福田赴夫内閣‐約束

三木武夫が政治的指導力の限界を呈する形で総辞職し、その次に自民党総裁・内閣総理大臣に指名されたのが福田赴夫です。三木の後継者には大平正芳と福田が取り沙汰されていましたが、都内のホテルで福田と大平がそれぞれの派閥の幹部の立ち合いのもと、総裁任期を二年に縮小した上で、福田の任期が終われば大平に禅譲するという密約がなされ、総裁選で福田が勝利するという展開になります。

福田赴夫は任期中に日中平和友好条約を締結したり、アジア開発銀行を作ったり、ODAを活発化させたりすることで、アジアを主軸に置いた外交を展開します。21世紀の現代、アジアの繁栄ぶりは世界史的にも記憶されていくことになるはずですが、その基礎を築いたという意味では、大きな意味があったかも知れません。また、戦争中の日本が「大東亜共栄圏」という理念を掲げますが、福田の時代になってようやく、戦争という手段に頼らずにそれをやったという意味でもちょっと感慨深い面もないわけではありません。

さて、その福田ですが、月日はあっという間に過ぎ去って、大平への禅譲の日が近づいてきました。過去、吉田茂鳩山一郎に「鳩山さんの公職追放が解けたら政権を返す」と約束しておきながら、その約束を反故にしていきますが、福田も大平への約束のことは忘れたかのように再選を目指して総裁選に立候補します。

悪い言い方をすれば考えが甘かったとも言えるのかも知れないのですが、大平正芳は田中角栄の盟友であり、田中派が攻勢をかけることで、実際の総裁選挙では大きな差が開き、大平正芳が次期首相として指名されます。福田が密約で首相になり、その前の三木が椎名裁定というちょっと傍目には分かりにくい裏の駆け引きの結果で首相になったことを思えば、公正明大な投票で選ばれた分、まだましなようにも思えてきます。

その後、首相が変わる毎に福田赴夫再登板論が浮上し、本人もなかなかやる気だったようですが、それが実現することはありませんでした。田中角栄のカムバックへの執念は有名なものですが、福田と田中が互いに「お前にだけにはやらせない」と潰し合い、双方ともに挫折したと見ることもできるかも知れません。

福田首相時代にダッカ日航機ハイジャック事件が起きますが、この時福田は「人命は地球よりも重い」という名言(迷言?)とともにハイジャック犯たちの要求を受け入れて人質の解放に成功しています。こんにちでもこれは一つの議論のしどころであり、テロリストに資金を渡すのは絶対ダメと考えるべきか、やっぱり人命優先でよかったと思うべきかで意見の割れるところではないかと思います。私個人としてもどっちが正しかったかということについては本当に何とも言えません。

いずれにせよ、時代は大平になりますが、三木派、福田派がなどが内閣不信任決議で欠席するというパフォーマンスに出て、いわゆるハプニング解散へとつながっていきます。

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三木武夫内閣‐椎名裁定とクリーン三木と三木おろし

三角大福中の一人である三木武夫という人は、その名前のわりには印象が薄く、何をしたのかと問われればよく分からない、政争のしぶきから生まれて政争のしぶきで去って行った人という感じがします。

戦前から政治の世界で活躍し、占領下で三木首相が取り沙汰されたこともありましたが、その時は断り、いわば周回遅れで吉田佐藤の後の時代になって再び首相候補として目されていくようになります。実際には三木派は自民党内では少数派閥で、必ずしも本格的な首相候補だったとも言えませんが、田中角栄が金脈問題で追い込まれたことで好機が巡ってきます。

田中角栄は一旦、副総裁の椎名悦三郎に首相の座を譲り、ほとぼりが冷めてから政権にカムバックという絵を描いていたと言われていますが、大平正芳が椎名政権構想を新聞記者にリークすることで紛糾し、椎名政権案は潰れます。

田中角栄vs福田赴夫の党内抗争が激しく、田中に近い大平正芳を指名すれば福田派が自民党離脱をも辞さない構えであり、一方の田中派も仮に福田赴夫が指名されれば自民党を潰す覚悟もありそうな勢いだったとも言え、パワーバランス的にふわっと重力が持ち上がるようにして三木武夫の名前が浮かび上がってきます。

