1324年、後醍醐天皇が日野資朝などの側近とともに謀議した鎌倉幕府打倒計画が露見し、六波羅探題によって処分が下された正中の変は、鎌倉幕府とその実質的オーナーの北条氏の力が天皇をも超越ほどの強大さを持つことを示す事件でしたが、同時に北条氏の滅亡へ至る道筋への入り口になったとも言えるかも知れません。
北条氏は源氏を滅亡させた後、ライバルになる大型の御家人を順番に潰していき、所領を増やし、日本で最も強大な「家」に発展していましたが、却って鎌倉幕府を北条氏だけで支えなくてはならなくなるというジレンマに陥っていたのかも知れません。
後醍醐天皇が流刑先から脱出して挙兵し、北条氏の差配で足利尊氏が関東から派遣されたものの、足利尊氏は一転して後醍醐天皇の味方につき、続いて新田義貞が関東で挙兵します。足利尊氏の反転までは北条氏の存続が危うくなるということはおそらく誰も想像していなかった、想定外のことだったと思いますが、足利尊氏が反旗を翻してから鎌倉幕府の滅亡まで僅か三週間。騒々しく、慌ただしい、あっという間のできごとです。
鎌倉は三方が山に囲まれ一方が海という天然の要害で守りやすく、防衛に適していますが、新田義貞が鮮やかに攻略できた背景の要因には、やはり北条氏を支える人材が枯渇していたということがあるかも知れません。有力御家人を潰し続ける以上、足利新田にとっても明日は我が身と思わざるを得ず、足利新田が源氏系だったのに対し、北条が平氏系ということもあって、ちょっとした切っ掛けさえあれば崩れてしまう、危ういバランスの上に北条氏は立っていたのかも知れません。
尤も、足利尊氏が鎌倉幕府の戦力の中心だったと考えれば、そこが裏切るのはやはり厳しいことで、ナウシカがクシャナの味方をして風の谷に襲い掛かったり、『カリオストロの城』でルパン三世が伯爵に抱き込まれてクラリスを連れ戻すみたいな展開ですから、北条氏に対して気の毒だという印象も抱いてしまいます。
鎌倉に入るには切通しを通らなくてはいけませんが、巨福呂坂、極楽寺坂、化粧坂の3つの切通しから新田義貞軍が鎌倉侵入を試みます。狭い道路を通過するにはどれほどの大軍であっても細長くならざるを得ず、守る側は通せんぼの部隊を設置して、後は上から矢を射かけたり、石を落したりすることが可能なため、突破するのは容易ではありません。新田義貞軍はこれらの切通しからの侵入を諦め、稲村ケ崎を伝って海側からの侵入を試みることになります。
新田義貞が海に剣を投げ入れれば潮が引き、稲村ケ崎の周辺が干潟になって、そこから新田義貞軍が鎌倉市街へと侵入したとされていますが、稲村ケ崎は干潮時は確かに干潟ができて、潮干狩りもできるため、その干潮時を狙うということは十分に考えられることだと思います。ただ、果たして馬が干潟を勢いよく走っていけるものかどうか、ずぶずぶと足をとられてしまって身動きできなくなってしまう可能性はないのかという疑問が残らないわけでもありません。暴れん坊将軍が海辺で馬を走らせている様子はテレビで見たことがありますから、或いは砂は乾きが速く、干潮時は馬でも難なく通れたのかも知れません。乗馬の経験があれば分かるかも知れないのですが、そういう経験がないのでそこは憶測するしかありません。結果として新田義貞軍が実際に鎌倉に入ったことは事実ですので、馬でも通れると考えるべきかも知れません。
稲村ケ崎を藤沢側から見た写真
鎌倉市街戦が始まり、新田義貞軍が火をつけて回り、北条氏一門は東勝寺に集まって集団で自決したとされています。自決の場所は鶴岡八幡宮から近い山がちな場所ですが、慰霊の目的以外では入ってはいけないとの看板が出されており、とても興味半分で入っていけるような雰囲気のところではありません。私も看板の前まで行きましたが、そこから先には進む気になれず引き返しました。市街戦になると守る側はどうしても弱くなります。攻める側は完全武装で失うものは最大でも自分の命だけですが、守る側は家族の生命と財産も守らなくてはいけないので、後先考えずに命知らずに戦うということだけではすみません。そのため、防衛線を突破されれば観念するしかないものなのかも知れません。ベルリン攻防戦ではソ連軍が侵入した後もブランデンブルク門と総統官邸を中心とするエリアが死守され、その間の市民の犠牲は振り返られなかったわけですが、そういうことの方がむしろ異常というか、通常の観念から逸脱しており、市街戦になれば速やかな事態の収拾を双方が図るという姿勢が求められるべきとも思えます。パリ解放の際、ドイツ軍司令官のコルティッツがヒトラーの命令を無視して穏やかにパリ市を連合軍に引き渡しますが、高く評価されるべき好ましい姿勢のように思います。
鎌倉陥落はほんの数日でのできごとですから、北条氏の人たちも何が起きているのかよく分からない、何が何だかわからないうちに自決に至った、実感を伴わないうちに命を落とすことになったという場合が多かったのではないかと思います。私だったら頭では分かっていても心が追い付いていかないのではないかと思えます。鎌倉武士は禅を好んだと言いますが、座禅を組むことにより死生観を養い、いつでもそういう時のための心の準備をしていたのではないかとも思います。ただ、若い人には難しいのではないかなあとも思い、やはり気の毒という言葉が浮かんできます。
鎌倉はその後、足利尊氏が政務を執る場所として使ったことはありますが、基本的には歴史の表舞台から姿を消していきます。水戸光圀が鎌倉を訪問したことがあるようですが、明治以降、風光明媚な湘南の保養地として知られるようになり、今日のような観光地になります。
藤沢鎌倉辺りは風通しがよく、春夏秋冬を通じて気分良く過ごせるいいところだと私は個人的にとても好きな場所です。


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