秀吉の朝鮮出兵を知るとわかる、友達にしてはいけないタイプの男-小西行長

天下統一をなしとげた秀吉は、次の目標として東アジア制服を計画するようになりました。この段階ですでに秀吉はご乱心状態だったとみるべきですが、天下統一をしてしまった後で、武将たちももう戦争とかやるのが嫌になってきていましたから、どうでもいいからとにかく豊臣政権で行こうよ、という空気もあって、しかもみんなが空気を読んだものですから、秀吉ご乱心でも豊臣政権は続きました。

で、秀吉の計画では、明王朝を征服したのちに、当時の後陽成天皇には北京にお引越しいただくという壮大なもので、東南アジア各地の王様にも服属命令の手紙を出してますし、朝鮮半島の李王朝には、北京までの道先案内人をするようにとの要請の手紙を出しています。東南アジアから返事が来なかったのはもちろんことですが、朝鮮の李王朝からもはっきり断られたものですから、秀吉はおかんむり、激おこぷんぷん丸になってしまって、朝鮮半島を武力で征服すると決心してしまいます。

で、諸大名も秀吉様の新たなドリームにおつきあいしなくてはいけなくなったわけで、福岡にお城をつくって前線基地とし、諸大名を集めて、パーティやりながらじっくり長期戦ということになりました。

このとき、朝鮮半島で実際の戦争をしたのが加藤清正と小西行長です。加藤清正は武闘派タイプでソウル・ピョンヤンどころかさらに北上して満州地方に入り、満州族と交戦したと記録されています。極めて旺盛な戦闘意欲を持っていたらしく、虎を退治したなどの話も残っています。

一方の小西行長は実家が商人ということもあって、戦闘行為そのものよりも、戦闘を支えるロジスティクス、要するに兵站の方に関心があって、商人ですから、そういうことにも長けていて、物資の輸送や敵との交渉に才能を発揮していったみたいです。

で、武闘派の加藤清正からすれば、正面切って勇敢に戦うわけではない小西行長に対して非常に悪い感情を持つようになったそうです。小西行長の方も加藤清正のことは嫌いだったみたいです。二人の性格や肌合いはあまりにも違いすぎたというわけですね。小西行長は、同じく文系タイプの石田三成と仲が良かったですから、後の関ケ原の戦いと、朝鮮半島での秀吉家臣の武将のいざこざは陰に陽に影響しています。

加藤清正がいけいけどんどんで北へ北へと攻め進んでいった一方、小西行長は平壌まで来たところで動きを止め、李王朝及び明王朝との交渉を始めようとしています。このあたりの事情は遠藤周作さんの『鉄の首枷』という作品に詳しいですが、小西行長はどのみち秀吉が北京を征服することなんかできっこないと見定めた上で、和平交渉を行い、戦後の主導権を自分が握るというなかなかこすい考えを持っていたようなのですね。なぜこすいのかというと、現場が独自の判断で戦略を立てるようになってしまうと、後方の指令基地と必ず齟齬が生まれるため、戦争そのものがガタガタになってしまうからなんです。

それでも小西行長は独自路線を突き進みました。で、ついに和平交渉の使者が日本へ送られるところへと漕ぎつけます。小西行長は明王朝・李王朝に対しては豊臣秀吉が降伏するということで使者を出させ、秀吉に対しては戦法から降伏の使者が来ますと伝えることで、要するにどちらも自分たちが勝ったと思わせることで戦いを終わらせようと画策しました。途中で行長の打算に気づいた清正が慌てて帰国して、その和平交渉に異議あり!と言おうとしましたが、一歩間に合わず、和平交渉が進んでしまいます。ところが、秀吉を日本国王に任ずるとの文言が出てきたので、あ、これは明の冊封体制に入れられるんだな。あれ?なんで?日本勝ってないの?と日本側が気づきすべてが台無しになります。秀吉も小西行長に騙されていたことに気づき激怒しましたが、行長は特に罰せられることもなく、朝鮮半島の戦争が再開されました。

小西行長は李王朝側に加藤清正の動きを細かく伝えるようになります。まるでスパイです。当初は李王朝サイドも、まさか小西行長が加藤清正をはめようとしているとは思いませんでしたから、日本側からもたらされる情報は嘘なのではないかとの疑いを持ったようなのですが、いつも正確な情報が届くため次第に信用するようになったそうです。これってどういうことかというと、小西行長は加藤清正が戦死すればいいのなあと思って、どうも先方に情報を流していたらしいんですね。こんなことで殺されたら加藤清正としてはたまりませんよね。途中で加藤清正もこのことに気づき、これで両者の反目は決定的になったらしいです。

私、思うんですけど、小西行長みたいなタイプを友達にするのだけは絶対に避けるべきだと思います。中学とか高校で、こういうタイプに出会うと、たとえば自分の秘密を話すと、他の人に言って歩きかねません。密かに裏切るタイプですから始末に負えません。そうだと気付けばすぐにでも手を切るべきタイプだと思います。加藤清正もそうしたかったのかも知れませんけれど、同じ秀吉の家臣というポジションですから、なかなか完全には手を切れなかったのでしょう。

朝鮮半島の戦いの後半戦では蔚山の戦いが行われ、加藤清正が籠城して非常に困難な戦いを強いられました。のちに秀吉が報告を聞いて、武勇が足りない!みたいな感じで関係する武将たちが叱責されています。加藤清正は秀吉に余計な告げ口をしたのは石田三成だと考えるようになり、豊臣家臣は加藤清正を中心とする武将グループと、石田三成や小西行長を中心とするお奉行様系グループに分断されていきます。これが家康につけいるすきを与えることになっていったのでした。

朝鮮半島の戦争は秀吉が死ぬまで続きましたが、秀吉が亡くなると停戦になり、本物の和平交渉へと外交の課題が変わっていきます。もともと日本が朝鮮半島で戦争しなければならない理由はなかったため、秀吉がいなくなればあっさり停戦が成立したというわけです。徳川幕府はこのような負の遺産から李王朝との外交を始める必要があったため苦労が多かったようです。李王朝からすれば、一方的に被害にあったため、簡単には妥協してくれないとか、そういうこともあったと思います。

