西郷隆盛‐人物と時代

西郷隆盛は幕末維新史の人物の中でも特に人気のある人物だと言っていいと思います。彼の性格的な特徴を考えるに、何をやるにも正面から徹底的に取り組むひたむきさ、いつ、どんな時でも失敗を恐れずに行動する豪胆さがあり、味方にすれば心強く、敵に回せば大変に厄介な人物であったろうと思えますが、同時に、常にぎりぎりのラインまで追求するため、剣が峰の上を歩き続けるような危うさがあり、成功する時は期待以上の成果を収める可能性がある一方で、失敗する時は周囲も巻き込んで潰れていくという面があるように思えます。

若いころの西郷隆盛が才能を発揮した有名な例としては、島津氏の分家の御姫様である篤姫と十三代将軍家定との婚礼が行われる際、薩摩藩邸から江戸城まで行列が組まれましたが、その時の行列や婚礼道具の準備等の仕切り役が若き西郷吉之助であったということを挙げることができます。巨大な大名である島津氏から、将軍家への嫁入りですので、行列等々の準備はほとんどロジスティクスと呼べる規模のものだったと思いますが、島津斉彬が西郷を見込んでそれを担当させたあたりに、彼がもともと尋常ならざる才能を持っていたことを示しているように思えます。

一方で、斉彬の死後、島津氏の家長となった島津久光との関係は険悪なもので、島津久光に対して「あなたのような田舎者には理解できない」という趣旨の発言を面と向かってしており、嫌いな人物を侮辱する際にも遠慮なく率直であったことが分かります。

彼は安政の大獄の関係などもあって、二度も島流しに遭っていますが、能力の高さ故に呼び戻され、京都へ向かい、禁門の変の際には幕府・会津藩の軍が苦戦する中に登場して長州藩を撤退に追い込むという活躍を見せています。やはり軍事、即ちロジスティクスの才能に長けていたことを示すエピソードということもできると思います。

徳川慶喜と同盟することによって国政への参加の機会を伺っていた島津氏ですが、後に反慶喜へと方針が変わり、慶喜を共通の敵とする薩長同盟が結ばれることになります。慶喜は大政奉還をすることで一旦は薩長同盟の矛先から逃れることができましたが、島津氏の兵士が京都御所を占領した状態で行われたいわゆる小御所会議で慶喜の処遇について議論が行われた際、土佐の前藩主の山之内容堂が慶喜を強く弁護したためになかなか結論に至らないという状況が起きたのですが、休憩時間に西郷が「短刀一本あればことが足りる」、即ち山之内容堂を殺せばいいじゃないかと言ったことは大変有名なエピソードです。良くも悪くも目的のためには手段を選ばない彼の性格が良く出ているように思います。

戊辰戦争でも随所で西郷の豪胆さが発揮されますが、新しい時代を作ると言う大事業に新政府軍関係者がおっかなびっくりに取り組んでいる中、西郷が不退転の決意で、いつ死んでもいいという覚悟で状況に取り組んだことが、結果としては明治維新を成功させる大きな要因になったように思えます。

しかしながら、おそらく彼は性格的におとなしくしていることが難しい面があり、それが欠点と言えるのではないかとも思えます。明治維新後、岩倉使節団が欧米視察のために出発した後、西郷は留守政府を任されることになりますが、その間に西郷を中心に征韓論が盛り上がりを見せます。それまで幕府と外交関係を結んでいた朝鮮半島の李朝が、新政府との外交関係の樹立に難色を見せたことで、征韓論が盛り上がったわけですが、西郷隆盛が自分で朝鮮半島へ行くと言ってきかず、帰国した大久保とも意見がかみ合なかったため、明治六年の政変で西郷は多くの官吏たちとともに政府を去り、鹿児島へと帰ります。やはり留守政府をじっと守るということが、成功するかどうか分からないということに大胆にチャレンジする彼の性格に合わず、明治六年の政変につながったのではないかと私は個人的に推測しています。

さて、西郷は西南戦争で敗れて切腹して果てるという最期を迎えたわけですが、西南戦争以前の戦いでは常に万全を期し、勝つために手段を選ばなかった豪胆な西郷のイメージとはかけ離れた形での最期だったように思えます。西郷が鹿児島で挙兵した大義名分は東京へ行き新政府の非を大久保に問い質すということだったようですが、実際には西郷が開いていた塾の門下生が新政府の施設を襲撃し、門下生を引き渡すのは忍べず挙兵に至ったようです。ですので、西南戦争の際は、西郷は勝つことを目的としておらず、門下生たちとともに最期を迎えようという、ある種の慈悲の心に徹していたため、勝つための周到さというものに欠き、死に場所を求めて敗走するような展開になったのだと理解することができると思います。西南戦争の場合、西郷の目的は勝利することではなく、門下生とともに死ぬことでしたので、それに徹していたと言うこともでき、徹底して目的達成を目指すという彼の性格や行動パターンは最期まで一貫していたと考えてもさほど真相と大きくかけ離れていないのではないかと思います。



