モンゴル帝国の最大版図を見て気が付いたのですが、現在の先進国の地域はモンゴル帝国の支配から逃れています。何か関係がありますか?

あると思います。皇帝が多民族を支配する地域では国民国家の形成が困難になりやすいですから、モンゴル人に長く支配された地域が近代国民国家の建設に乗り遅れるのは理解できることです。

近代国家は国民皆兵をやりたがりましたが、見ず知らずの人のために死に行く兵士を量産するには、国民国家の方が都合がいいのです。

そういうのを英仏日独伊は一定地域を同一言語で統一できていましたから、うまくやれていたということではないかなと思います。

アメリカとカナダは少し事情が異なるものの、憲法で押し切ったと言えます。

東欧はスラブ、匈奴、ムスリムがモザイクのように隣り合って暮らしていると思います。多民族共生は大切なことですが、国民国家の建設には不利で、そなような社会になつた理由の一つはモンゴル人の支配にあつたかも知れません。

中央アジアでも、トルコ人、ロシア人、コサック、ツングース、満州人、モンゴル人がひしめきあい、国民国家の建設に出遅れたという面はあると思いますが、これもモンゴル帝国の長い支配と関係あるかも知れません。



古代父殺し、近代父殺し、ポストモダンの母殺し

質問。近代文芸の父殺しを説明してください。古代ギリシャの父殺しと、ユートピア建設の父殺しはどちらが小説理解にとってより重要ですか?娘による母殺しはどうですか?

近代小説に於ける父殺しの概念の基礎になっているのはフロイトです。フロイトがエディプスコンプレックスという概念を世に問いました。このエディプスというのは、ご承知の通り古代ギリシャ神話のエディプスの父殺しに由来しています。

現代の我々が父殺しという時に、それが古代ギリシャ型父殺しなのか、それとも近代のフロイト型父殺しなのか、どちらなのかと言えば、フロイト型を想定してよいでしょう。思考実験的にギリシャ型とフロイト型を比較することはおもしろいかも知れませんが、近代小説に対する理解を深めるという観点から言えば、フロイト型を出発点にして捉えた方が、話は早いかも知れません。

では父とは何でしょうか。父いう言葉にはルールを決める人、善悪を決める人、罰を与える人、裁く人、権力者などを象徴する場合が多かったのではないかと思います。これ即ちキリスト教的父権主義を象徴しています。イエスが男性であり、イエスの父と精霊が三位一体になって神になるわけですけれど、女性が全く入ってきません。中世ヨーロッパ世界の頂点にいるローマ教皇は男性であり、神聖ローマ皇帝も男性であり、カトリックの教会の神父さんも男性であり、世界のルールは男性が決めていたわけです。聖母マリアのような存在は飽くまでもそのような厳しい男性社会の中に於いて、やすらぎや癒しの象徴にはなったでしょうけれど、聖母マリアがルールを定め、世界の終わりに人類を裁いたりすることは決してないわけです。近代的な、即ちフロイト的な父殺しは、そのような善悪を定める男を殺すことを求めているのであって、ギリシャ神話的に母親を横取りしようとかという話ではないということは押さえておいて損はないかも知れません。近代的な父殺し・神殺しは、父の持っている女性や富を横取りしたいのではなく、もっと本質的なものを変革しようとするものです。父の成し得なかった理想を私が成し遂げるというようなイメージになると思います。

ご質問を要約すると「神を殺してユートピア建設」か「父を殺して父の既得権をもらう」のどちらなのかということになるかと思います。「神を殺してユートピア」という発想を説明するには、ニーチェの存在に言及するのが良いかも知れません。彼は神に頼らぬ、善悪の彼岸に位置する超人という概念を追求しました。中世的な宗教による善悪の決定の先に行くことをニーチェは求めたわけです。ニーチェはフロイトより少し早く生まれ、フロイトよりうんと早く死んでいます。ニーチェとフロイトに共通することは、中世的な宗教世界から解放された(または追放された)人は何を考えて生きれば良いのかという問題意識を解決しようとしたということです。ニーチェは神がいなくても生きている人間像を追求しようとし、フロイトは神抜きで人間の精神を説明しようとしたわけですね。ここで言う神とは父と言い換えてもよいものです。
ですから繰り返しになりますけど、近代以後の世界で父殺しと言えば、神殺しであり、それはニーチェ・フロイト的な概念にたどり着くわけですが、その新しい概念、脱宗教的ユートピア建設=精神面での近代化をやってのけるために、ギリシャ神話のエディプスを持ち出して説明がなされたわけです。ご納得いただけましたでしょうか。

