昭和史41‐英米の蒋介石援助

とある情報機関が発行していた機関紙の昭和14年4月21日付の号では、イギリス、アメリカによる蒋介石の援助について解説していますので、紹介してみたいと思います。当該の記事では、蒋介石政権が中国大陸のかなり奥の方まで追い詰められているにもかかわらず、粘り強く抵抗を続けている理由として、蒋介石政権が外貨を大量に持っていることを指摘しており、なぜそんなにお金があるのかと言えば、世界中の華僑資本家の支持があることと、イギリス、アメリカの援助があることを理由として挙げています。日本は緒戦では買ってはいますが、世界的規模で敗けていたと何度もこのブログで書いていますが、やはり、この記事も日本が世界的な視野から見れば孤立していたことを裏書きするようなものだと言っていいのではないかと思います。

当該記事では、フランスの経済新聞が、イギリスの蒋介石への援助は東アジアの権益を守るために援助しているのであって、蒋介石そのものへのシンパシーに基づくものではないという趣旨のことを書いていると紹介していますが、まさしく、英米の権益を日本が脅かすからこそ、やがては日本帝国の滅亡を迎えることになってしまったわけですから、この記事を紹介することで、蒋介石はそんなに英米に愛されているわけではないという解釈を与えるのは大局を見失っていると判断せざるを得ないと思えます。

当該の記事は、いずれ蒋介石は大金だけを持って中国大陸から脱出しなければならないことになるだろうけれど、その場合、それまで蒋介石のために戦ってきた中国人民見捨てられるのだという主旨のことで結ばれていますが、事態は後にこの予言の通りになったとも言え、そういう意味ではここは見抜いていたと言ってもいいですが、それは日本帝国が滅亡した後に起きたわけで、当該情報部は英米が日本帝国をつぶすことをとにかく優先していたという結果的事実を見抜くことができていません。

「情報部」を名乗るくらいですから、情報収集のプロ、情報分析のプロの集団であったはずですけれど、全く分析できていなかった、日本有利と宣伝するだけのプロパガンダ機関にすぎなかったと思うと、頭脳なき戦争を日本は進めていたのだも思われて、やっぱりがっくし…。ですねえ。


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昭和史34‐帝国声明と近衛文麿

とある情報機関の発行していた機関紙の昭和13年11月11日付の号では、明治節(現代の文化の日)に合わせて、「帝国声明」が掲載されています。曰く

帝国の欲求するところは東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設にあり、今次聖戦究極の目的亦此処に存す、この新秩序の目的は日、満、支三国相携え(略)東亜を安定し世界の進運に寄与する(略)国民政府と雖も(略)新秩序の建設に来り参ずるに於ては敢へてこれを拒否するものに非ず

としています。蒋介石への降伏勧告といったところと思えます。現代人の私たちは蒋介石がこれに応じることはなかったということをよく知っています。蒋介石は日記に日本はいずれ英米と戦争して滅亡するだろうと書き残していたという話を読んだことがあり、実際にそのような展開になったわけですから、緒戦に於いて日本が勝っていたとしても、蒋介石には自信があったのかも知れません。アメリカとイギリスの援助が十分にあり、国共合作後はソビエト連邦の援助も少なかったとはいえ実際にあったわけですし、ドイツも裏では蒋介石に軍事顧問を送ったりしています。要するに日本帝国は世界規模の視野で見れば完全に孤立していたのであり、日本人だけがそのことに気づいていなかった、そして蒋介石はそれをよく知っていたという構図が見えてきます。私は蒋介石がすごいとかすばらしいとか言いたいわけではありません。その構図が作られていたことに日本人が気づかなかったことに、日本人の一人としてがっくししてしまうのです。これぞまさしく失敗の本質と言えるのではないかと思います。

当該の声明文に続いて近衛文麿首相の解説文がついています。当該の解説文によれば、コミンテルンが中国大陸の赤化を狙っているのでそれを防止するために全力を挙げなくてはいけない、そのために日本とドイツは手を結んでいるのだという趣旨のことが書かれてありました。近衛文麿に関して言えば、本人が自覚的な国家社会主義者で、しかも側近がコミンテルンのスパイだったわけですから、これもまたしてもがっくしといったところで、日本帝国と近衛文麿はそんな世界の大きな手のひらの上で踊らされていた、どんなに強気でも孫悟空のようにお釈迦様の手のひらの外側へ出ることはできなかったという残念な構図が見えてきます。

