池田勇人内閣‐夢のような時代の始まり

池田勇人という人は若干、舌禍の要素を持っていた人らしく、吉田茂の大蔵大臣をしていた時代に有名な「貧乏人は麦を食え」発言をして世の中を沸かせています。この手の発言が問題視されるのは今の時代も同じですが、池田勇人は元々大蔵官僚ですので、お上の金庫を満たすことを是としており、ドッジラインで財政均衡主義が既定路線になっていましたので、そのような観点に立てば、税金を収められない人は人ではないくらいに思っていたのかもしれません。

しかし、岸信介内閣の後を継いで首相になった時にはケインズ経済学に基づいた大規模な財政支出による経済成長を政策の主軸としており、本人も「所得倍増計画」という言葉が気に入っていたようですから、財政家としての矜持はあまりなく、どちらかと言えば舌禍を繰り返すあたりからみても「ワンフレーズ」が好きな人だったと受け取るべきかも知れません。

ただし、所得倍増計画は大当たりと言って異論のある人は少ないように思えます。当時、朝鮮戦争特需は既に終わっており、新しい需要喚起の見通しも特にない一方で、国民の生産潜在性は高く、供給過剰デフレ懸念が強かったはずですが、お上が率先してお金を使ってインフラにお金を注ぎ込み、地方にもバンバン使えと後押ししたことで、高い生産潜在性が十全に活用され、いい意味でのインフレが起き、所得は当初の計画以上のペースで上昇し、いわゆる高度成長期が始まります。21世紀の現代のように所得がなんとなく増えない、どちらかと言えば下がっているとも言える時代から見れば夢のような時代だったと言えるかも知れません。

日本は主要国に返り咲き、エコノミックアニマルと呼ばれようと、首相は世界に営業をかけていると言われようと、ひたすらモーレツに働く、モーレツ上等、努力は倍々ゲームで報われるという、ちょっと今では考えられないような時代です。東京オリンピックも池田首相時代の終盤で開催されています。解散総選挙では自民党が大勝ちしていますが、経済が良ければ政権党に支持が集まるとする典型的な分かりやすい例と言えるかも知れません。

しかしながら、いわゆる超過勤務の慣習が神話化されていくという副作用もあり、公害や自然破壊のような副作用は克服されたと私には思えますが、超過勤務の神話、長時間会社にいることがいいことだ、早く帰りたいと考えるの悪だという発想法が楔となって今も深く日本人の心に突き刺さっているのではないかとも思えます。努力が倍々ゲームで報われる時代であればモチベーションの維持に効果を期待できますが、そうでない場合はかえってモラルハザードの要因になる可能性もあり、私は個人的にはそれが池田首相のレガシーの負の面ではないかと思えてしまいます。

池田勇人首相は喉にがんが見つかり、入院中に次の首相に佐藤栄作を指名します。長い佐藤時代が始まりますが、三角大福中の大椅子取りゲーム時代も近づいてきます。


第二次(第三次第四次第五次)吉田茂内閣

芦田均内閣が昭和電工事件で総辞職すると、GHQの民生局は結成されて間もない民自党の総裁吉田茂ではなく幹事長の山崎猛を首相に擁立しようと動いたと言われています。反吉田派の議員もこれにのっかろうとしますが、吉田派の議員たちが山崎猛を説得し、山崎が議員辞職する(新しい憲法下では衆議院議員でなければ首相になれない)ことで、第二次吉田茂内閣が登場します。長く、かついろいろな仕事をした内閣です。この流れは山崎首班事件とも呼ばれますが、白洲次郎が吉田茂に山崎擁立の動きを報せ、吉田がマッカーサーに確認したところ「そんな話は知らない」と答えたということなので、民自党の内部もガタガタしていますが、GHQの内部でもいろいろとガタガタしていたと推量することができます。

民自党は少数与党であったため、議席数の増加を目論んで衆議院の解散を行おうとしますが、憲法の規定では内閣不信任案が議決された場合か、天皇による解散かだけが認められているため、果たして自己都合解散が可能かどうかで議論されますが、与野党共同で内閣不信任案に賛成し、天皇の解散の詔書も用意して、つまり憲法の規定の両方を満たすことで文句ねえだろうと衆議院を解散します。世間から「馴れ合い解散」と言われます。現在は首相の一存でいつでも解散できることになっていますが、それはその後に確立された慣例と言うことができるかも知れません。