さて、次に、母殺しについて、私になりに簡単に述べたいと思います。まず、母殺しという言葉で私たちが思い浮かべるのは、母殺しをテーマにした寺山修司の映画、『田園に死す』です。この映画では、母なるものからの解放を願った男性の主人公が、いかに母を憎み、母を殺すと誓ったとしても、母はびくともせずに朝食を作り、みそ汁を飲めと迫ります。息子がどれほどユートピア建設を目指そうとしても、そしてユートピア建設にとって母は邪魔である、母は敵であると認識しても、母はそれまで通りのルーティンを決して崩しません。父は殺せば終わりですが、母は殺しても死なないのです。そして息子に味噌汁を飲ませようとする無敵の存在なのです。

しかしこれには、息子の母に対する諦めが見え隠れします。父と息子であれば遠慮なく殺し合えるのですが、母にはそういうわけにはいきません。母は殺しても死なないので、いずれ息子は降伏するしかないのです。エヴァンゲリオンでは父のゲンドウは途中であきらめてシンジの列車を降りていきます。ところが母のユイはとっくの昔に死んだも同然であるにもかかわらず、ゲンドウもシンジもユイのしがらみにがっちり縛られ続けます。仮にそのような強力な母が毒親であった場合、世界は真っ暗闇に包まれてしまうに決まっています。ユイが高天原の天照のようにエヴァンゲリオン実験機の中に閉じこもって出てこないことにより、父と息子の関係はどちらを殺すかまで続く果てしのないものになりました。仮にユイが本当に自ら望んでそうしているのであれば、徹底的な毒親であるとここで認定しておきたいところです。そのようなシンジを母から解放するには、友達の息子を誘惑するという稀代の悪女マリのような存在が必要だったわけです。そしてシンジがマリとの将来を選択することによって、シンジは大人になったということも言えるでしょう。ユイとマリの相克という裏テーマもおもしろそうですが、また機会があれば考えてみたいと思います。

さて、では、娘と母の場合はどうなるのでしょうか?実はこれについては私にも定見がありません。少し考えても思いつきません。強いて言うならば、豊かな母性愛を持つ母と娘が互いに手を取り合い、助け合って、男性中心社会の荒波を乗り越えようとするものか、或いは母と娘ともに近代男性中心主義に飲み込まれてしまい、どちらがより男性にとって理想的なのかを相争って憎み合うパターンのようなものが考えられます。実際にそのような事案はいろいろありますし、リアルに起きた事件の中にも、警察による立証はなされていないものの、母が新しい夫によって強姦された娘を殺した可能性が否定できないようなものもありますから、私が男性であるが故にあまりよく分かっていないだけで、母と娘の相克というものは人類の歴史とともに存在したと見るべきかも知れません。とすれば、男性中心社会がいよいよ本格的に崩壊しているわけですから、今後、文芸や映画の重要なモチーフとして母と娘の関係が描かれてゆき、評論可能な題材や型のようなものが形成されていくと考えてもよいのかも知れません。もしかすると『若草物語』が考える素材になるかもしれないとも思いましたが、それについてはまた後日考えてみたいと思います。



上野で高御座を拝観してきた

今、上野で見学できる高御座は、今上天皇陛下がご即位されるために京都御所の紫宸殿から運ばれてきたもので、前の天皇陛下、即ち上皇陛下が即位された時と同じものを解体して東京まで運び、今回の即位に用いたとのことだそうだ。で、前の天皇陛下の即位の時は、自衛隊がヘリコプターで運んできたらしいのだが、穏やかではないとのことで今回は民間が陸路運んだらしい。別に自衛隊で運ぼうと民間に委託しようと私にとってはどうでもいいが、儀式に必要な設備を移動させるだけでも政治が絡んでくるのだから、天皇陛下というお立場はいろいろ大変である。