今後もしばらくは当該機関紙を読み続け、情報でも調略でも敗れつつあった日本帝国の足跡を辿る予定です。

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昭和史24‐戦費の調達

とある情報機関の資料を読み進めているのですが、植民地で「皇民化、皇民化」とかなり熱心に説いているわけですが、その理由がうすうすながら分かってきました。私は以前はある種の情緒的な問題なのではないかと勝手に想像していたのですが、どうも戦費の調達というかなり具体的な理由がその背景にあったようです。

植民地の人々に対して「みなさんは、誇り高い日本の皇民なのですから、国防献金をしましょう!国債を買いましょう!国債は貯金と同じですから、全然無駄じゃありませんよ~」というメッセージが繰り返し、繰り返し述べられています。

以前にもこのブログで書きましたが、皇民化促進を目的とした劇団の組織が計画され、興行収入は国防献金に差し出すという「美談」が紹介されていたのも、要するに戦費が必要だったからです。当該の情報機関の記事では、増税の計画もかなり細かく紹介されており、戦費の調達にどれほど必死だったかということが分かります。

ただ、経済学の初歩的な問題になりますが、戦争になれば必ず物資は値上がりします。特に当時の東アジアにおいては、日本帝国が必死で戦争に必要な物資を買占めに走っているわけですから、どう考えても青天井の物資高になることは明白で、どんなに戦費を調達しても全部インフレで吹っ飛んでしまいます。そういう面から見て、日本が蒋介石と戦争を続けていたのは、当時の国益としても大して大きなメリットがないにも関わらず、お金だけはざるで水を汲むように浪費していかざるを得ず、なかなか厳しいというか、アリジゴクみたいなところにはまり込んでしまっていたことが分かります。

一体、何のためにあんな戦争をやったのでしょうか?ソビエト連邦との戦争準備ということなら分かります。その点に限っていえば、まずはソビエト連邦に対する備えとして満州国を作った石原莞爾の発送は理にかなっており理解できます。しかし、蒋介石との戦争は防衛面からも全く意味がなく、軍を動かす分金がかかるにもかかわらず、ただ疲れるだけで何も生産的ではなかった、ほうっておけばよかったものをわざわざ介入して果たして何をしているのか…と首をかしげざるを得ないというか、そんなことに国運をかけていたことにがっくりきてしまいます。昭和10年代の歴史の資料を読めば読むほどがっくしがっくしでため息をつくしかありません。

とはいえ、皇民化が叫ばれた真の目的が戦費調達にあったという個人的な発見はなかなか重要なもので成果であると言え、ごく個人的には、まあ、よかったなあ、という感じですが…。

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昭和史22‐東久邇宮台湾神社参拝と神武節

戦前、神武節という日が設けられていました。神武天皇は旧暦の3月11日に崩御したことになっているのですが、これをグレゴリオ暦に直すと4月3日になるそうで、4月3日を「神武節」として祝日にしていたわけです。

で、その神武節に合わせて昭和13年4月3日、東久邇宮航空本部長が台湾を訪問し、台湾神社を参拝しています。既に南京攻略戦も終わり、日中戦争は膠着状態でしたが、台湾はその住民のほとんどが漢人であることから、どうにかして「皇民化」したいという当局の願いのようなものがあり、ここは宮様にお出ましいただいて、なんとか国威発揚をしたいというわけです。

私が今追いかけているとある情報機関の機関紙の昭和13年4月21日付の号には、東久邇宮が台湾神社を参拝し、陸軍施設を慰問訪問している写真が巻頭グラビアみたいな形で掲載されているのですが、その次の巻頭特集みたいなところには台湾での増税の必要を訴えています。とにかくお金が足りないという当時の情勢がよく分かります。はっきり言ってしまうと、どんなに増税をして、献金を集めて、公債を売ったところで戦時は物資がそもそも高騰しているわけですから、物資の余裕がない限り、いかにお金を集めようともインフレーションで消えてなくなってしまいます。特にアメリカの経済制裁が行われた後は、どれほどお金を集めてもモノが入ってこない以上、インフレーションを起こすだけなので、日本帝国は解決不能な問題に直面せざるを得なくなっていくということが、その足音のようなものが聞こえて来る感じがします。