このようにして成立した吉田茂内閣ですが、この長期政権の最大の仕事はサンフランシスコ条約の締結によると日本の主権回復と、日米安保条約の締結と言えます。吉田茂はサンフランシスコ条約には日本人参加者全員の前で署名しましたが、日米安保の方は、後世の汚名を被るのは自分だけでいいからと、場所を変え、目立たずこっそりと一人で署名しています。これだけの大仕事をしたのですし、鳩山一郎の公職追放が解ければ鳩山に政権を返すという約束もしていた吉田ですが、更なる長期政権を目指し、衆議院を解散します。抜き打ち解散と言います。

与党の民主自由党が政党名を自由党に改称し、選挙に臨みましたが、自由党が僅かに過半数を超え、野党は改進党、社会党右派左派で議席を分け合うという結果になりました。社会党右派の西村栄一の質問で「自分の言葉で世界政治を語ってくれ」「自分の言葉で語っている、無礼じゃないか」「無礼とはないか」「バカヤロー」という子どもの喧嘩みたいなことで国会が紛糾し、世に言うバカヤロー解散が行われます。

選挙結果は自由党吉田派だけでは過半数に届かず、改進党の閣外協力を得てどうにか政権を維持できるというところでしたが、造船疑獄事件が起き、検察に対して佐藤栄作逮捕を延期するよう指揮したことで一機に世論の支持を失います。鳩山一郎政権を作ることを自分の仕事だと信じていた三木武吉が吉田の外遊中に鳩山を総裁とする日本民主党を結成し、内閣不信任案で吉田茂に追い込みをかけますが、吉田は当初こそ解散で乗り切るつもりだったものの、造船疑獄と指揮権発動で世論の支持のない状態では選挙で勝てないと判断し、総辞職します。

吉田茂が首相を務めた長い期間には、朝鮮戦争の勃発やアメリカからの再武装の依頼などもありましたが、吉田は再武装は拒否しつつけたものの、政権の末期で自衛隊を成立させます。吉田茂には平和主義という印象や、再軍備すればお金がかかるので、拒否したという観点から、現実主義者と評されることもありますが、個人的には戦前に官僚なり政治家なりを経験した人は軍がどれほど面倒な存在かということを身に染みており、軍が日本を滅ぼしたという実感もあったでしょうから、軍人の復活を嫌っていたのではないかという気もしなくはありません。

吉田茂の次は鳩山一郎が政権を継ぎ、保守合同、55年体制の確立へとつながっていきます。

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片山哲内閣・芦田均‐挙国一致?内閣

吉田茂が衆議院選挙の結果を受けて退陣したことを受け、議会で過半数は得ていなかったものの、第一党に躍り出た日本社会党の片山哲委員長が首相に指名されます。少数政党による政策運営の停滞を危惧した片山は民主党の力を得、最終的には挙国一内閣を目指していきます。

ところが、自由党の大野伴睦らが「社会党左派がモスクワとつながっている」として入閣に拒否。大野はやむを得ず、親任式には一人で登場するという前代未聞の一人内閣が登場します。議会では信任を得ていると言っていいのに大臣のなり手がいないというのはまさしく永田町複雑怪奇の見本のような様相を呈していたとも言えるでしょう。

初の無産政党の首相として、社会主義的改革を推し進めようとしますが、かえって反発を招き、政策は思うように進まなくなってしまいます。民主党の幣原喜重郎が造反したほか、社会党左派も「生ぬるい」言い捨てるが如き有様で片山哲を見棄てて行きます。それらの収集に右往左往していることが国民にも報道され、万事休すを悟った片山は辞表を提出するに至ります。

後継首相は同じ政党間の枠組みを引き継ぐ形で芦田均が首班主命されますが、当事者能力がほぼないと自他ともに認める形での早期の退陣ということになってしまいます。芦田政権では昭和電工事件など、わりとベタな政治と金の問題が表面化したことが最後の背中を押した部分がありますが、憲政が新しくなったばかりの時代からこその混乱という部分もあったのかも知れません。

