小磯国昭内閣‐幻の日中和平工作

サイパン島の陥落の責任を取る形で東条英機内閣が総辞職し、西園寺公望亡き後、首相指名の機能を担っていた重臣会議は小磯国昭を後継首相として指名します。小磯は出身母体が陸軍ですが、現役を退いて長いため戦争の実態に疎く、米内光政を副首相として補佐させるという条件での首相就任です。

明らかに「あんまりイニシアチブをとらなさそうな人」を選んでいるフシがあり、実際の政治を近衛文麿あたりが仕切って、小磯は責任を取るためだけの傀儡であった可能性が高いようにも思えます。小磯政権期に近衛上奏文も出されています。

小磯国昭の方針は「敵に一撃を与えて講和」を目指すもので、その一環としてレイテ島での決戦が模索されます。フィリピンが陥落すればインドネシアから日本まで石油を送るシーレーンを失うため、日本は戦争の継続が不可能となるため、連合艦隊も残存空母を囮にしてアメリカの航空戦力をレイテ島から引き離し、レイテ沖で裸同然のアメリカ軍に戦艦大和と武蔵が巨大な大砲で好き放題砲撃するという作戦に乗り出します。レイテ沖海戦ではほぼ連合艦隊の目論見通りに戦況が推移しますが、敵の目前きた戦艦大和が謎の反転をすることで完全に空振りに終わります。この作戦では空母は全滅。武蔵も撃沈され、連合艦隊はその後組織的な作戦行動ができなくなるほどの痛手を負いました。

以前、大和の乗員だった人のインタビューを見たことがありますが、敵の補助空母艦隊を発見し、圧倒的な彼我兵力差で、これはバンバン撃ち込めば勝てるという印象を得たそうですが、半端な戦闘した後に「目標はレイテだから」ということで、それら敵艦隊を攻撃目標から外し、レイテに行くのかなあと思ったら反転してしまったということでした。不可解としか言いようがありません。

アメリカ側の戦記物ドキュメンタリーでこの海戦を扱っているものがあり、アメリカ軍は未曾有の危機に陥ったものの、反撃を恐れたバトルシップ大和が退却したためにことなきを得たという説明になっていましたので、当該の小規模な海戦があったことはほぼ間違いなさそうですが、大和の反転については「反転命令があった」というまことしやかな嘘がまかり通っており(私はそんな命令はなかったと思います)、知れば知るほどがっくりきます。私の祖父は戦艦武蔵の乗員で、90パーセント以上が戦死した中生還しており、呉で終戦を迎えています。広島の原子爆弾のきのこ雲も見たでしょうから、なかなか壮絶な戦歴です。

それはそうとして、1945年3月中国から一人の男が和平の使者と称して東京を訪問します。繆斌(びゅうひん)という人物で、蒋介石政権が満州国を承認し、日本がそれ以外の中国全土から撤退することで日中和平という提案だったと言われていますが、この時期になると東京大空襲も行われており、日本の敗色は濃厚で、蒋介石の国書も持たないこの人物が本当に正式な使者であったかどうかは相当程度に疑わしく、重光葵は相手にするなと反発します。小磯国昭はそれでも繆斌和平工作に懸けようとしますが、昭和天皇から不興を買い、この和平工作の失敗を受けて小磯内閣は総辞職するという展開になります。ちなみに繆斌は終戦直後に日本に内通しようとした罪で銃殺されています。

私には繆斌がホンモノの使者であったのか、それともある種の利権漁りの延長みたいな人物だったのかを断定するだけの材料はありませんが、飽くまでも想像ですけれど、繆斌は汪兆銘の政府に参加していた人物ですので、戦後の身の処し方を考えて、嘘でもでっち上げでも「そんなはずでは」になるにしても、日本との和平話を進めることで得点を上げて戦後の身の安定を図ったのではなかろうかと思えます。そういう意味ではあんまり乗れる話ではなかったかも知れません。

そうは言ってもその後日本はスターリンに和平の仲介を頼むという、実現性があるとは到底思えない策に出ますので、どっこいどっこいというか、或いは命運尽きるとそういう胡散臭い話しか集まって来ないということを示しているのか、いずれにせよ繰り返しになりますががっくりすることばかりです。