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徳川慶喜と島津久光

徳川慶喜は前半生、実に多くの敵に出会い、彼はことごとく勝利したと言ってもいいのですが、彼の政治家人生でおそらく一番やっかいな存在でありながら、慶喜本人は歯牙にもかけなかったであろうという複雑な立場になる人物が島津久光です。

島津氏は久光が藩の実験を握る前の藩主だった島津斉彬の時代から幕政への参画を試みており、ある意味では傀儡する目的で擁立したのが若き日の一橋慶喜でした。慶喜は水戸徳川家出身であるため、本来なら将軍候補にはなり得ないはずですが、一橋に養子に入ったことで俄然将軍就任の可能性が膨れ上がります。そもそも彼を将軍にするために敢えて一橋に引っ張ったと言うこともできるはずです。

で、慶喜を将軍にしようとするグループが一橋派なわけですが、水戸の徳川斉昭や島津斉彬などが一橋派の支柱になっていくわけです。一方で、井伊直弼は水戸系将軍誕生絶対阻止を目指し、敢えて紀州徳川家の慶福を14代将軍に擁立しようと画策します。8代将軍吉宗以降、紀州徳川家は準本家筋みたいになっていますから、筋としてはさほど悪くはないわけですが、徳川三卿から将軍を出すことが慣例化していた当時、一橋慶喜の方が、法の秩序みたいな観点から言うと有利というちょっと複雑な状況が生まれてきます。結果としては井伊直弼が押し切って14代将軍は慶福に決まり、名を家定を改めて将軍宣下を受けることになります。一方で一橋派は粛清されます。安政の大獄なわけです。

ここで、ぐるっと歴史が変わるのは、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺され、一橋派が息を吹き返します。その時は島津斉彬が亡くなっていて、久光の息子が藩主を相続し、久光は藩父という法律的には何の根拠もないものの、島津家長という不思議な立場で幕政への介入を図っており、一橋慶喜は将軍後見職、更に同じく一橋派だった松平春嶽を政治総裁職に就けるという前例のない荒業が成された背景には久光の画策があったと言われています。

さて、そこまで慶喜に尽くした久光ですが慶喜は久光のことをてんで相手にする気はなかったようです。晩年でのインタビューでも久光のことはあまり好きじゃなかったと述べていますが、幕末の京都で慶喜が政治の中心にいた時代でも、久光に対しては冷たく当たり、酒に酔った勢いで天下の愚物と罵って、敢えて人間関係を破壊して久光の政治への介入を阻止します。久光は侮辱されたことをきっかけに慶喜を支えて幕政に参加するという方針を取りやめ、幕府を潰して島津の天下取りを目指すように方針転換します。

ここで登場するのが西郷隆盛で、隆盛は久光のことが嫌いだったようですが、それでも慶喜を倒すという一点で両者は共通しており、久光の金と兵隊、大久保利通の政治力、西郷隆盛の軍事に関する天才性が実にうまく機能して幕府打倒へと歴史の歯車が動いてきます。その後、廃藩置県で久光は大久保と西郷に騙されたと怒りまくって花火をばんばん打ち上げさせたという話は有名ですが、新政府を作った西郷と大久保も袂を分かち西南戦争に発展していくことはここで改めて述べるまでもありません。島津久光、西郷隆盛、大久保利通という個性も才能も全然違う3人が、たまたまこの時目標を一つにしたことが歴史を変え、それが終わるとばらばらになるというところに天の配剤のようなものを感じなくもありません。

いずれにせよ今回のテーマは慶喜と久光なのですが、もし慶喜が久光と人間関係がうまくいっていたとすれば薩摩藩の討幕方針が打ち出されることもなかったでしょうから、慶喜が久光を排除し続けたのは彼にとっては最大の失策と言えるかも知れません。慶喜の人生で、久光は最も軽く扱った人間の一人に違いないと私は思っていますが、そういうことが後々大きく響くというのは教訓と言えるようにも思えます。もっとも、久光は騒ぎを大きくしただけで本人が何かを成し遂げたというわけでもないように思うので、それでも幕末の最重要人物の一人なわけですから人生というものの不思議さを感じずにはいられませんねえ。