今回の号では思想犯として収監された台湾人がその思想信条を変更し、要するに「転向」したその心の動きを綴った手記もしているのですが、現代であれば思想犯で収監するなどということは絶対にあってはいけないことですが、このような手記を掲載するのも「さあ、今、抗日思想を持っている人たちも悔い改めて、立派な『日本人』になりなさい。人生をやり直せますよ」というメッセージになっているわけで、ひたすら「皇民化」をがんばっている様子が伺い知れます。

当該情報機関の海外情勢の欄では、蒋介石軍は外国人パイロットを雇い入れたものの、無敵日本軍機を見ると絶対勝てないと思って敵前逃亡するので10人ぐらい首にしたという話と、オーストラリアのラジオは反日放送を続けていて、これは宋美齢の秘書がドナルドというオーストラリア人だから、オーストラリアのラジオ放送が蒋介石の宣伝機関みたいになってしまうのだが、人事異動でフランク・クルームという人がが日本に派遣されることになったから、今後は状況は良くなるだろう楽観的なことが書かれてありました。フランク・クルームがどのような人物なのか、検索しても全然分かりませんでしたが、当該情報機関の情報を閲覧する限り、日本帝国は宣伝戦で完全に敗けていたか、被害妄想だったかのどちらかになっており、今後の暗い展開を知る現代人としてはため息をつくしかありません。

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昭和史19‐蒋介石軍による台湾空爆

資料を読み進めていくうちにわかったのですが、昭和13年2月ごろ、蒋介石軍による空爆が台湾で行われたようです。手元の資料によると(昭和13年3月11日付)、松山地区と新竹地区に空爆があったと書かれています。2月23日、松山地区で行われた空爆では「若干の」死傷者が出たが、救護要員などが手早く動いたため、被害を最小限にとどめることができたとしています。また、新竹で行われた空爆では、死傷者はなかったものの、民家に4発の爆弾が投下され水牛一頭が爆死したとされています。当該民家の人へのインタビュー記事が載っており、家はあちこちだめになったし、水牛も死んだが自宅の神棚には砂もかからず、家族にも被害が出なくてよかったという趣旨のことが書かれています。

一見、蒋介石軍との戦いでは日本軍が勝利に次ぐ勝利を得ていたように見えますが、実は私が想像していた以上の実力を持っていたのではないか、国民党の戦力について認識を変えなくてはいけないのではないかと感じます。重慶あたりから飛んできて日本の哨戒ラインを潜り抜け、台湾に空爆したのですから、爆撃機と護衛機が編隊を組んで飛んできていることも併せて考えると、その航続力は相当なものがあったと考えるしかありません。また、十分に訓練されていなければ哨戒ラインの突破もあり得ず、その後、生還したかどうかは分かりませんが、生還したとすれば、往復しているわけですからやはりかなりの航続距離を誇っていたと考えなくてはいけません。

このような大型の(燃料をたくさん積まないといけないので、大型にならざるを得ないはず)軍用機をどうやって手に入れたかと言えば、ビルマあたりを通る援蒋ルートで英米から提供されたのだろうという推測はできますから、日本軍がビルマ、インドの制圧を悲願にしていたことも頷けなくはありません。さっさとやってしまえばいいものを、太平洋戦争後半のへろへろの状態になってやっとこさインパール作戦を始めてあまりにも大きな失敗をしてしまったわけですが、私としてはどうしてそこまで蒋介石と戦争をしたかったのかそこがなかなか理解できません。蒋介石と戦争をして日本が得することはなかったように思います。尾崎穂積がその方向に誘導したからでしょうか…?

