1858年にアメリカに領事裁判権と関税自主権のない不平等条約(つまりアメリカ側が不利)を江戸幕府が締結することに成功していたら明治維新は起こらなかったでしょうか?

「1858年にアメリカに領事裁判権と関税自主権のない不平等条約(つまりアメリカ側が不利)を江戸幕府が締結することに成功していたら明治維新は起こらなかったでしょうか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

明治維新が起きた最大の要因は、徳川慶喜にこけにされた島津久光がきれまくって大久保一蔵と西郷吉之助に倒幕を命じたことにありますから、不平等条約はあんまり関係ないと思います。



慶喜助命運動‐フリーメイソン人脈を頼って亡命も視野に

徳川慶喜は1867年の秋に大政奉還をしたわけなのですが、薩長両軍はそれでも慶喜に対する追及の手を緩めず、遂に武力による京都御所の占領という手段に訴え、事態を戦争に持ち込もうとします。慶喜は近代化が進んだ幕府軍が実は張子の虎だと気付いていたため、武力衝突を慎重に避けましたが、同時に、時間が経てば薩長政権は空中分解し、朝廷は自分を頼ってくるであろうことにも確信を持っていたはずで、そういうことであるから、とにかく武力衝突さえしなければいいのだとの戦略のもと、幕府軍を引き連れて京都を離れ、大坂城に入ります。これは戦略的撤退であったはずですが、実際には慶喜が再び京都に入ることはありませんでした。この判断は小手先の効果は期待できましたが、大局的には政局に対するイニシアチブを発揮できなくなるという大きなデメリットを伴うものであり、政治家としての徳川慶喜はこの段階で自分で運命をコントロールできない立場になってしまうことになりました。

慶喜は忍の一字で事態が好転するのを待ちましたが、江戸における薩摩藩邸関係者の治安攪乱運動がおかしな感じで功を奏し、江戸では薩摩藩邸焼き討ちにまで事態が発展してしまい、ことの次第を知った大坂城の徳川将兵たちはいきりたち、慶喜は将兵たちを抑えきることができず、遂に将兵に出撃を許し、事態は鳥羽伏見の戦いに発展します。徳川軍は大坂から京都へ鳥羽街道と伏見街道の二手に別れて進軍し、途中、薩長軍に阻まれ、通せ通さないの押し問答があって、そのまま流れで戦闘状態に入っていきます。この戦いで徳川軍はほぼ完全な敗北を喫したのですが、やはり大きな理由としては充分に考え抜いた戦略や作戦があったわけではなく、感情に任せて漠然と京都まで行こうということしか頭の中になく、実際の戦闘になったときに何をどうしていいのか分からないという部隊があまりにも多かったということを、彼らの敗因として挙げることができるでしょう。要するに深い考えもなければ、必ず成し遂げるする覚悟もなく、やってみて難しいから逃げかえるという体たらくを世界中に露呈してしまったのでした。対する薩長軍はここで敗ければ死ぬ以外に選択肢はないとの覚悟だけは決まっており、碌な戦略はなかったと思いますけれど、その覚悟の点で徳川軍を圧倒することができたと考えていいと思います。勝海舟の回想によれば、薩長軍は防衛ラインが一本しかなく、後詰の予備兵力もなかったため、徳川軍がどこか一か所でも突破していれば、簡単に瓦解していた可能性があったのですが、そのようなことは全然起きませんでした。私個人の想像を交えるとすれば、徳川軍は優勢な兵力に安堵してしまっていて、誰もが自分だけは安全なところに居たいと考えるようになっており、全員が無責任なまま敗れて行ったのだという気がしてなりません。無責任とは本当に恐ろしいものです。徳川軍は近代化された陸軍連隊を投入していましたが、彼ら陸軍連隊は長州征伐戦争では、ほとんど何も仕事をしておらず、鳥羽伏見の戦いでも同様にほとんど何も仕事をしていなかったそうです。新選組だけが極めて勇猛果敢に事態に立ち向かい、他の部隊に比べて極端に多い戦死者を出しています。鳥羽伏見の戦いでは、薩長軍が自らを天皇の軍隊であるということを宣言する目的で錦の御旗を担ぎ出し、それで徳川将兵が腰砕けになったと説明されることがありますが、私はそれは徳川将兵の言い訳のように聞こえてしまってなりません。そもそも、当時、錦の御旗をそれ以前に見たことがある人はいませんでしたから、薩長が錦の御旗を引っ張り出してきても、果たしてそれがなんなのか、きちんと認識され得たのかどうか、私は怪しいものだと思っています。錦の御旗については、この鳥羽伏見の戦い以前に使用された例は後醍醐天皇と足利尊氏の時代にまで遡らなくてはならないそうで、それも太平記にそういうのがあったと書かれているだけで、誰もそれを見たことはやはりなかったのです。ですから徳川将兵が後の時代になって「だって、錦の御旗に逆らうことなんてできないじゃないか」と言い訳の材料としてそれを使ったに違いないと思えてしまうのです。

