奈良時代を語るには、まずは壬申の乱から入るのがいいかも知れません。壬申の乱で勝利した天武天皇は、目に見える形で勝利者になったことで、天皇家の威信を確立することができるようになったと言えると思います。
古事記、日本書紀の編纂が行われ「天皇家公認の歴史」が整備されたことにプラスして次の持統天皇が伊勢神宮を天皇家公認の氏神にした(と言える)ことにより、天皇は他の豪族とは明確に峻別され、神聖化、神格化へとつながっていきます。
蘇我氏のような外戚が天皇位ののっとりを計画することがあったのに対し、奈良時代、平安時代を通じて権力を伸長させた藤原氏がそういう素振りをみせることもなかったのは、天武天皇の時代に天皇が決定的に神聖なもので、他の血筋ではそれに代わることができないと明確化されたことに理由を求めることができるのではないかという気がします。
天武系の天皇が数代続いたことにより天智天皇とタッグを組んでいた藤原の人々がしばらくの間権力に充分に手が届かなかったことも、もしかすると藤原氏が天皇位奪取を計画すらしなくなったことの要因かも知れません。その後、藤原氏は天皇に自分の娘を嫁がせ続けることで、結果として貴族社会を制覇し、天皇家とはほぼ一体といってもいいほど濃い血のつながりを持つことを政権運営の主たる策略としていきます。
天武・持統時代には天皇が中国の皇帝と同様な別格かつ唯一の存在として認めさせるという目的があったために、律令制度を充実させていこうとした他、首都も唐の長安風のものを建設しようと考えるようになり、日本で最初の「都市」と呼べるかも知れない、藤原京の建設が行われます。ただ、藤原京は遣唐使から帰って来た者から「ちょっと違う」という指摘を受け、新たに首都計画が練られ、平城京への建設へとつながっていきます。
それまで、天皇ごとに宮が移動したり、政変があったり天変地異があったりするとすぐ遷都するというやり方を捨て、平城京を恒久的な首都するという意図があったと見られます。
持統天皇はそもそも天武天皇が亡くなった後は自分の息子の草壁皇子を天皇にする計画で、ライバル視された大津皇子は反逆の疑いをかけて殺してしまいます。ところが草壁皇子が病死してしまい(毒殺だったとしても不思議ではないかも知れません…)、持統天皇が一旦政権を引き継いで、どうにか草壁皇子の息子であり自分の孫にあたる皇子を文武天皇に即位させることに成功します。他にも皇子がいる中で、なんとか苦しいところで一線を守ったというところかも知れません。
文武天皇の后に藤原不比等の娘の宮子を送り込むことに成功し、首皇子(後の聖武天皇)を出産したことが藤原氏浮揚の要因となりますが、それはもう少し後になってからです。
文武天皇が若くして病死してしまい、とりあえず文武天皇の母親が元明天皇に即位します。元明天皇の時代に平城京遷都が実現します。その後時々難波宮に遷都したり恭仁京に遷都することもあり、ちょっとブレることもありますが、結局は平城京に帰ってきます。元明天皇の次はその娘(文武天皇の姉)が即位し、その後におそらく奈良時代で最も有名であろう聖武天皇が即位します。
聖武天皇と光明皇后の間には基王が誕生し、将来の天皇と目されますが、一年も経ずして亡くなってしまいます。興福寺の阿修羅像は光明皇后が基王が成長した時をイメージして作らせたものだと言われています。聖武天皇と光明皇后にはそのような人間的な愛情に関するエピソードがあるため、好印象な人が多いと思います。
聖武天皇の時代、当初は天武天皇の孫の長屋王が政権の中枢を握りますが、藤原不比等の息子たち、いわゆる藤原四兄弟が長屋王の失脚を謀ります。長屋王は反逆の疑いをかけられて自害に追い込まれます。藤原四兄弟はそれぞれに北家、南家、京家、式家の祖となりその後の藤原氏の全盛の基礎を固めるのですが、四兄弟たちは長屋王の死後に次々と病死します。当時の人なら、きっと長屋王が祟ったのだと思うに違いありません。周りで人がばたばたと亡くなり、更に藤原広嗣の乱が九州で起きたこともあり、聖武天皇は仏教に傾倒していき全国に国分寺を作らせたり、大仏殿の建築を命じたりするようになります。また、常に陰謀が渦巻いている奈良の都が嫌になり、同時期に短期間ですが恭仁京へ遷都したり、紫香楽宮へ遷都したりしています。
