らの拠点である北関東を南の鎌倉へ向けて出発し、要所要所で待ち受ける北条軍を撃破していきます。北条軍はそれまでライバルの御家人たちを圧倒的な強さで滅ぼしてきましたから相当に強かったはずですけれど、その北条軍を撃破し続けたわけですから、新田義貞の軍は相当に強かったんでしょうね。彼の軍勢はやがて鎌倉に到着し、鎌倉市内への進撃を試みます。

しかしながら、鎌倉は守るには非常に便利にできている難攻不落の土地です。三方が山に囲まれて残りの一方は海に面しており、陸路鎌倉に入るには山を越えるしかありません。あまりにも交通が不便なので、平時に於いても鎌倉を往来する人・物・金は切通と呼ばれる山をくりぬいた道路を通らなくてはなりませんでした。新田義貞も切通を通り抜けようとしましたが、ここは北条側が地の利を生かし、簡単に通らせてはくれません。それどころか激しい反撃に遭い、新田軍は陸路鎌倉に入るのを断念せざるを得ませんでした。彼はやむを得ず鎌倉を迂回して湘南海岸の稲村ケ崎に迫り、そこからどうやって鎌倉に入ることができるかを思案します。彼が海に剣を沈めて祈願したところ、海の潮がさーっとひいてゆき、稲村ケ崎の周辺に広大な干潟ができたため、軍勢がそこを通って鎌倉市内に侵入したことになってはいます。旧約聖書で海が割れてモーセがユダヤ人を率いてエジプトを脱出したのを連想させる話になってるんですよね。ですが、海に祈ったら潮が引くなんてことがあるわけないですから、実際には何をどうしたのか、どんな工夫が行われたのかは謎のままです。確かに稲村ケ崎で潮干狩りができる程度に潮が引くことはありますし、相模湾は遠浅ですから、そりゃ全くあり得ない話ではないかも知れませんけど、関東大震災クラスの地震があって、津波が来るというその直前とかでないと、軍隊が通れるほどの干潟ができるとはちょっと考えられません。しかしながら、何をぐだぐだ言おうとも、新田義貞は率いる武士たちとともに鎌倉市内に入り、火をつけて回ったのです。市内が燃えていることを知った、北条氏得宗の北条高時は一門と家臣を連れて東勝寺へと移動しました。得宗とは北条氏の家督を継いでいる人のことで、北条氏の家長ということです。当時の家長が北条高時だったというわけですね。彼は鎌倉の小町というエリアに邸宅を構えていたとのことですから、今で言えばJR鎌倉駅を降りて小町通の商店街のあたりという感じでしょうか。東勝寺は小町通から見て鶴岡八幡宮を越えた反対側にありますから、何を思って鶴岡八幡宮を通り過ぎて行ったのでしょうか。彼らの最期は非常に痛ましい、そして恐ろしいもので、鎮魂の意思を持たずして語ることはとてもできません。北条氏一門が東勝寺に移動した後も北条氏の家臣の決死の突撃は行われましたが、新田義貞軍は退却しませんでした。北条氏の家臣もここに来て、相当に勇敢に戦ったに違いありませんが、命運が尽きてしまったのかも知れません。網野義彦先生は、北条氏が滅亡した時、彼らと運命をともにする家臣はいても、鎌倉御家人クラスの武士たちはほとんどいなかったことに着目しています。北条氏がライバルの御家人たちを滅ぼしていった結果、気づくと守ってくれる仲間がいなくなっていたということなのでしょうか。頼朝が弟たちを殺した結果、自分ひとりになってしまったと私は以前述べましたが、北条氏も同じ状態に最終的には陥ってしまっていたのかも知れません。

最期の突撃をしたのは北条氏家臣の中で最もランクの高い長崎氏だとのことですが、北条氏一門は長崎氏の突撃による戦況の変化に期待できるかどうかを見極めようとし、いよいよ希望がないということが分かると、一門と家臣たちが同時に自害するという凄惨な道を選びました。助かった人物がいないわけではないですが、事実上の全滅であり、その場で命を落とした人たちは700人以上に上るそうです。私は北条氏最期の土地を見定めたいと思い、東勝寺の方面へと歩いて行ったことがありますが、慰霊目的以外の立ち入りを禁止するとの看板を見て、自分にそこまでの真摯さがあるかどうか自信がありませんでしたから、引き返しました。今もそこは慰霊の地となっています。歴史について語ったり考えたりすることは死者について語ることにならざるを得ませんから、死者への敬意を忘れてはいけませんが、今回は特別凄惨なできごとについて述べましたので、私もいつもよりも更に深い死者への敬意を保ちつつ、今回は終わりたいと思います。



