鎌倉幕府、江戸幕府は関東にありましたが、室町幕府はなぜ京都にあったのでしょうか?

「鎌倉幕府、江戸幕府は関東にありましたが、室町幕府はなぜ京都にあったのでしょうか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

鎌倉幕府と江戸幕府は、京都の朝廷から距離を置く独立政権として機能することを目指しましたから、地理的にも距離がある方が便利だったということが言えると思います。一方で、室町幕府の場合はちょっと事情が違います。初代将軍の足利尊氏は鎌倉幕府を裏切る形で後醍醐天皇についたわけで、彼は朝廷と結びついて足利幕府を開きました。そういう経緯があるので、脱朝廷というよりは親朝廷で貴族化したのだと理解でいいのではないかと思います。




嫌われ足利尊氏

足利尊氏は意外と良い人だったらしいです。わりと共通して言われていることは欲のない人で、なんでも人にあげていたらしいみたいな話は何度か目にしたことがあります。無欲って素晴らしい人間性だと思いますし、しかも結構、心優しい人だったらしいというのも何度か読んだことがあります。たとえば後醍醐天皇に対して実に甘かったですね。戦いに敗れて九州へ逃げ延びた後、大軍を率いて京都にカムバックしてきますが、そういったことができるのも、足利尊氏という人物が並外れた人望の持ち主であったからかも知れません。

ですが、この足利尊氏という人は人間関係では失望の繰り返しだったように思えます。仲の良い人、近しい人、親しい人とつぎつぎと関係が悪くなり、戦いの相手になってしまいます。おそらく、温厚な足利尊氏としてはもめごとにしたくない、ちょっとくらい自分が損してもいいからなんとか丸く収めたいとか思ったんでしょうけど相手が命がけで挑んでくるのでやむを得ず戦う、本当は悲しいんだけど、戦わざるを得ないから戦う。というような感じだったのではないかと思います。彼の人生は裏切りに満ちたものでした。

最初の裏切り、これだけは足利尊氏の自発的なものでした。ただし、彼の人生で起きる裏切りの中で有名なものの中ではおそらく唯一の尊氏の側からの裏切りだったと言えると思います。それは、北条氏の命で鎌倉を出発した後に起きた尊氏による鎌倉幕府に対する離反、裏切りです。本来、討幕勢力であった後醍醐天皇を捕まえるために近畿地方へ向かったんですが、尊氏は強大な武力を使って鎌倉幕府の京都監督支部みたいな役所である六波羅探題を襲撃します。六波羅探題に詰めていた北条氏の人々は脱出しますが、無事に鎌倉へ帰れるとはとても思えないので、山賊とかに襲われるよりはと自害して果てます。北条氏の最期の集団自害も非常に凄惨なものですが、その少し前に起きたこの集団自害もたいへんに凄惨なものであったに違いありません。

尊氏は近畿地方にいましたが、鎌倉を攻め落としたのは新田義貞でした。足利尊氏と新田義貞はともに源氏の子孫であるという点で共通しています。鎌倉幕府から離反して後醍醐天皇に加勢したという点でも共通しています。ですから本来、両者は互いに助け合える友人だったはずです。しかし、後に新田義貞と足利尊氏は敵同士になります。

まず尊氏とたもとを分かつことになったのは後醍醐天皇でした。後醍醐天皇は京都で天皇による直接政治を始めたのですが、これが現実に政権を支える役割を担う武士たちからは非常に不評で、後醍醐天皇が公家の利益ばかりを厚く保護して武士をないがしろにするために不満が募っており、それら不平武士たちから支持を集めたのが足利尊氏で、尊氏は鎌倉で事実上の新政権を樹立し、将軍を名乗って武士の利害調整を始めました。後醍醐天皇が怒ったのなんのって、各地の色んな人に尊氏を殺せ!と命じるわけですね。で、天皇の命を受けた軍隊が鎌倉を目指します。尊氏は後醍醐天皇と敵対したくないと思ったらしく、僧侶になって恭順しますんでゆるしてくださいと打診するのですが、後醍醐天皇の怒りは鎮まりません。やむを得ず反撃し、あまりに見事な反撃だったものですから、一機に敵を蹴散らして、改めて尊氏は京都へと迫ります。尊氏は後醍醐と反目し合う血筋の上皇と連絡を取り合い、後醍醐ではない天皇の擁立に動きます。これで、今まで反目しながらもなんとか一つにまとまっていた天皇家が完全に分裂し、後醍醐天皇の方が南朝で、尊氏の傀儡が北朝と呼ばれる南北朝時代が始まることになります。後醍醐天皇は病没するときも、尊氏を殺せと遺言して亡くなっていますが、尊氏は後醍醐天皇を弔うためのお寺を建立したりしています。きっと、尊氏は後醍醐天皇のことを非常に強く敬っていたと思うのですが、後醍醐からとことん憎悪されていたため、そのあたり彼は傷ついただろうなと思います。そう思うと、なかなか気の毒です。