小磯政権の後は、昭和天皇が直々に鈴木貫太郎に依頼し、終戦を使命とする内閣が登場することになります。




ミッドウェー海戦がいろいろな意味で残念な件

連合艦隊の山本五十六長官は、真珠湾攻撃に成功した後、はて…と困ってしまいます。その後のプランをあまりよく考えていなかったからです。

まずはっきりしていることはハワイの真珠湾基地は生きているということ、そしてアメリカの空母艦隊も無傷だということでした。

もしアメリカの空母艦隊を殲滅し、ハワイも獲ることができれば、太平洋全域の制海権を握ることができるようになり、長期的にはアメリカが盛り返してくることは分かっているとしても、その後の緒戦で勝利を重ねやすくなりますから、アメリカの戦意を挫くいい一手になる可能性があります。

とにかく押せるだけ押しまくって、講和に持ち込むしかありませんので、よしハワイを獲ろうと、アメリカの空母艦隊も今度はおびきよせて一機に叩いてしまおうということになり、見方によっては真珠湾攻撃以上に皇国の荒廃この一戦にありとも言えるミッドウェー作戦を立案します。

作戦の内容はまず第一波がミッドウェーを空爆し、続いて上陸部隊が同島を占拠。そのうちアメリカの空母艦隊が出てくるので見つけ次第に殲滅し、裸の同然のハワイまで駒を進めるというものでした。

ところが、机上演習をやってみると、アメリカ空母艦隊が想定よりもかなり速くミッドウェー海域まで出てくることがわかってきます。本来であれば、ミッドウェーのようなあってもなくてもいいような小島を叩くよりも、ほいほいと出てきてくれたアメリカ空母を先に撃つということに作戦の順番を変えなくてはいけませんが、動かす艦船が多すぎることで負担に感じたのか、机上演習ではアメリカの空母はもっと後からやってくるという風に設定を変更し、演習が続けられます。敵の弾が自分の艦船に当たるかどうか、当たっても沈没か大破か小破か無傷かということは時の運ですので、演習でも設定のしようがなく、そういう時はサイコロを振り賽の目で受ける被害の程度を決めていきます。その時も、演習中に甚大な被害が出る目が出たときは、違う目が出たことにして、沈没する目が出たとしても大破だったことにするみたいな感じで演習の内容が操作されたといます。要するに予め策定した作戦が望む結果が出せるように、演習の内容を改ざんしていたと言えますので、もはやこれは演習でもなんでもなく、官僚的な辻褄合わせをしているだけだったと言うしかありません。

実際の戦闘では、敵空母艦隊を発見するために飛ばした哨戒機が、敵の真上を飛んでおきながら雲の厚みに阻まれて視認することができず、敵の空母は来ていないと報告を上げています。また敵に発見され敵空母が近いということが分かってから、当初ミッドウェー爆撃用に搭載されていた爆弾を外して空母を狙うための魚雷に交換するの90分かかっており、その時間的なロスによって敵から先制攻撃を受けるという悲しい結果を迎えています。机上の演習の方が正しかったのです。敵空母の動きは速かったのです。こういう場合はまずは第一波を飛ばして敵空母の甲板に爆弾を落として穴を開けて、使い物にならないようにしてから第二派が魚雷で沈めるのがいいのですが、司令官がテンパってしまい、そういう判断ができなかったのです。

更に不可解としか言いようがありませんが、戦艦大和が最新鋭の傍受システムで敵空母の居場所を知っておきながら、敵に大和の実力を知られることを恐れて最前線の艦隊にその事実を知らせなかったという話も残されています。「何のための大和なんじゃい」と突っ込む気力もないほどに残念な要素に溢れています。

そのような劣勢でも敵空母を二隻沈め、日本空母を二隻守った現場のパイロットの優秀さに驚くしかありません。凄い、訓練って凄い。と思います。ですが、作戦を立案する人たちが全体にゆるんでしまっていた、日本海海戦の時のような絶体絶命一発勝負のような緊張感を失っており、ついでに言うとあまりに強い不安や恐怖に押しつぶされて判断を間違えていたように思え、返す返す残念でこの時代のことはとにかくガックリするしかありません。