慶喜の大坂城脱出についても、同じような説明ができるのではないでしょうか。敗走して帰ってきた徳川将兵たちに対し、慶喜はみんな明日もまたがんばろうというような感じの訓示を述べ、その夜のうちに側近とお気に入りの女性たちだけを連れて軍艦で江戸へ脱走します。この慶喜の行動について、慶喜は水戸徳川家の尊王思想的教育を受けて育ったので、錦の御旗の話を聞いて戦意を喪失したとの説明があると思いますけれど、私は違うと思います。慶喜は素晴らしい頭脳を使って自分の保身しか考えていない人でしたから、徳川将兵たちに対して「どうしても、京都まで行きたいというから、許可してやったのに、自分たちより遥かに少ない敵軍に圧倒されて敗走して来たわけだから、お前たちのために俺が命を張る義理はないし、明日から頑張ってもお前たちに勝てるわけないし、このまま大坂城に残って俺が指揮官だということになったら、後で切腹させられるかも知れないし、繰り返すけど、お前たちのために切腹する義理なんかない」と思っていたに違いないのです。そして、脱走を決心した時、錦の御旗が出てきたからというのは良い言い訳にできるとも、その優れた頭脳で考えついたに違いありません。慶喜は、感情で動いてしまって少数の敵にやられてしまう無能な徳川将兵たちを愛していなかったでしょうし、そんなやつらのことはどうでもいいから、見捨てても心が痛まないとの、ある意味非常に適切な判断をして大坂城を脱出したのだと思います。勝てる見込みのない無責任な将兵たちに自分の運命を委ねるより、自分の命が助かるために自己の判断で行動した慶喜の判断は正しかったと言えると思います。彼は兵隊たちを見捨てたという意味で、司令官としては失格でしたが、実際に自分の命は助かったわけですから、九死に一生を得たナイスプレーであったと言えると思います。

これから先、薩長軍のことを新政府軍と呼ぶことにしたいと思いますけれども、西郷吉之助は新政府軍を率いて江戸を目指します。西郷は慶喜を殺す気まんまんだったのですが、西郷の意図を阻む様々な策略が発動されました。まず、慶喜の完全無抵抗な姿勢です。慶喜は朝廷に書いた手紙で謝罪し、抵抗しませんから攻めて来ないでくださいとのお願いもしています。そして本人は上野の寛永寺に引きこもって謹慎の姿勢を貫きました。西郷はこの慶喜の非暴力無抵抗主義を無視することにしました。飽くまでも慶喜を天皇に対する謀反人ということにして、切腹させるか斬首にするかはともかく、殺す気で江戸へと進んだのです。

次に西郷の前に現れたのは、幕臣の山岡鉄舟です。山岡鉄舟は勝海舟に頼まれて、西郷と勝の下交渉のために進撃中の西郷を訪問したのです。ここで西郷は慶喜を他家にお預けにするとの案を示しましたが、山岡鉄舟はそれだけはどうかご容赦くださいと頼み込んだそうです。というのも、武士が他家にお預けになった場合、ほとぼりが冷めたころに切腹させられるというのがわりとよくあることだったらしく、どう考えても慶喜の他家お預かりは切腹のための下準備だとしか思えなかったからなんですね。ドラマなどでは山岡鉄舟の懇願に西郷がほだされたり、その後の勝海舟との会談で、西郷が説得されたりしていますが、実際には、西郷は山岡鉄舟の懇願を一蹴し、慶喜を殺す決意を全く揺るがすことなく、江戸へと進撃を続けたそうです。