後醍醐の崩御の後、これで世の中落ち着くのかな?とも思えなくもなかったのですが、朝廷の分裂状態が終わったわけではないし、なんと言っても今度は足利内部の仲間割れで尊氏を苦しめます。尊氏の弟の足利直義と、尊氏とは厚い信頼で結ばれていた家臣の高師直が対立し、両者は不倶戴天の敵になります。これを観応の擾乱と言うんですが、結果、高師直は殺されちゃうんですね。それでも、尊氏と弟の直義との関係は回復せず、直義は鎌倉で幽閉され、最期は毒殺されたと言われています。証明はできませんが。

ここまでの足利尊氏の人生を見ると、彼とかかわった人々が次々と不幸に見舞われ、尊氏とは呪わしい関係になって死んでいくのが分かります。尊氏は鎌倉で育ちましたから、彼の故郷でもありますし、尊氏はもともと鎌倉幕府御家人なわけですけど、尊氏が離反したことをきっかけに鎌倉幕府そのものが滅亡します。鎌倉は滅びに都になっちゃったんですよね。で、大好きだった後醍醐天皇とも仲たがいで、後醍醐天皇はその死の床でも尊氏を呪う言葉を吐いていたというわけです。信頼していた家臣も殺されて、頼れる弟も毒殺。ほとんどダメ押しみたいに隠し子の直冬までも反尊氏の兵を挙げています。

足利尊氏は無欲で温厚な人だったと言われているとは先の述べましたが、きっとお人よしで人懐っこく、打ち解けやすい人だったのではないかと思います。それだけに身近な人と次々と憎しみ合うようになっていったのは、きっと、つらかったでしょうね。ゴッドファーザーパート3のマイケルコルレオーネみたいに、みんな私のことを怖れる…とか思っていたかも知れません。あるいは、良い人なんだけれど、愛情関係を築くには何かが足りない人だったのでしょうか。



鎌倉幕府と北条氏の滅亡-レクイエム

北条氏が滅亡する要因の一つとして、天皇人事への影響力の発揮というものがありました。今回はそこから始めてみたいと思います。後嵯峨天皇が上皇になった後、二人の息子に相次いで皇位を継がせたことが全ての始まりでした。二人の息子の子孫たちがそれぞれに自分たちこそが正統な皇位継承の血筋であるとして譲らず、天皇家は二つに分裂することになってしまったのです。片方は大覚寺統と言い、もう片方は持明院統と言います。双方譲らないものですから、鎌倉幕府の執権である北条氏による裁定が求められ、北条氏は二つの系統が交互に皇位を継承してはどうかとする折衷案のようなものを提示し、双方はそれを受け入れました。天皇が交代する時には天皇候補が鎌倉に打診され、北条氏によって指名されるという新しい仕組みも同時に生まれました。即ち、天皇家は自分たちの分裂状態を解消するためには、自分たちで話を収めるだけでは足りず、北条氏を黙らせなければならないというハードルが更に上がった状態になってしまったのです。

北条氏としては遂に次の天皇を指名するところまで力をつけてきたわけですから、得意の絶頂だったかも知れません。しかし、このような天皇指名制度は北条氏支配の終わりの始まりでした。後醍醐天皇という天才なのか超愚直なのか、よく分からない、でも、とにかく強烈な個性を放つ人物が登場し、彼は自分の子孫が正統な天皇家の継承者であることをはっきりさせる必要を感じ、そのためには鎌倉幕府と北条氏を滅ぼさなければならないと考えるに至ります。後醍醐天皇の打倒北条氏の計画はその都度鎌倉にバレバレになり、後醍醐天皇は謝罪させられたり島流しにされたりします。それでもその都度彼は戦いのリングにカムバックし、後醍醐天皇に従う武士も現れて、北条氏を安心させることがありませんでした。