今使われている高御座は大正時代に作られたものだそうで、大きな特徴は天皇陛下と皇后陛下がお座りになるところが、ちゃんと椅子になっていて西洋風を取り入れているということなのだそうだ。要するに和洋折衷である。どこにも踏み込んだことが書かれていなかったので、私がここでもう一歩踏み込んで議論しておこうと思うのだが、天皇と皇后が一対になって公の場に登場するというスタイルそのものが西洋近代を受け入れてからのことで、天皇陛下がご使用になる、写真手前の高御座と、皇后陛下がご使用になる奥の御帳台をワンセットにするという発想そのものが繰り返すが近代西洋的なやり方だ。以前であれば天皇家であろうと武家であろうと、即位だの元服だの家督相続だのといった表向きのことは全て男の手で行われ、奥向きのことは女性の手で行われ、基本は相互不干渉だった。もちろん夫婦や家族ということになれば全くの不干渉・無関心はあり得ないが、それでも他人から見える部分は男女不干渉である。

それとも、私が不勉強なだけで、日本国中、天皇家だけが西洋風一夫一妻的即位の儀式を平安時代から続けていたのだろうか?まさかとは思うが…(シャア風)。

高御座にお上りになって天皇陛下がご即位されるというのは平安時代から続く古式ゆかしき儀式であることには異論をさしはさめるほど私には知識がないので、きっとその通りに違いないと思うのだが、大正時代にリニューアルされた時、明治天皇から始まった天皇家の西洋化が更に一歩進められた証左であるように私には思える。昨年皇居に行った時、皇居の内側の様子から近代官僚制によって形成された近代天皇像のようなものを感じ取ることができ、今回の高御座を拝観してその感触については確信を深めることができるようになったと思える。一応、断っておくが、私は近代天皇制度を支持しているので、上に述べていることは批判ではない。日本の国を説明する上で重要な要素である天皇と天皇家に対する洞察を深める努力をしているだけなので、ご理解いただきたい。このような男女一対スタイルで高御座が作られたのは、実は昭和天皇の発案なのではなかろうかという想像も湧いてくる。明治天皇が一夫多妻を享受したおそらく最後の天皇で、大正天皇は健康上の理由からとても複数の女性を身の回りに置いている場合ではなかったらしいのだが、健康で頭脳明晰な昭和天皇は、明朗に一夫一妻を支持し、実践した。若いころにヨーロッパを歩き回って、キリスト教圏の一夫一妻的家庭像が理想的に見えたのだろう。

昭和天皇が即位する時は京都に出向いて高御座に上ったとのことだが、実際に高御座を見れば納得できる。美術的価値が高い上にあまりにも巨大な高御座を運び出すより、人間が出向いた方が話がはやい。とても移動させるわけにはいかなかったのだろう。平成と令和になるにあたっては、高御座が警備上の事情から東京へと運ばれたということらしい。確かにあの皇居の中であれば、ちっとやそっとで手が出せるものではない。安全に相違あるまい。京都御苑は建物のガードがそこまで固そうではないので、実務担当者から見れば不安に思うだろうとも思えたので、今のやり方は合理性を追求し、積み重ねた帰結なのかも知れない。

天皇家の代替わりがあったおかげで、普段見ることのできないものが色々見ることができ、収穫は大きい。大嘗祭のお宮もまさか自分が生で見る機会を得られるなど、想像もしていなかった。生きていると面白いことがいろいろある。



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近代を構成する諸要素と日本

ここでは、近代とは何かについて考え、日本の近代について話を進めたいと思います。近代という言葉の概念はあまりに漠然としており、その範囲も広いものですから、今回はその入り口の入り口、いわゆる序の口という感じになります。

近代はヨーロッパにその出発点を求めることができますが、人文科学の観点から言えばビザンツ帝国が滅亡した後に始まったルネッサンスにその起源を求めることができます。しかし、それによって社会が大きく変動したかと言えば、そのように簡単に論じることができませんので、もう少し絞り込んでみたいと思います。