朝鮮半島での戦争は歴史のあだ花のようなものでしたが、ここで様々な人間関係が決まっていき、状況は関ケ原の戦いへとなだれ込んでいきます。



秀次事件‐秀吉の乱心

秀吉の姉の息子さんに秀次という人がいました。近代以前は血縁が極めて重要ですし、今でも親戚が出世したら頼もしいものですが、当時のことですから、親戚のおじさんが天下統一をした武将で関白にまでなったのなら、自分は何も努力しなくても素敵な人生が送れると期待してしまうものです。ところが豊臣秀次に限っていえば、それは仇になりました。彼と彼の家族の命を奪う結果になってしまったのです。なぜ、そのようなことになったのか、手短かにご説明しましょう。

そもそもの要因は秀吉に男の子ができなかったことにあります。実際には秀吉は生涯で男子を3人得ていますが、うち2人が早世してしまい、自分の直接の子孫を後継者にすることをあきらめた秀吉は、姉の息子さんの秀次を後継者に指名して関白にも就任するのですが、なんとそこまで来て、淀殿が秀頼を出産します。よくある後継者争いの悩ましいところにはなるのですが、実におそろしいことに、秀吉は秀次を殺すことで問題を解決しようとします。1595年6月、秀吉は秀次が謀反を計画していると主張し始めました。秀吉は秀次を呼びつけましたが、秀次の方はすぐには参上せず、どちらかと言えば自分は何も悪いことをしていないのだから、慈悲を請う理由すらないというような姿勢で事態に臨んでいたようです。ところが秀吉から再三の参上の命がくだり、秀次はやむを得ず伏見城の秀吉のもとへ行きましたが面会できず、高野山へ入るようにとの命令だけが届きました。秀次はそれを受け入れて剃髪し、高野山へ向かいます。これで一生お坊さんの身になるのであれば、それも受け入れるとの姿勢を示したと言えるでしょう。

おそらく、謀反の疑いがあると言われた当初は反発心が湧いたものの秀吉に対抗して勝てるわけがないと観念し、以上の過程のいずれかの段階で、すべて秀吉の言うがままにすることにした、いろいろな意味で秀次があきらめたのだろうと思います。

高野山に入ってからも秀吉からの使者として福島正則がやってきて、遂に切腹の命令がくだされます。秀次をかばうお坊さんもいたようなのですが、もはやこれまでと秀次は秀吉の命を受け入れ、お小姓さんたちとかが殉死したそうです。想像するに大勢の人々、お坊さんとか、福島正則みたいな秀吉から派遣された監視役とかが見守る中、順番に殉死していったのかと思うと、その壮絶な死のセレモニーに戦慄せざるを得ません。そして、高野山で殺生を強制したという事実が、私はキリスト教の洗礼を受けていますので、仏教の因果応報とか、そんなに真剣に信じているわけではないですけれど、やはり、後の豊臣氏に降りかかった惨劇を招くことになったのではないかというようなことをついつい思ってしまいます。

このようにして秀吉の本当の甥である秀次は命を失いましたが、事態はそれで終わりませんでした。秀吉は秀次の家族を全員根絶やしにすることに決めたのです。本当に阿鼻叫喚というか、当時の人々も秀吉の過酷さに対して厳しい目を向けたに違いないですし、秀吉がなぜそこまでやるかと言えば、秀頼を自分の後継者にするために、要するに私利私欲で何も悪いことをしていない人たちをまとめて殺すというわけですから、誰一人、心情的に秀吉の側に立つ人はいなかったのではないでしょうか。だからこそ、後に淀殿と秀頼が家康に追い詰められたときに、十分な援助をしようとする武将をあまり得ることができなかったのではないかとすら思えてきます。

秀次の子供たち、その母親たち、乳母、側室、侍女など39人がことごとく同じ日、同じ場所で殺害され、現場はそれは凄惨な様相を呈していたと言われています。そりゃ、そうでしょうね。あまりに残酷すぎますから。しかも、繰り返しますが、秀吉の私利私欲のためなんです。

秀次と関係者一同がこのように根絶やしにされているとき、秀吉は朝鮮半島と戦争状態にありました。正確には秀吉が侵略戦争を始めていて、秀次が死んだときは、和平交渉が行われてはいましたが、それはのちに決裂して第二次出兵につながっています。

当時の秀吉は誰も戦争したいと思っていないのに、朝鮮半島に大量の軍隊を送り込んで不必要な戦争をし、国内では甥とその家族を殺しつくすということなわけですから、はっきり言って常軌を逸しており、乱心していたとみるしかありません。

私は豊臣政権に対する人望が失われていったことが、家康につけこむ隙を与えた遠因の一つなのではないかと思っています。たとえば天下分け目の関ケ原ですが、誰もが豊臣だけが日本の武士を号令できる特別な家柄なのであって、家康はそうでもないと思っていれば、あのように天下が二分されないと思うのです。家康は表面上、豊臣の家臣としての言動を保ってはいましたが本音ではそうではないということを誰もが気づいていました。それでも家康の側につく武将があれだけ大勢いたというのは、単に家康の策略のうまさだけで片付けられることではなく、やはり晩年の秀吉のことを誰もが批判的な目で見ていたために、どうしても秀頼と淀殿を守ろうとする心理的なアクセルを踏み込めなかったということもあったのではないかと思えてなりません。

私、だいぶ秀吉に対しては批判的です。天下統一後の秀吉は主君の権力を解体し、お茶の先生を切腹させ、甥っ子を切腹させ、外国を侵略しているわけですから、このような人物に理解を示すことはできないというか、どうしても好きになれません。子供のころは太閤記とかも読みましたけれど、美化されすぎていて読み返したいとかも思いませんね。明治政府ができたときに、徳川政権への回帰運動を封じ込めたいといの考えから、豊臣政権を持ち上げる言説が生み出され、それによって秀吉はかなり美化された部分がありますが、最近のドラマや映画ではそうでもないようです。やはり時代によって歴史的人物に対する評価は変遷するものなのですね。秀頼と淀殿には非常に同情していますから、家康による大坂城包囲戦に関する回になったら、今度は豊臣氏に対して同情的な内容になると思います。

今回は秀次とその家族の方々に同情した内容でした。日本史を改めてたどっていくこのシリーズもだいぶ来ました。近代まであと少しです。



秀吉と利休

堺の商人の息子である千利休は大人になってからお茶の神様みたいな存在へと変貌していきましたが、そうなっていく過程に於いて織田信長のことを語らないわけにはいきません。利休が政治の世界に登場する第一歩は、信長が堺方面を手中に収めたことをきっかけに、信長のお茶の家庭教師になったことと関係があります。もうちょっと踏み込んで言うなら、利休は信長のお茶担当官僚であって、信長にお茶を教える一方でお茶会を管理監督し、信長の社交を支えたのだと捉えることもできると思います。お茶顧問とも言えるかもしれません。

