大磯と近代

大磯を歩いてきた。大磯は興味深い場所だ。まずなんといっても風光明媚だ。天気が良ければ富士山が見えるし、そのような日は相模湾の向こうに伊豆大島も見える。景色に占める海と山、人の世界のバランスが絶妙で飽きない。海岸に出て右手を見れば伊豆半島で、左手を見れば江ノ島と三浦半島が見える。これほど贅沢な景色のあるところは日本中探してもそうはあるまい。

そしてもう一つ、おもしろいのは近代に入って別荘地として大磯は人気が高かったことだ。たとえば西園寺公望は大磯に本格的な洋館を建てた。もともとが幼少期のころの明治天皇の遊び相手で、明治・大正・昭和と政界に鎮座し、元老という実質最高権力者の位置に立ち、昭和天皇のアドバイザーというか教育係みたいな人物だった西園寺は、長いフランス生活から帰った後、しばらくの間、大磯で生活した。

旧西園寺公望邸

西園寺邸よりももう少し二宮方面へ歩くと、吉田茂邸もある。吉田茂は大磯で生涯を閉じた。彼の邸宅は見事なもので、まるで高級旅館である。このほか、原敬、大隈重信、西周、伊藤博文とビッグネームが並ぶ。そして私は山県有朋の名前がないことに気づいた。山県は小田原で別荘を構えていたが大磯には別荘を持っていなかったということなのだろう。で、漠然とではあるが、あることに気づいた。明治から昭和初期にかけての政界は、厳密にではないにせよ、ある程度、漠然とではあっても、小田原派と大磯派に分かれていたであろうと言うことだ。
旧吉田邸
小田原にいた山県有朋は政党政治を重視せず、超然内閣路線の支持者だった。戦前の帝国憲法では議会に勢力を持っていない人物が首相に指名されることは制度上可能だった。山県は議会の意向を無視した、すなわち、超然とした内閣が組閣されるべきとした政治思想を持ち、国民から嫌われまくって生涯を終えた。

一方、山県とはライバル関係にあった伊藤博文は党人派だった。伊藤の時代に政党政治はまだ、やや早すぎた可能性はあるが、伊藤の理想は現代日本のように、選挙で選ばれた議会の人物が首相になり、議会と行政の両方を抑えて政策運営をすることだった。イギリス型議会政治を目指したと言ってもいいと思う。この伊藤の理想を大正時代に入って実現したのが、初の平民宰相として歴史に名を遺した原敬であり、首相指名権を持つ元老は議会の第一党の党首を自動的に首相に指名する「憲政の常道」を作り上げた西園寺公望だ。伊藤博文、原敬、西園寺公望のような政党政治派の人材がこぞって大磯に別宅を構えたのは偶然ではないように私には思えた。おそらく一時期、大磯派の、即ち党人派の人物たちは東京から離れた大磯で密会して意思決定していたに違いあるまい。

もっとも、それはあまり長くは続かなかった。伊藤は暗殺され、原敬は鎌倉の腰越に別荘を移した。原はその後東京駅で暗殺されている。西園寺も大磯を離れ、昭和期は静岡県で過ごしている。東京から遠すぎるので、226事件の時、西園寺は無事だった。いずれにせよ、党人派はバラバラになってしまったわけだが、その現象と戦前の政党政治の失敗が重なって見えるのは私だけだろうか。もちろん、樺山資紀みたいな党人派とか超然内閣とか関係ない人も大磯に別荘を持っていたので、私に垣間見えたのは、そういった諸事のほんの一部だ。

大磯はそういった近代日本の縮図の一端を垣間見せてくれる土地であり、やはり風光明媚なことに変わりなく、都心からもさほど離れているわけではないということもあって、非常に魅力的な土地だ。できれば私も大磯に別荘がほしい。ま、それは夢ってことで。



明治憲法と元老

明治憲法は表面的に読んだだけでは、実際のことがよく分からないように書かれています。まず、間違いないと思いますが、伊藤博文が故意に、分かりにくく書いたのではないかと私は思っております。以下にその理由を述べたいと思います。

まず第一に、天皇は神聖にして犯すべからずとなっており、天皇が国政を総攬するとも書かれてあります。もしこの部分だけを切り取って読めば、天皇親政、天皇が個人の意思で独裁的な政治を行うかのように読むことができます。たとえばロシアのツアーリや中国の皇帝のようなイメージですね。しかし、同時に憲法には天皇は憲法の規定に従うとされており、更に内閣が天皇を輔弼するとも書かれています。つまり、天皇は内閣と一緒に政治をするとも読めますが、ここで意味しているところは、内閣が天皇の代わりに政治をするので、天皇は何もしないと書かれているわけです。国政を総攬するはずの天皇が何もせず、実は内閣が政治をするというわけなのですから、これは分かりにくいに違いありません。