ある人が私に近代とは何かというお話しをしてくれた際、近代はイギリスの産業革命とフランスの市民革命が車の両輪のようにして前進し発展したものだということをおっしゃっていました。これは大変わかりやすく、且つ本質を突いた見事な議論だと私は思いました。

以上述べましたことを日本に当てはめてみて、日本の近代はいつから出発したのかということについて考えてみたいと思います。一般に明治維新の1868年を日本の近代化の出発点のように語られることがありますが、私はそれはあまり正確ではないように思います。というのも、明治維新が始まる前から日本では近代化が始まっていたということができるからです。

例えば、イギリスの産業革命が起きる前提として資本の蓄積ということがありますが、日本の場合、江戸時代という二百年以上の平和な時代が続いたことで、経済発展が達成され資本主義的な発展が都市部で起きたということについて、異論のある人はいないのではないかと思います。東海道などのいわゆる五街道が整備され、現代風に言えば交通インフラが整備されていたということもできるのですが、北海道や沖縄まで海上交通が整い、物流・交易が盛んに行われていました。特に江戸時代後半は江戸の市民生活が発展し、浮世絵でもヨーロッパから輸入した材料を使って絵が描かれたということもあったようで、当時の日本の貿易収支は輸入超過の赤字だったようですが、輸入が多いということは内需が活発であったことを示しており、江戸時代の後半に於いては豊かな市民生活による経済発展があったと考えるのが妥当ではないかと思います。大坂も商売の都市、商都として発展しましたが、大坂の船場あたりの商人の子弟などは丁稚奉公という形で十代から外のお店で住み込みで働き、やがて商売を覚え、独立していくというライフスタイルが確立されていたと言います。住み込みで働くことにより、勤勉さを覚えて真面目な商人へと育っていくわけですが、私はこのライフスタイルと勤勉であることを重視する倫理観について、マックスウェーバーが書いた【プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神】と同じ心理構造または行動パターンが生まれていたと考えてよいのではないかと思います。
さて、先ほども述べましたように江戸時代後半は江戸の市民文化が花開いたわけですが、経済的には一般の武士よりも成功した市民の方がより豊かな生活をしていました。興味深いのは、これは小林秀雄先生がお話しになっている音声を聞いて学んだことなのですが、当時のお金持ちはいろいろな遊びを経験して最後に辿り着くのが論語の勉強なのだそうです。つまり究極の道楽が勉強だというわけです。料亭のようなところでおいしいお料理とおいしいお酒を楽しんだ後で、論語の先生からお話しを聴いていたそうですが、このような文化的行動というのも、やがて維新後に起きる近代化に順応できる市民階層が江戸時代に形成されていたと言うことができるのではないかと思います。

さて、ここまでは経済のことをお話し申し上げましたが、次に政治についてお話ししたいと思います。江戸時代の武士は月に数日出仕する程度で仕事がほとんどなく、内職をするか勉強するか武術の稽古をするかというような日々を送っていたわけですが、結果として武士は知識教養階級として発展していくことになります。言い方を変えれば何も生産せずに、勉強だけしてほとんど役に立たないような人々になっていったということもできるのですが、彼らのような知識階級がしっかり形成されていたことにより、ヨーロッパから入って来る新しい知識を吸収して自分たちに合うように作り直すということができるようになっていたのではないかと私は思っております。

幕末に入りますと、吉田松陰がナポレオンのような人物が日本から登場することを切望していたそうです。中国の知識人である梁啓超もナポレオンのような人物が中国から登場しなければならないと書いているのを読んだことがありますが、ナポレオンは東洋の知識人にとってある種のお手本のように見えたのではないかと思えます。ナポレオンは人生の前半に於いては豊臣秀吉のような目覚ましい出世を果たし、ヨーロッパ各地へと勢力を広げて結果としてフランス革命の精神をヨーロッパ全域に輸出していくことになりました。ベートーベンがナポレオンに深い感銘を受け、【英雄】と題する交響曲を制作しましたが、後にナポレオンが皇帝に即位するという形で市民革命の精神を覆してしまうということがあり、大変に残念がったという話が伝わっています。

