奈良時代をがっつりざっくりと語る

奈良時代を語るには、まずは壬申の乱から入るのがいいかも知れません。壬申の乱で勝利した天武天皇は、目に見える形で勝利者になったことで、天皇家の威信を確立することができるようになったと言えると思います。

古事記、日本書紀の編纂が行われ「天皇家公認の歴史」が整備されたことにプラスして次の持統天皇が伊勢神宮を天皇家公認の氏神にした(と言える)ことにより、天皇は他の豪族とは明確に峻別され、神聖化、神格化へとつながっていきます。

蘇我氏のような外戚が天皇位ののっとりを計画することがあったのに対し、奈良時代、平安時代を通じて権力を伸長させた藤原氏がそういう素振りをみせることもなかったのは、天武天皇の時代に天皇が決定的に神聖なもので、他の血筋ではそれに代わることができないと明確化されたことに理由を求めることができるのではないかという気がします。

天武系の天皇が数代続いたことにより天智天皇とタッグを組んでいた藤原の人々がしばらくの間権力に充分に手が届かなかったことも、もしかすると藤原氏が天皇位奪取を計画すらしなくなったことの要因かも知れません。その後、藤原氏は天皇に自分の娘を嫁がせ続けることで、結果として貴族社会を制覇し、天皇家とはほぼ一体といってもいいほど濃い血のつながりを持つことを政権運営の主たる策略としていきます。

天武・持統時代には天皇が中国の皇帝と同様な別格かつ唯一の存在として認めさせるという目的があったために、律令制度を充実させていこうとした他、首都も唐の長安風のものを建設しようと考えるようになり、日本で最初の「都市」と呼べるかも知れない、藤原京の建設が行われます。ただ、藤原京は遣唐使から帰って来た者から「ちょっと違う」という指摘を受け、新たに首都計画が練られ、平城京への建設へとつながっていきます。

それまで、天皇ごとに宮が移動したり、政変があったり天変地異があったりするとすぐ遷都するというやり方を捨て、平城京を恒久的な首都するという意図があったと見られます。

持統天皇はそもそも天武天皇が亡くなった後は自分の息子の草壁皇子を天皇にする計画で、ライバル視された大津皇子は反逆の疑いをかけて殺してしまいます。ところが草壁皇子が病死してしまい(毒殺だったとしても不思議ではないかも知れません…)、持統天皇が一旦政権を引き継いで、どうにか草壁皇子の息子であり自分の孫にあたる皇子を文武天皇に即位させることに成功します。他にも皇子がいる中で、なんとか苦しいところで一線を守ったというところかも知れません。

文武天皇の后に藤原不比等の娘の宮子を送り込むことに成功し、首皇子(後の聖武天皇)を出産したことが藤原氏浮揚の要因となりますが、それはもう少し後になってからです。

文武天皇が若くして病死してしまい、とりあえず文武天皇の母親が元明天皇に即位します。元明天皇の時代に平城京遷都が実現します。その後時々難波宮に遷都したり恭仁京に遷都することもあり、ちょっとブレることもありますが、結局は平城京に帰ってきます。元明天皇の次はその娘(文武天皇の姉)が即位し、その後におそらく奈良時代で最も有名であろう聖武天皇が即位します。

聖武天皇と光明皇后の間には基王が誕生し、将来の天皇と目されますが、一年も経ずして亡くなってしまいます。興福寺の阿修羅像は光明皇后が基王が成長した時をイメージして作らせたものだと言われています。聖武天皇と光明皇后にはそのような人間的な愛情に関するエピソードがあるため、好印象な人が多いと思います。