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真珠湾攻撃がいろいろな意味で残念な件

真珠湾攻撃を「政治」「戦略」「戦術」の三つのフェーズに分けて考えてみたいと思います。

まず、政治的な意味で言えば、かくも大失敗な攻撃はありません。連合艦隊の山本五十六はアメリカに痛打を与えてその戦意を挫くとという方針を持っていたと言われていますが、あまりにも唐突な攻撃を受けたためにアメリカではむしろ戦意が高揚し、逆の結果を招いています。フィリピンあたりで小競り合いをしてアメリカの太平洋艦隊をおびき出し、当時であれば圧倒的に連合艦隊の方が強かったですから、そこで艦隊決戦で全滅させていればアメリカも戦意を喪失するというシナリオがあり得ましたが、そういう順序をいくつか飛ばしてしまっているので、政治的には全くの大失敗。狙いを外しまくりというしかありません。

次に、戦略という点から見ればどうでしょうか。戦略的には真珠湾攻撃はアメリカが当面、太平洋で動きが取れなくなることを目指すものです。そういう意味では何といってもハルゼーの空母艦隊を討ち漏らしており、ぶっちゃけ戦略的にはもはやどうでもいい戦艦とか巡洋艦とか沈めまくったわけですが、その無用の長物と化していた戦艦も真珠湾は太平洋の海に比べれば全然浅いのでその多くが引き揚げられて修繕されていますので、真珠湾攻撃の戦果事態が無意味であったと言っても言い過ぎではないかも知れません。当時はシンガポールですら占領できるだけの力があったわけですので、ハワイのそのものの占領も充分に可能だったと言え、やはり、どうせやるのであればハワイ占領を企図しておくべきでした。半年後に「やっぱりハワイをとっておけばよかった」という後悔の念からミッドウェー海戦という更に残念な結果を招くことになってしまいますが、そういう意味では思い切りが悪かった一発殴って逃げ帰るという戦略そのものに欠陥があったと思わざるを得ません。全く残念というか、orzとしか言いようがありません。

では、戦術的にはどうでしょうか。こっそりと太平洋の北側からハワイに迫り、攻めること火の如し、走ること風の如しですので、見事と言わざるを得ず、そのために費やした訓練の成果であり、現場のパイロットの人たちへは敬意の念を抱かないわけにはいきません。ミッドウェー海戦では司令官の判断ミスが大きく影響しますが、それでもそこから反撃してアメリカの空母を二隻沈めていますので、やはり現場が如何に優秀であったかについて思いを致さざるを得ないと思います。

そのように思うと、もしあの時にハワイを占領しておけば、太平洋は西海岸に至るまで日本が制海権をとることができ、相当有利に戦局が推移した可能性を考えると悔やまれてなりません。とはいえ、戦争が長引けば必ずアメリカ有利の展開になることは間違いなかったでしょうから、東条英機が早期講和を全然考えていなかった以上、最終的な結果にはあまり違いはなかったかも知れません。当時のことは知れば知るほどorzです…。

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日露戦争をざっくりがっつりと語る

日清戦争によって日本は「やったー!朝鮮半島は日本の勢力下だ!」と一瞬湧きましたが、三国干渉で遼東半島の租借は諦めなくてはいけなくなります。李王朝の高宗と閔妃は清があまり頼りにならないということが分かると、親ロシアへと傾いていきます。朝鮮宮廷内で身の安全が確保できないと感じるとロシア公使館に避難してそこで政治を行ったりするようになります。

ロシア公使館から夫妻が戻ると、日本の兵隊やゴロツキみたいなのが集団になって朝鮮王宮に乱入し、閔妃を殺害するという常識ではとても考えられない事件が起きます。背後に在朝鮮公使の三浦梧楼がいたと言われています。当時は閔妃と大院君が本気の殺し合いをしていたので、日本軍を手引きしたのが大院君ではなかったかという説もあるようです。まず第一に日本の兵隊は閔妃の顔を知らないので女官に紛れると誰が閔妃なのか分かりません。閔妃の写真とされるものがあったという説もありますが、過去に閔妃の写真であったと言われていたものほは現在では別人のものだとも考えられるようになっており、大院君の手引きがなければ閔妃の殺害は難しかったのではないかということらしいです。いたましい事件であることは間違いありませんので、あんまり適当なことは言えませんが、いずれにせよ閔妃は亡くなってしまい、朝鮮の親ロシア派の勢力が大きく打撃を受けることになります。

ロシアは朝鮮半島各地に軍事拠点を作り始め、李鴻章を抱き込んで露清鉄道を建設し、大連まで引き込んでくるということになり、シベリア鉄道の複線化工事にも着手され、それらの鉄道網が完成すればヨーロッパからいくらでも兵隊と武器を運べるようになりますので、こうなっては日本は手出しができなくなるとの焦りが日本側に生じます。