今でもお茶を飲んで人と交流することは普通の行為ですが、それを教養や芸術の域にまで高めて緊張感を持たせることにより、交流しつつ自らを高めるという非常に興味深い分野へと昇華させていったのは利休であると言われています。

利休本人の芸術性のようなことに関しては、三千家のような非常に格式の高い方々が継承し、研究されていますから、私がここで偉そうなことは何も言えません。

今回の主たるテーマは秀吉と利休です。

信長でお茶の家庭教師をしていた利休は、信長が本能寺の変で倒れた後、秀吉のお茶顧問になります。秀吉にパトロンになってもらいながら、利休は茶道具の開発に力を入れました。その活動は評判が評判を呼び、利休が認めた茶器にとてつもない高値がつくという現象が起きたことはつとに知られています。利休が商人の息子であるということと、このような新しいビジネスを生み出したということは、あるいは関係があるのかもしれません。私は経済が発展した現代に於いて、ビジネスが生まれることはいいことだと思いますが、当時はまだ経済に対する考え方が現代ほど整備されていないので、もしかすると眉をひそめる人もいたかもしれません。野上弥生子さんの『秀吉と利休』という作品では、冒頭で利休がそろばんを弾いています。これは、芸術家としての利休だけではなく、金銭的な利益に敏感な利休の姿も描こうとしたわけであり、芸術性とビジネス性の両方の面を見なければ利休を知ることはできないとの作者の考え方があらわれているのだと思います。

正親町天皇と秀吉の茶会を仕切ったり、秀吉が京都に築いた聚楽第の中に居住したりと、彼は秀吉の取り立てによって商人としてはほとんど極限と言えるのではないかと思えるほどの出世道を歩きます。極めて成功した人生でした。正親町天皇と秀吉の茶会では、有名な黄金の茶室が用いられています。

有名な話ですが、秀吉の弟の秀長が、九州の大大名である大友宗麟に「公式な要件は私に言ってください。ちょっとプライベートな要件の場合は利休に相談してください」と言ったという話があります。利休はそれだけ、秀吉の個人的な心の隙間に入り込んでいたということが想像できます。おそらく利休と秀吉は共依存の関係になっていたのではないでしょうか。遠藤周作さんの作品では、大友宗麟と利休が対面したとき、利休の表情がほんのわずかにゆがむことで、内心、彼が秀吉を見下しているらしいという含みを持たせる場面が描かれています。『王の挽歌』という作品です。

後に利休は秀吉によって切腹させられるわけですが、その原因は未だによくわかっておらず、利休の秀吉に対する軽蔑が、その底流にはあったのではないかとの推測から遠藤周作さんはそのような作品を書いたのだと思います。

さて、ここからは秀吉と利休がどのように仲たがいすることになったのかということについて、考えてみたいと思います。私は利休の弟子である山上宗二の死と関係があるとみるべきなのではないかなあと思います。山上宗二は利休の弟子の中でも極めてランクが高かったそうなのですが、秀吉と口論になり、追放されています。宗二は前田利家のところへ行き、ついで小田原へ行って北条氏に仕えるのですが、秀吉が天下統一の仕上げのために小田原へと来たことで、まるで腐れ縁みたいに両者は再開することになります。

利休が秀吉に宗二と面会するように頼み、その場で彼を赦免してほしいと期待していたのですが、秀吉と宗二は再び口論になり、激高した秀吉の命によって宗二は殺されたのでした。宗二は秀吉のことが嫌いだったのでしょうね。推測ですが、秀吉が織田氏の政権を簒奪して天下統一に動いていたことは誰もが知っていることです。ですから、当時の政治の動きをよく知る人であれば、秀吉に対して批判的な目を向けることは十分にあり得ることです。おそらく宗二もそうだったのではないでしょうか。秀吉もそういう目で見られていることはよく知っていたはずですから、宗二の批判的な目に過剰に反応してしまい、殺してしまったのかもしれません。

このようなことは利休にとって深い心の傷になったに違いありません。なぜなら、たとえ口論になったとしても、それを理由の殺すなどということは人の倫理として受け入れることはとてもできないからです。戦国の武将たちは互いに殺し合いましたが、そこに大義名分があったり、そうせざるを得ない深い理由があったりして、戦いにも作法やルールがあります。飽くまでも武将たちの事情によって戦争が行われていたのであって、武将ではない宗二が、犯罪をおかしたわけでもなく、単に口論したというだけで殺していいということには、たとえ戦国の世であっても、それでいいということなるわけがないのです。ですから、利休の心中としては、秀吉にはパトロンになってもらって世話になってるから、感謝もしているけれど、だけれど、そんな理由で自分の大切な弟子を殺した秀吉を心理的にゆるす気にはどうしてもなれなかったのではないでしょうか。

ですから、記録には残ってはいませんけれど、利休は秀吉を二人きりのときに批判するということもあったかもしれません。あるいは、芸術論議の中にさりげなく皮肉や嘲笑を交えて秀吉を侮辱し、ついに秀吉はそれに耐えられなくなったのかもしれません。秀吉は利休に受け入れてもらえないことへの苦しみがおかしな形で爆発し、利休に死を命じることになったのではないかと思えてなりません。

山上宗二が死んだ次の年に利休は切腹させられていますが、秀吉が利休に切腹を命じた理由として、大徳寺の山門に利休の木像が置かれて、大徳寺を参拝する人は利休の像の足の下をくぐらなくてはならなくなったから、とか、いろいろな茶器に高値をつけて暴利をむさぼったからとか、秀吉の朝鮮出兵に反対意見を持っていたからとか、いろいろ言われていますが、どれも切腹させるようなことではありません。こじつけや言いがかりの類であり、むしろそんな話しかないということが、利休は何も悪いことをしていないということを証明しているとも言え、秀吉との心理的ないさかいに要因があったのであろうと推測することがもっとも理にかなった解釈なのではないかと思えます。

後に徳川家康は、豊臣秀頼が奉納したお寺の鐘の文言に問題があるとして、要するに言いがかりで大坂城包囲戦を行い、豊臣氏を滅亡させました。歴史のめぐりあわせの皮肉さを思わずにいられません。