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西郷隆盛‐利他的サイコパス

西郷隆盛は維新三傑の一人に数えられ、剛毅さ、大胆さ、無私の精神、大局観など稀に見る大人物ともてはやされています。しかし、彼の歩んだ道を辿ってみると、かなり無茶というか、精神的にいかれた感じの人であった可能性も否定できないのではないかと思えます。

例えば、藩父島津久光とタイマンなみに意地の張り合いをしたこととか、下級藩士ながら京都で暗躍し、同志の僧侶月照を殺したこと(所説あり)、小御所会議で山之内容堂が異論を唱えて引かない様子を聴いて「殺せばいいじゃないか」という怖い意味での豪胆さ、最後まで徳川慶喜を殺そうとした執念、どれをとっても豪胆、剛毅というよりは目的のためなら手段を択ばぬサイコパスで、世渡りというものを一切考えておらず、常に明日死んでも別にいいという思い切り良さで乗り切っていたことが見えてきます。維新後も征韓論という無茶を唱えたり、西南戦争も始めから死んでもいいやで始めた感がどうしても拭えず、その心中には尋常ならざる激しい炎を抱えていたのではないかと思います。

しかしながら、そのような人物であるにもかかわらず、名声、声望、人望に於いて西郷隆盛ほど突出した人はいないのではないかとも思えます。日本の歴史で彼ほど高く賞賛される人を見つけるのは難しいでしょう。彼は島津久光と対立することで、二度島流しに遭っています。島流しにされていた間、やることがないのでひたすら漢書を読み、勉強したそうです。漢学の世界は2000年前に完成されているもので、道徳、倫理、世渡りとのバランスの取り方、勝ち方、情けのかけ方など成功法則の塊みたいになっていますから、西郷隆盛は島流しに遭っている間にそのような人間とは如何にあるべきか、或いは利他性、人徳というようなものを学び、結果として後天的な自己教育、自己訓練の結果、声望のある人物へと変貌したのではないかと私には思えます。目的のためには手段の択ばぬサイコパスですから、島流し中は本気で勉強して納得し、サイコパスらしくその後は学んだことを徹底したのでははないかと思えるのです。

さて、そのような西郷隆盛は最期は全く勝つ見込みのない西南戦争を始めて、それでもとことん山県有朋を困らせ、最終的には切腹して人生を終えます。明治維新の際には徹底した細心さ、緻密な計算をした西郷が勝つ見込みのない戦争をしたことは現代でも不思議なことのように語られることがありますが、西南戦争のきっかけを作ったのは薩摩の不平士族たちであり、西郷は「そうか。分かった。一緒に死んでやるよ。どうせ死ぬならみんなでパーッと死のうじゃないか」と決心し、サイコパスらしくそれを貫いたのかも知れません。

西郷は遺体が確認されていないため、生存説はついて回り、福沢諭吉も西郷隆盛はロシアにいるらしいという文章を書いたこともあるようなのですが、合理性を追求した福沢諭吉には、西郷的サイコパスが理解できなかったのではないかという気がします。あの西郷があんな風に死ぬわけない、絶対に復讐してくる。と福沢諭吉の思考回路ではそのようにしか思えなかったのかも知れません。もっとも福沢諭吉は外国語の能力だけでこつこつ出世した努力家タイプで、明治維新という天下の大転換には直接関わることができませんでしたから、その辺りのルサンチマンがあって、福沢が権力の末端に入り込んだのは咸臨丸の水夫という肉体労働で勝海舟のことはめちゃめちゃ嫌いでしたから、西郷隆盛に対してもせっかく自分が出世のレールに乗り始めた幕府を倒した恨みもあって、「潔く死んでるわけがねえ」とついつい思ってしまったのかも知れません。しかし、西郷隆盛がサイコパスだという視点から見れば、死ぬと決めたからにはその目的を達成したということなのだろうと私には思えます。



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西南戦争の影響

西南戦争は普通に考えて成功する見込みのない戦いを西郷隆盛が挑んだとされており、私もその通りだと思います。反乱や革命はスピードが命です。正規軍に反撃する時間を与えずに世の中をあれよあれよと変えていかなくてはいけません。戊辰戦争を乗り切った西郷隆盛はそのことをよく知っていたはずですで。西郷軍はのんびりと動いています。西郷本人に勝つつもりがなかったと考えるしかありません。