もう一点、和戦の大権、つまり戦争を始めたりやめたりする権利、即ち軍隊に対して指揮命令をする権利は天皇に属しているとされています。軍隊に対する指揮命令権、即ち統帥権を内閣が持っていないことになるわけですが、戦争という手段は当時であれば外交の最終手段です。それを持たない内閣に内政も外交もさせるので、はっきり言えば内閣の権限がそれだけ曖昧になり、議会によって追求される一番いいネタにされてしまいました。講和も軍縮も、議会による政府糾弾のネタになりますし、新聞もおもしろがって騒ぎ立てます。和戦の権利は天皇の大権なのに、政治家が勝手に戦争を辞めようとしている、みたいなレトリックになっていくわけです。日露戦争が終わった後の日比谷焼き討ち事件なんかもそういう種類の話に入ります。

とはいえ、明治日本はなかなかに成功した国家であったということは否定できないと思います。19世紀は弱肉強食の帝国主義、植民地主義が世界の流れでしたが、その中で欧米に植民地化されることもなく、産業化、工業化にも成功し、戦争もまさか勝てるとは思えない相手と始めて勝っています。つまり、うまく機能していたわけですね。憲法は政治家には戦争に関して意思決定できないと書いてあるのに、政治家がきちんと判断して戦争を始めるタイミングを見計らい、終わりのタイミングも見計らって、ちょうどいいところを狙って無理のない講和を結んで行きます。なぜこのようなことができたのかというと、元老という憲法に記載されていない集団が存在し、彼らが実質上の日本の支配者、日本帝国のオーナーだったからです。

元老は伊藤博文や山形有朋、西郷従道のような明治維新の功労者に与えられる称号で、一番多い時には11人ぐらいいたはずです。最後の元老はお公家さんのご出身の西園寺公望でした。西園寺はお公家さんですが、基本的には薩長藩閥で構成されており、明治日本の支配者が薩長藩閥だということが実によく分かります。この元老たちが首相の指名も行い、いろいろなことを話し合いで合意して、日清戦争や日露戦争も進めて行きます。内閣総理大臣は軍隊に対する指揮命令権を持っていないわけですが、元老には指揮命令の権利があると暗黙裡に了解されており、全ては元老たちが決めていたわけですね。で、憲法の縛りもないので、良くも悪くも自由に動くことができ、良く言えば現実的で臨機応変に、悪く言えば寡頭政治で黒幕的な存在として日本を動かしていたということができます。結果として、彼らが元気だった間は彼ら自身がアメリカと戦争しても勝てないことを知っているので、そういう無理なことは最初から考えもしませんし、薩長ともに幕末には英米と戦って彼らの強さをよく知っていますから、英米協調路線でうまく世界と渡り合って行ったと言えると思いますす。

最後の元老の西園寺公望は、長くフランスで生活し、議会制民主主義の価値感を充分に学んで帰って来ます。西園寺が帰ってきたころ、日本はまだ建前上は議会政治でしたが、実質上は元老政治が続いていましたので、西園寺が最後の元老になった時、彼は独自の判断で、議会選挙で民意を得た政党の党首を首相に選ぶという「憲政の常道」を確立しようとします。しかし、当時は暗殺が横行していて、首相になったら即暗殺対象みたいな時代でしたので、西園寺本人が議会主義者であったにも関わらず、軍人出身者を首相に指名せざるを得なくなっていきます。このような世相の中、世間からもプリンスとしてもてはやされた近衛文麿を最後の民主主義のカードとして西園寺が切り出したのですが、近衛文麿は多分、社会主義的なことをやろうとしたんだと思いますけれど、大政翼賛会を作って「幕府復活かよ」みたいに揶揄され、日中戦争も深みにはまっていってしまったという悲しい流れになってしまったわけです。西園寺は太平洋戦争が始まる少し前に亡くなっていますが、最後の言葉は「近衛は日本をどこへ連れて行くつもりや」だったそうです。

このように見て行くと、立憲主義は大切ですし、私も立憲主義を支持していますが、条文そのものだけでなく、いかにして運用されるかがより重要なのなのではないかと思えてきます。明治憲法であっても、元老という非法規的集団が政治家と軍人を操って国策を進めていたことで物事を仕切っていました。逆に、教条主義的に憲法を捉えると、統帥権干犯などと言われて現実的な政治ができなくなり、おかしな深みへとはまりこんでしまったと言うことができそうな気がします。これは現代にも通じる教訓になるのではないでしょうか。