秀吉と家康

1582年の本能寺の変の時、秀吉は明智光秀を倒すことで織田氏重臣のトップへと躍り出ました。現代日本でいえば、ビートたけしさんがフライデー事件で謹慎しているときに明石家さんまさんがトップスターとしての地位を確固たるものにしたのと同じような感じだと思えばちょうどいいのではないかと思います。

で、1583年には、柴田勝家と織田信孝の連合軍を破り、その二人を死に追いやることで、織田家中に秀吉に対抗できる武将はいなくなりました。現代日本でいえば、アムロがララァのエルメスを撃墜したことにより、アムロに対抗できるニュータイプがいなくなったというのと同じ感じだと捉えればばいいのではないかなと思います。

ところが1584年、秀吉の前にさらなる強敵が現れました。秀吉の野望の前に立ちはだかった最強の敵は徳川家康でした。もともとは三河の弱小大名の息子だった家康ですが、今川も武田も滅ぼした当時は巨大な領地をもつ、日本最大級の大名でした。家康は織田信雄と連合して秀吉と戦う構えをとったのです。敢えてガンダム風に説明するとすれば、ア・バオア・クーの戦いでジオングに乗ったシャアが思った以上に強かったというような感じだと言えば、分かりやすいのではないでしょうか。かえってわかりにくいかもしれませんが、まあ、とりあえず、話を進めます。ちなみに、ア・バオア・クーの戦いを青葉区の戦いという人がいましたが、衝撃的で印象に残ったので、青葉区の戦いという人がいれば、それは正解とみなします。

ここまでの流れを見ると、秀吉が関係者からいかに危険視されていたかがよく分かります。柴田勝家、徳川家康、織田信孝、織田信雄。さらにちょっとわき役で滝川一益がいます。アンチ秀吉のメンバーの錚々たること、きら星のごとくとすら思えます。信長の息子たちに最重要家老、そして最大の同盟者がみんな秀吉を止めようとしたわけです。

秀吉にも味方はいました。池田恒興と丹羽長秀です。やはり、徳川家康や柴田勝家と比べると格が落ちますねえ。家康がシャアだとして、勝家や信長の息子たちは黒い三連星とかランバラルみたいな大物がそろっていると言えますが、秀吉がアムロだとすれば、カイシデンとハヤトコバヤシがそばにいるという感じでしょうかね。しかも丹羽長秀は家康との戦いには参加していません。軟弱者っとセイラさんに平手打ちされそうな勢いですね。

いずれにせよ、この秀吉陣営と家康陣営が争った小牧長久手の戦いが起きました。戦いは半年以上に及び、要するに互いに相手を制する決定的な要素に欠け、事実上の膠着状態に陥ってしまいました。ですが、この戦いの最中、池田恒興がその動きを読まれて戦死していますので、秀吉が不利であったとの印象は残ります。秀吉は焦りました。戦いが膠着状態に陥ってしまったならば、勝敗は世間の印象で決まります。引き分けて講和になったとしても、秀吉に天下を号令する資格があるかどうかについて、世間が認めなければ天下人にはなれません。世間の認めない人物に朝廷が権力を委託することなど、考えられません。

秀吉は家康との決戦はリスクばかりが高いと考え、家康の同盟者である織田信雄に揺さぶりをかけることにしました。家康が秀吉と戦争をする大義名分は、信長という絶対的主君筋の息子の信雄が秀吉を謀反人だと言うので、信雄の依頼を受けて戦っているというものです。ですから、信雄をびびらせて秀吉との講和を承諾させれば家康は戦争を続けることを説明できなくなり、講和に応じざるを得なくなります。そして秀吉が信雄を攻めてみたところ、信雄はあっさりと講和に応じ、事実上の降伏をしたため、今度は家康孤立とすら言える状態になります。池田恒興を戦死に追い込んだように、家康は部分的には勝利していたため、信雄を失い孤立したことは手痛かったに違いありません。

当時、大地震が発生し、秀吉・家康ともにまずは地震対応に追われることになったという想定外の出来事もありました。一部では地震対応で秀吉が引いたために家康は助かったとの指摘もあるようですが、私は家康のしたたかさと慎重さを考えるに、そう簡単なことではないようにも思います。

とはいえ、秀吉と家康は敵対するのは互いにあまりメリットはないと悟り、協力し合うことになりました。形式的には家康が秀吉に屈服して秀吉の家臣になるというものでした。家康は手打ちの儀式のために大坂城に入り、秀吉の弟の秀長の邸宅に宿泊しました。殺そうと思えばいつでも殺せるシチュエーションです。このときに家康を殺しておけば、秀吉はその後安心して老後を過ごせたはずですが、それができなかったというあたりに、私は秀吉が心理的に家康に勝てなかったということの現れなのではないかと思います。秀吉が家康の宿舎を訪問して最終打ち合わせが行われたと言われています。年齢的には秀吉の方が年上ですが、身分的には家康の方が格上ですから、わざわざ大坂城まで出向いてもらった以上、秀吉が家康に気をつかったんでしょうねえ。翌日、諸大名が見ている中、家康は秀吉への忠誠を誓い、秀吉の着ている陣羽織をくださいと言って、それを受け取ると、今後は陣羽織を着させることはありません。と言ったそうです。陣羽織は戦いの最中、陣中で切るためのものですから、要するに二度と秀吉様を戦争で煩わせることはありません。という意味のことを言ったわけですね。家康が秀吉と戦うことはないし、秀吉に歯向かうものがいたら、家康が抑えるというような意味と受け取っていいと思います。

その後、家康は秀吉が亡くなるまで、秀吉の臣下として振舞いました。小田原の北条氏を攻めた時に秀吉と家康が並んで立小便をした話は有名ですが、北条氏の滅亡後に家康は関東地方への国替えを命じられています。当時の感覚では、おそらく関東地方はあまりにも京都から遠く、ずいぶんと寂れたところへ追いやられたという印象だったと思いますが、徳川幕府がこつこつと江戸を開発して今の東京になるわけですから、粘り強いことはいかに大切かを教えられます。晩年の家康は江戸ではなく駿河で過ごしてますから、まあ、家康もちょっとは自分に甘いところがあったのでしょう。