西郷の決心をぐらつかせたのは、イギリス公使パークスだったそうです。イギリスは薩英戦争以来、薩摩とは友好関係を樹立しており、イギリス公使のパークスは、国際世論を味方につけたい新政府としても心強い相談相手みたいな感じだったと思うのですが、そのパークスが西郷の陣を訪問し、慶喜を殺すことは国際法に違反すると通告したというのです。国際法では戦闘意欲を喪失した敵を殺してはならないということになっているため、恭順の意を示して謹慎している慶喜を殺すことはできないし、そんなことをしたらイギリスは新政府を支持しないし、他の諸国もそうするだろうと、通告したというか、西郷を脅したんですね。西郷はここで決心をにぶらせてしまったようです。

さて、総仕上げは勝海舟です。勝は江戸の三田にあった薩摩藩邸に入った西郷隆盛を訪問します。この時、おそらく西郷はすでに慶喜を殺すことを諦めており、両者の話し合いは穏やかなものだったと言います。なにしろ、勝海舟が慶喜の命の代わりに持ってきたお土産が素晴らしいわけですね。徳川軍は完全に無抵抗で江戸城を明け渡すというわけです。そしてもし、この申し出を西郷が断った場合は、江戸を火の海にして徹底抗戦するというわけですから、西郷にとっては楽に江戸城を手に入れられる絶好のチャンスでもあったわけで、これで慶喜助命問題は決着しました。勝は三田の山に位置した薩摩藩邸から見える江戸の街を指さして、こんなに素晴らしい場所を戦火から救わなくてはならないと西郷を説得したそうですが、このエピソードは西郷を脅した話なんだと理解するのがいいと思います。もし慶喜を殺したら、江戸を火の海にして抵抗する。その結果生じる如何なる不都合も責任は西郷にあると勝は言っていたわけですね。

勝海舟の回想によると、それでも西郷が慶喜を殺すことにこだわった場合は慶喜をイギリスに亡命させることでパークスと話がついていたそうです。私、思うんですけど、慶喜は側近の西周の紹介でフリーメイソンのメンバーになっていたんじゃないかと思うんですが、パークスもフリーメイソンのメンバーで、勝海舟もやっぱりフリーメイソンのメンバーだったんじゃないかという気がするんです。で、一連のできごとはフリーメイソンの互助的な機能が功を奏したんじゃないかなと思えなくもないんですね。まあ、ここは想像です。でも、そんな風に考えるといろいろ辻褄が合うように思えるんですよね。

このようにして、慶喜は徳川家康以来受け継がれてきた徳川家の全ての遺産と引き換えに助かることに成功しました。慶喜は水戸で謹慎し、その後は静岡で引退生活を送り、晩年は明治天皇と会見して名誉回復して公爵として都内で暮らし、20世紀まで生きました。私は慶喜のこのような開き直った生き方が嫌いじゃありません。歴代将軍の中で最も長寿な人であったそうです。

これで慶喜は完全に歴史の表舞台からは消え去り、政治とも無関係になります。また、徳川復権の可能性が全くなくなった以上、新政府が日本を代表する唯一の政府になったはずなのですが、それでも新政府軍はいけにえを求めて北上していきました。それはまた次回以降にやりたいと思います。



井伊直弼殺害事件‐徳川幕府の終わりの始まり

ペリーが日本にやってきて以来、西洋を受け入れるか、それとも拒絶するかについて、日本国内で激しい侃々諤々の議論がなされましたが、その裏テーマとして、徳川幕府の主流は果たして誰なのかという権力ゲームが行われていました。思想面と血統面での争いがあざなえる縄の如くに絡み合っていますので、私なりに解きほどいてみたいと思います。

当時の徳川幕府が荒れた理由は、水戸徳川家の息子さんである徳川慶喜が一橋の養子に入ったことにあります。水戸徳川家は徳川家康の遺言で絶対に徳川将軍を継承できない立場だったのですが、そのために水戸徳川の人たちはどうしてもいじけてしまい、将軍よりも天皇に関心が強くなって、尊王思想を基本とする独特な皇国史観の体系を形作っていきました。有名な水戸黄門が大日本史を編纂したのも、将軍になれないことへのいじけ心から、天皇中心思想を軸にした歴史書を作ろうと思ったからなんですね。

