加藤高明内閣

憲政会、政友会、革新倶楽部の護憲三派が衆議院で多数派を形成し、憲政会総裁の加藤高明が首相指名されます。

加藤内閣では普通選挙法と治安維持法を成立させ、日ソ基本条約を成立させて、日本とソビエト連邦の間の国交を樹立します。悪名高き治安維持法ですが、当時の空気としては普通選挙法で有権者の数が急増することと、ソビエト連邦との国交樹立で共産主義思想が日本に輸入されやすくなることとから、共産主義者が増えるのではないかということに、権力が危機感を持っていたということが伺えます。ただ、ソビエト連邦との国交樹立については、経済界からその要望が強く、普通選挙法も民主国家としてはいずれやらなくてはいけないことですので、治安維持法とセットにすることで反対者を納得させたという面もあったのではないかと思います。この時の陸軍大臣だった宇垣一成が二個師団の軍縮を行っていますので、いろいろ仕事をした内閣だったということは言えそうです。

ソビエト連邦との樹立では、日本軍が進駐していた北樺太から撤退することを条件に、北樺太資源を日本に提供するという交換話が成立しており、なんとなく今の北方領土問題と似ているように思えなくもありません。

加藤高明は護憲三派による連立内閣でしたが、憲政会と政友会のつなぎ役をしていた横田千之助が急死したことを受けて政友会が連立政権から離脱する動きを見せ、加藤高明下しを始めます。加藤高明は内閣総辞職の辞表を提出しますが、裕仁摂政宮はそれを受理せず、再び加藤高明に組閣が命じられます。首相の指名権を持つ元老の西園寺公望は元々は政友会の総裁までやった人ですが、横田千之助が亡くなった途端に加藤下しを始めたことが、美学に反すると感じ、加藤を続投させることに決めたと言われています。

加藤は憲政会だけの少数与党で続投しますが、4か月後に急死してしまいます。少数与党だと何もできませんので、やはり相当な心労が重なったのではないか推量できます。

加藤の後継者には憲政会の若槻礼次郎が首相に指名されており、西園寺公望の憲政の常道は維持するという意思を見ることもできるでしょう。その後しばらくの間、憲政の常道にのっとった形での首相指名が続きますが、やがてそれがダメになり、西園寺が育てた近衛文麿によるエスタブリッシュメント内閣で滅亡への道を全力で突っ走ることになります。

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清浦奎吾内閣
第二次山本権兵衛内閣
加藤友三郎内閣

清浦奎吾内閣

清浦奎吾は第一山本権兵衛内閣がシーメンス事件で辞職した後に、組閣を命じられますが、人材が集まらずに組閣に失敗し、鰻の香りはかげたがうな丼は食べられなかったと揶揄されます。

その後、第二次山本権兵衛内閣が虎の門事件で総辞職し、再び清浦圭吾が首相に指名されます。ただし、衆議院の選挙をするのが主目的みたいな内閣で五か月だけの短命内閣です。

人生で二度も首相に指名されることは普通では経験しないことですが、一度目は組閣そのものに失敗し、二度目は短命内閣で、運が良いのか悪いのかよく分からない感じの人です。

清浦奎吾は山県有朋系人脈に入る人で、政党政治には批判的であり、議会に束縛されないことを目指す「超然主義」内閣を作ります。貴族院の議員を中心に組閣しており、衆議院からは閣僚をとらないという姿勢で臨んでおり、衆議院の政友会、憲政会、革新倶楽部が共闘し、護憲三派を結成し、第二次護憲運動を起こします。

清浦奎吾は対抗策として衆議院を解散しますが、その結果、清浦内閣に批判的だった護憲三派が圧勝し、清浦奎吾は「憲政の常道」に従う形で総辞職します。

清浦奎吾の後は衆議院で第一党になった憲政会の加藤高明が首相に指名されます。首相指名の権利を持つ元老会議が、第一党の首相を指名するという憲政の常道にきれいに従った形での内閣です。