日本に話を戻しますが、幕末では日本の知識階級はナポレオンという人物のことも知っていたし、フランス革命や民主主義の概念のようなものもその存在が知られていたわけです。横井小楠や西周のような人が日本にもデモクラシーや立憲主義、三権分立のような制度を採り入れればいいのではないか、ヨーロッパの近代文明が成功している理由は封建制度から抜け出した市民社会の形成にあるのではないかというようなことを考えるようになったわけです。ですので、横井小楠が江戸幕府の政治総裁職を務めた松平春嶽のブレインであり、西周が最後の将軍の徳川慶喜のブレインであったことを考えますと、明治維新を達成した側よりも、明治維新で敗れた側の江戸幕府の方に政治的な近代化を志向する萌芽のようなものが生まれていたのではないかという気がします。徳川慶喜という人物の性格がやや特殊であったために、徳川を中心とした近代化は頓挫してしまいますが、あまり急激な変化を好まない徳川幕府を中心とした近代化が行われた場合、或いは帝国主義を伴わない穏やかな近代化もあり得たのではないかと私は思います。もっとも仮定の話ですので、ここは想像や推測のようなものでしかありません。

いずれにせよ、幕末期に政治権力を持つ人たちの中で、徳川慶喜、松平春嶽のような人は近代的な陸海軍の形成にも力を入れていましたし、立憲主義の可能性も模索した形跡がありますので、日本の近代化は明治維新よりも前に始まっていたと見るのがより実態に近いのではないかと言えると思います。








これは何度も練習した後で録画したファイナルカットです

こっちは何度もかみまくったので、「ボツ」なのですが、
思い出のために残しておきたいと思います。

ナチズムと民主主義と女性

改めて述べる必要もないほどよく知られているように、ナチスは第一次世界大戦後に作られた世界的にも最先端の民主国家のドイツで大統領と議会と有権者の支持を得て誕生した独裁政権だ。当時の世界最先端とは、女性が参政権を得ていたという意味だ。そのため、一方に於いて平然と人命を奪う一方で、女性に対して務めて紳士的な姿勢を貫くという、どう解釈していいのか分からない、しかしそれだけに業の深い集団であったと言ってもいいだろう。

たとえがゲッベルスの妻マクダは理想的なドイツ人妻を最期まで演じきった。ゲッベルス夫妻の子だくさんは偶然ではない。ドイツ民族を産めよ増やせよのメッセージを国民に与えるために意図されたものだった。ゲッベルス夫妻の子どもたちはフォトジェニックであるがゆえに宣伝に利用され、映画館で上映された。夫妻の子どもたちはベルリン攻防戦が終わる直前に親によって毒殺されたことを知っている我々現代人がみれば、子どもたちのフォトジェニックさがかえって重苦しく見えてしまう。

ゲッベルスは浮気性だったことで知られており、マクダは離婚を真剣に考えたと言われているが、ヒトラーが仲裁して離婚は避けられた。ヒトラーが女性たちからの支持を得るために自身が独身を貫いた一方で腹心のゲッベルスには温かい家庭イメージを守り抜かせる必要があったからだ。ワイマール憲法下で女性の支持を得ることは確かに必須だったに違いないが、同時に女性の人気を得たいという幼稚な男性性をナチズムに感じるのは、このような小細工やこざかしい演出を様々な場面で見出すことができるからだ。

ゲッベルスのオフィスには多くの女性た働いていたが、その中の一人が晩年にインタビューに答えた内容から、ヒトラーとゲッベルスが女性からの支持を得るためにどれほど苦心していたかを見出すことができるだろう。
ナチスは民族主義と労働者の味方という分かりやすいメッセージを発信して支持を獲得した。本来ならドイツの資本家や旧貴族階級はナチスの敵でなければならなかったが、両者は共産主義を共通の敵とみなして結びついた。首相指名権を持っていた大統領のヒンデンブルクはヒトラーという若造が危ないやつだと気づいてはいたが、バカだとも思っていたので上手に手のひらで転がせると思ったし、共産党が政権を獲るよりはましだと思ったらしかった。結果としては何もかもめちゃくちゃになったのだが将来のことを知ることは不可能だ。ヒトラー本人も自分の最期は予見できなかったに違いない。