西郷たちは決起した後にまっすぐに関門環境を目指し、なんとか船を調達して本州に渡り東京を目指すか、それともまずは熊本鎮台を目指すかのどちらかにするかという話になった時に、熊本鎮台をまず攻撃することを選びます。その理由としてはおそらく船を調達する見込みが立たないということが大きかったと思えますが、熊本鎮台のようなところを攻めたところで意味はなく、東京の新政府に準備する時間を与えるだけですので、西郷隆盛はもろもろ分かったうえでそっちを選んだと言えるかも知れません。価値を目指すつもりは最初からなくて、暴発してしまってどうにもならない立場になった薩摩士族たちと一緒に死んでやろうというある種の慈愛であり、新政府軍に実戦の経験を積ませ、勝たせることで時代の変化を日本人に示すという効果も考えていたかも知れません。戊辰戦争の時、徳川慶喜の首を獲ることで時代の変化を分かりやすい形で示そうとした西郷隆盛ですが、十年経って、慶喜の身代わりを務めたということも言えなくもなさそうです。

西郷軍は熊本鎮台のある熊本城を包囲しますが、守備をしていた谷干城がよく守り、意外と簡単には落ちません。そうこうしているうちに山形有朋の新政府軍が九州に上陸します。新政府軍には兵站があり、兵員も火器もどんどん補充できますが、西郷軍はそういうわけにはいきません。弾を使えばそれだけ弾が減るだけです。兵隊が死ねば、それだけ数が減るだけです。下関を目指す前に熊本鎮台を落とそうと選んだ時点で負けたも同然と言えます。もちろん西郷は分かってそうしていたはずです。

田原坂の激戦はつとに知られていますが、西郷軍はここで新政府軍をかなり困らせます。まず坂の上の方を獲っているので銃撃がしやすく、また新政府軍の兵隊は徴兵された素人ですので戦意に乏しく、いざ接近戦となると逃げてしまいます。当時は戦争の主力は銃撃に移っていましたが、銃はそもそも相手が遮蔽物の向こう側に隠れると威力を発揮しませんので、敵のせん滅を狙う場合は接近戦に持ち込むほかはなく、接近戦になった場合は銃を構えている間に相手が斬りかかってきますので、当時はまだ最後は斬り合わなくては勝負がつきません。斬り合いになると薩摩士族はやたらと強く、新政府軍の兵隊は逃げるというのが繰り返されたようです。

山形有朋としてはここで鮮やかな勝ちを収めて徴兵制度の効果を世に知らしめたいところですが、ここはとうとう音を上げて抜刀隊に頼ります。警察官を主力にした抜刀隊は元会津藩士の子弟が多く、仇討ち好機であると大いに士気が上がったといいます。前方から新政府軍が銃撃し、側面から抜刀隊が斬りこむという作戦で西郷軍は敗走せざるを得ず、さ迷うようにしながらやがて鹿児島まで帰り、包囲されて最期を迎えます。

この時のことが新政府軍にとって教訓になり、逃げない兵隊の養成に主眼が置かれるようになります。宣伝と養成は大きく効果を挙げ、日露戦争の時の旅順戦のように効果のあまり期待できない突撃戦が正式な採用に採り入れられたり、最終的には太平洋戦争で現場の兵隊に過大な負担を科すような事態に至ります。途中から軍がある種の虚栄によって自縄自縛していったのではないかと私は思います。



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大政奉還という劇的な政権移行が行われた後も、朝廷は徳川慶喜を頼りにしており、外交を含む当面の各行政事務は徳川が執行することになり、新しい政権にも徳川慶喜を入れた、徳川中心の新政府づくりの流れが生まれます。

岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛は徳川慶喜の智謀に恐れをなしますが、最終手段として武力による御所制圧という結局はかつて長州が試みたことと同じ手段に訴えます。

有名な小御所会議が慶喜を排除した形で開かれ、慶喜の官位と徳川氏の領地の剥奪が決められ、松平春嶽と徳川慶勝が二条城へ行き、その決定を慶喜に伝えます。慶喜は即答を避け、また軍事的な衝突も回避するために徳川軍とともに大阪城まで撤退し、様子を見るという作戦に出ます。慶喜の腹の内ではそのうち慶喜抜きの新政府は瓦解に近い状態となり、泣きついてくるだろうという計算があったと言われています。しかし孝明天皇が亡くなってしまった後ですので、慶喜は以前ほどの優位性が得られたかどうかはちょっと何とも言えないところです。

松平春嶽と徳川慶勝が再び大阪城の慶喜を訪問し、官位と領地の返上について確認しますが、同時に近日中の慶喜上洛についても合意されたと言われています。松平春嶽は心中では慶喜にシンパシーを抱いていたとも言われていますので、新政府内部に慶喜親派がいることと、近日の慶喜上洛が合意されたことは、慶喜的には自分の狙い通りに物事が動きつつあると見ていたかも知れません。実際に慶喜が会議にも出席することになれば、弁舌で負けることはなく、しかも元将軍で母親は宮様という圧倒的な威光がものを言い、主導権を握れると睨んでいたのではないかと思います。