清浦奎吾という人は、悪く言えば時代錯誤な感じの人だったように思えます。国権が民権を超越するという山県有朋の政治思想をそのまま受け継ぎ、実践しようとしていた人とも言え、西園寺公望のような人から見れば、そもそも首相に指名するには相応しくないと思えたでしょうけれど、いい意味で言えば困った時の清浦奎吾という面もあり、山本権兵衛内閣が総辞職した後に、いろいろな後始末や後続の人たちのための露払いをさせる、敢えて汚れ役をやってもらうという感じなところがあり、西園寺公望は上手に清浦奎吾を利用したと言えますが、清浦奎吾の方でも上手に利用されてやることで、二度も首相指名を獲得したと見ることもできるかも知れません。

大正時代は「憲政の常道」「護憲運動」など、立憲主義が世の中に漂い、果たしてあるべき民主主義とは何かということを政治家も国民も手探りながらに真剣に考えていた時代とも言うことができ、そういう面で魅力的な時代だなあと思えます。

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加藤友三郎内閣
高橋是清内閣
原敬内閣

加藤友三郎内閣

高橋是清内閣が人事の紛糾で崩壊した後、次の首相候補として有力視されたのは、原敬→高橋是清ラインに対して常に敵対姿勢を貫いていた憲政会の加藤高明が有力視されていました。高橋是清の政友会としては、加藤高明政権を阻止するため、軍人宰相を企図し、海軍の加藤友三郎を元老会議に推薦します。当時、元老会議には松方正義が存命で、松方を抱き込む形での無理無理な首相指名です。

衆議院で多数派を形成できないと首相は非常にやりにくいということを知っていた加藤友三郎は、衆議院に自分の基盤がないことで一旦は固辞しますが、憲政会が全面協力するという約束で、松方の了承もあって、首相就任を受け入れます。加藤友三郎はワシントン軍縮会議の直接の担当者であり、首相の立場になれば当然それを粛々と実行します。当時は軍事費が財政を圧迫していましたので、まともな措置と私には思えます。「海軍が軍縮しているのだから」という、お隣さんがそうだから論法で陸軍も軍縮を受け入れざるを得なくなり、陸軍大臣山梨半造のもとで、山梨軍縮と呼ばれる軍縮が行われることになりました。だらだらと続いて金だけかかるシベリア出兵も中止されます。

財政圧迫の要因は、現代では社会保障費で、当時は軍事費、というのはよく時代を映していると思えます。

「軍事費」に制限をかけなくてはいけないという世論が形成されたことに陸海軍は危機感を覚えるようになり、やがて「予算が獲れるのなら戦争してもいい。というか戦争したい」という、現代の我々の視点から見れば馬鹿げていると思える発想法は、大正時代の軍縮に求めることができるかも知れず、時間をかけて少しずつ形成された発想法であるために、昭和初期の軍部でもそれが当然と思えるところまで行ってしまったのではなかろうかという気もします。

ワシントン軍縮会議のけりがついて一息でいれて、さあ、これからという時に加藤友三郎は病没してしまいます。やはり軍縮は軍部からの反対が強かったでしょうから、精神的な負担が強かったのかも知れません。

加藤友三郎の急逝を受けて後継首相選びをしている最中に関東大震災が起きてしまい、内田康哉を臨時首相にして対応しつつ、急いで山本権兵衛が次の首相に決められ、第二次山本権兵衛内閣が登場することになります。この時代では、裕仁親王が摂政宮をしていて、山本権兵衛は裕仁親王によって任命されています。

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寺内正毅内閣
第二次大隈重信内閣
第一次山本権兵衛内閣

第二次山県有朋内閣

第一次大隈重信内閣が内部崩壊同然の形で終了し、山県有朋が再び首相の座に就くことになります。困った時の伊藤博文は「ちょっとしばらく自由にやらせてほしい」感が強く、薩摩閥の首相は絶対こけるという経験則みたいなのがなんとなく積まれてきて、政党政治家に首相をさせると、おそらくは当時の感覚としては「やっぱり…(現代の感覚としては政党政治家が首相になるのは当然ですが)」という失望感があって、残っているのは山県か…という消去法的な感じだったのではという気がしなくもありません。

