秀次事件‐秀吉の乱心

秀吉の姉の息子さんに秀次という人がいました。近代以前は血縁が極めて重要ですし、今でも親戚が出世したら頼もしいものですが、当時のことですから、親戚のおじさんが天下統一をした武将で関白にまでなったのなら、自分は何も努力しなくても素敵な人生が送れると期待してしまうものです。ところが豊臣秀次に限っていえば、それは仇になりました。彼と彼の家族の命を奪う結果になってしまったのです。なぜ、そのようなことになったのか、手短かにご説明しましょう。

そもそもの要因は秀吉に男の子ができなかったことにあります。実際には秀吉は生涯で男子を3人得ていますが、うち2人が早世してしまい、自分の直接の子孫を後継者にすることをあきらめた秀吉は、姉の息子さんの秀次を後継者に指名して関白にも就任するのですが、なんとそこまで来て、淀殿が秀頼を出産します。よくある後継者争いの悩ましいところにはなるのですが、実におそろしいことに、秀吉は秀次を殺すことで問題を解決しようとします。1595年6月、秀吉は秀次が謀反を計画していると主張し始めました。秀吉は秀次を呼びつけましたが、秀次の方はすぐには参上せず、どちらかと言えば自分は何も悪いことをしていないのだから、慈悲を請う理由すらないというような姿勢で事態に臨んでいたようです。ところが秀吉から再三の参上の命がくだり、秀次はやむを得ず伏見城の秀吉のもとへ行きましたが面会できず、高野山へ入るようにとの命令だけが届きました。秀次はそれを受け入れて剃髪し、高野山へ向かいます。これで一生お坊さんの身になるのであれば、それも受け入れるとの姿勢を示したと言えるでしょう。

おそらく、謀反の疑いがあると言われた当初は反発心が湧いたものの秀吉に対抗して勝てるわけがないと観念し、以上の過程のいずれかの段階で、すべて秀吉の言うがままにすることにした、いろいろな意味で秀次があきらめたのだろうと思います。

高野山に入ってからも秀吉からの使者として福島正則がやってきて、遂に切腹の命令がくだされます。秀次をかばうお坊さんもいたようなのですが、もはやこれまでと秀次は秀吉の命を受け入れ、お小姓さんたちとかが殉死したそうです。想像するに大勢の人々、お坊さんとか、福島正則みたいな秀吉から派遣された監視役とかが見守る中、順番に殉死していったのかと思うと、その壮絶な死のセレモニーに戦慄せざるを得ません。そして、高野山で殺生を強制したという事実が、私はキリスト教の洗礼を受けていますので、仏教の因果応報とか、そんなに真剣に信じているわけではないですけれど、やはり、後の豊臣氏に降りかかった惨劇を招くことになったのではないかというようなことをついつい思ってしまいます。

このようにして秀吉の本当の甥である秀次は命を失いましたが、事態はそれで終わりませんでした。秀吉は秀次の家族を全員根絶やしにすることに決めたのです。本当に阿鼻叫喚というか、当時の人々も秀吉の過酷さに対して厳しい目を向けたに違いないですし、秀吉がなぜそこまでやるかと言えば、秀頼を自分の後継者にするために、要するに私利私欲で何も悪いことをしていない人たちをまとめて殺すというわけですから、誰一人、心情的に秀吉の側に立つ人はいなかったのではないでしょうか。だからこそ、後に淀殿と秀頼が家康に追い詰められたときに、十分な援助をしようとする武将をあまり得ることができなかったのではないかとすら思えてきます。

秀次の子供たち、その母親たち、乳母、側室、侍女など39人がことごとく同じ日、同じ場所で殺害され、現場はそれは凄惨な様相を呈していたと言われています。そりゃ、そうでしょうね。あまりに残酷すぎますから。しかも、繰り返しますが、秀吉の私利私欲のためなんです。

秀次と関係者一同がこのように根絶やしにされているとき、秀吉は朝鮮半島と戦争状態にありました。正確には秀吉が侵略戦争を始めていて、秀次が死んだときは、和平交渉が行われてはいましたが、それはのちに決裂して第二次出兵につながっています。

当時の秀吉は誰も戦争したいと思っていないのに、朝鮮半島に大量の軍隊を送り込んで不必要な戦争をし、国内では甥とその家族を殺しつくすということなわけですから、はっきり言って常軌を逸しており、乱心していたとみるしかありません。