で、水戸黄門から200年、水戸徳川はひたすら尊王思想を強めていったわけですけれど、そこの息子さんである慶喜が一橋の養子に入ったのはかなりの大事件だったわけです。というのも、一橋は本来、当時の徳川の主流だった徳川吉宗の子孫が継承できる家柄で、ここの当主になる人は直球で将軍候補になります。徳川慶喜を一橋の養子に入れたのは、12代将軍の徳川家慶で、家慶の息子さんの家定が長生きできないであろうと考えて、頭が特別にいいことで有名だった水戸の慶喜を家定の次にの将軍にしようというプランがそこにはあったわけです。

当然、慶喜の実家である水戸徳川家はフィーバー状態になります。水戸徳川の当主である徳川斉昭も、幕政に参加するビッグチャンス到来と信じ、慶喜が将軍になる前から態度がでかくなり、あちこちに口も出すようになり、それだけ人望を失っていきました。人望がないうえに思いつきで西洋軍艦を設計させたら進水式と同時に船が沈むという大恥までかいています。

一方で、幕府の中枢の官僚たちは、まさか水戸徳川が幕政に介入してくるとは考えていませんでしたから、嫌がることこの上ないという感じになってしまい、徳川幕府は開国という非常に難しい時期に、内部分裂で苦しむという状況に陥っていたわけなんですね。

幕府官僚たちが嫌いに嫌いまくった徳川斉昭を抑え込むためのカウンターパートとして、幕府守旧派の意見を代表して政治の表舞台に登場してきたのが、非常に有名な井伊直弼です。彼は幕府内部世論を背景に大老に就任し、表の仕事としては安政五か国条約を結ぶなど、日本の開国を進めていきましたが、裏の仕事としては、傍若無人な水戸の徳川斉昭を抑え込むということに熱心に取り組みました。

幕府は井伊直弼グループと徳川斉昭グループに分裂し、仁義なき戦いに発展します。ぶっちゃけ徳川斉昭グループはほとんど孤立していたに等しいと言ってもいいのですが、なんといっても持っている切り札が一橋慶喜で、将来の将軍候補ですから、やたらと強いわけです。

井伊直弼vs徳川斉昭の第一ラウンドは、第14代将軍指名争いでした。順当にけば慶喜が指名されることになるわけで、慶喜で押し切ろうとした人々を一橋派と呼びました。井伊直弼たちは、対抗馬として、なんと吉宗の実家である紀州徳川の藩主である徳川慶福を担ぎ出してきます。吉宗が紀州徳川の実家を出てから既に100年。ぶっちゃけ慶福と吉宗の血筋なんて全然遠いわけですけど、それでも水戸徳川の方がもっと血筋的には遠いので、なんとかここは慶福で押し切り、とにもかくにも徳川斉昭を牽制しようというわけで、彼らを南紀派と呼びました。紀州のことを南紀と呼ぶので南紀派ですね。和歌山みやげとして有名な南紀和歌山那智黒キャンディーの南紀です。那智黒キャンディーの黒糖を使った癖になる甘さは一度食べると忘れることはできません。

幕府内での支持の厚みは井伊直弼の方が圧倒的だったのですが、徳川斉昭は水戸の人物らしく思想面で井伊直弼を攻撃します。即ち、井伊直弼が開国したのは、家康から家光にかけて完成された鎖国という国是を破壊するもので、神の国である日本をダメにするものだというわけですね。水戸は皇国史観のメッカみたいなところで、伊勢出身の本居宣長みたいな全国の国学の学者たちともつながりが深いため、その方面から井伊の一番痛いところを突いてきたわけです。井伊直弼が開国派で尊王攘夷の武士たちに批判されたと説明されることが多いですが、その本質は直弼と斉彬の権力争いであったということは改めて強調しておきたいと思います。このときの一橋派の中に、その後の政局で慶喜を支え続けた福井藩主の松平春嶽もいました。

この将軍後継指名争いは職権を握っていた井伊直弼が勝ちました。紀州藩主徳川慶福が14代将軍に決まり、彼は徳川家茂と名を改めて江戸城に入ります。井伊直弼の凄いところは、それで終わりとするわけではなく、将軍の威光も後ろ盾として使えますから、勢いで一橋派の面々を逮捕しまくったことです。これを安政の大獄と言います。思想面の対立であったかのように装われていますが、実質的には将軍後継争いに関わる人間関係の遺恨が原因で起きたのが安政の大獄なわけです。