小村寿太郎がイギリスと話をつけて日英同盟を結びます。これはどちらかの国がどこかの国と戦争になった場合は中立を守るという、「同盟」と呼ぶわりにはパンチ力に欠ける内容で、日本とロシアが戦争することを前提に、イギリスはロシアと戦争しなくてすむという免責事項みたいなものですが、日本とイギリスが同盟関係にあるということは有形無形に日露戦争で優位に働きます。

日本とロシアの交渉で、北緯39度を境に朝鮮半島を日本とロシアで分け合うという提案がされますが、ロシア側は難色を示します。ニコライ二世が皇太子時代に日本を訪問した際に巡査に殺されそうになったことで、日本嫌いが強かったという説もありますが、開戦ぎりぎり直前にニコライ二世から明治天皇に宛てて譲歩の意思を示す親書を送るはずが極東総督が握りつぶしたという話もあり、ちょっとはっきりしません。

戦争はまず日本側が旅順のロシア旅順艦隊に砲撃を浴びせるという形で始まります。児玉源太郎は朝鮮半島に上陸した後に北進して満州にいたクロパトキン軍を全滅させてヨーロッパから援軍が来る前に講和に持ち込むという構想を持っていたようですが、想定外の難題が持ち上がります。

日本の連合艦隊が旅順港を包囲していましたが、ヨーロッパからロシアバルチック艦隊が出撃し、半年くらいで日本まで攻めて来るということになり、連合艦隊は旅順艦隊とバルチック艦隊の挟み撃ちに遭う恐れが生じ、早期に旅順艦隊を叩きたいのだけれど旅順艦隊は旅順港に閉じこもって出て来ない、日清戦争の時に北洋艦隊の母港を陸戦で攻略したのを同じように旅順を攻略してほしいと言う話が湧いて出ます。連合艦隊が挟み撃ちに遭って全滅したら、対馬海峡の制海権がロシア側に移りますので、兵站が途切れてしまい、大陸の日本軍は立ち枯れして日本終了のお知らせになってしまいます。ちなみに清は局外中立を宣言し、好きにしてくれわしゃ知らんという立場を採ります。

ロシアは旅順港を取り巻く山々に堅固なコンクリートの要塞を築いていましたが、児玉源太郎は別に放っておけばいいと思っていて、旅順要塞の攻略をあまり重視しておらず、乃木希典の第三軍を送り込んだものの「突撃でばーっとやったら旅順要塞も陥落するだろう」という甘い考えで対処します。

気の毒なのは乃木希典の方で、コンクリートと機関銃でがちがちに固めてあるところに「突撃でばーっとやって、何とかしろ」と言われたのでその通りにやってみたら大量に戦死者が出るという展開になってしまいます。普通に考えてそれは無理というもので、司馬遼太郎さんは乃木希典が無能だったからだという観点から『坂の上の雲』を描きましたが、私は乃木希典が悪いというよりも「突撃でばーっとやれ」と言った児玉源太郎の方に問題があるのではないかというように私には思えます。

旅順要塞そのものを獲れるかどうかは戦略的な観点からははっきり言えばどちらでもよく、どこか一か所でもいいから旅順港が見える高台を奪取して砲撃で旅順艦隊を撃滅するのがいいということが分かって来たので、乃木希典の第三軍は旅順港を望見できる203高地に攻撃の軸足を変えます。ここもなかなか手ごわいですが、内地から送られてきた巨大な大砲でバンバン撃ち込みながら兵隊もどんどん突撃させて、味方の弾で兵隊がちょっとぐらい死んでもいいという無慈悲な作戦では203高地はようやく陥落。旅順艦隊を砲撃して同艦隊は全滅します。連合艦隊はこれで安心して佐世保に帰り、艦隊をきちんと修理してバルチック艦隊との決戦に臨むことになります。

次の問題はバルチック艦隊がどのルートで来るのかよくわからないということで、対馬海峡ルート、津軽海峡ルート、宗谷海峡ルートが想定され、討ち漏らしたら大変だと秋山真之参謀はのたうち回るように悩み抜きますが、バルチック艦隊のような巨大な船の集団が安全に通ろうと思えば充分な深さと幅のある対馬海峡を選ぶに違いなく、ここは東郷平八郎長官の見立てが正しかったと思えます。