その狙いが崩れるのは江戸で薩摩藩廷を出入り浪士たちが市中で強盗を繰り返すという事件が頻発し、薩摩藩邸焼き討ち事件が起きたことですが、これによって大阪城で不満を抱えたまま我慢していた兵たちの怒りが爆発。徳川慶喜がしぶしぶ同意するという形で徳川軍が京都を目指して進軍します。徳川軍のフランス式歩兵連隊は鳥羽街道を通り、会津軍は伏見街道を通ったとされています。

徳川・会津軍は慶喜上洛の名目でいわば無害通行を主張して京へ入ろうとしますが、薩摩・長州軍がそれを認めず、両者は交渉しますが、ほどなく交渉決裂ということで実力勝負ということになります。

不可解なのはなぜ徳川軍が敗けたのかということに尽きます。会津軍は必ずしも薩摩・長州軍に比して近代化が進んでいたとはいえず、会津藩が注文した大量の最新の銃が戊辰戦争が終わった後に届き、代金を支払う主体が存在しなくなっていたという珍事も発生していますが、これは翻ればこの段階では薩長に対抗できるだけの近代装備はまだ整っていなかったことの証明と言えるかも知れません。そのため、伏見街道で会津が敗けたことは全く不可解ということもできません。

しかしながら、徳川軍は大金をはたいて充分な海軍力と最新式の陸軍力を持っており、既に列強も簡単には手出しできないほどまで強くなっていて、仮に戦局が長期化すれば、海軍力を使って瀬戸内海を封鎖し、山陽道にも艦砲射撃をかけることで薩長の兵站を遮断するという奥の手があり、そもそもそこまでしなくても徳川の歩兵連隊がきちんと使われていれば薩長が一日で敗走した可能性も充分にあったと考えることができます。勝海舟は後に薩長軍は横一列で厚みがなく、どこか一か所でも突破できればそれで勝てたと回想しています。もちろん、勝海舟は現場にいたわけではなく、後から他の人から聞いてそういう見立てをしているわけですが、兵員の差から考えてもおそらくその見立てに相違あるまいとも思えます。

土方歳三が薩長軍には厚みがないことを見抜き、背後に回って挟撃しようとしますが、伊東甲子太郎の残党が近藤勇を銃撃して重傷を負わせたり、新選組の陣地に砲撃を加えたりと狙い撃ちしてそれどころではなくなり、撤退せざるを得なかったようです。

ただ、初日の戦局は一進一退だったものの、翌日、薩長側に錦の御旗が翻り、それにびびった徳川軍が敗走したとされています。私は錦の御旗にびびって敗走したというのが本当かどうかについては懐疑的です。錦の御旗は楠木正成以来使われたことがなく、要するに誰も見たことがないものですから、果たしてそのような旗がたてられたところで、そうだとすぐにわかるかどうかという疑問が残ります。私だったら旗手を狙い撃ちさせます。慶喜が水戸学を叩き込まれていたことと関連付けた説明もよくありますが、慶喜本人は大阪城にいて現場にはいなかったわけですから、関係ないようにも思います。幕府軍関係者が後日、敗戦の理由について述べる際に「錦の御旗が出て来たから…」と言い訳に利用し、薩長側も天皇を担ぐことで自分たちの正当化を図っていますので、その言い訳は薩長にとっても都合がよく、明治に入ってから、双方関係者がそういうことで話をまとめたのではないかという気がしてなりません。

では実際になぜ敗けたのかと言えば、一点突破する意思を持っていなかったのではないかと推量する他なく、覚悟が決まっていなかったと考える以外にはありません。慶喜本人が「このままでは俺は切腹だ…」と保身で脱走していますから、そもそもいろいろダメなわけです。

敢えて言えば、徳川慶喜は井伊直弼の安政の大獄の結果、政治家としてのデビューが遅れ、実際に自分がイニシアチブをとれるようになった時には既に徳川の命運は尽きていたようにも思え、そこは気の毒に思えまし、慶喜からすれば既に内側からダメになってしまった幕府のために腹を切るのはバカバカしいと思ったとしても責められないような気もしなくはありません。

ただ、徳川慶喜は「百言あって一誠なし」と評されるタイプで保身が全てみたいなところがある人ですから、小手先の議論では勝てても、大久保・西郷のようなタイプが死ぬ気でいどんてきた場合にはやっぱり勝てなかっただろうなあとも思えます。




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