芦田の次は、本格内閣として吉田茂が再登板し、長期政権を作り上げていくことになります。

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第一次吉田茂内閣

第22回衆議院選挙の結果、幣原喜重郎が軸足を置く進歩党が第二党となったことで、幣原喜重郎内閣は総辞職し、次の後継首相は憲政の常道に照らして比較第一党となった日本自由党の総裁である鳩山一郎が組閣を命じられるのではないかと考えられましたが、GHQが鳩山一郎を公職追放に指名したため、誰か別の人を…と人選で右往左往することになります。

会津藩主松平容保の息子である松平恆雄を指名する案も浮上しましたが、いろいろ錯誤を経て吉田茂がいいのではないかということで決着します。吉田は何度も拒みましたが、「1、資金作りはしない 2、閣僚人事には一切口を出させない 3、辞めたくなったらいつでも辞める」を条件に首相指名を受け入れます。なんとなく徳川慶喜に似ています。

吉田茂が首相に就任した一年後、第23回衆議院選挙が行われましたが、これは初めての新憲法下に於ける選挙であったため、旧憲法の制度下で首相に指名された吉田茂内閣を信任するかどうかを国民に問うた選挙でした。憲法上、その後は議会が首相を指名することになりますので、選挙で負ければ吉田内閣は退陣するしかありません。過去の山県有朋のような超然内閣とかそういうものはもはやあり得ないわけです。この総選挙では社会党が比較第一党となり、直後に行われた参議院選挙でも社会党が比較第一党になるという今ではちょっと考えられない結果が出ました。

吉田茂には自由党と民主党での連立内閣を組織して政権を維持するという道もありましたが、憲政の常道の精神を重視し、比較第一党に政権を譲ることが望ましいと考え、総辞職します。吉田茂の次は、社会党の片山哲が民主党の協力も得て新しい内閣を組閣することになります。

これだけ見ると、吉田茂は一体何の仕事をしたのか、何であんなに有名なのか、という疑問が湧いてきますが、吉田は片山哲・芦田均内閣の後に第二次・第三次・第四次・第五次の長期政権を築き上げ、サンフランシスコ講和条約によって日本の主権を回復し、同時に日米安保条約にも署名して今日まで続く火種を残したと同時に、日本の安全保障の基盤を作ったともいえます。そういう大仕事についてはまた改めて述べたいと思います。




幣原喜重郎内閣‐平和憲法を書いたのは誰か?

終戦直後に登場した東久邇宮稔彦王内閣は、当初こそ皇族首相による指導力を期待されていましたが、かえって共産主義革命を煽りかねないという不安が頭をもたげ、短命で総辞職します。続いて木戸幸一主導で首相指名されたのが幣原喜重郎でした。久しく政界から遠ざかっていましたが、過去の親英米協調外交路線が評価されての政界復帰となります。

幣原喜重郎首相時代、やはり最大の注目点は新憲法です。新しい憲法は果たして誰が書いたと考えるべきでしょうか。当時GHQに示された松本烝治案がマッカーサーによって拒否され、マッカーサー三原則に基づいてアメリカ軍の法律チームが新憲法草案を書き、日本の議会で多少の修正が行て現行憲法になったと言われていますが、一方でマッカーサー三原則の一つである非武装平和主義は幣原喜重郎の方からマッカーサーに提案し、それをマッカーサーが受け入れて同三原則が作られたとも言われています。

仮に幣原喜重郎が発案者であったとすれば、「アメリカ人が書いた憲法を押し付けられた」という歴史観は正しくないということになり、日本人が自発的に考え出した憲法だという議論をすることは可能です。ただ、一方で、国民の知らないところで幣原とマッカーサーが個人的に話し合って「密約」したとすれば、それをして日本人の総意と解釈することも難しいことのように思えます。更に言えば、マッカーサーの同意を得なければ自由に作れなかったという意味で、制限下に作られた憲法であることは議論の余地がないのではないかとも思えます。

一方、70年変更して来なかったことは日本人がその憲法に同意しているからだという議論があり、またその一方で、改正のハードルが高すぎて憲法が改正できないようにマッカーサーが仕組んだのだという陰謀論めいた議論もあります。