秀吉の死後、今度は家康が遠慮なく豊臣氏を解体し、滅ぼしています。このあたり、家康って慎重なうえに冷酷でまじ怖いと思いますねえ。



明智光秀の自分探し

明智光秀はルーツや経歴が分かったような分からないような不思議な人物で、人物評価も一定しない。本能寺の変の実行犯であることは確かだが、『信長の棺』などで描かれているように、最近は光秀の他に黒幕がいたのではないかという話が流行しており、そっちの方がおもしろいので支持が集まるという構図ができあがっていると言える。

これは、戦前に秀吉が忠臣として高く評価されていたことと関係がある。明治新政府は徳川政権の否定を徹底する必要があったため、明治維新と一切関係のない豊臣秀吉を持ち上げた物語を流布させる必要があった。私が子どものころは戦前の教育を受けた人がまだまだ世の中を仕切っていたので秀吉は立派な人説が流布しており、私も『太閤記』の子供向け版みたいなのを読んで、頭が良くて心がきれいな豊臣秀吉は立派な人だと刷り込まれていた。秀吉は織田信長と良好な人間関係を築き、家臣としても誠実に仕えていて、その誠実さはどれくらいかというと信長が死んだあとに光秀と取引せずに打ち取ったのだからこの上もなく立派な人でそりゃ天下もとるでしょう。というような感じの理解になっていたので必然的に光秀は主君を殺した挙句に自分もやられるダメなやつ説を採用することになる。

やがて時代が下り、21世紀に入ってから秀吉善人説はほぼ姿を消したように思える。光秀を倒した後の秀吉の行動は人間性を疑わざるを得ないほど冷淡で打算的であり、知れば知るほど織田政権の簒奪者だというイメージが強くなってくる。そこから光秀が悪いのではなく裏で糸を引いていたのは秀吉なのではないか、いやいや、家康でしょう、いやいや義昭でしょう、いやいや五摂家でしょうと話がいくらでも散らばって行くのである。

大学で光秀についてしゃべらなくてはいけない時、私は上に述べたような事情をふわふわと考えて、毎年視点を変えてみたり、学生へのサービスのつもりで様々な陰謀説があるという話をしたりする。で、なんとなく光秀の肖像画を見ていて、新しい視点を得た気がしたのでここに備忘のために書いておきたい。憂鬱そうな光秀の表情は自分探しをする学生にそっくりでだ。

明智光秀の憂鬱そうな表情。肖像画はその人の内面を語ることがしばしある。

私は自分探しをする学生を否定しない。大学の教師になるようなタイプは大抵自分探しに時間を浪費するからだ。大学院に行く時点で他の同年代とは違う人生を歩むことになるし、更に留学とかさせてもらったりとかするので他の同世代とは人生に対する姿勢や考え方が広がる一方だ。なので、そういう学生の気持ちは私はよく分かるつもりでいる。

それはそうとして、明智光秀の肖像画を見ていると、ああ、この表情がこの人物の人生を語っているのだなあという心境になった。写真のない時代、絵師は人物の特徴を懸命に肖像画に書き込もうとする。信長、秀吉、家康の肖像画はそれぞれの絵師がその人物の特徴を懸命にとらえて描いたものだと説明すれば分かってもらえると思う。家康と慶喜は目がなんとなく似ていると私は思うのだが、家康の絵師がその特徴をしっかりと捉えていたからだと言えるだろう。

光秀はいつ生まれたのかもあまりはっきりしないし、土岐源氏ということになっているがどんな風に育ったかもよく分からない。ある時から朝倉義景の家臣になり、ある時から足利義昭の家臣になり、ある時から信長の家臣になるという渡り歩き方をしている。深い教養で京の公家たちとも親交があったとされるが、その割に雑な人生を送っているとも言える。想像だが戦国武将は仁義がなければまかり通らない。仁義のないものは後ろから刺されて終わるはずである。光秀の渡り歩き方には仁義がない。義昭の家臣と言っても足利幕府に累代で仕えてきたとかそういうのではない。現代風に言うと大学院から東京大学なのだが、東大ブランドを使うみたいな目で見られていたに相違ないのである。そして彼の憂鬱そうな表情からは、そうでもしなければ人生を這い上がることができなかったのだという彼だけの心の中の真実も見えて来るような気がしてならない。

そう思うと、信長を殺そうという大胆な発想を持つ人間が当時いたとすれば、光秀くらいなのではないか、従って黒幕などというものは存在せず、光秀単独犯行説が実は最も正しいのではないかと最近思うようになった。このブログは私が思ったことを書くのが趣旨なので了解してもらいたい。

秀吉は臨機応変に動くことができるが、自分から大きく物事を構想して操るタイプとは言えない。深い企てを考えるタイプであるとすれば朝鮮出兵のような誇大妄想的行動は採らない。信長が死んだからいけるんじゃねと踏んだのであり、信長を殺すというようなリスクをとるタイプではない。

家康も信長を殺したかったかも知れないが、リスクをとるタイプではない。朝廷も言うまでもないがリスクはとらないし、信長が朝廷を廃止しようとしていたから背後には朝廷が動いたというのは証明できない前提を幾つも積み重ねた結果生まれてくるものなので遊びで考えるのはいいが本気で受け止めることはできない。義昭黒幕説もあるが、義昭には影響力はなかった。

光秀を現代風に表現すれば新卒であまりぱっとしない企業の総合職に滑り込み、転職を重ねて、途中は公務員をやった時期もあって、気づくとグーグルとかアップルとかアマゾンとかソフトバンクみたいな新時代の企業の役員にまで出世したような感じになるはずで、わざわざボスを倒してまで実現しなければならないことなどあるはずがない。だが、自分探しを続けていた(たとえば私もその一人であって、ここではある程度の自嘲を込めているので了解してほしい)タイプは、大胆なことをやってみたくなるのである。光秀が大胆なことをすれば自分が抱えている小さな悩みを解決できるかも知れないというリスキーな思考方法を選ぶタイプだったとすれば、それで充分に、いろいろなことの説明がつくのではないだろうか。



徳川家康と豊臣秀吉

豊臣秀吉にとって、その晩年に最も重くのしかかったのは徳川家康という存在ではなかったかと思います。織田信長が生きていた間、秀吉は信長の家臣で、家康は信長の同盟者ですから、家康の方が格上ではありましたが、同時に信長に認めてもらうための競争者であり、信長の死後、秀吉は清須会議を経て政権を確実なものにしていきますが、その過程で彼に立ちはだかったのが他ならぬ徳川家康でした。