昭和史65‐日独伊三国同盟と昭和天皇の詔書

とある情報機関が発行していた機関紙の昭和15年10月15日付の号では、盛大に日独伊三国同盟の成立を祝福しています。昭和天皇の詔書、更には近衛文麿の告諭、ついでにダメ押しの如くリーフェンシュタールの『民族の祭典』の宣伝まで掲載した狂喜乱舞ぶりを見せています。現代人の視点からすれば、アドルフヒトラーと手を結ぶというのは絶対にあり得ないとしか思えないですし、アメリカ・イギリスが「日本帝国滅亡させてもいいよね」と決心させる決定打になったとも思いますから、当時の資料を読むのはつくづくため息をつかざるを得ないのですが、取り敢えず、まず、昭和天皇の詔書の内容を見てみたいと思います。

政府二命ジテ帝国ト其ノ意図ヲ同ジクスル独伊両国トノ提携協力ヲ議セシメ茲二三国間二於ケル条約ノ成立ヲ見タルハ朕ノ深ク悦ブ所ナリ

とされています。この詔書を誰が起草したのかは分かりませんが、近衛文麿首相が強く働きかけて詔書の渙発に至ったことは間違いないものではないかと思います。近衛文麿としては天皇に詔書を出させることで三国同盟の正統性を高めたいという意図があったに違いなしと思います。昭和天皇本人がアドルフヒトラーに対してどういう意見を持っていたのかは多少謎ではありますが、昭和天皇は天皇に即位したばかりのころは色々と政治に口を出し、自分の影響力の大きさに驚いて立憲君主に専念しようと誓ったものの、やっぱりついつい口を出してしまうと繰り返していましたから、近衛文麿がアドルフヒトラーと組みたいと言い出した時に絶対反対というわけではなかったのかも知れません。『昭和天皇独白録』では、ナチスと話をまとめて帰って来た松岡洋右について「ヒトラーに買収でもされたのではないか」とかなり冷ややかなことを語っていますが、敗戦後のことですから、昭和15年の時の天皇の心境と敗戦後の天皇の心境には大きな変化があったと考える方が自然と思えますから、やはり昭和15年の段階で昭和天皇本音がどこにあったかはなんとも言えません。首相選びについては昭和天皇はファッショな人物は避けるようにという意見表面をしたことがあったようですが、近衛文麿は全体主義こそ国家国民を救うと信じ込んでいた本物のファシストとも思え、本当に昭和天皇は近衛文麿が首相でいいと思っていたのか疑問にも思えてきます。しかし一方で昭和天皇には名門出身者に対してはある程度寛容で、信用もしていたようですから、天皇家、宮家に次ぐ日本屈指の名門である近衛家の人物ということで、近衛文麿に対しては思想を越えた信頼があったのかも知れません。

昭和天皇が政府要人と会見した際、大抵の場合、要人の椅子の背もたれは暖かくなかったと言います。緊張して背筋を伸ばしていたからです。ところが近衛文麿が立ち去った後、背もたれは暖かかったと言いますから、近衛が昭和天皇に対する時もだいぶリラックスした感じだったことが想像できます。昭和天皇は大正天皇の摂政を努めた時から政治の中心にいて、政治家としてのキャリアは半端なく、大抵の政治家や官僚、軍人は昭和天皇に比べればどうってことないみたいな感じで恐縮するしかなかったのかも知れないものの、近衛文麿は西園寺公望に仕込まれて若いころにはベルサイユ会議にも参加していますから、近衛は近衛で政治家としてのキャリアは半端なく、家柄もその辺の軍人や官僚とは全然違うという自負もあったに違いありません。昭和天皇と近衛文麿、両者の呼吸の具合、人間関係を踏み込んで調べていけば面白いかも知れないですが、取り敢えずここでは日独伊三国同盟に話を戻します。

当該の号では昭和天皇の詔書の下に「内閣総理大臣公爵」近衛文麿の告諭が掲載されています。そこでは

今ヤ帝国ハ愈々決心ヲ新ニシテ、大東亜ノ新秩序建設二邁進スル秋ナリ(ここで言う「秋」とは「時」というニュアンス。一日千秋の「秋」みたいな感じでしょうか)

と述べられています。果たして近衛の言う大東亜がどこまでの広さなのか、東南アジアもシベリアも行けるところまでひたすら突き進むという意味なのか、それともそれなりにどの程度の広さという考えがあったのかどうか、はっきりとしたことは私にも分かりませんが、諸外国の人物が読めば「日本はアドルフヒトラーみたいな凄いのと手を結んだから行けるところまで行くぜっ」と宣言しているように見えたに違いありません。アドルフヒトラーは日本と同盟してソビエト連邦を挟み撃ちにする野望を抱いていた一方で、松岡洋右はベルリンからの帰りに立ち寄ってモスクワで日ソ不可侵条約を結んで帰って来たという一点をとってみても、日本とドイツは同床異夢の関係で、この同盟はほとんど有効に機能することもなく、後世にアドルフヒトラーのような極悪人と手を結んだという日本人に対する悪評だけが残ったわけですから、こうして日本帝国は滅亡していくのかと思うと「ため息」以外の言葉を書くことができません。