山県は薩長が日本のエスタブリッシュメントになって「愚民どもを導いてやる」という意識の強い人だったようですので、内閣は当然議会におもねらない超然内閣。思想的な運動や労働運動の集会に規制をかける治安警察法を通したり、一番やってはいけない軍部大臣現役武官制を導入したりと、日本帝国滅亡の種を懇切丁寧に蒔いた人と言えなくもないように思います。

しかし、そのような内閣では議会とうまくいくはずがありません。議会がごねれば予算が通らないという重い代償がついてきます。これはやはり内閣に協力する与党がどうしても必要だという認識が生まれ、まあ、ようやく理解したのかという感じですが、伊藤博文を総裁にした立憲政友会が星亨や金子堅太郎たちと一緒に立ち上げられるという展開になります。地主、資本家、三井財閥などがその支持層ということだったらしいので、戦後の自民党みたいなものだとも言えるように思います。

明治天皇はそんなの作って大丈夫なのかと不安に感じたようなのですが、そういう疑問を持つというのは、やはり薩長エスタブリッシュメントが日本をリードするのがあるべき姿だと信じていたという証左と言えるかも知れません。

トクヴィルが『アメリカの民主政治』という本で、責任の重い政治家が国民の人気取りに忙殺されることへの疑義を呈していましたが、おそらくは当時の政府の内側の人たちにも「国民の頭を下げて、おべんちゃらを言うことばかり考えている人間に政治ができるか」と思っていたのかも知れません。立憲政友会の発足には貴族院も反発していたようです。

とはいえ、投票によって選ばれた政治家が責任を負うというのが民主主義の基本理念ですので、そこは乗り越えなければならない壁であり、まあ、そこは何とか乗り越えて、やがて原敬のような人も登場してくることになります。

山県有朋は立憲政友会を作った伊藤博文に対して「政党政治、やれるものならやってみな」という感じで伊藤を四度目の首相に据える形で首相の座から降りることになります。

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第二次伊藤博文内閣

第一次大隈重信内閣

第一次大隈重信内閣は議会が騒ぎに騒ぎ立てて明治政府から妥協を引き出して成立した内閣と言えます。

ただし、日本の憲政史上初の政党内閣と位置付けられることに意義を見出すこともできますし、初の非薩長内閣という意味でも評価できるかも知れません。非薩長で冷遇されていた人たちは喝采したかも知れません。

しかしながら、政党内での足の引きずり合いに忙しく、目ぼしい成果を挙げることのないままこの内閣は短命で終わってしまいます。大隈重信の進歩党と板垣退助の自由党が合併して憲政党という巨大な政党をいったんは作り上げますが、主としてポスト争いが要因となって旧進歩系と旧自由系の間で亀裂が生じます。首相の大隈系より内相の板垣系の方が人数が多いので、板垣系は現代風に言えば与党内野党で、大隈はいきなり少数派閥の領袖みたいな感じになっていきます。なんだか今とあんまり変わらない感じです。

「おしとおる」のニックネームを持つ星亨が外相のポストを得られなかったことで大隈重信を降ろしにかかります。尾崎行雄が「日本がもし共和政治の国になってもアメリカみたいに人徳のある人が大統領になるのではなく、どのみち財閥の大金持ちが大統領になるだろう」とおそらくはリンカーンを念頭に置いた演説をしたことが「不敬になる」という言葉の綾的な揚げ足取り的批判を浴び、尾崎行雄が文相を辞任。星亨が憲政党の分裂工作に走ることで、こりゃもうだめだと数か月で大隈重信内閣は瓦解します。