北条氏は当時、よほど経済的にも余裕があったのでしょう、後醍醐天皇と彼を支える楠木正成を打倒するために大軍を鎌倉から近畿地方に送り込んでいます。しかし、戦況は思うように進まず、少数精鋭で守る楠木正成の城も簡単に陥落させることができません。図体ばかり大きく、戦いに勝てない姿はまるで徳川幕府の末期にも通じている旧権力滅亡のよくあるパターンのようにも思えますが、北条氏の軍隊はそこまで怖いわけではないということに人々は次第に気づくようになりました。

北条氏の新手の軍隊を率いた男が足利尊氏で、彼は源氏の本家が滅亡した後は、源氏系統の武士の中で最も権威のある血筋の男でした。鎌倉の御家人ではありましたが、当然、御家人としてもトップクラスです。そして彼は鎌倉を出撃した時、既に北条氏を裏切る覚悟を決めていたと言われています。尊氏は近畿地方で後醍醐天皇に接触し、早々に後醍醐天皇への帰順の意思を示し、新しい時代を作る動きを見せました。北条氏としては肝をつぶしたに違いありません。遠征軍の最高司令官が裏切ったのです。太平洋戦争で言えば、山本五十六がアメリカ軍に協力して連合艦隊を沖縄やフィリピンに向けて出撃させるようなものです。果たして何が起きているのか、あまりのできごとによく呑み込むことができず、鎌倉では混乱が生じたに違いありません。

鎌倉を実際に攻略し、北条氏を滅亡に追い込んだのは新田義貞でした。彼は後に足利尊氏に滅ぼされますが、この時は地理的距離は離れていても志は同じだったというわけです。新田義貞は自らの拠点である北関東を南の鎌倉へ向けて出発し、要所要所で待ち受ける北条軍を撃破していきます。北条軍はそれまでライバルの御家人たちを圧倒的な強さで滅ぼしてきましたから相当に強かったはずですけれど、その北条軍を撃破し続けたわけですから、新田義貞の軍は相当に強かったんでしょうね。彼の軍勢はやがて鎌倉に到着し、鎌倉市内への進撃を試みます。

しかしながら、鎌倉は守るには非常に便利にできている難攻不落の土地です。三方が山に囲まれて残りの一方は海に面しており、陸路鎌倉に入るには山を越えるしかありません。あまりにも交通が不便なので、平時に於いても鎌倉を往来する人・物・金は切通と呼ばれる山をくりぬいた道路を通らなくてはなりませんでした。新田義貞も切通を通り抜けようとしましたが、ここは北条側が地の利を生かし、簡単に通らせてはくれません。それどころか激しい反撃に遭い、新田軍は陸路鎌倉に入るのを断念せざるを得ませんでした。彼はやむを得ず鎌倉を迂回して湘南海岸の稲村ケ崎に迫り、そこからどうやって鎌倉に入ることができるかを思案します。彼が海に剣を沈めて祈願したところ、海の潮がさーっとひいてゆき、稲村ケ崎の周辺に広大な干潟ができたため、軍勢がそこを通って鎌倉市内に侵入したことになってはいます。旧約聖書で海が割れてモーセがユダヤ人を率いてエジプトを脱出したのを連想させる話になってるんですよね。ですが、海に祈ったら潮が引くなんてことがあるわけないですから、実際には何をどうしたのか、どんな工夫が行われたのかは謎のままです。確かに稲村ケ崎で潮干狩りができる程度に潮が引くことはありますし、相模湾は遠浅ですから、そりゃ全くあり得ない話ではないかも知れませんけど、関東大震災クラスの地震があって、津波が来るというその直前とかでないと、軍隊が通れるほどの干潟ができるとはちょっと考えられません。しかしながら、何をぐだぐだ言おうとも、新田義貞は率いる武士たちとともに鎌倉市内に入り、火をつけて回ったのです。市内が燃えていることを知った、北条氏得宗の北条高時は一門と家臣を連れて東勝寺へと移動しました。得宗とは北条氏の家督を継いでいる人のことで、北条氏の家長ということです。当時の家長が北条高時だったというわけですね。彼は鎌倉の小町というエリアに邸宅を構えていたとのことですから、今で言えばJR鎌倉駅を降りて小町通の商店街のあたりという感じでしょうか。東勝寺は小町通から見て鶴岡八幡宮を越えた反対側にありますから、何を思って鶴岡八幡宮を通り過ぎて行ったのでしょうか。彼らの最期は非常に痛ましい、そして恐ろしいもので、鎮魂の意思を持たずして語ることはとてもできません。北条氏一門が東勝寺に移動した後も北条氏の家臣の決死の突撃は行われましたが、新田義貞軍は退却しませんでした。北条氏の家臣もここに来て、相当に勇敢に戦ったに違いありませんが、命運が尽きてしまったのかも知れません。網野義彦先生は、北条氏が滅亡した時、彼らと運命をともにする家臣はいても、鎌倉御家人クラスの武士たちはほとんどいなかったことに着目しています。北条氏がライバルの御家人たちを滅ぼしていった結果、気づくと守ってくれる仲間がいなくなっていたということなのでしょうか。頼朝が弟たちを殺した結果、自分ひとりになってしまったと私は以前述べましたが、北条氏も同じ状態に最終的には陥ってしまっていたのかも知れません。