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広田弘毅内閣

226事件で岡田啓介首相が退陣した後、組閣を命じられたのが広田弘毅です。当初、西園寺公望は近衛文麿を首相に推す意向を持っていたようですが、近衛が固辞し、吉田茂の説得で広田弘毅が組閣を引き受けることになったという経緯があるようです。

広田弘毅という人は見るからに文官風で、東京裁判で裁かれている姿を見ると、違和感というか受け入れがたいというか、何か不可思議な儀式を見せられているような気分になってしまうのですが、広田弘毅内閣の時代に軍部大臣現役武官制を復活させたこと、日独防共協定を結んだこと、それから近衛内閣の時代に外務大臣を務めた際、南京攻略戦後に強行な外交策に出てトラウトマン和平工作を水泡に帰させたことなど、確かに要所要所で日本が滅亡していく方向へと舵を切っていたと見ることも可能かも知れません。

軍部大臣現役武官制については、仮に予備役の軍人を大臣に据えることができたとしても、軍部大臣そのものが大抵の場合、陸海軍の意向を受けて行動もするし、辞表もチラつかせて脅しかけてくるしという面があるので、このことだけで軍国主義への道を開いたと考えるのは酷なように思えます。このような制度を作ろうと作るまいと、犬養毅が統帥権干犯問題で内閣を揺さぶる手法が可能だということを証明した後は、軍のなすがままにならざるを得なかったのではないかと私には思えます。

では、日独防共協定はどうでしょうか。日本としてはソビエト連邦に備えるための外交策で、リッペントロップが積極的に活動して締結されたものですが、後にアドルフヒトラーは独ソ不可侵条約を締結したことで「欧米事情は複雑怪奇」と言わしめるほどに当時の国策を実現していくものではなかったことが分かります。日本はアドルフヒトラーの外交のお遊びにつき合わされて引っ張りまわされただけで、英米からの敵視が増幅するという副作用もあったわけですので、こっちは体を張ってでも拒絶すべきものだったのではないかという気がします。

後に重臣会議のメンバーとなった広田弘毅は日独伊三国同盟の締結について、英米を敵に回すという理由で強く反対したらしいのですが、果たして日独防共協定は推して三国同盟に反対するというのはどういう心境なのかと首を傾げてしまいます。

もちろん「ソビエト連邦の脅威に対抗できるのならばヒトラーと手を組む、そうでなければ手を組まない」というロジックが理解できないわけではありません。しかしながら、最終的には対英米の協和が必須だったことは間違いなく、重要なポイントには取り組まず、小手先でいろいろなんとかしようとしたのが裏目裏目に出たのではないかという気がしなくもありません。大局を見誤っていたとしか言えません。

南京攻略戦後の交渉材料のつり上げによるトラウトマン工作の破綻は、広田弘毅が「外交のプロ」として、敵の首都を陥落させた以上、要求は更に大きくできるという常道を通したのかも知れませんが、実際問題としてはそれも裏目に出たわけで、策士策に溺れるの感が否めません。

東京裁判では広田弘毅は「自ら計らわない」に徹し、一切の自己弁護を行わなかったことで知られています。もしかすると、ヒトラーや蒋介石との外交で策謀を働かせ、次々と裏目に出て国を滅亡に導いてしまったことへの自責のようなものからそのような心境になったのではないかという気がします。

そうはいっても文官が文官としての仕事をして極刑に処されるというのはやはり気の毒というか、感情的に受け入れがたいものがあります。広田弘毅という人物をどう評価するかは、或いはあと30年ぐらい待ってみて、東京裁判の時代に生きていた人がいなくなったくらいからやり直さなくてはいけないのかも知れません。

広田弘毅内閣は馬場鍈一大蔵大臣の超巨大予算で混乱が生じ、寺内寿一陸軍大臣と政友会の浜田国松との間で「軍を侮辱するのか」「軍を侮辱していない。速記録を見返して軍を侮辱した箇所があったら私は腹を切る。もし見つからなかったら寺内君が腹を切れ」というタイマンの張り合いが起き、頭にきた寺内は広田首相に懲罰的な議会の解散を要求しますが、広田内閣は内閣不一致として総辞職します。