権謀術策と金権とポスト争いという見事なまでに悪い部分がばーっと見えて来る歴史の一場面とも言えますが、なんとなく星亨が小沢一郎さんに見えてきます。

この辺りまでの経験から、議会が政権の味方をしなければ政策は通らない、即ち議会がどうであろうと内閣は内閣だとする超然主義は通用しないということが分かってきたことにより、事実上首相の指名権を持つ元老は議会の第一党の党首を自動的に首相に推薦するという「憲政の常道」が確立していくことになりますが、議会政治はその後も権謀術策の歴史が続きますので、憲政の常道を始めた当の本人である西園寺公望が後には議会の工作に嫌気がさして議会人以外を首相に指名するようになり、憲政の常道は概念としては今も生きているとは言えますが、実質的に有効に運用された期間はそんなに長くはありませんでした。

確かに書いていてもうんざりしてしまいそうな展開だったわけですが、大隈内閣の次に誕生した第二次山県有朋内閣では、再び超然内閣を目指します。それを山県有朋の個人的な権力に対する意見や感じ方、性格などの面から説明することも可能でしょうし、実際に政党政治家に政治をやらせてみたらうまくいかないということが証明されたことで、その反動が起きたと説明することも可能かも知れません。

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第二次松方正義内閣
第二次伊藤博文内閣

第三次伊藤博文内閣

第二次松方正義内閣が衆議院を解散した日に辞任するというどたばた劇を兎にも角にも収集するために伊藤博文が三度目の組閣をします。とりあえずは選挙管理内閣としてスタートしたと言っていいかも知れません。

選挙結果では板垣退助の自由党が第一党となり、大隈重信の進歩党が僅か一議席の差で第二党となります。この時代になると官の政党は影も形もないありさまとなっており、議会で政府をつつきまくってきた大隈なり板垣なりの協力がないと政策が全然通らないという状況になっていきます。

伊藤博文は外交面では対ロシア融和策をうまくこなしており、日清戦争後の日露対立を避けることに一応は成功していますが、内政面ではなにしろ反政府の大隈と板垣の二大政党で三分の二を獲っている状態ですので増税もできなければ選挙制度改革もできず、伊藤は衆議院解散をうちます。自由党と進歩党が合併して憲政党結成して伊藤に対抗しようとしますが、嫌気がさしたであろう伊藤は辞任し、清・朝鮮半島への旅に出てしまいます。

政権の担い手がいなくなり、首相を推薦する元老会議で「大隈重信で行こうか」という話になり、第一次大隈重信内閣が誕生しますが、大隈と板垣の間で亀裂が生まれ、要するに「なぜ大隈重信が総理大臣で板垣退助が内大臣なのか」というポストの問題で感情的な溝が深まり、憲政党は分裂するというカオスった状態が生まれて行きます。

第一次大隈重信内閣は日本の憲政史上初の政党内閣と位置付けられており、それは確かに意義のあることのように思いますが、一方でゴネれば順番が回ってくるという悪い循環が生まれたようにも思えますし、それまで文句を言っていれば仕事していることになっていたのが責任のある立場になってブーメラン現象に見舞われるというお決まりのパターンもこの時から生じていたように思えます。

この時期、清では康有為や梁啓超などによる明治維新をモデルにした戊戌の変法運動とその瓦解という政変が起きており、最近の研究では国内政治を投げ出して外遊中だった伊藤博文が一枚噛んでいたらしいという説もあるようです。その説によると、康有為と伊藤博文が協議して英米日清の合邦を光緒帝に奏上したということらしく、それが本当なら清は戦わずして外国の植民地になってしまう恐れがあり、それを知った西太后が待ったをかけて愛国ゆえの血の粛清を行ったということになるらしいです。私にはそれを否定する根拠はありませんが、伊藤が独断で外国との合併を進めたというのはちょっと話ができすぎのような気がしなくもありません。