最期の突撃をしたのは北条氏家臣の中で最もランクの高い長崎氏だとのことですが、北条氏一門は長崎氏の突撃による戦況の変化に期待できるかどうかを見極めようとし、いよいよ希望がないということが分かると、一門と家臣たちが同時に自害するという凄惨な道を選びました。助かった人物がいないわけではないですが、事実上の全滅であり、その場で命を落とした人たちは700人以上に上るそうです。私は北条氏最期の土地を見定めたいと思い、東勝寺の方面へと歩いて行ったことがありますが、慰霊目的以外の立ち入りを禁止するとの看板を見て、自分にそこまでの真摯さがあるかどうか自信がありませんでしたから、引き返しました。今もそこは慰霊の地となっています。歴史について語ったり考えたりすることは死者について語ることにならざるを得ませんから、死者への敬意を忘れてはいけませんが、今回は特別凄惨なできごとについて述べましたので、私もいつもよりも更に深い死者への敬意を保ちつつ、今回は終わりたいと思います。



後醍醐天皇の不可思議な魅力

後醍醐天皇はおそらく相当に魅力的な人物であったに違いありません。まず佐々木道誉という源氏の名門の人物がその魅力の軍門に下ります。また、名門中の名門の足利尊氏も同様に後醍醐天皇にひれ伏します。更には楠木正成のような優秀な戦略家も後醍醐天皇に尽くします。

佐々木道誉、足利尊氏、楠木正成の三人は命を懸けてまで後醍醐天皇に尽くす義理は全くありません。佐々木、足利はともに源氏で、平氏系の北条氏に反発するポテンシャルは確かに秘めている人たちでしたが、100年以上続いた北条氏に盾突くのは相当に踏ん切りがつかなければできないはずで、承久の乱以降ぱっとしない天皇家に果たして尽くすだろうかという疑問が湧いて来た時、やはりその答えは後醍醐天皇の不可思議な魅力に参ってしまったと見るのが最も正しい見方かも知れないという気がしてきます。

後醍醐天皇が優れた戦略家であったのかと問われれば、おそらくはノーということになると思います。直接の戦闘で勝利することはなく、例えば鎌倉幕府を倒そうと計画してみたり、或いは南朝を開いてみたりというのは、当時の人たちの目から見てもかなりの無理ゲーに見えたはずで、常識のある人にとっては、ただの無謀な人物に見えたかも知れません。

