後醍醐天皇の不可思議な魅力

後醍醐天皇はおそらく相当に魅力的な人物であったに違いありません。まず佐々木道誉という源氏の名門の人物がその魅力の軍門に下ります。また、名門中の名門の足利尊氏も同様に後醍醐天皇にひれ伏します。更には楠木正成のような優秀な戦略家も後醍醐天皇に尽くします。

佐々木道誉、足利尊氏、楠木正成の三人は命を懸けてまで後醍醐天皇に尽くす義理は全くありません。佐々木、足利はともに源氏で、平氏系の北条氏に反発するポテンシャルは確かに秘めている人たちでしたが、100年以上続いた北条氏に盾突くのは相当に踏ん切りがつかなければできないはずで、承久の乱以降ぱっとしない天皇家に果たして尽くすだろうかという疑問が湧いて来た時、やはりその答えは後醍醐天皇の不可思議な魅力に参ってしまったと見るのが最も正しい見方かも知れないという気がしてきます。

後醍醐天皇が優れた戦略家であったのかと問われれば、おそらくはノーということになると思います。直接の戦闘で勝利することはなく、例えば鎌倉幕府を倒そうと計画してみたり、或いは南朝を開いてみたりというのは、当時の人たちの目から見てもかなりの無理ゲーに見えたはずで、常識のある人にとっては、ただの無謀な人物に見えたかも知れません。

ただし、ここは想像になりますが、語りがうまかったのではないか、弁舌に長けていたのではないか、足利尊氏も佐々木道誉もぼーっとさせてしまうような言葉を話すことができる、そういう政治家的な才能のあった人なのではないかという気がします。話すことが壮大で、通常だったら「大言壮語」と言われてしまいそうなところが、後醍醐天皇の口から出るとまことに尤もらしく聞こえる、相手をその気にさせる、そういう魅力を備えた人だったのではないかという気がします。当時、天皇だから大言壮語がまかり通るということはちょっと考えられません。後嵯峨天皇のレガシーで持明院統と大覚寺統の間を北条氏に調停してもらっている天皇家に天下のはかりごとができるはずがないと思われていたはずです。しかし、そこをそう信じさせる、後醍醐天皇の話には夢を感じる、自分もその夢に身を投じてみたいと感じることができる、そういう徳のあった人、性格な意味でのカリスマだったのではなかったと感じます。特別な技量も能力もないのに人をぼーっとさせるという点では劉備玄徳に近い感じの人だったのかも知れません。

周囲の人を巻き込むにはまず自分からです。自分が思いこまなくてはいけません。自己暗示と呼ばれる領域に入ると思いますが、信念の人で、不屈の精神で決してあきらめないという性格的な特徴があり、どこまで負けが込んでも弱音を吐かない、最後には必ず勝利すると断言し続け、京都は足利尊氏に取られてしまったから息子たちを地方に派遣して遠大な足利包囲戦略を語る。北朝に渡した三種の神器はニセモノだったと言い張る。言い続けているうちに自分もその気になってくる。すると周囲もその気になってくる。そういう感じだったのかも知れません。楠木正成は四天王寺で聖徳太子の『未来記』を読み、そこで自分が後醍醐天皇を守る運命を悟ったとされていますが、そう思える記述を彼が見つけてしまったのも、後醍醐天皇による周囲をその気にさせるパワーの帰結ではなかろうかという気がするのです。

後醍醐天皇の有名な肖像画は中国の皇帝の冠を被り、仏教の坊さんの袈裟を着て密教の儀式らしきことをしている姿です。神秘の力によって念願を叶えようとする晩年の鬼気迫る姿が描かれています。

後醍醐天皇
後醍醐天皇

また、最期の様子を描いた絵では病床で刀を握りしめている姿が描かれており、強い闘争意欲を維持していたことが強調されています。普通だったら迷惑な人だと思うかも知れません。困った人、融通の利かない人、頑固な人、疲れる人に分類される可能性もあります。社長しかできないタイプです。私だったらこういう感じの人にはついていかないと思いますが、話す内容は実におもしろい、興味深い人物だったに違いないように思えます。

ただ、後醍醐天皇ほど印象深い肖像画の残されている人物はそうはいません。平清盛や藤原道長の絵はわりと普通な感じです。後醍醐天皇に比べれば信長秀吉でも普通の部類に入るのではないかと思います。




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1324年、後醍醐天皇が日野資朝などの側近とともに謀議した鎌倉幕府打倒計画が露見し、六波羅探題によって処分が下された正中の変は、鎌倉幕府とその実質的オーナーの北条氏の力が天皇をも超越ほどの強大さを持つことを示す事件でしたが、同時に北条氏の滅亡へ至る道筋への入り口になったとも言えるかも知れません。

北条氏は源氏を滅亡させた後、ライバルになる大型の御家人を順番に潰していき、所領を増やし、日本で最も強大な「家」に発展していましたが、却って鎌倉幕府を北条氏だけで支えなくてはならなくなるというジレンマに陥っていたのかも知れません。