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第二次松方正義内閣

松方正義という人はどったんばったん騒ぎの渦中の人物になりやすい体質を持っていたのではないかと私は思っています。第二次松方正義内閣もやはりどたばたの大騒ぎです。

当時は政府も黒田清隆的超然内閣主義は無理らしいということに気づくようになっており、観念したというか、やむを得ずというか議会の協力を得るために進歩党の大隈重信を入閣させます。松方正義が財政規律派だったのに対して大隈重信は積極財政派だったため、財政論に於いては正反対の論敵でしたが、ここは政権運営のために涙をのんだと言えなくもありません。民主主義という観点から言えば、議会の人を閣内に入れるというのはより望ましいことだとも言えると思います。

論敵を閣内に入れたとはいえ、松方はヨーロッパ留学で得た金融知識を活かし、日本銀行の設立と金本位制の導入に漕ぎつけます。政府から独立した中央銀行が円を発行する上に金の保有量という縛りがありますので、財政規律派の目から見れば大変に結構なことと言えたかも知れないですが、結果としては日本はデフレの嵐に陥り、不況が続いて失業や悪条件労働などの問題が膨らんでいきます。資本家と労働者という近代的な階層の分裂が起き、日本で社会主義が流行する下地を作る時代になったと見ることができるかも知れません。

近代の資本主義社会は原則的にインフレを志向せざるを得ませんので、どんなに緊縮財政をしたところで必ずお金が足りなくなっていきます。松方は財政規律派らしく不況であろうと何であろうと増税で突き進もうとし、大隈たちの進歩党とぶつかります。内閣不信任決議案が提出され進歩党が賛成の気配を見せたところで松方は自ら衆議院を解散します。

宮澤喜一内閣不信任決議案の時は加藤紘一さんの発案で敢えて先に解散せずに不信任決議案の採決をしたわけですが、松方正義的に先に解散をうつのとどっちの方がメンツが立つのか、心理的な衝撃が少ないのかは当事者でなければ何とも言えない複雑なものがあるのかも知れません。宮澤喜一内閣の時の場合は、小沢一郎さんたちに不信任決議案に賛成票を入れるという見せ場を与えたという意味では、自民党が野党に転落したターニングポイントになったとも言えますし、小沢一郎さんに焦点を当てるとすれば、勢いのまま離党してしまって以来、長い長い流離譚を送っているように見えなくもありません。

松方正義は自分で衆議院を解散したにもかかわらず、その日に辞任します。解散はしたものの…この先いったいどうすればいいのか分からなくなったというか、当事者能力を失ってしまったことを認めたというべきなのかも知れません。薩長藩閥の中で特にどたばた感の強い人ですが、一緒にお酒をのんだら案外楽しい人だったりするかも知れません。この前代未聞の事態は伊藤博文が三度目の組閣を行って収集を図っていくことになります。


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第三次伊藤博文内閣

第二次伊藤博文内閣



松方正義が立ち往生する形で辞任した後を受け、伊藤博文は陸奥宗光、大山巌、黒田清隆山県有朋ら重鎮を閣僚として集めたいわばドリームチーム内閣を目指します。

しかし、当時は議院内閣制ではないため、議会の方は反政府で勢いづいており、政権運営はそう簡単なものではなかったようです。陸奥宗光が列強との不平等条約の改正に尽力していましたが、議会の反政府政党からは全面的な平等条約以外は認められないとの突き上げがあり、じょじょに妥協していくならともかく、安政の五か国条約を一挙に完全平等にするというのはハードルが高すぎて不可能とも言えますので、議会で官側の政党が少数派であったこともあり、早々に行き詰まりを見せて伊藤博文は衆議院の解散に打って出ます。

反政府と見られた各会派は政府の圧力によって議席を伸ばすことができなかった一方で、伊藤との連携の可能性を含んでいた自由党は議席を120まで伸ばします。一方で政府系政党は議席を激減させますが、自由党と合わせれば過半数を抑えられるというところまで持っていきます。政府の圧力で議席が伸びたり伸びなかったりするあたり、相当に裏とか闇とかそういった深かったに違いなく、現代の我々の価値観から言えばおよそ公正とはほど遠い選挙が行われていたに違いないことを伺わせるものです。