聖武天皇は娘の孝謙天皇に位を譲り、孝謙天皇は聖武天皇の遺言に従って道祖王を立太子しますが、その後いろいろ言いがかりをつけて廃太子されることになります。
藤原四兄弟が亡くなったことで藤原氏の勢力が後退し、橘諸兄が政治の世界の実力者になります。藤原南家の藤原仲麻呂が成長すると、光明皇后が藤原氏の出身者であることと、その娘で皇位についた孝謙天皇もバックについたことで藤原仲麻呂が橘諸兄を制して権力の中枢を握ります。天皇家と藤原氏が並立し、或いは事実上一体化してこのまま華やいだ平安の世界へ行くのかと言えばさにあらず、藤原仲麻呂の台頭をよしとしない橘諸兄の息子の橘奈良麻呂は長屋王の息子の黄文王と天武天皇の孫の道祖王を抱き込んだ政権転覆を計画します。密告により計画は露見し、黄文王、道祖王は拷問で死に、橘奈良麻呂も同じ運命をたどったと考えられています。
孝謙天皇が退位を表明すると、藤原仲麻呂の推薦で天武天皇の孫の淳仁天皇が即位します。これでようやく淳仁天皇と藤原仲麻呂の天下、晴れて華やかな平安時代に突入するかと言えばまたしてさにあらず。
孝謙上皇が道鏡と恋愛関係になった(らしい)ため、藤原仲麻呂が苦言を呈すると孝謙上皇は切れまくって淳仁天皇の権威は認めないと宣言。藤原仲麻呂は戦争で決着をつけようとしますが、孝謙上皇サイドが勝利し、藤原仲麻呂が殺され、天武天皇の孫の塩焼王も殺されます。淳仁天皇は淡路に流罪。淡路で殺されたと考えられています。その他の天智系の皇子たちも流罪となり、天武天皇の系統の皇位継承者はほぼいなくなります。天武天皇の孫たちが多く藤原仲麻呂の側に味方したという事実は、孝謙上皇・道鏡同盟を認めない天武系皇子たちの反乱とも言えますが、天智系の子孫には皇位継承はないと考えられていた時代の天武系の皇子が藤原仲麻呂と結束したことは、正当性がどちらにあるか、或いはどちらが正規軍かという問いと立てるとすれば、藤原仲麻呂・淳仁天皇・塩焼王たちの側にあるのだと考える人が多かったということかも知れないという気がします。
人材がいないので孝謙上皇が重祚し(たことになっている)、亡くなった後は天智系の白壁王が光仁天皇に即位し、現代までその系統が受け継がれていきます。白壁王の妃である井上内親王が聖武天皇の娘で、戸部親王をもうけており、天智系と天武系の融合という要素が見られますが、光仁天皇の即位後に井上内親王と戸部親王は、天智天皇の孫の難波内親王を呪詛したという理由で幽閉され、同じ日に亡くなっていることから殺害された可能性が高いと見られています。道鏡は関東へ左遷されますが、殺されなかったのはお坊さんだったからなのかも知れないですが、あれだけのことをやらかしておいて殺さなかったのは究極に運が良いのかも知れません。
光仁天皇の即位には藤原百川の強い推薦があったとされており、井上内親王と戸部親王が除かれた背景には、藤原氏による天武色の一掃という強い執念が働いていたように感じられます。長い長い天智系と天武系の決着がつけられたと捉えることもできるかも知れません。その後、光仁天皇と百済王家の血統と言われる高野新笠という女性の間に生まれた山部親王が桓武天皇に即位し、長岡京遷都、続いて平安京への遷都になります。
平城京は恒久的な首都として建設されたはずでしたが、道鏡のような人物が出るなど、仏教寺院の力が強くなってきたことから、その勢力を忌避するために遷都したとも考えられていますが、上に述べたように奈良時代は天武系の人々が次々と殺され、大変に後味が悪く、そういう怨念渦巻く土地から離れたかったというのも私は個人的にはよく理解できます。そうは言っても桓武天皇の時代には弟の早良親王が排斥されていますので、奈良時代の権力争いは実に恐ろしいという感想がどうしても強くなってしまいます。
スポンサーリンク