この安政の大獄により、水戸斉昭と息子の一橋慶喜はともに犯罪者認定され、外出禁止が命じられました。徳川家の人物が家臣筋の井伊直弼によって外出禁止にされたというのは、江戸幕府史上初のことであったはずです。松平春嶽の命令で慶喜擁立に尽力した福井藩主の橋本佐内はなんと斬首という極めて残酷な扱いを受けています。武士であればせめて切腹。そもそも将軍の後継者争いというあくまでも権力ゲームに過ぎないことで死人を出すというのは、井伊直弼は明らかにやりすぎと思います。他にも西郷吉之助の親友の月照という僧侶が一橋派に与したとの理由で追われる身となり、おそらくは島津久光の命で西郷吉之助によって殺されています。西郷の立場を概観するに、親友の月照が慶喜擁立に与する以上、少なくとも心情的には慶喜擁立派だった可能性がありますが、戊辰戦争の時にはぎりぎりまで慶喜を殺すことに努力を傾けています。月照を慶喜のために失った以上、慶喜には死んでもらうという私怨なんかもあったのではないかと私はちょっとうがった見方をしてしまいます。

さて、水戸藩士たちがいきりたちました。そりゃそうです。主君の徳川斉昭が井伊直弼によって犯罪者扱いされたのです。しかも徳川斉昭は外出禁止が解ける前に病死しました。獄中での死と同じです。井伊直弼は一橋派のネガティブキャンペーンが功を奏し、当時、尊王攘夷派の武士たちからは日本をダメにする政治家ワースト1みたいな目で見られていたため、水戸藩士たちは井伊直弼を殺すことは単なる私怨だけではなく、日本を良くすることだとすら信じるようになり、彼の命を狙うとの決心を固めました。

桜田門外の変では、元水戸藩士たちが犯人だという風に教科書などには書かれますが、彼らは水戸藩に迷惑をかけてはいけないので、まずは脱藩してから井伊直弼殺害に及んだわけです。

当日の朝、井伊直弼の屋敷から江戸城桜田門までおよそ400メートルほどの距離で、本来なら直弼の行列はすぐに江戸城内に入ってしかるべきですが、そこを狙われて直弼は絶命します。当日は雪だったため、護衛の武士たちは刀に水が入らないように布を被せていたために抜刀が遅くなり、撃退できなかったとも言われています。

尚、江戸時代、殺されるというのは最大の不名誉であるため、武士が殺されると、その家は断絶します。有名なものだと吉良上野介が赤穂浪士に殺害された事件で吉良家は廃止され、上野介の息子さんも座敷牢みたいなところに入れられて病死しています。20代前半でしたから、本当に病死かどうかも怪しいわけですが、要するに人間扱いされていません。井伊直弼は彦根藩主ですから、通常なら彦根藩が廃止される事態になるはずなのですが、やはり本当にそんな風にすると、幕府がめちゃくちゃになってしまうとの判断があったからなのか、当時の正式な発表は病死でした。誰も信じていない、大本営発表みたいな発表でしたが、まあ、いかに恥を忍ぼうとも、彦根藩を守るということで関係者一同結束したのだろうなということが分かりますね。

後に、戊辰戦争が始まった鳥羽伏見の戦いでは、幕府の形成が不利だとみると、極めて早い段階で彦根藩は官軍についていますが、これはやはり、当時の徳川宗家の主君で徳川慶喜で、徳川慶喜の実家の水戸藩は彦根藩の仇みたいなものですから、慶喜のために戦う義理はないと彦根藩の兵隊たちが思ったとしても全く不思議ではありません。

幕府は戦う前から既に内部から崩壊し始めていたということも見えてきます。桜田門外の変は、幕末の歴史の中ではわりと前半に出てくるエピソードと言えますが、すでに徳川慶喜と西郷吉之助という幕末最大のスーパースターがかかわっていたということで非常に興味深いです。

井伊家の人にとっては災難だったに違いありませんから、井伊直弼には敬意を払いたいと思います。あの時代にあまり混乱を招くことなく西洋列強と渡り合い、不平等条約とはいえ、それを結ぶことによって日本の国際的な地位をある程度安定させたことは、日本の植民地化を避けることに大いに貢献したに違いありません。その点は高く評価されるべきではないかなと思います。