野党各派は自由党の星亨攻撃に狙いを定め、旧中村藩主の相馬家のお家騒動で星亨が贈収賄に絡んだという疑いで責めあげられ、衆議院議長不信任案が可決し、伊藤博文は更にもう一度衆議院の解散の挙に出ます。与党が少数だと何も決まらないという見本みたいなことが繰り返されている感が強いです。

ところがこの選挙期間中に日清戦争が勃発し(選挙期間中を狙って伊藤が始めた)、広島で臨時に行われた帝国議会では各会派一致して日清戦争を支持します。

第二次伊藤内閣を語る上で日清戦争は欠かせませんが、陸戦では連戦連勝、開戦の方では軍艦の大きさの違いが日清双方では歴然としており清の北洋艦隊の圧倒的優位のはずでしたが、関門海峡で幕府軍と接近戦をした経験がものを言ったのか、黄海海戦でも接近戦と小回りの利く動きで北洋艦隊は威海衛に撤退します。日本海軍が威海衛を包囲していたところで陸軍が陸伝いに威海衛を制圧し、北洋艦隊は降伏。提督の汝昌が自決するという展開を見せます。

陸奥宗光と共に李鴻章と交渉した下関条約で日本の勝利が確定し、台湾の領有、遼東半島の租借、賠償金二億テールという交渉面でも完全勝利を収め、第二次伊藤博文内閣はそれまでバタバタと倒れていた黒田、山県、松方の政権と比べて長期の政権運営に成功します。

議会の協力がなければ政権運営はできないと悟った伊藤博文は黒田清隆以来の議会と政府は別であるとする超然主義を捨て、自由党の板垣退助と進歩党の大隈重信を閣内に取り込んで挙国一致状態を戦後も続けようとしますが、板垣退助と大隈重信が宿敵化して激しく対立し、伊藤はこりゃ無理だと判断して辞任へと至ります。

いろいろ裏が真っ黒であるにせよ、議会の存在感を政府が理解するようになったという点では日本の民主主義がそれだけ前進したと考えることもでき、そういう意味では憲政の常道への一歩を踏み出したという意義をこの内閣から見出すことも可能なように思います。

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第一次松方正義内閣



第一次松方正義内閣は最初から最後までなかなかお気の毒な内閣だと言わざるを得ないように思えます。就任以来、伊藤山県の傀儡だと揶揄され、実際に多分大体その通りで、山県が嫌になって政権を投げ出した敗戦処理みたいなことに終始させられたように見えなくもありません。

しかも、ロシアの皇太子のニコライ二世が来日中に大津で巡査に襲撃されるという大津事件が起き、なんでこんな面倒なことになるのかと寿命が縮む思いをしたに違いありません。清隆内閣の時には西洋指向の強い森有礼が暗殺されるという事件が起きており、現代風に言えばグローバリズムvsナショナリズムと同様の葛藤が日本国内で起きていて、ひたひたと確実に浸透してくる「西洋」に対し、官が諸手を挙げて西洋化へひた走るのに対して、民の中ではついていけない、或いは侵されていると感じている人が多かったのかも知れません。

この時期は伊藤(長州)、黒田(薩摩)、山県(長州)で松方(薩摩)と薩長でピンポンみたいに総理大臣の座を回り持ちしている時代ですので、それへのルサンチマンもなかなかに強く、舵取りに苦労していたように思えます。更に輪をかけたのが海軍大臣の樺山資紀の衆議院に於ける演説で、要約すれば「薩長政府のおかげでお国が護られていると分かっているのかこの〇〇野郎(〇〇の中に何が入るかは人それぞれの想像力の発露に任されます)」的な本音で切れまくった演説を行い、これをきっかけに野党が優勢な国会が混乱。松方は衆議院の解散を決意します。憲政史上初の衆議院の解散です。