ただし、ここは想像になりますが、語りがうまかったのではないか、弁舌に長けていたのではないか、足利尊氏も佐々木道誉もぼーっとさせてしまうような言葉を話すことができる、そういう政治家的な才能のあった人なのではないかという気がします。話すことが壮大で、通常だったら「大言壮語」と言われてしまいそうなところが、後醍醐天皇の口から出るとまことに尤もらしく聞こえる、相手をその気にさせる、そういう魅力を備えた人だったのではないかという気がします。当時、天皇だから大言壮語がまかり通るということはちょっと考えられません。後嵯峨天皇のレガシーで持明院統と大覚寺統の間を北条氏に調停してもらっている天皇家に天下のはかりごとができるはずがないと思われていたはずです。しかし、そこをそう信じさせる、後醍醐天皇の話には夢を感じる、自分もその夢に身を投じてみたいと感じることができる、そういう徳のあった人、性格な意味でのカリスマだったのではなかったと感じます。特別な技量も能力もないのに人をぼーっとさせるという点では劉備玄徳に近い感じの人だったのかも知れません。

周囲の人を巻き込むにはまず自分からです。自分が思いこまなくてはいけません。自己暗示と呼ばれる領域に入ると思いますが、信念の人で、不屈の精神で決してあきらめないという性格的な特徴があり、どこまで負けが込んでも弱音を吐かない、最後には必ず勝利すると断言し続け、京都は足利尊氏に取られてしまったから息子たちを地方に派遣して遠大な足利包囲戦略を語る。北朝に渡した三種の神器はニセモノだったと言い張る。言い続けているうちに自分もその気になってくる。すると周囲もその気になってくる。そういう感じだったのかも知れません。楠木正成は四天王寺で聖徳太子の『未来記』を読み、そこで自分が後醍醐天皇を守る運命を悟ったとされていますが、そう思える記述を彼が見つけてしまったのも、後醍醐天皇による周囲をその気にさせるパワーの帰結ではなかろうかという気がするのです。

後醍醐天皇の有名な肖像画は中国の皇帝の冠を被り、仏教の坊さんの袈裟を着て密教の儀式らしきことをしている姿です。神秘の力によって念願を叶えようとする晩年の鬼気迫る姿が描かれています。

後醍醐天皇
後醍醐天皇

また、最期の様子を描いた絵では病床で刀を握りしめている姿が描かれており、強い闘争意欲を維持していたことが強調されています。普通だったら迷惑な人だと思うかも知れません。困った人、融通の利かない人、頑固な人、疲れる人に分類される可能性もあります。社長しかできないタイプです。私だったらこういう感じの人にはついていかないと思いますが、話す内容は実におもしろい、興味深い人物だったに違いないように思えます。

ただ、後醍醐天皇ほど印象深い肖像画の残されている人物はそうはいません。平清盛や藤原道長の絵はわりと普通な感じです。後醍醐天皇に比べれば信長秀吉でも普通の部類に入るのではないかと思います。




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1324年、後醍醐天皇が日野資朝などの側近とともに謀議した鎌倉幕府打倒計画が露見し、六波羅探題によって処分が下された正中の変は、鎌倉幕府とその実質的オーナーの北条氏の力が天皇をも超越ほどの強大さを持つことを示す事件でしたが、同時に北条氏の滅亡へ至る道筋への入り口になったとも言えるかも知れません。

北条氏は源氏を滅亡させた後、ライバルになる大型の御家人を順番に潰していき、所領を増やし、日本で最も強大な「家」に発展していましたが、却って鎌倉幕府を北条氏だけで支えなくてはならなくなるというジレンマに陥っていたのかも知れません。

後醍醐天皇が流刑先から脱出して挙兵し、北条氏の差配で足利尊氏が関東から派遣されたものの、足利尊氏は一転して後醍醐天皇の味方につき、続いて新田義貞が関東で挙兵します。足利尊氏の反転までは北条氏の存続が危うくなるということはおそらく誰も想像していなかった、想定外のことだったと思いますが、足利尊氏が反旗を翻してから鎌倉幕府の滅亡まで僅か三週間。騒々しく、慌ただしい、あっという間のできごとです。

鎌倉は三方が山に囲まれ一方が海という天然の要害で守りやすく、防衛に適していますが、新田義貞が鮮やかに攻略できた背景の要因には、やはり北条氏を支える人材が枯渇していたということがあるかも知れません。有力御家人を潰し続ける以上、足利新田にとっても明日は我が身と思わざるを得ず、足利新田が源氏系だったのに対し、北条が平氏系ということもあって、ちょっとした切っ掛けさえあれば崩れてしまう、危ういバランスの上に北条氏は立っていたのかも知れません。

