湘南台→六会日大前→善行→藤沢本町まで歩いた話

まあ、なんとなくの思いつきでやってみようと思っただけのことなのだが、この寒さ。
消耗も激しかったので二度とやらないとは思うのだが、折角歩いたのでブログに思い出として残しておきたい。

その日、お天気はやや晴れていた。春の晴天ならともかく、冬のやや晴れた日にやるものではない。かくも長い徒歩移動など…。

しかし、このように無意味な徒歩移動はこんな日にしかできないのも事実だと言えるのではないだろうか。もし、冬の晴天の気持ちのいい感想した日であれば、江ノ島とか、大磯とか、小田原とかへ行きたいと思うものだ。また、もう少し暖かい梅とか桜の季節になれば、そういう庭園とかに足を運びたいのであって、何が悲しくて六会日大前から善行あたりにかけて徒歩移動したいと思うものかとも思う。このエリアは何もない。藤沢市民なら分かってくれるものと思う。

慶應大学のSFCができて湘南台も発展し、このエリアには慶応大学の学生が多い。とはいえ湘南台駅のスターバックスは慶應大学の学生で混みあっており、とてもスターバックスを楽しめる空間にはなっていない。私がSFCの学生だったときは、スターバックスもなかったので、今のSFC生めぐまれているともいえるが、せめてスターバックスにでもいかなければ何もないことへの屈辱感はよく分かるので、SFC生がスタバに集中することを責めたりはしない。でも、マック持ち込んで何時間も作業しているのを見かけると、あのねえ、ここは渋谷のスタバじゃないのよ。湘南台の貴重な貴重なカフェなのよと言いたくなる。しかし、卒業して随分たつ私がそのような難癖をつけても始まらない。ぐっとこらえるというか、混み過ぎてスタバとしての価値を充分に感じられないので、もう湘南台のスタバにはいかない。

それはそうとして、六会の日本大学が非常に盛り上がり、はっきり言って湘南台よりも六会日大前の方が華やかで活気があるのではないかとすら思える時がある。日本大学の資源学科の博物館もあるらしく、なんとなく足を向けたくなるのは湘南台より六会ではなかろうか。とはいえ、全く無関係な私が日大の博物館があるというだけで界隈を歩いていいのかどうか分からないので、遠目に見ながら南下して歩いた。途中、山田うどんがあった。山田うどんに入るのは何年ぶりだろうか。山田うどんと言えばやはりうどんを食べなくてはならないと思い、ハーフのうどんを頼んだが、うどんを食べるのが10年ぶりとかそれくらいなので、うまく食べることができなかった。舌も顔の筋肉もそばにカスタマイズされているのだ。

山田うどんがうどん屋さんだと思っていては大間違いだ。おそばも売っているし、サイドメニューもいろいろあるし、ドリンクバーみたいなものもあった。山田うどんは常に進化系なのだ。しかもとてつもなく安い。ありがとう山田うどん。

山田うどんのうどん。麺にこしがあっておいしかった。

山田うどんを出て、すぐ近くのコメダ珈琲店で休憩し、更に南下した。コメダ珈琲店は大抵の場合、接客がいいので、ある程度大きい都市のコメダ珈琲店なら喜んで入るのだが、藤沢市内のコメダ珈琲店である。限界があることは知っている。ややトラウマ的な接客を受け、私は更に南下した。もし星野珈琲店なら、トラウマはこの程度では済まなかっただろうから、コメダ珈琲店には感謝しなくてはいけないだろう。
六会日大前から善行方面へ歩く途中に開けている農地。藤沢市民の経済を支えている。

善行界隈から見た横浜方面の様子。歩けばすぐに横浜市内だ。ベッドタウンの雰囲気は好きだ。

がんばって歩き、いつの間にか善行を過ぎ、気づくと国道1号線の近くで、国道1号線を抜けると雰囲気はすっかり藤沢本町だった。寒さと疲れをいやすため、私は藤沢本町のタリーズコーヒーにかけこんだ。ホスピタリティ溢れる接客に涙が出そうになった。ありがとうタリーズコーヒー。藤沢にはスタバもあれば、コメダ珈琲店も星野珈琲店もあるけど、実は一見ありふれたカフェに見えるタリーズコーヒーの接客が身に染みるとは。藤沢本町のタリーズコーヒーのことは生涯忘れないだろう。