徳川家康は織田信雄と連合し、秀吉を政権の簒奪者であると非難し、北条氏や毛利氏への協力も仰いで秀吉包囲を固めていきます。清須会議の際に秀吉に抱き込まれた池田恒興が秀吉の側につき、戦いは8か月に及ぶ長期戦で、膠着状態が続きますが、長久手の戦いで池田恒興が戦死し、秀吉は窮地に立たされます。劣勢を挽回するため、秀吉は家康との衝突を諦めて家康が担ぐ織田信雄の伊勢を攻め上げ、信雄は単独講和に踏み切り、家康は梯子を外された形になってしまいます。秀吉の戦略勝ちと言えます。

その後、家康と秀吉の間で和解が行われ、家康が秀吉に臣従するという形式でことが収まりました。しかし、戦闘そのものでは家康が勝っていたという事実は誰もが知っていることですし、じゃあもう一回やるかという時におそらくは勝つ自信がなかったのでしょう。家康に何らかの処分が下されるということはありませんでした。秀吉としては恐るべき家康が譲歩してくれたというだけで満足するべきだと考えたのかも知れません。

その後秀吉は小田原攻めで北条氏を滅ぼし、家康を三河から江戸へ国替えをさせます。京都から少しでも遠い所に家康を追放するという狙いがあったことは間違いのない事と思います。秀吉は家康の江戸建設に落ち度があれば難癖をつけて家康征伐ということも狙っていたという話もありますが、もし難癖をつけるのであれば、なんでもいいので理由を見つけて言いがかりをつけて戦端を開いていたでしょうから、秀吉は小牧長久手の戦い以降は家康には勝てないと観念していたのではないかと私は思います。

小田原攻めの前に近衛前久の猶子となって関白職を得て「天下人」になった秀吉は、上昇志向の性格を変えることができず、外へ関心を向け、明征服、その通り道としての朝鮮出兵という完全に無意味なことにエネルギーを費やします。もし私が秀吉のアドバイザーだったら、朝鮮出兵にかける多大な情熱とリソースを家康潰しに使うべきだと提言したと思いますが、秀吉がそうしなかったということは、やはり、家康のことが怖かったのでしょう。家康もそれが分かっていたので、後はじっと秀吉が死ぬのを待つという戦略をとったわけです。秀吉毒殺説があり、秀吉の朝鮮侵攻で迷惑していた李朝が秀吉暗殺を仕掛けたみたいな話を聞いたことがありますが、家康が秀吉を毒殺していても全然おかしくなく、家康は後に李朝との関係改善に努力しますが、両者が協力して秀吉を狙ったということがあったとしても不思議ではありません。完全に想像ですが。

秀吉が亡くなった後、秀吉の危惧した通りに歴史は推移し、やがて長い泰平の江戸時代に入ります。政権交代や下剋上などのダイナミズムを奪い、外国からの影響も排除することで安定指向の時代が作られていくわけですが、幕末になって日本は西洋を事実上無視していたことのつけを払わなくてはいけなくなります。安定した江戸時代が良かったのか悪かったのか、やはり何事も禍福は糾える縄の如しということかも知れません。

関連記事
織田信長と豊臣秀吉
豊臣秀吉と豊臣秀次
大坂夏の陣と徳川家康戦死説

織田信長と豊臣秀吉



豊臣秀吉は晩年、織田信長に寝所から引きずり出されて叱責される夢を何度となく見たといいます。想像するしかありませんが、病気が重くなり自分が近い将来亡くなることへの直観、自分の死後、徳川家康に秀頼が押しつぶされるのではないかという不安、秀次とその一族郎党を殺したことへの良心の呵責などが織田信長という巨大な存在に集約されて秀吉の夢の中に出て来たのではないかという気がします。

また、織田信長暗殺秀吉黒幕説に立てば、信長を殺したのも秀吉ですから、そのことも重く彼の心にのしかかったかも知れません。明智光秀の信長殺害に関する毛利に宛てた手紙が偶然にも秀吉の陣営に届くというのも話がうますぎて、あんまり信用できません。また、近衛前久の猶子になって公卿の家柄になり関白職を手に入れるという流れを見れば、近衛前久と秀吉が密某して信長を殺したとする説も必ずしもとんでも説とも言えない気がしてきます。

信長暗殺秀吉黒幕説が仮に都市伝説のようなものだとしても、本能寺の変の後の秀吉の動きは織田政権の簒奪そのものと言ってよく、このことの事実関係に議論があるわけでもありませんし、主家がその当主が殺されて困っている時に漁夫の利を狙っていくというのは、人間的に全然信用できないということの証左でもあり、そりゃ信長に叱責される夢を見るのも無理のないことのように思えます。

『太閤記』みたいなのを読むと、秀吉が信長の草履を温めていたなどのよくできた主従関係のエピソードが描かれていて、できすぎな感が強いわけですが、太田牛一の『信長公記』では少年時代の信長は結構な悪ガキで行儀も悪く、不良仲間と肩を組んで連れ立って練り歩いていたそうですから、ヤンキーカーストの頂点に立つ信長の目からすれば、秀吉は自分の分をよくわきまえて従順なパシリだったという風な感じで
したでしょうから、使いやすかったのかも知れません。

ヤンキーカーストの世界では強い者と弱い者がはっきりと区別され、席次のようなものも明確になっており、そういうのに馴染めない人物は村八分みたいにされてしまいますので、ローンウルフを選ぶしかなく、芸術家になったり(成功するとは限らない)、坊さんになったりしたのだと思いますが、カーストの内側にいる場合は、力さえあれば逆転したい、下剋上したい、席次を上げたいと思うのが常とも言えるでしょうから、秀吉の場合は正しくその夢を実現したのだと言えますし、且つ、それによって得られる現世的な楽しみを存分に享受したとも言え、おめでとうというくらいのことを言ってあげてもいいですが、清須会議や秀次事件を見ると、「姑息」「ずるがしこい」という言葉どうしても私の頭に浮かび、利休切腹のことを考えると「小さい男」という言葉が浮かび、朝鮮出兵や天皇の北京行幸計画などについては無謀、アホ、現実認識の歪みなどを感じてしまいます。