私個人の意見ですが、アメリカでは憲法の修正には議会の3分の2以上の賛成と4分の3以上の州の賛成を必要としていますので、日本の議会の3分の2以上の賛成と国民の過半数の賛成は必ずしもハードルが高いというわけでもないように思えます。日本がこれまで憲法を変えて来なかったことの背景には別の要因があるのではないかと思えます。

私個人の経験から言いと、アメリカ人はわりと天真爛漫ですので、そこがアメリカ人のいいところなのですが、あんまり細かいことは気にせず、憲法を書いたのはアメリカ人だが、それを保持し続けているのは日本人だから、日本人は自分の意思で現行憲法を使っているのだと思っている人が多いように感じます。一方で、中華圏の人は現行憲法には敗戦国の日本に対する懲罰的な意味が込められており、それを変更しようとすることは日本人が過去の反省を忘れる歴史修正主義だというように認識している人が多いように感じます。アメリカ人と中華圏の二種類しかサンプルがなくて申し訳ないのですが、中華圏の人とこの手の議論をする場合は相手が感情的に反論してくることが多いので、そういうことはなるべく議論しないようにしています。

永久平和の理想も確かに尊いものですから、現行憲法が悪いとは私は必ずしも思いませんが、現実と乖離している面があるのもまた確かかも知れません。法律に書いていないことは慣習なりコモンセンスで埋めていくのが法律の基本ではないかと私は思っていますので、安全保障や国際貢献に関しては必要に応じて対応することにして、わざわざ感情的な議論を引き起こす憲法改正のような手続きに出なくてもいいのではないかと私個人は考えています。

それはそうとして、幣原喜重郎内閣では第22回衆議院総選挙が行われ、それは婦人参政権もあるという画期的なものでした。その結果は日本自由党が第一党で、日本進歩党が第二党というもので、過半数を獲る政党はなく、幣原喜重郎は日本進歩党に近く、紛糾が生まれ、総辞職に至ります。幣原喜重郎の次は、いよいよ吉田茂の登場です。




林銑十郎内閣‐妥協の産物

議会の混乱の収拾がつかないことで広田弘毅内閣が総辞職し、後継首相として一旦、宇垣一成が指名されますが、軍縮派の宇垣に対して陸軍が断固拒否し、陸軍大臣を出さないという手段に訴えたため、宇垣内閣は幻のものになってしまいます。そこでなんとか八方収めるために指名されたのが陸軍の林銑十郎でした。

石原莞爾は林銑十郎は扱いやすいと見ていたようですが、林は混乱した事態を混乱させたまま退陣に至った印象が強く、思ったほど扱いやすい相手でもなかったようか、無用な、無意味な、意義のない内閣だったと見ることができるかも知れません。

内閣は予算を通過させるために議会と様々な取引を行うのが常ですが、林銑十郎内閣の場合、予算が通過してこれでいよいよ一息つける、或いは議会側からすれば予算を通してやることで恩を売ってやったような感じになるのですが、林は予算通過後に懲罰的な意味も含めた衆議院の解散を行います。予算を通過させてもらっておきながら解散したことで、「食い逃げ解散」といういかにも品性のない呼び方がされています。

当時は政友会と改進党の二大政党がどちらも野党で、事実上オール野党状態でしたので、政権運営という観点から論じるならどこかで解散に打って出て政府に協力してくれる政党勢力を確保しなくてはいけないのですが、林の与党であった昭和会と国民同盟は議席を減らし、林は総辞職に追い込まれていきます。社会大衆党が議会の第三党に浮上し、その存在感を示したあたりが特徴的な選挙結果でしたが、プロレタリア文学が流行した時代でもあり、その世相を反映している面もうかがい知れます。林銑十郎が就任してから退陣するまでの間は僅かに四ヶ月。妥協の産物として登場し、妥協しきれなくなって総辞職としたという展開です。

上の流れを見ていると、とにかく陸軍の政府人事に対する威圧が激しく、あたかも政府が陸軍にのっとられているのではないかという錯覚すら起こしてしまいそうになります。議会は議会で、政友会も改進党もさんざん政権を困らせて立ち往生させることで自分のところに首相の指名が回ってくることを狙うのですが、選挙の結果ではなく政争の結果として政権が交代することを西園寺公望が嫌ったために、政党政治も機能しなくなっています。私はロンドン軍縮条約に対して政権ほしさに統帥権を持ち出して政府を論難した犬養毅の責任は相当に思いのではないかと個人的に思います。