聖武天皇の時代、当初は天武天皇の孫の長屋王が政権の中枢を握りますが、藤原不比等の息子たち、いわゆる藤原四兄弟が長屋王の失脚を謀ります。長屋王は反逆の疑いをかけられて自害に追い込まれます。藤原四兄弟はそれぞれに北家、南家、京家、式家の祖となりその後の藤原氏の全盛の基礎を固めるのですが、四兄弟たちは長屋王の死後に次々と病死します。当時の人なら、きっと長屋王が祟ったのだと思うに違いありません。周りで人がばたばたと亡くなり、更に藤原広嗣の乱が九州で起きたこともあり、聖武天皇は仏教に傾倒していき全国に国分寺を作らせたり、大仏殿の建築を命じたりするようになります。また、常に陰謀が渦巻いている奈良の都が嫌になり、同時期に短期間ですが恭仁京へ遷都したり、紫香楽宮へ遷都したりしています。

聖武天皇は娘の孝謙天皇に位を譲り、孝謙天皇は聖武天皇の遺言に従って道祖王を立太子しますが、その後いろいろ言いがかりをつけて廃太子されることになります。

藤原四兄弟が亡くなったことで藤原氏の勢力が後退し、橘諸兄が政治の世界の実力者になります。藤原南家の藤原仲麻呂が成長すると、光明皇后が藤原氏の出身者であることと、その娘で皇位についた孝謙天皇もバックについたことで藤原仲麻呂が橘諸兄を制して権力の中枢を握ります。天皇家と藤原氏が並立し、或いは事実上一体化してこのまま華やいだ平安の世界へ行くのかと言えばさにあらず、藤原仲麻呂の台頭をよしとしない橘諸兄の息子の橘奈良麻呂は長屋王の息子の黄文王と天武天皇の孫の道祖王を抱き込んだ政権転覆を計画します。密告により計画は露見し、黄文王、道祖王は拷問で死に、橘奈良麻呂も同じ運命をたどったと考えられています。

孝謙天皇が退位を表明すると、藤原仲麻呂の推薦で天武天皇の孫の淳仁天皇が即位します。これでようやく淳仁天皇と藤原仲麻呂の天下、晴れて華やかな平安時代に突入するかと言えばまたしてさにあらず。

孝謙上皇が道鏡と恋愛関係になった(らしい)ため、藤原仲麻呂が苦言を呈すると孝謙上皇は切れまくって淳仁天皇の権威は認めないと宣言。藤原仲麻呂は戦争で決着をつけようとしますが、孝謙上皇サイドが勝利し、藤原仲麻呂が殺され、天武天皇の孫の塩焼王も殺されます。淳仁天皇は淡路に流罪。淡路で殺されたと考えられています。その他の天智系の皇子たちも流罪となり、天武天皇の系統の皇位継承者はほぼいなくなります。天武天皇の孫たちが多く藤原仲麻呂の側に味方したという事実は、孝謙上皇・道鏡同盟を認めない天武系皇子たちの反乱とも言えますが、天智系の子孫には皇位継承はないと考えられていた時代の天武系の皇子が藤原仲麻呂と結束したことは、正当性がどちらにあるか、或いはどちらが正規軍かという問いと立てるとすれば、藤原仲麻呂・淳仁天皇・塩焼王たちの側にあるのだと考える人が多かったということかも知れないという気がします。

人材がいないので孝謙上皇が重祚し(たことになっている)、亡くなった後は天智系の白壁王が光仁天皇に即位し、現代までその系統が受け継がれていきます。白壁王の妃である井上内親王が聖武天皇の娘で、戸部親王をもうけており、天智系と天武系の融合という要素が見られますが、光仁天皇の即位後に井上内親王と戸部親王は、天智天皇の孫の難波内親王を呪詛したという理由で幽閉され、同じ日に亡くなっていることから殺害された可能性が高いと見られています。道鏡は関東へ左遷されますが、殺されなかったのはお坊さんだったからなのかも知れないですが、あれだけのことをやらかしておいて殺さなかったのは究極に運が良いのかも知れません。