ドイツ民族を増やすという危ない民族主義は、金髪で碧眼という「理想的アーリア人」を増やすという方向性で動き出し、ヨーロッパの占領地ではSSの将兵と各地の金髪碧眼の女性が子どもを作るというプロジェクトが進行した。興味深いのは女性に意に沿わない性交渉がもたれたのではなく、将兵たちと選ばれた現地の女性たちとの間で合コンパーティが開かれ、女性も納得づくで子どもづくりが行われたことだ。もちろん、当時のナチス占領下でナチス将兵に交際を求められた際、断ることは困難だった可能性はあるため、どこまでが女性の本意だったのかを判断することは簡単ではない。だが、少なくとも体裁としてはパーティで知り合い同意の上で一対の男女になり、理想的なアーリア人の子どもの大量生産が図られたのである。そのようにして実際に生まれた子どもたちは、戦後になって自分の出自を知らされないまま成長するケースが多く、実際のところが完全に解明されているわけでもないようだが、父親がSSであるということを理由に酷い目に遭わされたケースもある。

19世紀の後半から20世紀の前半にかけて、世界は産業革命と市民革命という二つの近代化の両輪によって大きく変化し、人々は伝統的な生き方から近代的な生き方へと変貌するために戸惑い、努力し、失敗したり成功したりした。ナチズムはそのような近代化の過程で迷う人々の心の隙間に入り込み、残念ながらとことん成長してしまい、人類に大きな傷を残して破滅していった。民族の理想的な特徴を持つ人間を増やすために合コンパーティを開くということはばかげているし、それによって生まれた子どもが酷い目に遭わされるというのも人間の尊厳に対する重大な挑戦であるため、許容されてはならない。それらのことは21世紀の現代人には許容できない。2018年最後の日の今日、私はナチズムのようなことはある程度の条件が整えば今でも起こり得るということを考えつつ、私は現実世界に大した影響力を持っているわけでもなんでもないが、たまたまそういったものをいろいろ見て年末を過ごしてしまったので、私なりに慎ましくストイックな年越しをしようと思う。



イタリア詩人、ジャコモ・レオパルディの近代

19世紀イタリアにジャコモ・レオパルディなる詩人が存在したことについて、東洋人の我々の中で知っている人はほとんど居ないだろう。私も最近になって知ったのである。イタリア語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語に通じていた彼はそれら古典の教養を存分に生かしながら、新しい時代のための詩を書いた人物であるらしい。その作風は悲観的だが、ある程度無視論的な響きを持ち、それだけある程度自由主義的な響きを持っていたそうだ。当然、ナポレオン戦争と関係があるし、長い目で見れば社会主義とも関係があると言えるだろう。

ナポレオン戦争に影響を受けた芸術家として個人的にぱっと思い当たるのはベートーベンだ。第九交響曲の『歓喜の歌』は王侯貴族のためではなく一般のドイツ人のために書かれたもので歌詞もイタリア語ではなくドイツ語で書かれている。ちょっと前の世代のモーツアルトがドイツ語で戯曲を書くことについては相当揉めたらしいのだが、ベートーベンがドイツ語の楽曲を作るということで揉めた話というのは聞いたことがない。もしかするとちょっとはあったのかも知れないが、ベートーベンのドイツ語歌曲はわりとすんなりと受け入れられた。

モーツアルトとベートーベンの違いは生まれた時代の違いに拠る。モーツアルトはフランス革命とナポレオン戦争の最中に活躍したが、ベートーベンの時代にはナポレオン戦争は一応だいたい終わっていて、タレーランが戦争に敗けても外交で勝つという巧みな政治活動を行った時期と大体重なる。

さて、ベートーベンはともかく、レオパルディである。レオパルディは神なき時代の救いなき悲観主義を描いたらしいのだが、もう一つ重要な点として国民を描こうとしたという点は見落とされるべきではない。ナポレオン戦争は各地で国民意識を覚醒させるという効果をもたらした。フランス軍はもちろん自由平等博愛の普遍的理念で押しまくったわけだが、たとえばドイツのフィヒテが『ドイツ国民に告ぐ』という演説で民族主義を説いて歩いたように、ナポレオンに対する反作用としてヨーロッパ各地で民族と国家というものが強く認識された時代でもある。