せっかく大正デモクラシーが育ったにもかかわらず、昭和初期はまるでみんなで目に見えない大きな力で押されているかのように政党政治は自ら破綻して行き、陸軍ばかりが影響力を持つという負のループにはまっていったと考えるほかはなく、知れば知るほどがっくり来ます。

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海軍出身の斎藤実の内閣が帝人事件で退陣したものの、「失政」による退陣とは言い難いとの判断が働き、西園寺公望はいわば憲政の常道の延長戦的な手法で斎藤と同じ海軍出身の岡田啓介を後継首相に指名します。

岡田啓介はロンドン軍縮会議をまとめた人物でもあり、軍縮路線の人物であったとも言えると思いますが、在任中にはロンドン・ワシントンの軍縮条約からは脱退します。

西園寺公望が政友会に全く政権を回さないため、しびれを切らした政友会が美濃部達吉博士の天皇機関説を攻撃して止まず、軍部からは軍拡圧力が止まず、名目上挙国一致内閣を作ったものの、十字砲火を浴びて立ち往生してしまいます。天皇機関説を否定する「国体明徴声明」を出したり、第二次ロンドン条約には参加しなかったりと、諸方面をなだめることに右往左往しますが、議会で多数を握る政友会が内閣不信任決議案を出したことを受けて岡田首相は衆議院の解散総選挙に打って出ます。

結果、岡田を論難して止まなかった政友会は大きく議席を減らし、民政党は過半数にこそ及ばなかったものの第一党となり、これで岡田への論難は止むかと見られましたが、なんと選挙結果が出た数日後に226事件が起きてしまいます。

一般には真崎甚三郎が自分を首班とした内閣を作ることを策謀し、若手の将校たちを煽って起こさせたものと考えられていますが、当時は西園寺が海軍に連続して首相の座を与えていたことが政友会と陸軍の双方に焦りを与えていたとも言え、首相指名権を持つ西園寺と陸軍・政友会との間に深刻な軋轢があったことがうかがい知れます。

首相官邸を襲撃した反乱将校たちは岡田啓介首相の義弟を首相と間違えて殺害し「これで内閣は倒れるので、次は西園寺公望を殺して重臣たちに真崎甚三郎首班を認めさせる手筈が整った」と思ったのも束の間、岡田首相が生きて首相官邸から脱出したことが分かった上に、西園寺も無事。昭和天皇大激怒の話も入ってきて、失敗を認めざるを得なくなっていきます。

権力争いのために統帥権だの天皇機関説だのをやり玉に挙げて論難したり、人を殺してでもと息まくあたり、本当にがっくりくる話ばかりです。

岡田啓介首相は確かに無事に脱出できたとは言うものの、恐懼に耐えず、辞表を提出します。西園寺公望は後継首相として岡田内閣で外相を務めた広田弘毅氏を指名します。陸軍には絶対に首相の椅子は回さないという西園寺の決心が垣間見えますが、論難しては政権を潰す政党政治にも限界を感じていたようにも見受けられます。文官でただ一人、A級戦犯で絞首刑の判決を受けるという広田氏の最期を想うと、こんな複雑な時に首相をやらされて気の毒としか思えません。時代はいよいよきな臭くなっていきます。

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民政党の若槻礼次郎が満州事変の時局収拾のための挙国一致内閣を作ることを断念し総辞職したことから、西園寺公望は憲政の常道にのっとって野党第一党の政友会の総裁である犬養毅を首相に指名します。犬養毅は首相に就任すると衆議院の解散総選挙を行い、政友会は議席を大きく伸ばします。当時はどうも「与党」に人気が集まりやすい傾向があったのかも知れません。

犬養毅は満州問題について、主権は蒋介石の国民党にあることを認めつつ、実質上は日本が支配するというプランを持っていたようですが、それが軍部からの反発を招きます。私個人としては軍部は一体何をしたいのか、終わりなき拡張主義に首を傾げざるを得ません。