第二回衆議院総選挙では選挙期間中に官による民党への選挙妨害が激化し、死者が出る事態にまで発展します。松方内閣は山県内閣の閣僚を基本的に引き継いでいたものの、陸奥宗光が怒りの辞任。その他の閣僚も松方を支持しなくなってゆき、松方は裸同然の状態になります。第二回衆議院選挙の結果は官(与党)が124議席を獲得しており、過半数には達していないものの、第一回総選挙と比べればかなりの大躍進と言うこともできますが、松方内閣はすでに空中分解同然の状態となってしまっており、観念した松方は辞表を提出することになります。

最初から最後まで不測の事件も含んで実に気の毒で、あんまり揶揄するようなことを書くのもかわいそうに思えてきます。ただし、選挙妨害で死人が出るなどというのはもってのほかですので、辞任という形で事を収めるのもやむを得ないかとも思います。後年、第二次松方内閣が誕生しますが、この時も宿敵大隈重信との合従連衡でやいのやいのと騒がしい政権運営が行われます。

元々島津久光の側近で幕末の争乱をくぐり抜けてきた人だっただけに血気盛んで、なんだかんだと騒ぎを呼び寄せる体質だったのかも知れません。

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第一次山県有朋内閣



第一次山県有朋内閣について語る際に外すことのできない話題は第一回衆議院選挙のことではないかと思います。現代のような議院内閣制とは違い、政府の議会に対する影響力は低いもので、政府vs議会の構図になってしまった場合は憲法の規定上、衆議院には予算の審査権がありましたので、政府は立ち往生するということにもなりかねませんでした。

衆議院が予算を通さない場合は前年度の予算を踏襲するとも定められていたため、運営できなくなったり機能がストップしたりするわけではありませんでしたが、そのような場合は国策の変更がきかなかったりインフレに対応できなかったりしますので、硬直的な政権運営に陥りやすく、現代を生きる我々にとって議会における予算の審査は当然なされなければならないものですが、当時の明治政府関係者としては「議会というのはなんとやっかいなものか」と思ったに相違ありません。

たとえば新政府からあぶれてしまった人、または旧徳川で新しい時代からこぼれ落ちてしまった人から見れば、議会の開催は政治に復帰する絶好のチャンスであり、また、新聞にもそういう人が多かったので、第一回衆議院選挙では、政府に一泡吹かせてやりたい、薩長藩閥に一発食らわせてやりたいという人たちにわざわざ発言の機会を与えて予算の審議権まで握らせるわけですので、明治新政府がわりとそれまで仲間内でなんとかしていたことが外からの批判に耐えうるものにすることを迫られるようになったとも言え、まあ、そこが民主主義の肝でもありますので、ようやく日本が近代的な国家になれる第一歩がこの選挙だったかも知れません。

議会選挙には「温和派」と呼ばれる政府に協力的な勢力と「民党」と呼ばれる反政府ルサンチマン同盟の戦いで、新聞の煽りもあって「民党」が圧倒的な勝利を収めます。温和派が84議席獲ったのに対し、民党は171議席ですので、ダブルスコアに近い形で勝負がついたわけですが、予算の編成とその執行は政府の姿勢そのものですので、ここを握られた山県有朋は心中極めて苦々しいものがあったに相違ありません。この構図はアメリカの大統領の政党が議会で少数派になったようなものだと考えれば似ているかも知れません。陸奥宗光が民党(野党)の一部を抱き込むことにより予算を通しますが、山県は議会運営に自信が持てないとして辞表を提出。松方正義が次の首相を任ぜられることになります。

陸奥宗光はこの第一回衆議院選挙に和歌山の選挙区から出馬して当選しており、山県は陸奥を入閣させ、彼に議会工作をさせることで難局を乗り切ったわけですが、その後の内閣は次第に議員を抱き込むことで政策を通すというのを常道にするようになり、いわゆる腐敗が深刻化していくことになります。

もっとも、単純に一直線に腐敗していったわけではなく、途中で原敬首相の登場と藩閥政治の終焉という大正デモクラシーも間に挟み込みより複雑にかつ深淵に、そこに新聞の煽りが入るという図式が生まれていきます。その辺りはまた別の機会に述べたいと思います。



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