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藤沢本町で義経を祀る白旗神社

湘南地方をてくてく歩けば、この土地が源氏と深く結びついているということに気づくことができる。たとえば江ノ島電鉄腰越駅というところがあるが、義経はかつて、ここで腰越状を書いた。平家を滅亡させた後、京都で後白河上皇から検非違使に任命された義経は、その新しい肩書・地位を土産に意気揚々と鎌倉へと引き上げてきた。そして鎌倉の手前の腰越で頼朝に足止めされている。鎌倉に独立政権を構想していた頼朝は、義経が京都で検非違使の職位を手にして帰ってきたことが鎌倉武士への裏切り行為だと非難したのだ。私にはこれは半分正しくて、半分は言いがかりなのではないかと思える。義経が京都にとどまれば、検非違使の職位を活かした仕事をするかもしれないが、鎌倉に帰ってくれば、その称号は単なる飾りである。外国で名誉市民の称号を受けて帰ってきたらスパイ呼ばわりされる程度の理不尽さが、頼朝にはある。しかし、義経が頼朝の政権構想を甘く見ていたこともある程度は本当なのだろう。義経の心中には、京都で要職を得れば、鎌倉でもいい扱いを受けるのではないかという甘い期待があったに違いない。鎌倉武士の政権にとっては、そのような下心こそ、京都貴族につけこまれる危うい要素なのだ。だがしかし、それなら兄が弟を諭して検非違使を辞めさせればいいことで、何も命を奪わなければならないほどの大事とはとても思えない。そのあたりに頼朝の陰険さのようなものを、もう一歩踏み込むとすれば、頼朝のスポンサーである北条氏の冷酷さをも見えてくるのである。

腰越だけでこれだけ語れるのだ。相模湾沿岸まで範囲を広げれば、更に頼朝の事跡と出会うことになる。小田原の山手の方へ行けば、頼朝が平氏に敗れて逃走した石橋山がある。頼朝は石橋山を下りて真鶴へ逃れ、そこから海路、房総半島へと脱出した。頼朝の人生で最大の危機であったはずだが、彼は徹底して逃げ延びることで難を逃れた。逃げるは恥だが役に立つのである。ましてや体育会系的ロックンロール風のノリで生きる源氏武士であっても、そのあたりをリアリズムで乗り切れるかどうかが生死を分けたと言えるかも知れない。北条氏のゆかりの土地まで探せば、神奈川県は宝の山みたいなところなので、それは楽しいのだが、義経に話を戻す。

そういうわけで義経は腰越から引き返し、京都でしばらく過ごした後、頼朝の追手から逃れて静御前と別れ、弁慶とともに各地を放浪し、東北地方の奥州藤原氏を頼り定住しようとするが、頼朝の恫喝に屈した藤原氏の手によって命を奪われることになる。手を汚したのは藤原氏だが、頼朝がやらせたようなものだ。頼朝はおそらく、義経が怖かったのだろう。頼朝の権力を担保するのは北条氏のパワーしかないが、義経の方が担ぎやすいと判断されれば、頼朝は殺されてもおかしくない。どちらかと言えば義経の方が能天気で、扱いやすく、担ぎやすそうな気もしなくもない。なら、義経を殺そうと頼朝は決心したと考えることもできる。

頼朝はその後800年にわたり日本を支配した武家政治のファウンダーであり、武士道精神が今もある程度日本人の行動様式や思考様式に影響を与えているとすれば(たとえば不祥事が起きた会社の社長が辞任するのは、武士が切腹することで責任を果たすという思考様式に準じている)、頼朝の存在感は半端ないのだが、人気があるのはやはり義経だ。義経は平家を滅亡させるだけの優秀さを持っており、たとえば戦前の軍はひよどり越えを真剣に研究して近代戦に活かそうとした。京都育ちというなんとなく雅なプロフィール、五条大橋での弁慶との対決という、子どもも喜ぶエピソード、静御前との別れという、男女のあや、強い兄に追われる弱気弟に対する判官びいき、歌舞伎の題材になり、能の題材になったのは、こういった義経の様々なアイテムが素晴らしすぎるからで、頼朝にはこのようなアイテムはない。頼朝にあったのは権力だけだった。その権力も、心もとない。頼朝は北条氏の傀儡だったのだから。京都のお寺で育てられた義経は、伊豆で女の子をナンパする以外にやることのなかった頼朝よりも遥かに都会人で教養人で、洗練されていたに違いない。もっとも、その素晴らしい頭脳から生み出される功利主義的戦法は、関東武士の美学に会わず、部下や同僚から思いっきり嫌われてしまったのだから、本当に気の毒だ。

確かに義経は頼朝によって犯罪者として処理されることになった。とはいえ、義経は上に述べたように日本史で一番人気がある人物なのだ。そのままというのはあまりに気の毒だ。で、小田急線藤沢本町駅を降りてすぐ近くにある白旗神社の御祭神が義経というのは、納得できることなのである。源氏の象徴である白旗に笹りんどうの紋章は、一時、大陸騎馬民族にも似たようなシンボルが残されていると言われ、義経ジンギスカン説の根拠とされることもあった。白旗神社で見た笹りんどうの白い提灯は、ここが本物の義経由来の土地だということを表している。歴史をマニアックに愛好するものにとってはなかなかぐっと来る場所である。