尤も、足利尊氏が鎌倉幕府の戦力の中心だったと考えれば、そこが裏切るのはやはり厳しいことで、ナウシカがクシャナの味方をして風の谷に襲い掛かったり、『カリオストロの城』でルパン三世が伯爵に抱き込まれてクラリスを連れ戻すみたいな展開ですから、北条氏に対して気の毒だという印象も抱いてしまいます。

鎌倉に入るには切通しを通らなくてはいけませんが、巨福呂坂、極楽寺坂、化粧坂の3つの切通しから新田義貞軍が鎌倉侵入を試みます。狭い道路を通過するにはどれほどの大軍であっても細長くならざるを得ず、守る側は通せんぼの部隊を設置して、後は上から矢を射かけたり、石を落したりすることが可能なため、突破するのは容易ではありません。新田義貞軍はこれらの切通しからの侵入を諦め、稲村ケ崎を伝って海側からの侵入を試みることになります。

新田義貞が海に剣を投げ入れれば潮が引き、稲村ケ崎の周辺が干潟になって、そこから新田義貞軍が鎌倉市街へと侵入したとされていますが、稲村ケ崎は干潮時は確かに干潟ができて、潮干狩りもできるため、その干潮時を狙うということは十分に考えられることだと思います。ただ、果たして馬が干潟を勢いよく走っていけるものかどうか、ずぶずぶと足をとられてしまって身動きできなくなってしまう可能性はないのかという疑問が残らないわけでもありません。暴れん坊将軍が海辺で馬を走らせている様子はテレビで見たことがありますから、或いは砂は乾きが速く、干潮時は馬でも難なく通れたのかも知れません。乗馬の経験があれば分かるかも知れないのですが、そういう経験がないのでそこは憶測するしかありません。結果として新田義貞軍が実際に鎌倉に入ったことは事実ですので、馬でも通れると考えるべきかも知れません。

江ノ島界隈
稲村ケ崎を藤沢側から見た写真

鎌倉市街戦が始まり、新田義貞軍が火をつけて回り、北条氏一門は東勝寺に集まって集団で自決したとされています。自決の場所は鶴岡八幡宮から近い山がちな場所ですが、慰霊の目的以外では入ってはいけないとの看板が出されており、とても興味半分で入っていけるような雰囲気のところではありません。私も看板の前まで行きましたが、そこから先には進む気になれず引き返しました。市街戦になると守る側はどうしても弱くなります。攻める側は完全武装で失うものは最大でも自分の命だけですが、守る側は家族の生命と財産も守らなくてはいけないので、後先考えずに命知らずに戦うということだけではすみません。そのため、防衛線を突破されれば観念するしかないものなのかも知れません。ベルリン攻防戦ではソ連軍が侵入した後もブランデンブルク門と総統官邸を中心とするエリアが死守され、その間の市民の犠牲は振り返られなかったわけですが、そういうことの方がむしろ異常というか、通常の観念から逸脱しており、市街戦になれば速やかな事態の収拾を双方が図るという姿勢が求められるべきとも思えます。パリ解放の際、ドイツ軍司令官のコルティッツがヒトラーの命令を無視して穏やかにパリ市を連合軍に引き渡しますが、高く評価されるべき好ましい姿勢のように思います。

鎌倉陥落はほんの数日でのできごとですから、北条氏の人たちも何が起きているのかよく分からない、何が何だかわからないうちに自決に至った、実感を伴わないうちに命を落とすことになったという場合が多かったのではないかと思います。私だったら頭では分かっていても心が追い付いていかないのではないかと思えます。鎌倉武士は禅を好んだと言いますが、座禅を組むことにより死生観を養い、いつでもそういう時のための心の準備をしていたのではないかとも思います。ただ、若い人には難しいのではないかなあとも思い、やはり気の毒という言葉が浮かんできます。

鎌倉はその後、足利尊氏が政務を執る場所として使ったことはありますが、基本的には歴史の表舞台から姿を消していきます。水戸光圀が鎌倉を訪問したことがあるようですが、明治以降、風光明媚な湘南の保養地として知られるようになり、今日のような観光地になります。

藤沢鎌倉辺りは風通しがよく、春夏秋冬を通じて気分良く過ごせるいいところだと私は個人的にとても好きな場所です。

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