当時はもはや軍の影響力を排除した組閣は不可能に近い状態に陥っており、予備役の林銑十郎が次の組閣を担うことになります。

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岡田啓介内閣‐226事件

海軍出身の斎藤実の内閣が帝人事件で退陣したものの、「失政」による退陣とは言い難いとの判断が働き、西園寺公望はいわば憲政の常道の延長戦的な手法で斎藤と同じ海軍出身の岡田啓介を後継首相に指名します。

岡田啓介はロンドン軍縮会議をまとめた人物でもあり、軍縮路線の人物であったとも言えると思いますが、在任中にはロンドン・ワシントンの軍縮条約からは脱退します。

西園寺公望が政友会に全く政権を回さないため、しびれを切らした政友会が美濃部達吉博士の天皇機関説を攻撃して止まず、軍部からは軍拡圧力が止まず、名目上挙国一致内閣を作ったものの、十字砲火を浴びて立ち往生してしまいます。天皇機関説を否定する「国体明徴声明」を出したり、第二次ロンドン条約には参加しなかったりと、諸方面をなだめることに右往左往しますが、議会で多数を握る政友会が内閣不信任決議案を出したことを受けて岡田首相は衆議院の解散総選挙に打って出ます。

結果、岡田を論難して止まなかった政友会は大きく議席を減らし、民政党は過半数にこそ及ばなかったものの第一党となり、これで岡田への論難は止むかと見られましたが、なんと選挙結果が出た数日後に226事件が起きてしまいます。

一般には真崎甚三郎が自分を首班とした内閣を作ることを策謀し、若手の将校たちを煽って起こさせたものと考えられていますが、当時は西園寺が海軍に連続して首相の座を与えていたことが政友会と陸軍の双方に焦りを与えていたとも言え、首相指名権を持つ西園寺と陸軍・政友会との間に深刻な軋轢があったことがうかがい知れます。

首相官邸を襲撃した反乱将校たちは岡田啓介首相の義弟を首相と間違えて殺害し「これで内閣は倒れるので、次は西園寺公望を殺して重臣たちに真崎甚三郎首班を認めさせる手筈が整った」と思ったのも束の間、岡田首相が生きて首相官邸から脱出したことが分かった上に、西園寺も無事。昭和天皇大激怒の話も入ってきて、失敗を認めざるを得なくなっていきます。

権力争いのために統帥権だの天皇機関説だのをやり玉に挙げて論難したり、人を殺してでもと息まくあたり、本当にがっくりくる話ばかりです。

岡田啓介首相は確かに無事に脱出できたとは言うものの、恐懼に耐えず、辞表を提出します。西園寺公望は後継首相として岡田内閣で外相を務めた広田弘毅氏を指名します。陸軍には絶対に首相の椅子は回さないという西園寺の決心が垣間見えますが、論難しては政権を潰す政党政治にも限界を感じていたようにも見受けられます。文官でただ一人、A級戦犯で絞首刑の判決を受けるという広田氏の最期を想うと、こんな複雑な時に首相をやらされて気の毒としか思えません。時代はいよいよきな臭くなっていきます。

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民政党の若槻礼次郎が満州事変の時局収拾のための挙国一致内閣を作ることを断念し総辞職したことから、西園寺公望は憲政の常道にのっとって野党第一党の政友会の総裁である犬養毅を首相に指名します。犬養毅は首相に就任すると衆議院の解散総選挙を行い、政友会は議席を大きく伸ばします。当時はどうも「与党」に人気が集まりやすい傾向があったのかも知れません。

犬養毅は満州問題について、主権は蒋介石の国民党にあることを認めつつ、実質上は日本が支配するというプランを持っていたようですが、それが軍部からの反発を招きます。私個人としては軍部は一体何をしたいのか、終わりなき拡張主義に首を傾げざるを得ません。

犬養毅は野党時代、ロンドン軍縮条約に反対しており、これははっきり言えば政権を論難するための議論の議論のようなもので、政治家が外国と軍縮について決めるというのは天皇の統帥権の干犯で憲法違反だという論陣を張ります。「統帥権」さえ持ち出せば、政治家は軍に介入できないという議論の構成を「アリ」にしてしまった意味で、犬養の責任は重いように思えます。