元の襲来と北条氏

これまでに鎌倉将軍のことを中心に何度か述べてきましたが、鎌倉時代について語る際、北条氏について述べないわけにはいきません。北条氏こそが鎌倉時代の主役であったと言うことができるでしょう。また、鎌倉時代で最も記憶されるできごとの一つとして元の襲来も外すことはできません。本来、北条氏と元はそれぞれ個別に歴史に登場してきたアクターでしたが、元が日本に襲来することで両者は密接に関係することになります。

まず北条氏の状況を確認してみましょう。元が襲来した時、若き執権北条時宗が日本の事実上の最高司令官でした。時宗は10代で鎌倉幕府のナンバー3の地位である連署というポジションに就き、経験を積みやがて執権になります。この経験を積む過程では、時宗の腹違いの兄である時輔が京都で窓際族みたいになっていたところを殺害されるという事件も起きています。これを2月騒動と呼びます。北条氏の人物でありながら冷遇されていた時輔が謀反に加担していたと見られていたために起きた事件なのですが、全くの誤解だったのではないかとの指摘もないわけではありません。時輔はその後も生き延びたとの説もあります。というのも、それよりしばらく後の時代になって、謀反人の時輔が吉野に逃げ延びているので討ち取れとする命令書が残っているらしいのです。その命令書が本物であるとすれば、時輔が本当に生き伸びたか鎌倉の北条氏が事実誤認していたかのどちらかになりますが、時輔生存説はぐっと高まることになります。

まあ、ちょっと時輔にばかりフォーカスしてしまっていますが、何を言いたいのかというと、北条時宗は無実の兄を死に至らしめるという後ろめたい経験を経て執権という最高司令官に就いているわけで、そういう意味では過酷な修羅道を歩まねばならなかったという同情すべき人生を彼は送ったのだという認識を述べたいわけです。なぜそんなことを述べるのかといおうと、時宗の時代に元の襲来で北条氏は求心力を極限まで高め、天皇人事にまで影響力を発揮するようになっていきますが、同時にこの時は北条氏支配の終わりの始まりにもなったと言うこともできるからです。元の襲来によって鎌倉時代の武士は非常に大きな負担を背負い込みましたが、北条氏はそれを充分に救済することができず、そのことが北条氏滅亡の遠因になったと言えますし、天皇人事への介入について言えば、後に後醍醐天皇がそれを理由に打倒鎌倉幕府で突き進みますから、考えてみる北条氏滅亡の直接の要因になったとも言えるわけです。北条氏は非常に過酷な、同情せざるを得ない、一族滅亡という運命を後に辿りますから、そのように思うと時宗による北条得宗家絶頂期は、滅亡のカウントダウンの始まりであって、後の歴史を知る私たちはなんとも言えない、胸の中にくさびを打ち込まれたかのような重苦しさを感じながら当時の歴史を辿ることになってしまわざるを得ないわけです。

そうはいっても、元の襲来は日本の勝ち戦でもあったわけで、そういうポジティブな面がないわけでもありません。元は一度目の日本遠征ではモンゴル兵と高麗兵の混成軍団を送り込んできたものの、日本の武士の徹底的な抵抗に遭い、日本占領を断念して引き返しています。このとき、神風が吹いたとする立場と、それを疑問視する立場に分かれるようですが、網野善彦先生は当時の日本の公家の日記に嵐に関する記載があったことを重視し、暴風雨はあったとの見解を示しています。同時代人の日記というのは説得力があるわけですね。しかも、これが元の遠征軍の人のものだと、立場的に暴風雨があったからやむを得ず帰還したんです。というような言い訳の材料になってしまっていて説得力があるのかどうか微妙ということになってしまいますけど、京都のお公家さんの日記であれば、九州で元軍と日本軍が戦ったことについて、かなり中立的なことが書けるでしょうから、内容はかなり信頼できると考えて良いわけですね。