光仁天皇の即位には藤原百川の強い推薦があったとされており、井上内親王と戸部親王が除かれた背景には、藤原氏による天武色の一掃という強い執念が働いていたように感じられます。長い長い天智系と天武系の決着がつけられたと捉えることもできるかも知れません。その後、光仁天皇と百済王家の血統と言われる高野新笠という女性の間に生まれた山部親王が桓武天皇に即位し、長岡京遷都、続いて平安京への遷都になります。

平城京は恒久的な首都として建設されたはずでしたが、道鏡のような人物が出るなど、仏教寺院の力が強くなってきたことから、その勢力を忌避するために遷都したとも考えられていますが、上に述べたように奈良時代は天武系の人々が次々と殺され、大変に後味が悪く、そういう怨念渦巻く土地から離れたかったというのも私は個人的にはよく理解できます。そうは言っても桓武天皇の時代には弟の早良親王が排斥されていますので、奈良時代の権力争いは実に恐ろしいという感想がどうしても強くなってしまいます。

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孝謙天皇の愛への渇望

聖武天皇の娘で、女性として唯一、立太子され(つまり、中継ぎではなく)、天皇に即位したのが孝謙天皇です。一度退位し、重祚しているというだけでも波乱の人生ですが、在位中に橘奈良麻呂の乱、退位後に藤原仲麻呂の乱を経験し、重祚後には道鏡事件も起きていおり、更に天武系の系統も絶えたという風に思うと、本当に波乱万丈、悩ましい人生を送った人のように思います。

一度目の即位の時は、母親の光明皇后が後ろ盾になってくれていて、実際の政治は藤原仲麻呂がやってくれるという、人形かお神輿のような存在でしたが、光明皇后が亡くなった後は、後継者の淳仁天皇と藤原仲麻呂ラインと激しくぶつかるようになります。道鏡と親密な関係になり(どの程度、親密だったかは想像するしかありません)、孝謙上皇と道鏡によって政治をすると宣言します。

淳仁天皇と藤原仲麻呂及び周辺の天武系の皇子たちが共謀して反乱を起こしますが、孝謙上皇サイドの方が動きが速く、孝謙上皇が勝利します。淳仁天皇は廃されて流罪になり、逃走を図った翌日に亡くなっていますが、暗殺説が根強いように思いますし、私もそうではないかなあという気がします。この結果、天武系の適切な皇位継承者がいなくなった一方、天智系の皇族が生きていましたが、天智系に皇位を渡すわけにもいかないという心境もおそらくはあって、孝謙上皇は重祚して称徳天皇になります。

称徳天皇の時代が来て道鏡はいよいよ出世し、法王というお手盛りの位にも就いて順風満帆、人生の全盛期を迎えます。道鏡が天皇を目指したという説は根強く、「宇佐八幡宮神託事件」で、宇佐八幡宮から「道鏡を天皇に即位させるよう」神託が下ったという、普通ならちょっと考えられない工作も行われました。このような、常識を逸したとも思える工作が可能かも知れないと当時者に少しでも思わせることになったのは、もしかすると、孝謙天皇が唯一、中継ぎではなく立太子を経た天皇であったため道鏡には「その天皇と夫婦になって夫が次の天皇になろうと思うのですが、何か?」という意識があったのかも知れません。「持統天皇と何か違いますか?男と女の違いだけですよね」くらいに思ったのかも知れません(持統天皇は天智天皇の娘ですので、道鏡とは実は全然違います。念のため)。

和気清麻呂が宇佐八幡宮まで出かけて行って「あんな御託出しやがって、分かってるのか」と追及すると「ひっこめます」ということで片が付き、称徳天皇が病床について亡くなると道鏡は事実上の流刑になり、ことは収拾されました。

称徳天皇が「どうしても次は道鏡で行く」と強気に出た場合、どうだったでしょうか。道鏡が天皇に即位していたでしょうか。おそらく、道鏡は信西と同じく、全然関係のない人物が偶然の重なり合いで中央に入って来ただけの人物だという目で見られていたでしょうから、もし称徳天皇が強行な態度を示せば適当な理由をつけて殺されたかも知れないという気がします。