秀吉のことをただあしざまに述べてしまっているだけになってしまった感がありますので、少しは褒めることも述べようと思いますが、彼の子飼いの家臣たちの忠誠心は非常に高いもので、そこは人の心を掴むのに長けており、この人のためなら死んでもいいという武将が何人もいたという事実は称賛されるに価することではないかと思います。石田三成と加藤清正は互いに憎み合う関係で、殺し合いにまで発展しますが、豊臣氏への忠誠という立場では同じで、関ケ原の戦いの後も豊臣秀頼がかくも大切にされて敬意を集めたのも彼らの忠誠心の高さ故という気がします。秀吉の弱点は一代で天下を獲ったために譜代の家臣がいなかったことだという指摘を読んだことがありますが、たとえば幕末では徳川の譜代大名や旗本たちは結構役立たずで、長年仕えた家臣が頼りになるとは必ずしも言えないという気もします。

やがて全部家康がもらい受けることになりますので、いろいろあってホトトギスですね。

関連記事
勅使河原宏監督『豪姫』の時間を隔てた愛
織田信長と上杉謙信
織田信長と足利義昭と武田信玄

高山右近の無私

大阪で生まれた高山右近は、その人生で無私を貫いた人物として知られており、私も高山右近のことはどうしても敬意を込めて語りたいという感情を持っています。

高山右近が好印象の理由として挙げられるのは、裏切りや謀反が当たり前の時代にあって、そういった渦中に巻き込まれる中、必ず筋を通すというか、裏切りや謀反をした方にはつかなかったというある種の原則を持っていて、それを曲げなかったというものがあるかも知れません。

もっとも、荒木村重には助けてもらった恩があり、荒木村重が織田信長に対して謀反を起こしたときは悩んだ末に筋を通して織田信長に降伏しますが、これは相当に悩んだ末であったことのようです。両方に義理立てできないという時に、筋を曲げている方から離れるという決断ができたのは、自分の中にそういう原則を持っていたからかも知れません。

彼を語る上でカトリックを外すことはできません。いわゆる欲望を満たすという誘惑に揺らがなかったバックボーンとしてカトリックが彼を支えていたであろうことは間違いないように思います。イエズス会は世界各地で随分あこぎなこともしていますので、カトリックが突出して素晴らしいとかそういうことを言うつもりはないですが、高山右近の場合はカトリックを通じて筋を通す自己教育を怠らなかったのだろうと推量します。

豊臣秀吉が伴天連追放令を出したことで、カトリックの洗礼を受けていた高山右近は進退に窮しますが、ここは小西行長の援助を受けてしばらく瀬戸内海に身を隠し、後に前田利家に招かれて、信仰だけに生きる生活を送るようになります。瀬戸内海では領地を捨てての潜伏生活で心理的にも体力的にも厳しかったのではないかと想像しますが、それでも小西行長の援助で生きながらえることができ、更には前田利家が引き受けてくれてもいますから「神は決してお見捨てにならない」という信念をますます強くしたに違いありません。

人生の終盤では、徳川家康がカトリックの禁令を出し、信仰を捨てるか日本を出るかの選択を迫られた時は、信仰を守って日本を出ることを選択し、宣教師たちとともにルソン島のマニラに渡ります。マニラでは熱烈な歓迎を受けたとされていますが、ほどなく病を得て亡くなりました。

この選択は難しいところで、人生の最期くらいゆっくりとした気持ちで穏やかな生活を送りたいと願うのが人情ではないかとも思いますが、彼の場合、信仰を貫くことへの満足感の方がより重要でしたでしょうから、老齢になって知らない土地へ行ったことは確かに苦労でしたでしょうけれども、多少寿命が短くなっても信仰を優先することの方がより彼個人にとっては良かったのではないかと思います。あと、想像ですが、当時の日本のキリシタンの人々のほとんどは南蛮経由でやってくるヨーロッパ人に会うことはあっても、南蛮がどんなところか見ることはできません。ですので、高山右近としてはこれを好機として南蛮がどんなところか見てみたいと思ったのではないかなあとも思います。自分の内面を最後まで守り抜き、知らない土地を見ることもできて、それなりに波乱万丈で、なかなかいい人生ではありませんか。

スポンサーリンク

関連記事
石田三成と加藤清正
勅使河原宏監督『豪姫』の時間を隔てた愛
熊井啓監督『千利休 本覚坊遺文』の静かだが激しい男の意地

豊臣秀吉と豊臣秀次

豊臣秀吉は、人の心を掴むのがうまい、いわゆる人たらしとしてよく知られた人ですが、その心の中は真逆でひたすら冷たい人物だったのではないかと私は想像しています。身分の上下を越えておべっかを言い続ける一方で、利用価値がなくなればさっと切り捨ててしまうタイプだったのだろうという気がします。子どものころに読んだ子供向けの『太閤記』などではその人柄の良さが強調されており、あれを読むと、おー、秀吉ってすごい人だなあと思ってしまいますが、大人になっていろいろ読んだり知識を得たりする中で、どうも秀吉という人物は子どものころに教わったのとは真逆の人物だったようだなあという風に感じられるようになっていきます。そういう私の内面的な過程を経て、私は豊臣秀吉はやっぱり好きになれないなあというある種の結論に至っています。

そのような好きになれない秀吉の一面をよく伝えているのが、豊臣秀次に関するエピソードです。天下人になって向かうところ敵なしの秀吉は多くの姫様を側室にして嫡子の誕生を目指しますが、最初に生まれた鶴松は早世してしまいます。秀吉は自分の子どもへの相続を諦めて、姉の息子である豊臣秀次を後継者に指名して関白の職を譲り、豊臣氏という新しい姓の氏の長者とします。

ところが人生とは不思議なもので、それからしばらくして淀殿が懐妊し、豊臣秀頼が誕生します。その後の秀吉の動きなのですが、秀次を謀反人と決めつけて高野山に幽閉し、秀次に切腹を命じます。更に、秀次一族郎党みな京都で斬首という酷い仕打ちをしています。1595年の出来事ですので、秀吉が利休を切腹させた後のことなのですが、推量するしかないものの、千利休を切腹させたことで秀吉の中の何かが壊れてしまい、自分の心の中にある何かが止まらなくなり、絶対的な権力者なのでそれを止めるものもなく、誰もが心の中に持つ「鬼」の部分が暴走したのかも知れません。