運命の二度目の日本遠征では元はモンゴル兵+高麗兵+中国人兵士という総力を挙げた陣容で九州へと迫りました。元の大船団は長崎県の五島列島あたりから博多湾あたりまで続くという壮大なもので、海軍力では日本側は太刀打ちできませんでした。ただし、防塁を各地に設置していたため、元軍の上陸は相当程度に阻むことができたようです。また、上陸に成功した敵に対しては日本側は勇猛果敢な攻撃を繰り返すことができ、元にとっては相当に手ごわい相手だったようです。鎌倉武士の剣術の鍛錬はおそらく当時の世界最高レベルだったでしょうから、地上戦では本領発揮ができたようです。元軍はモンゴル兵、高麗兵、中国人兵の間の連携がうまくいっていなかったようで、要するにバラバラに挑んできたらしく、その分、日本側にとって有利な状況も生まれていたようです。

この時の戦いでは本物の暴風雨によって元の大艦隊は大打撃を受けたのですが、既に戦闘が2か月にも及んでいたため、そりゃそんなに長く海上にいたら時化に襲われるのは普通に想定できるというのが一般的な見方のようです。巨大な経済力で世界最大最強の大艦隊を作ったものの、その扱いについてはまだ慣れていなかったというのが不幸だったのかも知れません。この神風によって大打撃を受けた元軍の司令官たちは帰国し、末端の兵士たちが各所に残され、日本軍は彼らに対して容赦ない殺戮を行ったようです。マルコ・ポーロは『東方見聞録』で数万人の元軍の兵士が奴隷にされたと述べており、元朝の記録にもそのように書かれているようなのですが、私は日本側の記録に大量に生け捕ったという話が残っているのを知りません。知っている人がいたら教えてほしいくらいなのですが、想像ですが、残存兵はほとんど殺されたのではないでしょうか。もし数万人もの元の兵士が日本で生け捕りにされたのであれば、その子孫がいてしかるべしですが、そのような話は聞いたことがありません。平氏の落ち武者の子孫が村を形成して今日まで生き延びたという話もあるのですから、全くそういう話が残っていないというのも、徹底した殺戮があった証左でもあるように思え、怖くなってしまいます。

日本にとって元との戦いは中大兄皇子の時の白村江の戦い以来の対外戦争だったわけですが、白村江の戦いが日本の惨敗だったのに対し、天候が味方して神風が吹いたとはいえ、元との戦いでは日本が勝ったわけですから、まあ、一応は良かったと言っていいのかも知れません。戦場に散った個々の兵士たちには哀悼と敬意の感情を持ちたいと思います。それから、日本は神風が吹いて勝ったことになってますけど、決して神風だけで勝ったわけでもないということも確認しておくべきかも知れません。国中から集めた大量の武士を九州に配置し、防塁を建設したりして迎撃態勢を整えるのには全力を尽くされています。やはり、人事を尽くして天命を待つという姿勢は大切なことと思います。

この戦いでは日本は勝ったものの、得るものは何もありませんでした。そのため個々の武士たちが損害を受けたことに対し、鎌倉幕府は充分な救済をすることができませんでした。たとえば竹崎季長という武士は勇猛果敢に敵に対して突っ込んで行ったということで幕府から恩賞をもらおうとしますが、幕府側はたとえ勇猛果敢であっても目立った戦功を挙げていないということを理由に当初、竹崎への恩賞をしぶっていた形跡があります。しかし竹崎があまりに貧乏だったので担当者が同情して小さいながらも領土を与え、彼はほっとして帰って行ったそうです。竹崎は真っ先に敵に突っ込んで行ったということを戦功として主張したわけですが、これは当時、ムードメイキングとしては重要な役割を彼は果たしたとも言えますが、実際に敵の首を挙げていないという点を担当者が突いたと言うのは、まるで今日の外資系企業の勤務査定のやりとりのようで興味深いものがありますけれど、とはいえ、ムードメイカーに報いることに二の足を踏む程度に、武士に与えるものがなかったのは鎌倉幕府としては非常に厳しい状況にぶち当たっていたのだということを窺い知ることができます。