いわゆる椎名裁定では、総裁と幹事長を別の派閥から出すことと、当然のことながら椎名悦三郎本人を指名することがないという前提で党内の合意が図られ、椎名悦三郎が誰を指名しようとそれに服するということで三木武夫が指名されました。その時、三木武夫は「青天の霹靂」とコメントしましたが、前日には三木番の新聞記者から椎名悦三郎の結論が三木武夫に知らされており、裁定文には三木本人が校正を入れるなどしており、晴天の霹靂どころか「うまくものごとがまわってきたわい」と思っていたに違いなく、そうは言っても三木が首相に指名されたことに三木の実力はほとんど関係もなかったわけですから、人生には時としてチャンスの神様が降りて来るということの見本のようなものにも思えます。

田中角栄とのキャラの違いが際立ち「クリーン三木」ともてはやされますが、政治資金規正法の強化などで田中角栄以外にも資金源を必要としている政治家たちからの反発に遭い、いわゆる三木おろしが始まります。一度目の三木おろしは三木が政策的に妥協することで終わりましたが、二度目の三木おろしが起きたとき、三木は解散総選挙も辞さない構えを見せるものの、閣僚の大半が不同意で、三木は解散のチャンスを逃します。解散総選挙は気迫や空気がものを言いますので、そのまま任期満了による解散にずれ込んでしまい、選挙の結果では過半数は確保したものの定員増にも関わらずの議席減ということで責任を負う形で総辞職になります。

このように振り返ってみると、あれ…やっぱりこの人、何をした人なんだろう…という不思議な気持ちになります。振り返れば風が吹いているだけです。


田中角栄内閣‐日中国交正常化と暗転

佐藤栄作の派閥議員を大方抱き込んで田中角栄は田中派を旗揚げします。佐藤栄作は後継総裁に福田赴夫を推していましたが、福田を破り、田中角栄内閣が登場します。三角大福中時代の始まりであり、角福戦争の始まりでもあります。

田中角栄は戦争中からその才覚を発揮し、朝鮮半島に軍需工場を建てる計画(敗戦でとん挫)から巨額の富を得て、金満政治家として政界で頭角を表し吉田茂の側近とも言われていきますが、同時にその人間性に惚れた人も多かったと巷で言われています。ただ、どんな風に豊かな人間性を持っていたのか、少なくとも今残っている動画や写真からは推し量り難いものがあり、実際に会った人ではないと分からなかった部分もあったのかも知れません。

ある時、東京の椿山荘で田中角栄がスピーチをすると、いかにも良家のお嬢様という感じの方が角栄に花束を贈呈した際、角栄はお嬢様にポケットから一万円札を取り出して握らせようとし、公衆の面前でお金を受け取ることに躊躇していたお嬢様は角栄の顔を潰すわけにもいかないので渋々受け取ったというエピソードがあるそうです。その時、周囲の人から「お嬢様が困っていたじゃないですか」と言われ「君ね、お金をもらって嬉しくない人間はいないんだ」と反論したと言います。

私はこのエピソードに田中角栄という人物のいろいろなものが詰まっているように思えてなりません。おそらく田中角栄はこの時、感激したんだと思います。華やぐように美しく、かつ清楚で身ぎれいな良家のお嬢様がわざわざ自分に花束を届けてくれたということに感動したんだと思います。そして、その感激と感謝の気持ちを即座に表したいと思って彼の頭に浮かんだのはお札を渡すことだったのです。

どこまで言ってもお金の人とも言えますし、良家のお嬢様に感激する素朴さに私は心が打たれる部分もありますが、田中角栄の限界が見える気がしないわけでもありません。

佐藤栄作と福田赴夫を倒して首相の座についた田中角栄は、日中国交正常化という大仕事を成し遂げます。結果として台湾が完全につまはじきにされることにもなりますので、良かったのか悪かったのかはもう少し後世にならないと、少なくとも中国と台湾の間で話がつかないことには判断しかねるようにも思えます。

その後、文芸春秋に『田中角栄研究』が掲載され、田中金脈政治が世に問われることになり、激しい批判の中で田中角栄内閣は総辞職する展開に至ります。当時、新聞記者たちは田中角栄のお金をばら撒く政治首相をよく知っており、知っているけど、書くほどのことではないと思って書かなかったのだと言われます。いわゆる記者クラブと政治がどういう関係にあったかが推察できるエピソードであったとも言えます。

その後の政治の世界は首相返り咲きを狙う田中角栄と、後に首相になってやはり返り咲きの好機を伺う角福戦争の文脈で語られるようになっていきます。