秀次は浅井朝倉攻めの時には秀吉の調略のために人質として差し出されたことがあったほか、本能寺の変の後ではこれも秀吉の政略の道具として三好氏に養子として出されたこともあり、秀吉は秀次を政治的な道具として大変重宝して使っていたわけですが、秀頼が生まれたからというごくごく私的な理由で邪魔になったから殺す、しかも一族郎党全員の命を奪うというのはどうしても人間的に受け入れることができません。

秀吉の姉は大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した後も、徳川家の人物と交流したりしていますが、秀次の件を経験してしまった以上、大阪城の淀殿や秀頼に対しては冷淡な気持ちが生まれてしまったでしょうから、豊臣家滅亡後もそのことで徳川家を憎むという心境にはあまりなかったのではないかという気がします。因果応報という言葉が心中を去来したかも知れません。

スポンサーリンク

関連記事
大坂夏の陣と徳川家康戦死説
勅使河原宏監督『豪姫』の時間を隔てた愛
石田三成と加藤清正

石田三成と加藤清正

豊臣秀吉の死後、豊臣家の家臣は石田三成、小西行長の文治行政官派閥と、加藤清正、福島正則などの武闘派に分裂します。一般に、関ケ原の戦いは豊臣氏に忠誠を誓う石田三成が、ポスト豊臣を狙う徳川家康に挑戦したものだと言われていますが、よく少しよく見てみると、石田三成派が加藤清正派の一掃を狙い、失敗したという側面があるようにも思えます。

豊臣秀吉は朝鮮半島を通って明に攻め込み、当時の世界観で言えばほぼ世界征服に等しい野望を抱きます。それは無駄で無意味な野望ですので、それを評価する人はいないと思いますが、秀吉に引き上げてもらった武将たちは真っすぐな気持ちで戦争に臨み、朝鮮半島に上陸して北上していきます。

この時の戦争のことで、おそらくは当初から肌の合わなかったであろう文治派と武闘派の決裂が決定的になります。加藤清正は秀吉への忠誠心の一心で、鴨緑江を越えて満州族と戦闘するところまで行きますが、堺の商人の息子で、秀吉に取り立てられて武将になった小西行長は平壌から先へは進もうとせず、和平工作することによって戦後の貿易利権を得ようと画策します。また、第二次朝鮮出兵では、加藤清正の動きを朝鮮王朝側に伝えて、加藤清正の戦死を狙う動きを見せており、そのような動きは加藤清正のような当事者であればじっとよく観察していれば分かってきますから、両者が分裂するのは当然と言えば当然のことのように思います。命がけの戦いをしている時に裏切者が出れば、それを赦すというのはなかなかできることではありません。

石田三成も朝鮮半島に上陸しますが、後方の占領地には行くものの、前線へは行きません。仕事の割り当てが違いますから、文官が前線に行く必要はないと言えばそれまでですが、北へ北へと戦って進んだ加藤清正のような立場からすれば、「石田三成は安全なところで口だけ達者だ」と怒りを感じたとしても、それは人情としてそうなるだろうとも思えます。蔚山城の戦いで「一部の日本兵がサボタージュをしていた」という報告が豊臣秀吉の耳に入り、秀吉はサボタージュしたとされる武将たちを叱責しますが、この時の告げ口した側とされた側で秀吉家臣たちは決定的に分裂したとも言われています。

このことの恨みが秀吉の死後に起きた石田三成暗殺未遂事件につながり、反石田派の豊臣家臣たちが関ケ原の戦いでは家康につくという展開になります。このような展開が起きたことの背景には、関ケ原の戦いが当時は豊臣vs徳川の戦いだと考えられていなかったことの証の一つとも言え、石田三成側は自分たちは豊臣秀頼を戴く正規軍のつもりだったかも知れませんが、徳川家康側としては、石田三成が私闘を開始したという議論が可能な構図だったとも言えます。

もし、石田三成の心中を想像するならば、徳川家康は豊臣氏にとって危険な存在なので何とか理由をつけて潰したいが、同時に加藤清正などの同じ豊臣氏内部の政敵をまとめて一掃したい、むしろ人間的な感情としては家康よりも加藤清正や福島正則との決着をつけたい、または自分に対する暗殺未遂事件へのリベンジがしたいということが大きな動機になっていたのではないかとも思えます。同じ職場にそういう相手がいたとしたら、現代でも心理的な負担は大きいに違いありませんから、関ケ原の戦いの準備をしている時、石田三成の脳裏に浮かぶ顔は家康よりも加藤清正だったかも知れません。

関ケ原の戦いの時、反石田三成派の福島正則は東軍の先頭で戦い、加藤清正は九州から動きませんでした。福島正則は徳川家康の味方になるに辺り、豊臣秀頼に害をなさないということを徳川家康に確認を取ろうとしています。仮に豊臣秀頼が石田三成に請われて関ケ原の戦場に登場していれば、どっちが正規軍かがあまりに明らかで徳川家康は負けていたかも知れないとも言われますが、豊臣家家臣が二派に別れて戦っていた以上、秀頼カードがもし切られていれば、有効に機能した可能性は十分にあると思います。そうはなりませんでしたが。

関ケ原の戦いが1600年で、徳川家康が征夷大将軍に任命されるのが1603年ですので、家康は朝廷への工作に3年もかかっていることになり、朝廷としても、また世間的にも関ケ原の戦いを歴史にどう位置付けるについて迷っていたということが感じられます。関ケ原の戦いで徳川家康が勝ってはいるものの、豊臣氏不介入のところで行われた私闘である限り、豊臣氏の権威が揺らぐものではないはずで、この辺りの筋論をどう乗り切るか、家康は苦労したに違いありません。

話が家康に逸れてしまいましたが、石田三成は関ケ原の戦いの後、行方をくらますものの見つかって斬首されます。小西行長も同様の運命を辿ります。加藤清正は豊臣氏への忠誠は変わりませんので、家康と秀頼の会見の際には秀頼を守る目的で二条城へ行き、秀頼に贈られた饅頭に毒が入ってはいけないと、自分が食べて二か月後に病死しています。遅効性の毒が入っていたのではないかと言われる所以になっています。

以上のようなことを考えると、豊臣家臣の分裂が徳川家康に好機を伺う余地を与えたとも言え、チームワークや団結の乱れがいかに深刻な問題かということが分かります。

スポンサーリンク

関連記事
桶狭間の戦いに見る織田信長の選択と集中
乃至政彦『戦国の陣形』に学ぶ
勅使河原宏監督『豪姫』の時間を隔てた愛