最終的に道鏡天皇を実現させなかった称徳天皇は度量と常識をはたらかせたとも言え、道鏡との親密な関係もどこかの段階で終了したように思えます。あるいは道鏡が宇佐八幡宮のご託宣を出してきた時点で「いくらなんでも…」と思って醒めてしまったのかも知れません。想像です。

一般に、称徳天皇の粛清に次ぐ粛清で天武系の皇族がいなくなり、天智系の皇族が復活して今に続く皇統になったと説明されることは多いと思いますが、天武系の皇族が全くいなくなったというわけでもありません。かき集めて、臣籍降下した者も入れれば、血統としては受け継いでいる人もいましたし、吉備真備はその線を狙ったようです。ですが、天智系の白壁王が後継者として即位した背景には、藤原百川が仕組んだかどうかはともかく、やはり天智天皇とタッグを組んで世に出て来た藤原氏の意思というものがあったような気がします。

後継の白壁王が光仁天皇に即位した後、皇后の井上内親王と息子の他戸親王は暗殺されたとする見方が強いですが、井上内親王と他戸親王は聖武天皇の血を引いており、即ち、天武系になりますので、天智系でやっていきたい藤原氏に謀られてしまったらしいです。光仁天皇の立場からすれば、自分の即位後にわけのわからん理由で妻と息子が殺されていますので、名実ともに藤原氏の人形にされてしまっている…と無力さを感じたかも知れません。高野新笠という、百済王朝の系統の女性との間にもうけた子が桓武天皇に即位しますが、このような系統の皇子を次の天皇に後継させるというあたりに、藤原氏の「天武系復活は絶対にない」という強い意思を感じると同時に、藤原鎌足の時代に百済王朝の人たちの亡命を受け継いでいますから、自分たちの物語をそこに見出し、百済王朝の血統を日本の天皇家の中に残したいと言う意図も感じなくもありません。

以上のようなことを考えると、天武系vs天智系と言うよりは天武系vs天智系を推す藤原氏の対決の構図になっており、天智系の人々は何もしていないのに復活したとも言えますが、言いがかりをつけて殺すのが当たり前のようにされていた時代に、孝謙天皇は相当にストレスも強く、周りは藤原ばっかで疲れるという心境の時に道鏡にすがったのかも知れません。

ついでになりますが、仏僧の道鏡が八幡宮のご託宣を利用するって、それで本人的にはいいのか?という疑問もあるのですが、道鏡は弓削氏の系統の人物らしく、弓削氏は物部氏の系統になりますので、もしかすると道鏡の心中の根幹には物部氏の後継者だという自負があったのではないかという想像がはたらきます。想像です。

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信西という人生

保元の乱平治の乱について語る時、信西のことを外すことはできません。藤原氏に生まれたものの、高階氏の養子に入り、当代最高級の知識人と周囲に認められていたにも関わらず、出世の道が閉ざされてしまったことに抗議の意を示すために出家します。

ところが、妻の朝子が雅仁親王の乳母をしており、近衛天皇が亡くなったことを受けて雅仁親王が後白河天皇に即位することで、信西は突然出世します。雅仁親王は天皇になる見込みはないと誰もが考えていたため、信西の人生は想定外の展開を見せます。自分には出世の見込みはなく、育てている雅仁親王も天皇に即位する見込みもない、宮廷の中で冷や飯グループだと思っていたはずです。禍福は糾える縄の如しです。

これによって信西が中央政界に躍り出て、更に保元の乱で後白河天皇サイドが勝利し、いよいよ盤石。後白河天皇の即位にも彼は策動していたのではないかとの推測があり、保元の乱の戦略会議でも積極策を提案してそれが図星になるなど、狙った通りに物事が動いていくことに彼は自分でも驚いたのではないかと思います。