それから50年ほどして鎌倉幕府は滅亡し、北条氏は一門全員自害という壮絶な最期を迎えます。わずか50年ですから、元の襲来と北条氏滅亡の両方を経験しているような人も大勢いたのではないかと思います。この時、討幕で動いた後醍醐天皇を足利尊氏や新田義貞が支持したのも、北条氏による武士たちへの報いが不十分であったということが伏線になっているわけですから、本当に運命とは厳しいものです。過去の歴史を見ていくことは多くの失敗例に出会うことでもあります。このようなケースに触れる度に、自分の人生の教訓として活かしたいとよく思います。



源氏滅亡と鎌倉御家人の闘争

源頼朝が亡くなった後、息子の頼家が二代目を継ぎますが、そのあたりから北条氏は露骨に源氏外しに動きます。誰もが疑問に思うであろうことに、北条政子は自分の嫁ぎ先が滅亡することに加担しただけでなく、息子が殺されることにも協力的だったのだろうか?ということではないかと思います。私も長年疑問に思っていました。歴史上、自分の嫁ぎ先を憎んだ女性は大勢いると思いますし、黒澤明の『乱』という映画でも楓の方は嫁ぎ先を憎んで様々な策略を繰り出していきます。ですが、自分の子供を野望のために犠牲にするような母親がいたかと言えば、思い当たりません。思い当たるとすれば唯一、北条政子なわけです。北条氏が編纂した歴史書である『吾妻鑑』では、北条政子も北条氏の政権を正当化する役割を担っていますが、あれは勝利者が適当に自分たちにとって都合のいいように書いた歴史書なわけですから、あまり信用できるものではありません。あくまでも何が起きていたのかを知るための手がかりや参照にできる書物でしかないと言えるでしょう。そこでも北条政子はふすまの後ろで陰謀を盗み聞きしたりして、なかなかアクロバティックな活躍を見せていますが、じっくりと経過を見つめていくと、どうやら政子も騙されていたのではないかという気がしてきます。

源頼家は独裁的な人物であったために鎌倉御家人たちから問題視され、伊豆の修善寺に幽閉され、御家人たちの合議によって意思決定される、いわば寡頭制の政治が行われたことになってはいますが、頼家がめちゃめちゃ暴君だったと述べているのは吾妻鏡だけで、頼家の真実の姿というのはちっとも分かりません。で、おそらく、北条政子としては、政治権力は自分の実家である北条氏が握るとして、頼家には政治からは退場してもらい、修善寺に温泉に入ってゆっくり楽しく過ごしてもらおうという考えがあったのではないかと私には思えます。頼家が修善寺で殺されるとは全く想像していなかったのではないでしょうか。頼家が悪い人物であったとされるエピソードの一つに蹴鞠が大好きというのがあったみたいなのですが、蹴鞠くらいいくらでもやらせてあげればいいわけですから、母の政子としては修善寺で好きなだけ蹴鞠しなさい、かわいい息子よ。くらいの感じだったかも知れません。もうちょっと突っ込んで考えてみると、鎌倉で政治に首を突っ込んでいたら本当に殺されてしまうかも知れませんから、追放という不名誉な体裁ではあれ修善寺まで逃がしておけば命だけは助かるという計算もあったかも知れません。もちろん、頼家としては政治に関心があったでしょうし、修善寺のような遠いところに幽閉されるのは嫌だったでしょうから、政権復帰も目論んだかも知れませんが、頼家の殺害については、北条氏としては政子の同意を得る必要はないんですよね。政子の知らないところで動けばいいんですよ。じゃ、北条氏の中で誰がやったのかと言えば、まあ、間違いなく政子の父親の北条時政でしょうねえ。時政は後に息子の義時と娘の政子の連合勢力によって追放されていますが、北条時政はぎりぎりまで頼家の弟で三代目を継承した実朝の殺害を企んでいたと考えられており、かなり危ないやつだったようです。ですから、源氏滅亡の真相は政子の父親である北条時政が主導して行われ、政子が反発して時政を追放したという流れの中で起きたという風に考えてもいいと思います。

