台湾近現代史6 鄭成功

鄭成功はオランダ勢力を台湾から排除した功績から、台湾では今でも神格化され、国民的な人気のある歴史的人物です。父は商人兼海賊の鄭芝龍で、母は平戸藩士の娘のマツという人です。鄭芝龍は福建省の人ですが、幼少期を平戸で過ごしたため、福建語と平戸弁の両方が話せたのではないかと思います。

李自成の乱で明朝が滅亡すると、父と共に反清朝として戦いに臨みます。明の遺臣たちが擁立した皇帝が清に捉えられては殺されるという悲劇が繰り返される中、父の鄭芝龍は清朝の降伏勧告に応じて下った一方、鄭成功は飽くまでも明の遺臣として戦い、江戸幕府にも救援を請うたというのは有名な話です。明の国力の衰亡は豊臣秀吉の朝鮮半島侵略戦争にも一因がありますから、日本人にも責任の一端はあると言えますが、江戸幕府は関心を示すことはありませんでした。

中国大陸の戦いでは清朝の軍に勝てなかった鄭成功は台湾に拠点を築き、オランダ人勢力を排除し、オランダ東インド会社が最後の拠点とした台南のゼーランディア城も陥落します。鄭成功は台湾で初の漢民族による政権を打ち立てたことになり、その後、台湾の中華圏化が進んで行ったと見ることも可能と言えます。

鄭成功はオランダ人勢力を追放してしばらく後には病没してしまいますが、彼の功績は高く顕彰されており、たとえば台湾南部で最も権威ある大学として知られる成功大学はこの鄭成功から名前をとっています。

鄭成功が陥落させたゼーランディア城は今は一般の見学が可能で、理由はわかりませんが鄭成功と等身大のパネルが置かれてあり、自分の身体と比べることができます。

江戸時代、近松門左衛門が鄭成功を題材にした浄瑠璃の『国姓爺合戦』の台本を書き、かなりの人気を博したと言います。更に後には歌舞伎にもなっており、その人気は今日まで続いていると言っていいでしょう。

台湾近現代史5 鄭芝龍

中国の福建省で生まれた鄭芝龍は十代で父を亡くし、マカオの叔父を頼るようになり、マカオで商売を学んだほか、宣教師からカトリックの洗礼を受けています。その後、李旦という豪商に使えるようになり、日本、中国、台湾、その他東南アジアとの貿易に関わる関係で李旦について平戸で暮らすようになり、李旦の死後、鄭芝龍は平戸の中国系商人のトップに立ちます。平戸の地で平戸藩士の娘のマツと知り合い、二人の間に鄭成功が生まれます。鄭成功は幼少期を平戸で過ごしますが、後に父と共に中国へ渡ることになります。

当時の貿易商と言っても半分は海賊みたいなものですから、鄭芝龍は貿易+海賊業でそれなりの軍事力を持つ存在に成長し莫大な富を得ていたといいます。李自成の乱で明が滅亡し、清が政権を打ち立てると、明朝は各地で亡命政権を打ち立て、独自の皇帝を擁立するなどをしていきます。鄭芝龍も明朝の復活を期して明朝に仕え、オランダ東インド会社のハンス・プットマンスに相当な被害を与えたとされています。ですがやがて清朝からの降伏勧告を受け入れ、清に服従するようになります。

一方、息子の鄭成功は飽くまでも明朝の臣下として振る舞い、清朝も手を焼いたことから鄭芝龍に鄭成功の説得を命じますが、息子は頑として応じず、台湾で勢力を伸ばし続けたこともあり、鄭芝龍は北京で斬首されるという顛末を迎えてしまいます。

鄭芝龍は弘光帝に使え、弘光帝が清朝に捉えられると降武帝に使えるのですが、隆武帝の元に行ったあたりからその他の明の遺臣との関係が複雑なものになっており、清朝に乗り換えたようです。乗り換えた先で殺されるのですので、仕える先を乗り換えるのには相当なリスクがあるというのは現代にも通じる教訓かも知れません。