ここで注意しなければいけないのは王侯による支配と国民国家は全く別のものであるということだ。たとえばドイツ語圏で乱立した王侯国家は国王の私有物であり、軍は国王の私有財産によって傭兵が雇われて機能した。それに対して国民国家では、国民はその国の人間だというだけで国家の戦争に対して責任を負う。21世紀の現代人の我々にとって、それは必ずしも正しいこととは言えなくなっているが、当時は王侯貴族の支配から脱却し、国民または市民による共和政治の理想がヨーロッパ社会に広がり、その旗頭がナポレオンだった。

レオパルディはそのような時代の空気を思いっきり感じて生きたイタリア人詩人であったため、国民という言葉にロマンを与えたと言われている。レオパルディ流の国民国家という近代との接点であると言えるだろう。私はイタリア語もラテン語もギリシャ語もできないので、一般的な解説に+して私の個人的な見解を述べることしかできないのだが、ナポレオン戦争を境にロマン主義的国家主義がヨーロッパに広がったことは事実であり、レオパルディはその新しい思潮を胸いっぱいに吸い込んだに違いないことは想像できる。彼は古典的なローマカトリックや王侯支配に対するアンチテーゼとして「国民」を重視し、国民を中心とした社会づくりを夢見た。残念なことに30代半ばで病死してしまったため、彼は国民という概念の行くつく先に普仏戦争が起きたことを見ることはできなかったし、それがエスカレートした結果としての第一次世界大戦を見ることもなかった。古典的な支配体制を崩すために国民という概念を創造することに彼は役立ったかも知れないが、その結果を見ることはなかったことが良かったのか悪かったのか。

ただ、彼個人は潔癖で真面目で勤勉で生き方ば不器用だったらしい。ちょっと私に似ている。どこが似ているのかというと、勤勉であるにもかかわらず、それがすぐにお金に直結しないところである。お金に関するセンスさえあれば、レオパルディも私も勤勉にお金を儲けていたのではないかと思わなくもない。フランスのロートレックみたいに…一応付け足すが、ゴーギャンは遊びたいだけなので、勤勉でもなければお金のセンスも持ち合わせていない。ただの付言になってしまいましたが….あ、ゴッホもか…



台湾近現代史32‐西国男の映画史

日本統治時代の台湾で結成された映画愛好家のためのサークルである台湾シネリーグが発行していた機関紙『映画生活』の昭和7年5月20日付けの号と、同6月17日付の号に西國男という人が『映画史小論』という原稿を寄せています。どういう人物なのだろうかと検索をかけてみたところ、往来社の『映画史研究叢書』というシリーズに西国男『発声映画入門』というものが収められており、当時の映画研究者であったことが分かります。5月20日付の編集後記にも、「西氏は『発声映画』入門の著者」と書かれているので、同一人物であることは間違いのないものと思います。ただ、それ以上のことは、プロフィールとかそういったものはぜんぜんさっぱり分かりませんでした。往来社の発行しているシリーズを当たれば、もしかするともう少し詳しいこともわかるかも知れません。言うまでもないことですが「発声映画」とはトーキーのことです。

それはそうとして、この西国男さんが『映画生活』でどういうことを書いているのかというと、主として活動写真と映画の違い、もうちょっと言うとサイレントムービーとトーキーの違いみたいなことが書かれています。要するにエジソンが写真の組み合わせであたかも景色が動いているように見えるスコープを発明したのは活動写真で、ストーリー性のあるものが作られるようになったことで「映画」になり、サイレントムービーとトーキーではどういうことが違うと言えるのか、芸術性のある映画とそうでない映画はどう違うのか、みたいなことを書いています。

ちょっと興味を引いたのは「映画史」を書く上で、冒頭にそもそも歴史とは何かというような著者の持論が述べられていることです。「歴史とは変化である」と彼はしています。変化が起きればそれは記録される。しかし、変化がなければ忘れられる。まあ、確かに正しいと思います。事件が起きた日のことはよく記憶されますが、何もない日のことは記憶されないし、語られることもありません。西氏は、その変化が合理的なものなら進歩であり、非合理的なものなら退歩ということになるが、進歩であろうと退歩であろうと、変化は変化みたいなことを書いており、果たしていわゆる進歩史観を念頭に置いていることは間違いないようです。