さて、とはいえ、三代目の実朝は生きてるじゃないか。なんでそれでも源氏は滅亡したの?という疑問は残ります。実朝を殺したのは頼家の息子なわけですが、その少年は実朝が政権を奪うために頼家を殺したのだと信じていたそうです。血縁的に言えば彼が源氏の四代目の棟梁になっていたはずですが、北条氏に捕らえられ、殺されています。これで源氏滅亡のミッションがコンプリートされたということになりますけれど、頼家の息子をたきつけたのが北条氏じゃないのかとの疑問も湧いては来ます。実朝が殺害されたのは鎌倉の鶴岡八幡宮の石の階段であると言われていますが、八幡宮への神事へ向かう前、御家人の一人の大江広元が涙を流して防御用の衣服を身に着けるように頼んだとされています。古代ローマの独裁者になったジュリアス・シーザーが殺害される日の朝、鶏をいけにえにした占いで非常に運勢が悪いことが示唆されたのに出発してやられてしまったという話がありますが、ちょっとそれを連想してしまうような、ドラマチックな一幕であったと言えます。この時、本来、実朝と一緒に出発する予定だった北条義時は直前で体調不良を訴え、事情を一切知らない別人がその代わりをつとめます。そして実朝と義時の代役の二人が殺害されました。この流れを見れば大江広元と北条義時はその日実朝が殺害されることを知っていたとの疑惑を拭うことはできません。北条義時にたきつけられた頼家の息子が実朝を殺し、その子も義時によって殺されたというわけです。大江広元も事情を知ってなんとか穏便に実朝を救いたいと思ったけれど、そういうわけにはいかなかったということに読み替えることが可能なわけです。

さて、このように露骨な源氏潰しを北条氏が行っていったわけですから、同時代に生きた鎌倉御家人たちが気づかないわけがありません。北条氏vs御家人たちの熾烈な戦いがあったことは、私が何もここで述べなくてもよく知られていることです。たとえば梶原景時という御家人は、義経が西国で平氏を追討していた時に、頼朝に命じられて監視役として従軍していたというような人物で、頼朝への厚い忠誠心を持っていましたが、他の御家人たちとの軋轢が強くなりすぎて鎌倉を立ち去らざるを得なくなり、北条氏の領地で一族もろとも殺害されています。想像力をたくましくするしかないですが、北条氏が他の御家人たちをたきつけて梶原景時を孤立させ、殺したと考えることはさほど不自然なことではないように私には思えます。他にも和田義盛が北条氏に盾突き、三浦氏と一緒に北条氏と戦う予定だったのが、直前で三浦氏が寝返り、孤立して和田氏滅亡に至るという和田合戦もありました。そして和田義盛を見捨てた三浦氏も後に北条氏によって滅ぼされています。

北条氏には必勝の方程式のようなものがあって、それは敵を団結させないこと、敵を分裂させ、一人だけ選んで孤立に向かわせて殲滅する。それを繰り返すというものであったのではないかと思います。気づくと北条氏に対抗できる御家人はいなくなっていました。将軍家も源氏が滅亡した後は、藤原氏からもらってきた公家将軍で、公家将軍があんまり言うことをきかなくなってきたら追放して、多分殺して、今度は皇族の宮将軍を傀儡として利用しています。

そのように知略で天下を獲った北条氏もその最期は非常に気の毒な、同情を禁じ得ないものでした。今も鎌倉には北条氏最期の土地が残されていますが、哀悼の意をもたずにはとても訪問できる場所ではありません。鎌倉時代の御家人でその後も生き延びた武家はたくさんあります。たとえば島津氏は鎌倉幕府の御家人であり、薩摩地方のいわば地方官として就任し、明治維新まで生き延び、今も島津さんと言えばそれはそれは立派なお家柄です。島津氏とまではいかなくとも、甲斐地方の武田氏も鎌倉時代に地方官として任命された家柄で、織田信長に滅ぼされるまで数百年にわたり甲斐源氏として生き延びたわけです。ですから、思うのですが天下を獲るというのは非常にリスキーなことかも知れません。天下を獲らずにわりとそこそこな武家であれば明治維新まで生き延びることができたかも知れないのに、北条氏の場合、天下を獲ったからこそ激烈で悲壮な最期を迎えなければならなかったわけです。その前の平氏もそうですね。蘇我氏だってその点では同じと言えます。天下を獲るのは浪漫があるとは思いますが、子孫が迷惑するかも知れませんね。