犬養毅は野党時代、ロンドン軍縮条約に反対しており、これははっきり言えば政権を論難するための議論の議論のようなもので、政治家が外国と軍縮について決めるというのは天皇の統帥権の干犯で憲法違反だという論陣を張ります。「統帥権」さえ持ち出せば、政治家は軍に介入できないという議論の構成を「アリ」にしてしまった意味で、犬養の責任は重いように思えます。

満州問題の穏健な収集路線が軍から反発を受けていたほか、ロンドン軍縮条約に反発する海軍の将校が、若槻礼次郎を狙うつもりが若槻内閣が倒れて犬養内閣になったことで、拳を振り下ろす先を失くししまった感があったものの、それでも犬養をヤレという勢いで5.15事件を起こします。犬養はロンドン軍縮条約に反対でしたから、海軍にとっては味方してくれる政治家の筈ですが、条約を破棄するわけでもなく、そのまま行きそうだったので、ヤッたということは議論の筋道としては分からなくもありませんが、そもそもロンドン軍縮条約は日本の要求をほぼ満たしており、それでも殺したいほど不満に持つというのは、理解不能というか、軍部の突出したいという勢いが止まらなくなったというか、この時期のころから、軍部の独裁国家を作りたいという一部の関係者の願望が実現化しようとしていた、おかしな時代に見えてしかたがありません。知れば知るほど暗い気分になってきてしまいます。

犬養毅には森格という側近がいて、犬養曰く「森は危険すぎるから手元においた(野放しにすると何をするかわからない)」ということらしいのですが、5.15事件では森が軍人を手引きしたという噂が流れ、なんともきな臭い、こんなところにフィクサーが隠れていたのかと思うと、愕然とするというよりも、その手のフィクサー気取りがあちこちにごろごろいて、追放しても追放しても出てきますので、もう、日本の運命は滅亡するところまで突っ走る以外に道はなかったのかも知れません。暗いなあ。実に暗い…。

犬養政権後の後継首相選びでは軍が強気で、政友会も対外強硬派の首相を出したがっており、西園寺はとりあえず、八方収めるために海軍出身だが穏健派と見られた斎藤実を後継首相として推薦します。西園寺の心中には自分の理想とする政党政治の在り方と、実際の政党人の在り方の乖離が激しすぎて絶望的なものがあったのではないかという気がします。これで政党政治は実質的に終了し、後はもう無理難題が押し通って後戻りできない滅亡への一方通行へと入って行ってしまいます。

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田中義一内閣がいろいろな意味で残念な件

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浜口雄幸内閣は、田中義一内閣が某満州重大事件で天皇に叱責されたことを口実に退任した後、西園寺公望が「憲政の常道」にのっとり、結成されたばかりの民政党の総裁である浜口幸雄を首相に推薦することで登場します。

幣原喜重郎を外務大臣に起用し、ロンドン軍縮条約の成立に成功させます。ロンドン軍縮条約はワシントン軍縮条約に比べると日本に有利な内容になったと言え、ワシントン軍縮条約での軍艦保有比率ががイギリス10、アメリカ10、日本6だったことに対し、日本は自国の比率を7にすることを求めていましたが、ロンドン軍縮条約では日本の比率が6.975というほぼ7に達したと見て良いくらいの数字を獲得していますので、外交的には相手の面子を立てつつ自国の目的も果たして万々歳と言ったところなのですが、政友会から「統帥権干犯だ」というある種の攻撃の攻撃、議論の議論を持ち出されて、浜口を論難します。実質を見ずに政敵を論難することに腐心する政治家の様子から西園寺公望はじょじょに政党政治への理想を失っていったのではないかという気もします。幣原喜重郎は満州への利権拡大に対しても消極的で軍との折り合いも悪くなり、やがて政治家を引退しますが、平和主義志向と国際協調路線が評価され、戦後に首相に起用されています。

財政では井上準之助を大蔵大臣に起用し、緊縮財政と金本位制復活に入ります。世界恐慌のあおりもうけて景気はみるみる悪くなり、いわゆる昭和恐慌に陥りますが、国家財政そのものは良くなります、今日まで続く財政拡大によるリフレかデフレでも財政均衡かという議論のはしりみたいなものですが、個人的には関東大震災の心理的な傷が癒えないこの時期のデフレ不況が、日本人を心理的に追い詰め、戦争賛美、外国侵略への強い支持へとつながっていったのではないかという気がしなくもありません。緊縮ですので、もちろん軍縮も進めるため、やはり軍との折り合いがうまくいきません。後に暗殺の悲劇に見舞われます。戦前の政党政治時代の日本はとにかく暗殺が頻々として起きており、いろいろ読んでみてもきな臭い、疲れる時代という印象ばかりが強くなってしまいます。