西氏は更に科学的に過去と現在の関連性を理解されなくてはならず、その分かりやすい例が進化論であるとしています。中世ヨーロッパでは人間は最初から人間として神によって創造されたと考えられていたが、ダーウィンの進化論によってそれは否定され、そのことによって人間は自分とは何者かをよく理解できるようになったというわけです。そのスタンスで、西氏は映画史を語りだし、技術的な面も含んで議論を展開しています。進化論は近代とは何かを理解する上で、外すことのできない大きな波を引き起こしました。たとえば明治時代には民族改造のようなことが言われ、それは簡単に言えば、西洋人と同じ生活をすれば西洋人みたいになれるのではないかということですが、他にも進化論を応用して社会も進化させようというスペンサーの社会進化論が流行したり、さらに言えばマルクス的歴史観も進化論により教会の神に疑問符が付されたことを出発点としているように思えます。更に付け加えるとすれば、近代の科学技術の発展があったからこそ、ニーチェは「神は死んだ」という言葉を考え出したわけで、19世紀後半から20世紀前半にかけては「進化」が大ブームであったとも言え、西氏の議論はその余波が当時台湾で暮らす日本人にも及んでいたと考えることが可能と思えます。

20世紀後半に入り、ポストモダンがよく言われるようになって、私たちは近代後の時代に入ったみたいなことも言われましたが、そのわりに基本的なことは変わってないような気がするので、私は今は現在も近代が続いているという認識を持つようになっています。ダーウィンの進化論が果たしてどこまで正しいかは議論のしどころかも知れないのですが、いずれにせよ、台湾で西国男氏が当時大流行だった進化論を前提に映画を語っていたことは小さな発見ではないかと思う次第です。

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モンテーニュ‐近代の始まり

東ローマ帝国の滅亡により、多くの亡命者がイタリアなどへわたったことで、ビザンチウムで蓄積された古典知識がヨーロッパに広く伝えられるようになったことが、近代の始まりと言われています。

それら古典知識はキリスト教がヨーロッパに広がる以前のもの、古代ギリシャ哲学に関するものが多く、中世ヨーロッパでキリスト教的な神の恩寵や奇跡を信じることをベースとした世界観が支配的であったのに対し、古代ギリシャ哲学では観察とそれに基づく思索、及び論理的帰結を重視したため、それがヨーロッパへ輸入されたことにより、近代合理主義の誕生に結びついたという見方が可能でしょうし、そう見ることが一般的ではないかとも思えます。

さて、そのような合理精神を追及したことで著名な人物としてモンテーニュの名前は真っ先にあげらるのではないかと思います。彼の態度は「懐疑主義」と呼ばれ、絶対的な価値観はこの世に存在せず、価値観や文化の違いは優劣ではなく差異に過ぎないと考え、絶対が存在しない以上、絶対的な宗教も存在せず、従って、宗教戦争には意味がないとの立場に立ちました。自分が絶対に正しいということは論理的にもあり得ないため、他者への寛容な精神が必要となり、一方で人間は主観でしか物事を感知することができない以上、その主観を、自分の責任の範囲で大切にするという、現代人の感覚から言ってもなかなか正しいと思える思索を展開しています。

モンテーニュはソクラテスの議論を重視し、ソクラテスがデルフォイの神殿に書かれた言葉である「汝自身を知れ」を自身の哲学的姿勢の基本方針にしていたことに照らし、モンテーニュは「私は何を知るか?」という言葉を用います。「私は何を知るか?」は、ソクラテスの「私は何も知らない‐無知の知」に対応しているとも言え、彼の古典ギリシャ哲学に対する深い理解を示すと同時に、それを自分の人生で実践したという態度は、敬意を払うに価するのではないかとも思えます。

私は『薔薇の名前』的な中世ヨーロッパが完全に無知蒙昧な社会であったとは思いませんし、近代ヨーロッパが完全に文明的に進歩した社会であると言い切ることもできないとも思いますが、少なくともモンテーニュが新しい叡智の時代を切り開く第一歩になったというようなことは言えるのではないかなあと思います。

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