西田幾多郎‐アブセンス・オブ・マインド

人の意識と禅の関係を追求した西田幾多郎が、ぼんやりとうわのそらになってしまう、うっかりしてしまった瞬間について述べたものです。西田の思想が日常のどのような場面に適用され得るかについてのヒントを得ることができるように思います。青空文庫に収録されているものを朗読しました。

アブセンス・オブ・マインドというエッセイは、西洋哲学を日本人の感性でも理解できる、腑に落ちるものにしようともがいた西田の呼吸のようなものも感じられるものです。また、明治以降の日本の学問の蓄積の深さが西田を生んだことへの驚きも否定できません。日常のほんのちょっとしたところから考える、私とは何か、人間とは何かという思考の片鱗を感じ取ることができます。




【自己訓練】マインドフルネス呼吸法をやってみた

最近、精神科医の和田秀樹さんが監修したアドラー心理学に関するムック本を読んでみたのですが、本の後ろの方でマインドフルネス呼吸法をやってみましょうみたいなことが書いてあったので、ちょっとやってみました。

マインドフルネス呼吸法というのはやり方そのものは簡単で、本の説明に従えば、楽な姿勢で座り、目を閉じ、数秒かけて息を吸い、数秒かけて吐く、というただそれだけのことですから、難しいということは全然ありません。以前、座禅を習ったことがあるのですが、そこでは先生から座禅をする時は雑念を追い払わなくてはいけない、雑念が浮かんでい来たら意図的にそれを排除し「無」の状態を目指さなくてはいけないと教わりました。それを実践するのは意外と難しいもので、雑念は次から次へと湧いてきますから、雑念を追い払おうとする心の動きだけで結構疲れてしまいます。また、座禅の組み方や姿勢の在り方なども、ちゃんとしたお作法やルールがありますから、そっちの方に気を取られ、精神が休まるとかそういう境地にはなかなか辿り着くことができませんでした。もちろん、西田幾多郎が座禅を通じて東洋の思想を西洋的な論理でも理解できるように体系化したことには意義があり、マインドフルネス呼吸法も究極的には西田幾多郎的な善の研究的なところを目指す一歩なのだとは思いますし、ゆくゆくは座禅マスターみたいなところにたどり着きたいという願望のようなものはあります。とはいえ、実践的に今の生活に合うようにというような感じで求めるとすれば、マインドフルネス呼吸法の方がやりやすいなあというのが実感です。マインドフルネスと座禅のどちらかがより優れているかなどという議論を始めてしまえば、むしろ本来の目的にそぐわず、本末転倒かも知れません。

マインドフルネス呼吸法のいいところは、禅を習ったときに禁じられた雑念を放置してオーケーなところです。むしろ、静かに目を閉じ呼吸をしているときは湧いてくる雑念からヒントが得られるのではないかとすら思えます。アニメの一休さんが座禅を組んで頓智を思いつくのも、マインドフルネス的効果なのではなかろうかという気がします。

先日、ちょっとやってみて、頭の中に「無理するな」という言葉が浮かび、あ、そうか、楽に生きよう。などと思え、自分にとってはちょうど自分に必要な言葉だったように思えましたから、自己対話としても活用できるのではないかという気がします。ユングは人の心の中には、女性的な男性性、男性的な女性性、感情的包容力のある女性性、リーダーシップのある男性性などが同居しているとしましたが、自己対話とは、そういった自分の内面にあるいくつかのパーソナリティとの対話であるかも知れず、それは迷ったときや疲れているとき、困ったときなどに叡智に近づく効果的な方法であるかも知れません。

まあ、そこまで深く考えなくとも、休憩としても最適ですから、今後も思い立った時にやってみようと思います。ほんの数分、目を閉じて静かに呼吸するだけで、意外と疲れも減少すると感じます。

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西田幾多郎‐人は世界を経験し、自分になる

西田幾多郎は太平洋戦争の国策推進を思想面からサポートしようとしたとして批判されたこともあったようですが、西田本人は東条英機が全然自分の考えを理解できていないとおおいに嘆いたとも言われています。

西田幾多郎といえば『善の研究』という著名な著作がありますが、果たして彼の言う「善」とはどういうものなのでしょうか。彼は善とは人間が自分を実現することだと述べていますが、ここではそれについてもう一歩深く考えてみたいと思います。

西田は禅の経験を通じ、人は禅によって世界と自己を認識し、やがて世界と自己がアウフヘーベンみたいなことを起こして結合し、それが繰り返されてより高次のものへと発展していくと考えました。我々が生きるこの世界には目には見えないものの、確実に存在する宇宙意思のようなものがあり、世界も人もある特定の方向へと、即ち宇宙の意思を実現する方向へと発展していくというわけです。

発展段階論を唯物論的に説明するのではなく、精神的にも説明しようとした点で、西洋哲学と東洋哲学を融合させようとしたと評価されています。

ここで、「善」とは自己を実現することだということに戻ってみたいと思います。人は生まれてから死ぬということをただただ繰り返しているわけですが、それは無意味な反復というわけではありません。この世界に宇宙意思があるとする前提に立てば、人が生まれるのは宇宙意思にとっては必然と言えます。従って、生まれて来た個人が自分とは何かを突き詰めて探求し、自分の意思を実現させていくことは、宇宙意思にも沿うものであり、必然的にそれは「善」であるということができます。

自己を実現するためには、完全にお気楽便利な世界であっては困ります。何故なら、不都合なことが起き、それを解決しようと努力することによって人は進歩し、自分を理解することができ、最終的に自己を実現することができます。我々が生きている世界は不便なことも不都合なことも多いですし、自分の意に沿わないことが多発することで、悲嘆に暮れることもあれば、生きるのがいやになってしまうこともあります。

しかしながら、自分に意に沿わない現象が起きるのは、自分を実現するために必要なことだと考えることができれば、悲嘆に暮れることはありません。むしろ、不都合なことに出会う度に、より自分は自分を実現できるようになるのだと思うことができるわけですから、世界は不都合な方が好都合というわけです。

如何に生きるかということについて大変に示唆に富んだ哲学ではないかも思えます。

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