有名な日本海海戦は秋山参謀の考えた丁字作戦でバルチック艦隊を全滅させたということになっていますが、最近の研究ではどうもぐねぐねに回りこんだりしていたようです。いずれにせよ稀に見る圧勝で海の方は心配なくなります。

陸の方では奉天の会戦でクロパトキンのロシア軍が北へと撤退します。日本が勝ったというよりもクロパトキン的には日本をどんどん北へおびきよせて兵站を疲れさせるという作戦で、日本軍が疲れ切るころにはヨーロッパからも兵隊がどっさり来て日本軍全滅でやっぱり日本終了のお知らせになるという予定でしたし、実際、奉天会戦で日本軍は疲れ切り大砲の弾もろくに残っていないという状態になってしまいます。

弾がないということがバレる前に何とか講和しないと、繰り返しになりますが日本終了のお知らせになるのですが、伊藤博文が金子堅太郎をアメリカに送り込み、セオドアルーズベルトに頼み込んで講和の仲介をしてもらえることになり、ポーツマス会議が行われます。

ポーツマス条約では賠償金はもらえませんでしたが、ここで戦争が終わっただけでも御の字で「賠償金が獲れてない!」と新聞が煽ったことで日比谷焼き討ち事件が起きますが、それは無理難題というものです。

このように見ていくと、現場の努力が多大であったことは間違いないないと思いますが、戦争が更に長期化していれば、日本軍の全滅は必至だったと言えること、高橋是がアメリカとイギリスで公債を売りまくって借金まみれで財政的にも限界が見えていたこともあり、アメリカとイギリスが日本に対して好意的で、戦争がやめられるように話をつけさせてくれたという天祐のおかげで体裁上「勝てた」ということが分かってきます。運が良かったからと言うこともできますが、そこが神話化されて後の世代では太平洋戦争が行われることになりますので、勝って兜の緒を締めよという意味のことを秋山真之が述べていますが、実際、その通りだということを40年後に身を以て示すことになってしまいます。









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日清戦争の「勝因」

李氏朝鮮王朝への影響力の拡大を目指す日本は、李王朝が長らく朝貢していた清との対決を覚悟していくようになります。ごく個人的な意見ですが、明治初期から日本では「征韓論」が湧いては消えていくので、よちよち歩きの新政府が外国に攻めて行くという発想事態がよく理解できませんし、朝鮮半島、遼東半島、南満州へと利権を拡大したことがやがては日本帝国の滅亡へとつながっていきますので、短期的には良かったかも知れませんが長期的には大陸進出は怪我の素と言えなくもない気がします。

それはともかく、日本はまず李王朝が清朝に朝貢するという伝統的なスタイルを保とうとすることを嫌がり、なんだかんだと楔を打ち込んでいこうとしますが、福沢諭吉の金玉均の明治維新をモデルとした改革を目指したクーデターに絡んだ第一回目の軍事衝突は日本側の敗退で終わります。これで落胆としたいうか、憤慨したというか、すっかり嫌になってしまった福沢諭吉が『脱亜論』を時事新報に掲載するという流れになります。

この結果、天津条約が結ばれますが、日本敗者として交渉に臨まざるを得なかったものの、今後は朝鮮半島に出兵する際には日清が同時に出兵するという何故か不思議と日本に有利な取り決めがなされ、後日に発生した東学党の乱では李王朝が鎮圧のために清に軍の派遣を要請すると、天津条約を盾に日本軍も出兵します。両軍本気の出兵ですので、一触即発、開戦必至の状況に至ります。

日本軍は宣戦布告前に朝鮮王宮を占拠するという、はっきり言えば暴挙に出たと私は思いますが、その後に清に宣戦を布告し、正式に戦争状態に入ります。宣戦布告の前に朝鮮王宮を占拠した動機としては、清に宣戦布告すると李王朝も一緒に日本に宣戦布告する可能性もあり、アクターが2対1になることを恐れ、それを阻止するのが狙いだったのではないかと思えます。

清は兵隊の数では文句なしですし、大砲はドイツのクルップ社から買った鉄製の大砲が標準装備。それに対して日本軍は国産の青銅の大砲です。鉄の大砲の方が丈夫ですので、射程距離も伸びやすく、ぶっちゃけ清の圧倒的有利です。よくこの状態で伊藤博文は戦争をやる気になったものだと首を傾げてたくならなくもありません。しかも国内では衆議院選挙の真っ最中、対外戦争が起きれば国内がまとまった政局的にも有利という判断はあり得ますが、ちょっと方向性を間違えれば全部瓦解しますので、博打も博打。大博打です。