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台湾近現代史3 大肚王国

オランダ人が台湾の南部を押さえ、スペイン人が台湾の北部を押さえていた時代、台湾の中部は原住民の国である大肚王国が押さえていました。大肚王国の国王はヨーロッパの絶対王政のようなものとは一線を画す存在で、母系社会である性質から国王の権力は住民の生殺与奪までには至らなかったと考えられています。また、17世紀はヨーロッパ人の他、鄭成功が台湾に上陸してきますので、当時としては住民から搾取するというよりは原住民の生活圏の保護という色合いを濃く持った王国と言えるかも知れません。

大肚王国は複数の原住民による連合王国でしたが、パポラ族がその王位を有していたようです。オランダ人が台湾の一部を占領すると、大肚王国とも激しい抗争が起きます。オランダ人は一度は撃退されますが、その後は火力で圧倒し、王はオランダに対する抵抗を諦め、ヨーロッパ人の牧師の調停で協約が結ばれたとされています。キリスト教の布教は許可せず、オランダ人の通行は認めても定住は認めないという状態で、半ば独立した状態を保ったとされています。

鄭成功がオランダ人勢力を排除した後、大肚王国とも激しく対立します。鄭成功は背後にオランダ人が大肚王国を操っているのではないかと訝しんだという話があります。鄭成功と大肚王国との間で決着が着くことはありませんでしたが、18世紀に入ると清朝の勢力が及ぶようになり、一時は激しく抵抗したこともありましたが、後に狭い地域へと追いやられていくことになり、パポラ族は現代でも人口およそ1000人という少数の民族になってしまいました。

このような歴史を知ると、日本時代の霧社事件が起きたことは意外なこととも言い切れず、オランダ人やスペイン人、更に漢民族の上陸も受けて、原住民が抵抗するというある種の歴史的伝統のようなものが数百年続いており、その先に霧社事件が起きたと見るのがより実相に近いのかも知れません。

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台湾近現代史2 オランダ東インド会社

歴史上、初めて台湾を征服支配したのはオランダ東インド会社であったと言われています。明朝時代に澎湖島を拠点とし、その後、台湾本島に勢力圏を広げ、主として台南を中心とした広いエリアを支配しています。また、台湾北部はスペインの勢力下になった時期があり、原住民の大肚王国とオランダとで台湾三分された時期がありましたが、オランダ側がスペイン勢力を締め出しています。大肚王国は清朝に征服されるまで続いたようです。

時代は17世紀前半で、大航海時代としては少し後の方、イギリスの大帝国主義が始まる少し手前の時代と言えます。オランダは日本の江戸幕府との独占的な通商の権利を獲得することにも成功しており、当時はオランダの一人勝ちとも言えますが、当時の強国だったスペインはフェリペ二世の時代に散財して無敵艦隊を建造し、イングランド制服に向かわせたもののエリザベス女王から返り討ちにあっており、スペインはその全盛期を失おうとしていた時期です。また、イギリス東インド会社も極東への進出を図ってはいましたが、インドネシアのアンボイナ地方でイギリス商館の人員がオランダ人によって皆殺しにされるというアンボイナ事件が起きており、当時のイギリスには極東まで行く余力が失われていたと見ることもできます。フランスが本格的な帝国主義を発揮するのはナポレオン三世の時代ですので、まだまだ後の時代になります。そのように見るとヨーロッパの力関係が東洋にも影響していたことが見えてきます。イギリス、フランス、スペインの力及ばないエリアが空白となってオランダが入ったという図式です。ついでに言うとアメリカが出てくるのもまだまだ先の話です。

オランダ東インド会社は漢民族や原住民を奴隷として使役したことがわかっており、浜田弥兵衛事件かかわったノイツが台湾行政長官をしていた時代には原住民によるオランダ人殺害事件が起き、ノイツの後任のプットマンが原住民の村を焼き討ちし、服従を誓わせ、フォルモサ血の血税と呼ばれる奴隷制度を敷いたことも知られています。

オランダ人は台南を拠点とし、長崎とインドネシアを結ぶ中継地点としての役割を果たしますが、やがて明の遺臣である鄭成功の攻撃を受け、台湾からの撤退を余儀なくされます。