満州問題の穏健な収集路線が軍から反発を受けていたほか、ロンドン軍縮条約に反発する海軍の将校が、若槻礼次郎を狙うつもりが若槻内閣が倒れて犬養内閣になったことで、拳を振り下ろす先を失くししまった感があったものの、それでも犬養をヤレという勢いで5.15事件を起こします。犬養はロンドン軍縮条約に反対でしたから、海軍にとっては味方してくれる政治家の筈ですが、条約を破棄するわけでもなく、そのまま行きそうだったので、ヤッたということは議論の筋道としては分からなくもありませんが、そもそもロンドン軍縮条約は日本の要求をほぼ満たしており、それでも殺したいほど不満に持つというのは、理解不能というか、軍部の突出したいという勢いが止まらなくなったというか、この時期のころから、軍部の独裁国家を作りたいという一部の関係者の願望が実現化しようとしていた、おかしな時代に見えてしかたがありません。知れば知るほど暗い気分になってきてしまいます。

犬養毅には森格という側近がいて、犬養曰く「森は危険すぎるから手元においた(野放しにすると何をするかわからない)」ということらしいのですが、5.15事件では森が軍人を手引きしたという噂が流れ、なんともきな臭い、こんなところにフィクサーが隠れていたのかと思うと、愕然とするというよりも、その手のフィクサー気取りがあちこちにごろごろいて、追放しても追放しても出てきますので、もう、日本の運命は滅亡するところまで突っ走る以外に道はなかったのかも知れません。暗いなあ。実に暗い…。

犬養政権後の後継首相選びでは軍が強気で、政友会も対外強硬派の首相を出したがっており、西園寺はとりあえず、八方収めるために海軍出身だが穏健派と見られた斎藤実を後継首相として推薦します。西園寺の心中には自分の理想とする政党政治の在り方と、実際の政党人の在り方の乖離が激しすぎて絶望的なものがあったのではないかという気がします。これで政党政治は実質的に終了し、後はもう無理難題が押し通って後戻りできない滅亡への一方通行へと入って行ってしまいます。

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浜口雄幸が暴漢に襲われて執務が不可能になったことが原因で、浜口内閣が総辞職すると、西園寺公望は浜口雄幸と同じ民政党の若槻礼次郎を二度目の首相に指名します。浜口内閣は失政によって総辞職したわけではないため、憲政の常道にのっとり、西園寺は民政党政権を持続させました。

第二次若槻内閣では、日本の運命を決定づけたとも言える満州事変が起きており、外務大臣の幣原喜重郎が平和外交を進めようとしますが、中村大尉が張学良の配下に殺害されるたという事件が公表されたことで民意が激高していたため、幣原の対外融和策は「軟弱外交」と批判されます。

陸軍大臣の南次郎は若槻内閣の一員として協調路線に協力しようという意思はあったようなのですが、陸軍部内の強硬派からの突き上げを受け、板挟みの状態になってしまいます。満州事変は石原莞爾が独自の判断で勝手に起こしたと言ってもいいものですから、政治の側からは予算を止めるという対抗措置も不可能ではありませんでしたが、南次郎はそこまで踏み込むわけでもなく、現場の暴走を黙認、または追認していき、いわば成り行きまかせで主体性を失っていたように見えなくもありません。

若槻礼次郎は事態不拡大の方針で臨もうとしましたが、現場が勝手に動くことを抑えることができないことで、内閣が同様し始めます。内大臣の安達謙蔵は政友会との連立政権を組む挙国一致内閣を作ることで内閣の主導権を強めようと動き出し、当初は若槻もそれに乗ろうとしましたが、平和外交主義の幣原喜重郎と緊縮財政主義の井上準之助が反対します。政友会と連立すると政策に影響が出ますので、思うように政治ができなくなるというわけです。

若槻は幣原と井上に押し切られ、一旦はまとまりかけた政友会との連立を白紙に戻そうとします。安達謙蔵が内大臣を辞職することで丸く収めようとしましたが、頭にきた安達が辞表を出さずに自宅にこもりきったまま出て来ないという状態に陥ってしまい、内閣不一致で第二次若槻礼次郎内閣は総辞職へと追い込まれます。

このように見ていくと、昭和初期で軍部が台頭していく中、首相が軍への指揮命令権(統帥権)を持っていなかったこと、他の大臣を罷免する権限を有していなかったことが、日本の政治の大きな弱点になっていたことが分かります。伊藤博文は首相に権力が集まり過ぎないように配慮してそういう仕組みにしたのだと思いますし、首相指名権が元老にあったというのも、明治維新創業者世代が現役だったうちは真の意思決定者は元老であり、首相は実務者のトップに過ぎないという意識から生まれたことだと思いますが、幸運に恵まれた創業期と違い、この時期になると首相に嵌められた手枷足枷が柔軟性を奪い、責任のある意思決定ができないまま、滅亡へひた走りに走ったと思えなくもありません。

西園寺は若槻礼次郎が内閣不一致で総辞職したことを受け、失政による総辞職であったことから、政友会の犬養毅を後継首相に指名します。この政党政治の終焉が近づいていきます。