ただ、想像ですが賢しらさが目につく人ではなかったかと思えます。試行錯誤を経て訓練されて人間性が磨かれたり、知恵がついていくのなら良いかも知れないのですが、信西の場合はもともと自分の頭脳は優れているという自信があったことにプラスして急に出世したこと、更に実際に狙い通りに物事が動いたことで「自分の目に狂いはない」という過信が生まれたのかも知れません。また、策略家であるが故に、やはり策士策に溺れるという様を呈してしまいがちになったのではないかとも思えます。

近衛天皇が亡くなることで運を得て出世できたのですが、自分の才覚で出世できたとどこかで勘違いを始めた、どこまでが運でどこからが才覚によって結果を得られたのか分からなくなっていったのかも知れません。あるいは運勢とかそういったものは一切信用せず、全て自分の才覚で上へ行けたと考えたのかも知れません。だからこそより、自分の策だけを頼りにしたのではないかと思えます。もし、近衛天皇が17歳の元気のさかりで亡くなったことも信西のはかりごとによる結果だとすれば、自分の頭脳に湧いてくる策略だけが頼りだと思うのも、無理はないです。

朝廷全体に反信西派が形成され、後白河天皇派と二条天皇派に割れていた貴族たちが平治の乱では一致して信西排除に動いたと見られるあたり、そういう賢しらさが災いしたのではないかという気もします。また、あまりに策略だけで動き過ぎたことで友人がいなくなってしまったということもあるかも知れません。源義朝からの婚礼の申し出を断って、平清盛と婚礼を進めたのも、策をめぐらし過ぎて不信を買ったであろう彼の一側面をうかがわせています。

完全に想像ですが、若いころに不遇だったことで、心の底で出世していくことへの不安も湧いたことでしょうし、何かがおかしい、こんなに物事が簡単に進むはずがないという恐怖も覚えたかも知れません。不安だから更に策をめぐらせるを繰り返し、策はたいていの場合、誰かに見抜かれますから、不信を買うという悪いスパイラルに入って行ったようにも思えます。

平治の乱で郊外に落ちのび、土の中に隠れて敵をやり過ごそうとしますが、発見され最期を迎えます。このような土遁の術のような奇計を思いつくのも、信西らしいと言えば信西らしいやり方かも知れません。

実際に会えば嫌な人だったに違いないとも思いますが、不遇の人生の中で僅かな運と才覚を頼りに出世しようとした信西に同情してしまいます。かわいそうな人です。素直にそう思います。

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平治の乱の裏シナリオ

平治の乱は、保元の乱の勝者だったはずの人々が分裂し、最後は平清盛が大勢を制したことで、つとに知られている出来事です。個人的には、この政変には裏シナリオがあったのではないかという気がします。

藤原信頼が源義朝と手を組み、信西を殺し、後白河上皇と二条天皇を擁して京都政権を手に入れます。熊野詣に出かけていた平清盛が政変を知り急いで帰郷。二条天皇が平氏の拠点である六波羅に脱出し、それを知った後白河上皇も脱出します。天皇と上皇の両方が脱出したことを後で知った藤原信頼は逃走。後に捕まって斬首されます。源義朝も関東へ帰る途中で家臣に殺されてしまいます。結果、平清盛が全てを手に入れて全盛期を築くという流れになっています。

この流れを見て思うのですが、藤原信頼は、後白河上皇に弓を弾いて、新政権は世論の支持を得ることができると本当に思ったのでしょうか。藤原信頼はそもそもが後白河上皇の近臣ですので、後白河上皇の無力化は即、自分の無力化につながります。信頼がそのことに気づかなかったのが私には不思議なことのように思われます。

平安貴族は二条天皇派と後白河上皇派に割れており、政治の実際的な権限は保元の乱の後は後白河天皇と一緒に中央に出世した信西が握っています。取り合えず信西を排除することで二条天皇派と後白河上皇派が手を結んだともとれますが、信頼が前面に出て後白河上皇の居所を燃やさせるあたり、二条天皇派がシナリオを書いたような気がしなくもありません。