後醍醐天皇が流刑先から脱出して挙兵し、北条氏の差配で足利尊氏が関東から派遣されたものの、足利尊氏は一転して後醍醐天皇の味方につき、続いて新田義貞が関東で挙兵します。足利尊氏の反転までは北条氏の存続が危うくなるということはおそらく誰も想像していなかった、想定外のことだったと思いますが、足利尊氏が反旗を翻してから鎌倉幕府の滅亡まで僅か三週間。騒々しく、慌ただしい、あっという間のできごとです。

鎌倉は三方が山に囲まれ一方が海という天然の要害で守りやすく、防衛に適していますが、新田義貞が鮮やかに攻略できた背景の要因には、やはり北条氏を支える人材が枯渇していたということがあるかも知れません。有力御家人を潰し続ける以上、足利新田にとっても明日は我が身と思わざるを得ず、足利新田が源氏系だったのに対し、北条が平氏系ということもあって、ちょっとした切っ掛けさえあれば崩れてしまう、危ういバランスの上に北条氏は立っていたのかも知れません。

尤も、足利尊氏が鎌倉幕府の戦力の中心だったと考えれば、そこが裏切るのはやはり厳しいことで、ナウシカがクシャナの味方をして風の谷に襲い掛かったり、『カリオストロの城』でルパン三世が伯爵に抱き込まれてクラリスを連れ戻すみたいな展開ですから、北条氏に対して気の毒だという印象も抱いてしまいます。

鎌倉に入るには切通しを通らなくてはいけませんが、巨福呂坂、極楽寺坂、化粧坂の3つの切通しから新田義貞軍が鎌倉侵入を試みます。狭い道路を通過するにはどれほどの大軍であっても細長くならざるを得ず、守る側は通せんぼの部隊を設置して、後は上から矢を射かけたり、石を落したりすることが可能なため、突破するのは容易ではありません。新田義貞軍はこれらの切通しからの侵入を諦め、稲村ケ崎を伝って海側からの侵入を試みることになります。

新田義貞が海に剣を投げ入れれば潮が引き、稲村ケ崎の周辺が干潟になって、そこから新田義貞軍が鎌倉市街へと侵入したとされていますが、稲村ケ崎は干潮時は確かに干潟ができて、潮干狩りもできるため、その干潮時を狙うということは十分に考えられることだと思います。ただ、果たして馬が干潟を勢いよく走っていけるものかどうか、ずぶずぶと足をとられてしまって身動きできなくなってしまう可能性はないのかという疑問が残らないわけでもありません。暴れん坊将軍が海辺で馬を走らせている様子はテレビで見たことがありますから、或いは砂は乾きが速く、干潮時は馬でも難なく通れたのかも知れません。乗馬の経験があれば分かるかも知れないのですが、そういう経験がないのでそこは憶測するしかありません。結果として新田義貞軍が実際に鎌倉に入ったことは事実ですので、馬でも通れると考えるべきかも知れません。

江ノ島界隈
稲村ケ崎を藤沢側から見た写真

鎌倉市街戦が始まり、新田義貞軍が火をつけて回り、北条氏一門は東勝寺に集まって集団で自決したとされています。自決の場所は鶴岡八幡宮から近い山がちな場所ですが、慰霊の目的以外では入ってはいけないとの看板が出されており、とても興味半分で入っていけるような雰囲気のところではありません。私も看板の前まで行きましたが、そこから先には進む気になれず引き返しました。市街戦になると守る側はどうしても弱くなります。攻める側は完全武装で失うものは最大でも自分の命だけですが、守る側は家族の生命と財産も守らなくてはいけないので、後先考えずに命知らずに戦うということだけではすみません。そのため、防衛線を突破されれば観念するしかないものなのかも知れません。ベルリン攻防戦ではソ連軍が侵入した後もブランデンブルク門と総統官邸を中心とするエリアが死守され、その間の市民の犠牲は振り返られなかったわけですが、そういうことの方がむしろ異常というか、通常の観念から逸脱しており、市街戦になれば速やかな事態の収拾を双方が図るという姿勢が求められるべきとも思えます。パリ解放の際、ドイツ軍司令官のコルティッツがヒトラーの命令を無視して穏やかにパリ市を連合軍に引き渡しますが、高く評価されるべき好ましい姿勢のように思います。

鎌倉陥落はほんの数日でのできごとですから、北条氏の人たちも何が起きているのかよく分からない、何が何だかわからないうちに自決に至った、実感を伴わないうちに命を落とすことになったという場合が多かったのではないかと思います。私だったら頭では分かっていても心が追い付いていかないのではないかと思えます。鎌倉武士は禅を好んだと言いますが、座禅を組むことにより死生観を養い、いつでもそういう時のための心の準備をしていたのではないかとも思います。ただ、若い人には難しいのではないかなあとも思い、やはり気の毒という言葉が浮かんできます。

鎌倉はその後、足利尊氏が政務を執る場所として使ったことはありますが、基本的には歴史の表舞台から姿を消していきます。水戸光圀が鎌倉を訪問したことがあるようですが、明治以降、風光明媚な湘南の保養地として知られるようになり、今日のような観光地になります。

藤沢鎌倉辺りは風通しがよく、春夏秋冬を通じて気分良く過ごせるいいところだと私は個人的にとても好きな場所です。

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