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浜口雄幸内閣‐軍縮と緊縮財政

浜口雄幸内閣は、田中義一内閣が某満州重大事件で天皇に叱責されたことを口実に退任した後、西園寺公望が「憲政の常道」にのっとり、結成されたばかりの民政党の総裁である浜口幸雄を首相に推薦することで登場します。

幣原喜重郎を外務大臣に起用し、ロンドン軍縮条約の成立に成功させます。ロンドン軍縮条約はワシントン軍縮条約に比べると日本に有利な内容になったと言え、ワシントン軍縮条約での軍艦保有比率ががイギリス10、アメリカ10、日本6だったことに対し、日本は自国の比率を7にすることを求めていましたが、ロンドン軍縮条約では日本の比率が6.975というほぼ7に達したと見て良いくらいの数字を獲得していますので、外交的には相手の面子を立てつつ自国の目的も果たして万々歳と言ったところなのですが、政友会から「統帥権干犯だ」というある種の攻撃の攻撃、議論の議論を持ち出されて、浜口を論難します。実質を見ずに政敵を論難することに腐心する政治家の様子から西園寺公望はじょじょに政党政治への理想を失っていったのではないかという気もします。幣原喜重郎は満州への利権拡大に対しても消極的で軍との折り合いも悪くなり、やがて政治家を引退しますが、平和主義志向と国際協調路線が評価され、戦後に首相に起用されています。

財政では井上準之助を大蔵大臣に起用し、緊縮財政と金本位制復活に入ります。世界恐慌のあおりもうけて景気はみるみる悪くなり、いわゆる昭和恐慌に陥りますが、国家財政そのものは良くなります、今日まで続く財政拡大によるリフレかデフレでも財政均衡かという議論のはしりみたいなものですが、個人的には関東大震災の心理的な傷が癒えないこの時期のデフレ不況が、日本人を心理的に追い詰め、戦争賛美、外国侵略への強い支持へとつながっていったのではないかという気がしなくもありません。緊縮ですので、もちろん軍縮も進めるため、やはり軍との折り合いがうまくいきません。後に暗殺の悲劇に見舞われます。戦前の政党政治時代の日本はとにかく暗殺が頻々として起きており、いろいろ読んでみてもきな臭い、疲れる時代という印象ばかりが強くなってしまいます。

浜口雄幸は東京駅で狙撃され、一命をとりとめます。幣原喜重郎が臨時首相を務めて難局を乗り切ろうとしますが、臨時首相の状態が長引いたことが政友会からの格好の論難の的となり、浜口内閣は総辞職します。また、狙撃された時の傷がもとで、浜口雄幸はまもなく亡くなってしまいます。

浜口内閣のもとで行われた衆議院総選挙では民政党が圧勝しており、浜口内閣の失政による総辞職ではなかったことから、西園寺は憲政の常道をあくまでも堅持して、民政党に政権を担当させる方針で、第二次若槻礼次郎内閣が登場することになります。

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第二次西園寺公望内閣

第二次西園寺公望内閣では、明治天皇の崩御と大正天皇の即位がありました。明治創業の天皇がいなくなったことは当時の人々の心理に様々なことが去来したのではないかと思えますし、新しい時代を予感した人も多かったかも知れません。

西園寺の政友会が衆議院の多数派で、彼が育てた原敬が貴族院にも新派を増やすことにより、わりと安定した政権になる予感もありましたが、結果的には短命な政権で終わってしまいます。

日本の内閣制度の初期では、最初は伊藤博文が政権を担当し、その後は困った時の伊藤博文という感じで何度となく彼が登場してきますが、伊藤時代がフェードアウトした後は桂太郎が行き詰まったら西園寺にバトンタッチして仕切り直しというパターンで政権が運営されていくようになります。

しかしながら、政党政治を理想とする伊藤博文とけん制し合う関係にあった山県有朋が、伊藤が暗殺された後はそれだけ存分に言いたいことが言える立場になっており、元老の権威で西園寺に軍備の増強、具体的には陸軍の二個師団の増強を要求します。高杉晋作の功山寺決起に先に着いた伊藤博文に対しては後から駆け付けた立場…的な遠慮がありましたが、もう遠慮しなくてはいけない相手はいなくなったというわけです。

西園寺は財政の観点から軍備の増強を拒否しますが、軍には憲法の規定上、天皇に直接上奏する権利があり、これを帷幄上奏権と言いますが、それを大義名分にして上原勇作陸軍大臣が辞任します。当時は内閣不一致は即総辞職ですので、第二次西園寺内閣も上原辞任を受けて総辞職という運命を辿りました。