ところがいざ戦端が開かれると各地で日本軍が圧勝します。どこへ行っても激戦があった翌日には清軍が撤退しているというのが続きます。袁世凱が決戦を避けたからだという説明もありますが、私個人としてはこれは袁世凱の深刻なサボタージュだと思えます。温存した兵力を結局は辛亥革命に使いますので、この人一体何なんだというか、内部にこんなのがいれば、そりゃあ勝てません。大事な時に裏切る兵隊100万人よりどこまでもついてきてくれる200人です。

海戦では結論としてはなかなか勝負がつきません。当時の北洋艦隊は定遠と鎮遠というこれもドイツ製の世界最大最新の戦艦を二隻持っていましたが、日本の連合艦隊はそもそも戦艦がありません。速力と操艦技術で北洋艦隊は撤退しますが、よくもまあこんな海戦をやるつもりになったなあと驚愕します。

その後北洋艦隊が閉じこもってしまい、じっと我慢の包囲作戦になるわけですが、陸戦で日本軍が旅順、威海衛を陥落させたことでいよいよ講和という話になっていきます。陸軍部内には北京まで行って直隷決戦を主張する人もいたようですが、そんなことをすれば光緒帝は熱河、更にどっか遠くへと避難して、そのうち日本軍の兵站が疲弊してしまうという日中戦争と同じ展開になってしまいますので、直隷決戦をやらなくて本当に良かったです。

このように見ていくと清の陸海軍ともに戦意に乏しかったことが日本の勝因であり、そこには李鴻章が戦力を温存した状態で列強の介入による講和という筋書きがあったとも言われますが、頼みにする予定の列強の介入がなされる前に決着がついたわけで、李鴻章の読みが外れたとも言え、敵失という天祐で戦争に勝てたのだということが分かります。

日露戦争も天祐だらけで第一世界大戦も日本だけにとっては天祐みたいな棚ぼた的な展開を見せますが、日本は天祐で勝利を重ねることができたということをだんだん理解できなくなっていった人たちが運命の太平洋戦争に突入したとも言えますので、確かに勝ったことは勝ったわけですが、素直に喜ぶわけにもいかない複雑な心境で見ざるを得ない日本帝国のデビュー戦です。




戦艦大和は何時から無用の長物になったのか

 現代では戦艦大和は無用の長物だったという評価が定まっているように思えなくもありません。戦争の主役は飛行機と空母に移行したため、大和がいかに巨大で射程距離の長い大砲を載せていたとしても飛行機に対しては無力だったというものです。また、そのような時代の変化に気づかずに巨大戦艦大和と武蔵を建造した日本海軍のナンセンスさを指摘するようなものもあります。

 しかし、世界一の巨大戦艦を造ったのは日本海軍ですが、飛行機と空母の時代を創ったのも日本海軍です。真珠湾攻撃は言うまでもないことですが、マレー沖でイギリスの巨大戦艦プリンスオブウエールズを撃沈したのもまた、飛行機の時代の到来を告げるものでした。
 そういう意味では、日本海軍が時代の変化に気づかずに無駄なものを造ったというのは正しい評価ではないように思えます。

 しかしながら、大和の運用という点では考えるべき点が多かったかも知れません。大和が実戦に投入された例としてはミッドウェー海戦で後方にいたほか、レイテ沖海戦、それと最期の沖縄特攻作戦あたりでしょうか。レイテ沖海戦では栗田長官という想定外の要素がありましたのでこの稿では論じませんが、ミッドウェー海戦は日本の今後に大きな影響を残したという意味で、遺憾のない大和の使い方があったのではないかという気がしてしまいます。また、最期の沖縄特攻ははっきり言えば大きな意義があると言えるものではなく、大和の乗員だった吉田満さんが戦後に書いた『戦艦大和ノ最期』では、乗員の若い士官たちが自分の死を日本の新生に役立てるという言葉で自分をなんとか納得させようとする場面もあります。

 若い有為な人物たちを、ほぼ連合艦隊のメンツのためだけに死なせてしまったというのは大変残念なことです。鎮魂。

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