そのように考えると、藤原信頼は随分かわいそうな人で、二条天皇派に踊らされ、裏から糸を引かれて踊っていた哀れな人形のように見えてきます。彼本人に政局観のようなものは多分なく、真珠湾攻撃の後で、山本五十六が周囲に「これからどうする?」と言ったといわれていますが、同様に藤原信頼にも「これからどうするか」を考えていなかったように見えます。あるいは安心しきって二条天皇派の裏でシナリオを書いている人にまかせきってしまっていたのかも知れません。

平清盛は一旦は服従の姿勢を取り、その後、好機を見て天皇と上皇を自分サイドにつけていますが、これも「信西を排除した後は清盛に信頼を排除させて一件落着」の筋書きがあったものの、その後平氏政権が総取りするのは想定外で、慌てて今度は清盛排除を計画し、ところが源氏政権ができて更に想定外…というような流れだったのではないかという気がします。

当初、信西排除というわりとミクロなシナリオだったのが、あまりに大袈裟に仕掛けを作り込み過ぎて幕引きがうまくいかず、策士策に溺れる展開だったのかも知れません。

さて、最初に裏でシナリオを書いたのは美福門院か、それとも藤原経宗か…。美福門院が同じ年に亡くなり、後白河上皇がその分自由に動けるようになったことが不確定要因となって、世の中が変わって行き、全く想定していなかった平氏政権の誕生→源氏政権の誕生→武士の時代と流れて行ったようにも思えます。

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保元の乱に見る勝ち方

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保元の乱は、弟が後白河天皇として即位することで院政への道が閉ざされた崇徳上皇が切れまくり、兄との権力闘争で不利になっていた藤原頼長がそこに加わり、源氏と平氏が分裂して天皇方と上皇方に分かれて戦争になったことは、つとに知られています。人間関係が複雑で、名前も似たような人がいっぱい出てくるので、誰が誰だかよく分からなくなってしまいそうですが、

勝利者      敗者
後白河天皇 vs 崇徳上皇と、
藤原忠通  vs 藤原頼長

とだけ抑えておけば、だいたい理解していると言っていいのではないかと思います。『保元物語』では、上皇方の源為朝が、戦争に負ける側を美しく描くという価値観に則って美化されているため、彼の活躍が目立ちます。天皇方についた義朝もびびって一旦退却するという場面も描かれますが、実際は数時間でけりがついたようです。

この戦いで勝者と敗者を分けたものは何か、という点について『保元物語』では、崇徳上皇サイドがわりと悠長に事を構えていて、為朝が「先手必勝、夜襲をかける」と建言したのを「天皇と上皇の戦争なのにそんな品性のない戦いができるか」と退け、朝になったら出陣して日中堂々と雅に戦おうと計画していたところ、後白河天皇サイドでは義朝が信西と相談して「先手必勝、夜襲をかける」で合意し、早々と兵を出しています。

このように見ると「先に決断をした方が戦争に勝てる」という法則性を見出すことができるかも知れません。とはいえ、21世紀に生きる我々は真珠湾攻撃で先手必勝しようとしつつも無残に日本が敗けたことを知っていますので、先手必勝であればいいというものでもないように思います。

『保元物語』によれば、源為朝が豪傑で敵を寄せ付けず、一進一退を繰り返したとされており、義朝が信西に「崇徳院の居所に火をつけるのがいいと思うが、恐れ多くてできない」という使者を送り、信西の方から「今手をゆるめてどうする、いいから燃やせ」という返事を受け取ってそれを実行し、崇徳上皇たちは脱出。雌雄が決しました。

このように見ると、一旦決心した後は怯むことなく、臆することもなく、前進し、良くも悪くも後先考えず、勝てそうな見込みを得られるものは全部やる、という姿勢によって勝利を得たことが分かります。

太平洋戦争では、国民には強気のメッセージが送られていた反面、真珠湾攻撃後の戦略については指導者たちは弱気と強気が入り混じって煩悶しており、いざいよいよという時に判断の迷いによって追い詰められていく場面が幾度も見られます。