第二次山県有朋内閣の時に導入された陸海軍大臣現役武官制が山県の期待通りの効果を発揮したとも言えますが、軍の意向が通らなければ、軍から大臣を出さないという形で内閣を崩壊させるという悪しき前例となってしまったわけです。

第二次西園寺公望政権が崩壊した後は、第三次桂太郎内閣へとバトンタッチされるのですが、政党政治を理想とする西園寺公望と、長州閥の利益を重視し陸軍の大ボスになっている桂太郎がある意味では気脈を通じ合い政権を禅譲し合う様子は如何にも奇妙です。

元老の力関係という言葉である程度の説明は可能とも思えますが、理念なき政権のたらい回しとも言え、第三次桂太郎内閣では尾崎行雄と犬養毅が脱藩閥政治を掲げて「護憲運動」なるものを展開し、それが大正政変へと向かうという流れが生まれることは十分に理解できます。大正デモクラシーの本番までもう少しです。

西園寺公望もその後は自ら首相になることはなく、悪い見方をすれば元老政治を続けて行くことになりますが、元老が自動的に議会の第一党の党首を首相に指名するという憲政の常道の道を開きつつ、政党政治家の腐敗に落胆するという悩ましい日々を送ることになり、やがて運命の近衛文麿首相指名へとつながっていきます。

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第二次桂太郎内閣

第二次桂太郎内閣は3年あまり続きましたが、中身は結構濃い内閣だったと言えるかも知れません。まず明治天皇の詔書を引き出し、国家国民一致して維新創業の心を思い出せ的な発破をかけます。

日露戦争の結果、儲かった資本家もいたと思いますが地方の疲弊が激しくなっており、その辺りの不満がいろいろ出てきます。孝徳秋水の大逆事件も第二次桂太郎内閣の時に起きています。孝徳秋水が本気で明治天皇の暗殺を考えていたとはちょっと思えないのですが、天皇暗殺謀議がたとえ冗談半分とは言え半分くらいは本気で考えられていたとも言え、戦争に勝ったわりには世の中が殺伐としており、桂太郎はパワーでそういったものを押しつぶしていこうとしたように見えなくもありません。特に大逆事件では関係ないとしか思えない寺の坊さんや、金持ちの気まぐれ的に社会主義を気取って慈善活動をしていたお医者さんまで逮捕されて処刑されていますので、明らかにやりすぎで、当時の官憲の方を持つ気にはなれません。

足利尊氏と後醍醐天皇の時代は南朝と北朝のどっちが正統かという南北朝正閏問題が取り沙汰されるようになり、そんな当時から見ても500年も前のどっちでもいいようなことについて本気で議論がされるというあたり、頭でっかちなイデオロギーが歪な形で噴出しているように見えますが、これも世の中の矛盾を明治天皇の「みんな仲良く一致団結」詔書を引き出して、その威光を借りる形で物事を進めようとした結果の副作用と言えるかも知れません。更に日韓併合もこの内閣の時に押し切っていますので、本当にこの内閣が西園寺公望と気脈を通じていたのかと首を傾げざるを得ません。

第二次桂太郎内閣時代に伊藤博文がハルビンで暗殺されていますので、ある意味では重しがとれたとも言えますが、反対の見方をすれば、明治維新を実務的に引っ張った伊藤博文がいなくなったことへの不安も感じていたのではないかと思えます。

一方で小村寿太郎とタッグを組み不平等条約改正を成し遂げていますので、そこは評価して良いのではないかとも思います。条約改正に成功した裏には、日本が一人前の列強というか、帝国主義の国として認められたという面もあると言えますから、この辺り、切り離して考えるわけにはいきませんので、果たしてどう評価するかは難しいところにはなると思います。

大逆事件で揺れていた第二次桂太郎内閣は条約改正の仕事を終えると、西園寺公望と「情意統合」しているという理由で、つまり仲良しだからという理由で、西園寺公望に首相の座を譲り、第二次西園寺公望内閣が登場します。リクルート事件の「竹馬の友」をちらっと思い出さないでもありませんが、当時は桂太郎のような国権派と西園寺公望のような政党政治派が持ちつ持たれつでやっていたことが分かります。

西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通が維新第一世代とすれば、伊藤博文、山県有朋が維新第二世代と言え、桂と西園寺は維新第三世代と言ったところですが、大正デモクラシーというある種の結実の時代、原敬内閣登場の時代まではあともう少しと言ったところです。原敬内閣は民主主義の成熟や成功という意味でよく引き合いに出されますが、原敬は同時に政党政治の腐敗はどういうものかをよく示した人でもあり、国民の政党への熱が急速に冷め、西園寺も同じように冷めて軍部独裁の時代へと入って行くことになってしまいます。

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