私は豊臣政権に対する人望が失われていったことが、家康につけこむ隙を与えた遠因の一つなのではないかと思っています。たとえば天下分け目の関ケ原ですが、誰もが豊臣だけが日本の武士を号令できる特別な家柄なのであって、家康はそうでもないと思っていれば、あのように天下が二分されないと思うのです。家康は表面上、豊臣の家臣としての言動を保ってはいましたが本音ではそうではないということを誰もが気づいていました。それでも家康の側につく武将があれだけ大勢いたというのは、単に家康の策略のうまさだけで片付けられることではなく、やはり晩年の秀吉のことを誰もが批判的な目で見ていたために、どうしても秀頼と淀殿を守ろうとする心理的なアクセルを踏み込めなかったということもあったのではないかと思えてなりません。

私、だいぶ秀吉に対しては批判的です。天下統一後の秀吉は主君の権力を解体し、お茶の先生を切腹させ、甥っ子を切腹させ、外国を侵略しているわけですから、このような人物に理解を示すことはできないというか、どうしても好きになれません。子供のころは太閤記とかも読みましたけれど、美化されすぎていて読み返したいとかも思いませんね。明治政府ができたときに、徳川政権への回帰運動を封じ込めたいといの考えから、豊臣政権を持ち上げる言説が生み出され、それによって秀吉はかなり美化された部分がありますが、最近のドラマや映画ではそうでもないようです。やはり時代によって歴史的人物に対する評価は変遷するものなのですね。秀頼と淀殿には非常に同情していますから、家康による大坂城包囲戦に関する回になったら、今度は豊臣氏に対して同情的な内容になると思います。

今回は秀次とその家族の方々に同情した内容でした。日本史を改めてたどっていくこのシリーズもだいぶ来ました。近代まであと少しです。



豊臣秀吉と豊臣秀次

豊臣秀吉は、人の心を掴むのがうまい、いわゆる人たらしとしてよく知られた人ですが、その心の中は真逆でひたすら冷たい人物だったのではないかと私は想像しています。身分の上下を越えておべっかを言い続ける一方で、利用価値がなくなればさっと切り捨ててしまうタイプだったのだろうという気がします。子どものころに読んだ子供向けの『太閤記』などではその人柄の良さが強調されており、あれを読むと、おー、秀吉ってすごい人だなあと思ってしまいますが、大人になっていろいろ読んだり知識を得たりする中で、どうも秀吉という人物は子どものころに教わったのとは真逆の人物だったようだなあという風に感じられるようになっていきます。そういう私の内面的な過程を経て、私は豊臣秀吉はやっぱり好きになれないなあというある種の結論に至っています。

そのような好きになれない秀吉の一面をよく伝えているのが、豊臣秀次に関するエピソードです。天下人になって向かうところ敵なしの秀吉は多くの姫様を側室にして嫡子の誕生を目指しますが、最初に生まれた鶴松は早世してしまいます。秀吉は自分の子どもへの相続を諦めて、姉の息子である豊臣秀次を後継者に指名して関白の職を譲り、豊臣氏という新しい姓の氏の長者とします。

ところが人生とは不思議なもので、それからしばらくして淀殿が懐妊し、豊臣秀頼が誕生します。その後の秀吉の動きなのですが、秀次を謀反人と決めつけて高野山に幽閉し、秀次に切腹を命じます。更に、秀次一族郎党みな京都で斬首という酷い仕打ちをしています。1595年の出来事ですので、秀吉が利休を切腹させた後のことなのですが、推量するしかないものの、千利休を切腹させたことで秀吉の中の何かが壊れてしまい、自分の心の中にある何かが止まらなくなり、絶対的な権力者なのでそれを止めるものもなく、誰もが心の中に持つ「鬼」の部分が暴走したのかも知れません。

秀次は浅井朝倉攻めの時には秀吉の調略のために人質として差し出されたことがあったほか、本能寺の変の後ではこれも秀吉の政略の道具として三好氏に養子として出されたこともあり、秀吉は秀次を政治的な道具として大変重宝して使っていたわけですが、秀頼が生まれたからというごくごく私的な理由で邪魔になったから殺す、しかも一族郎党全員の命を奪うというのはどうしても人間的に受け入れることができません。

秀吉の姉は大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した後も、徳川家の人物と交流したりしていますが、秀次の件を経験してしまった以上、大阪城の淀殿や秀頼に対しては冷淡な気持ちが生まれてしまったでしょうから、豊臣家滅亡後もそのことで徳川家を憎むという心境にはあまりなかったのではないかという気がします。因果応報という言葉が心中を去来したかも知れません。

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