そう思うと、より早く、そしてより強く決心した方が勝つ。ということも言えるかも知れません。

ただし、前提条件として、保元の乱では後白河天皇サイドが兵力において勝っており、後白河天皇が「現政権」に当たりますので正統性という点からも優位で、周囲の協力を得やすいという環境があったということを忘れることはできません。勝てるという環境が整った上で決心するという正攻法的な決断の手順が踏まれているとも言えますので、やはり運頼み、出たとこ勝負では周到に準備している相手には勝てないということの証左になるような気もします。何事も周到さが肝心要なのかも知れません。私のようなしがないブロガーに言えたことではありませんが…。

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奈良時代の藤原氏の世渡り

天智天皇の死後、大海人皇子が吉野にくだって兵を集め近江朝と戦う壬申の乱が起きます。壬申の乱では大海人皇子が勝利し、天智天皇の息子の大友皇子は自殺し、藤原鎌足の一族の中臣金は処刑され、その他の藤原系の人々も流罪になります。藤原鎌足は天智天皇の側近中の側近でブレーンだったわけですが、壬申の乱で敗れてその勢いを失ったと言えます。

不比等は当時少年だったために咎を受けず、普通の人生、どちらかと言えば恵まれない方の人生を歩むはずだったに違いありません。しかし、持統天皇の息子の草壁皇子が病死し、草壁皇子のその息子の軽皇子が文武天皇に即位するのに貢献したとして、不比等は一機に出世し、奈良朝の藤原氏の台頭の基礎を作ります。娘の宮子が文武天皇の夫人となり後の聖武天皇を出産したことで、不比等は皇子の祖父ということになり、更にその基盤が固まっていきます。天皇の系統では天武系が続いていますが、朝臣の系統では天智系が復活してきたと捉えることもできると思います。

不比等の死後は藤原四兄弟が藤原氏による政権中枢の独占を狙い、天智系の皇族の長屋王を自殺に追い込みます。危機を乗り越えた後はライバルを蹴落とすというなかなか恐ろしい構図が見られます。この構図は菅原道真の時と同じで、藤原氏が単に運が良かっただけでなく、慎重かつ大胆、そして明確な強い意思を持って権力確保に邁進していたことが分かります。

もしそういう人が職場にいて敵視されるといろいろ面倒です。自分も野心を持っていたら全面戦争覚悟になりますし、そうでなかったとしても、普通に仕事をがんばっているだけで嫌がらせを受け、失脚の機会を伺われ、あることないこと触れて回られ、ちょっとしたミスや隙につけこまれてきます。そんな人が周辺にいたらそれだけで本当に疲れます。

では、反撃すればいいかというと、そういう場合は大抵、相手の方が用意周到で、勝つことに情熱を注いでいますのでよほどの覚悟が求められることになります。平和にそこそこな感じで生きていきたい人にとっては迷惑なことこの上ないに違いありません。藤原氏が倒された側の怨念を恐れたのも、周到な追い落としをかけていた自覚があったからではないかとも思います。不比等と藤原四兄弟の時代、壬申の乱の敗者の側にいたにも関わらず、復活して再び権力に届いていくという時の心境を想像すると、当時、計り知れないほどの高揚を彼らにもたらしたに違いありません。きっと、権力闘争が好きだったのだろうと思います。そうでなければ情熱的に相手を潰すことはそうそうできません。相手も人間ですのでハンパな潰し方では潰れませんから、命をかけたチキンゲームです。怖くなったらやられてしまいます。

ただ、権力闘争はやり過ぎると結局は仲間割れに至ってしまいます。藤原道長の時代になると藤原氏内部での追い落としが激しいですし、保元の乱もいわば藤原氏内部で喧嘩し過ぎて凋落し、清盛が台頭して貴族の時代そのものが終わっていきました。

権力闘争はほどほどが良さそうに思います。

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