浜口雄幸は東京駅で狙撃され、一命をとりとめます。幣原喜重郎が臨時首相を務めて難局を乗り切ろうとしますが、臨時首相の状態が長引いたことが政友会からの格好の論難の的となり、浜口内閣は総辞職します。また、狙撃された時の傷がもとで、浜口雄幸はまもなく亡くなってしまいます。

浜口内閣のもとで行われた衆議院総選挙では民政党が圧勝しており、浜口内閣の失政による総辞職ではなかったことから、西園寺は憲政の常道をあくまでも堅持して、民政党に政権を担当させる方針で、第二次若槻礼次郎内閣が登場することになります。

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加藤高明首相が急逝したことを受け、西園寺公望は憲政会の若槻礼次郎を首相に指名し、第一次若槻礼次郎内閣が登場します。若槻礼次郎内閣の時代に大正天皇が崩御し、昭和天皇が践祚・即位しています。

若槻礼次郎内閣での最大の出来事と言えば、やはり渡辺銀行の「結果的」な破綻とそれに続く昭和金融恐慌と言えるかも知れません。当時、松島遊郭移転に伴い代議士に対して不正な金銭の授受があったのではないかとの疑惑が広がり、現職の若槻礼次郎が予審を受けるというスキャンダラスな事態が展開しており、国会は空転していましたが、若槻礼次郎が政友会と政友本党の総裁と直に談判し関東大震災の復興のための国債発行の協力を取り付けることに漕ぎつけており、どうにかこうにか内閣は空中分解寸前でフラフラと飛び続けるという状態だったとも言えます。政友会は当時定着しつつあった「憲政の常道」に基づいて、若槻礼次郎が総辞職すれば、次は自分たちが与党になれるという目論見が生まれ、かえって党派党略で混乱を招こうとしていきますので、第一次世界大戦後の不況と関東大震災の影響の両方で、金融機関はどこも時限爆弾を抱えているような状態になっており、そういう時に政局が混乱して権力争いが深刻化したことは日本人にとってはいろいろな意味で不幸なことと言えるかも知れません。

1927年の3月14日、東京渡辺銀行から大蔵省に「今日中に破綻する」との連絡が入り、そのメモが帝国議会に出席していた片岡大蔵大臣に届きます。片岡大蔵大臣は答弁の際に「本日、渡辺銀行が破綻いたしました」と述べ、翌日の新聞にそれが掲載されて各地で取り付け騒ぎが起き渡辺銀行は本当に破綻してしまいます。メモを見ただけの片岡大臣が詳しいことを把握しないまま、さっそく議会で言ってしまうことには多少の疑問符が残りますが、若槻礼次郎内閣は議会運営で苦労していますので、話題や関心を渡辺銀行に向けさせることで、ちょっとは内閣批判が逸らされるのではないかという、ある種の甘い期待が片岡大臣の心中に芽生えたのではないかという気がしなくもありません。

いずれにせよ、上に述べたように、若槻礼次郎が野党の党首に「禅譲」を事実上約束することで、震災手形の発行に漕ぎつけ、なんとかなりそうに見えたのですが、新しい手形の発行には「台湾銀行の整理」が条件の一つに書き加えられていたため、今度は台湾銀行の破綻懸念が広がります。若槻礼次郎は議会が閉会中であったため、緊急勅令という形で日銀特融による台湾銀行の救済に動きますが、あろうことか枢密院がそれを拒否。台湾銀行は休業に追い込まれ、若槻礼次郎内閣は総辞職します。枢密院のメンバーには、憲政会に批判的な人物が多く、これをきっかけに若槻下しをしようという意思が働いたとも言われています。

与党の総裁が失政によって首相を退陣したことから、憲政の常道にのっとり、政友会の田中義一が首相に指名されます。田中義一内閣は満州謀重大事件で総辞職しますが、いよいよきな臭い時代に入っていくことになります。

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