手元の資料では、3月10日が日本が日露戦争の奉天会戦で勝利した陸軍記念日ということで特集が組まれていますが、台湾軍司令部という名前で「(中国との)長期戦を覚悟して」「天皇陛下万歳を唱えて」などの威勢のいいことが書かれています。そのほか、当該の資料ではとある台湾人の男性が報国のために「銃後に於ける奉公の一として皇民化運動に東奔西走し寸時を利用しては同志と語り社会教化劇団を組織して三月には盛大に開演し其の収入を国防献金すべく計画し、次のプログラムを決定開演する運びとなってゐるのである 一、国民精神動員の一日 二、出征軍属の母 三、民風作興の老人 四、迷信打破 五、村の悪習解除」と書かれてあります。国が戦費を調達するのに必死で、献金募集を大いに働きかけていたことがまず分かりますが、このようなプロパガンダ劇団が組織されて公然とそれが行われていたというのはなかなか鬼気迫るものを感じます。大変残念なことではあるのですが、アメリカと戦争をする前に、ある種の集団ヒステリーになっていたのではないかという気がしてなりません。躁状態になっていてやめるにやめられなかった、国が滅亡するまで止まらなかったという気がしてしまいます。

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昭和史15‐中華民国臨時政府と台湾の中国人

昭和13年1月近衛文麿内閣は「蒋介石を相手とせず」とする声明を発表します。蒋介石の国民党は重慶に追いやられてしまったので、もはや正統な中国政府ではないから、日本人の傀儡政権を樹立させて、それを正統政権として承認するのだというわけです。汪兆銘が南京政府を樹立するのは昭和15年のことでもう少し後になるのですが、昭和13年1月に北京に中華民国臨時政府が樹立されています(後に汪兆銘政権に吸収されます)。

とある情報機関の発行していた機関紙の昭和13年2月1日付の号によると、台湾在住の中国籍の人たちによる「臨時政府支持在台華僑大会の状況」が報告されています。この大会では日の丸への敬礼の後に五色旗(中華民国成立当初デザインされた国旗)への敬礼も行われたということになっており、しかも台湾各地で同様の催しが行われたとしています。

実際にそのような式典が行われたのは事実なのでしょうけれど、当時の在台中国人の人たちの心境はなかなか察するに余りあるものがあるかも知れません。日本の傀儡政権ができて喜ばなければならないというのはなかなかにストレスフルなことであったに違いありません。それとも当時の人たちも今後どうなるか分からないという中で、場合によったら日本が東洋を支配する最強国になるかも知れないから、その場合は勝ち馬に乗っておいた方がお得だと考えた人も中にはいたかも知れません。こればっかりは分かりません。

確かに当時としては勝ち戦が続いていたわけですから、表面的には日本有利、このまま東洋の覇者へというコースが見えないわけではありません。しかし、物資の不足、資金の不足は逐次報告されており、日本帝国の内情がそんなに生易しいものではなかったということも言えるように思います。ましてや満州事変と国際連盟脱退以降は英米との戦争も想定するようになっていくわけですから、長い目で見れば、これは先がない…とその後の展開を知っている現代人の目には見えてしまいます。そう思いながら資料を読むと、威勢のいい言葉が並べば並ぶほど読み手としては緊迫感を感じずにはいられません。



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昭和史2-国民総動員と植民地

近衛文麿内閣が国民総動員法を成立させたのは昭和13年のことですが、とある公的機関の発行した機関紙の9月21日付発行の号では、既に「国民総動員精神」と言う言葉が出てきます。日中戦争が本格化していた時期であり、戦費の調達にも当局者が頭を抱え始めていた時期でもあるわけですが、この機関紙では、銃後の国民の心構えのようなものを説いています。曰く

国民精神の興廃が一国の盛衰に如何に重大な影響を及ぼすかは、欧州大戦に於ける思想宣伝戦に於てドイツがロシヤ国内に革命を起こさせて遂に帝政ロシヤを瓦解に導き、又連合国が其の宣伝に依り経済的圧迫とも相まってドイツを内部から崩壊せしめた実例に徴しても明らかである。

として、国民精神の一致団結の必要を訴えています。多少、陰謀論の影響を受けている気がしないわけでもないですが、当時は参戦国はなんでもありで諜報工作もさんざんやっていたでしょうから、全く事実無根というわけでもないかも知れません。当該の文章では植民地についても触れており「皇民化の徹底」も訴えています。なんとなく、必死さというか悲壮が漂うというか、日中戦争でこれだけ必死なわけですから、さらに後に太平洋戦争にのめりこんでいった歴史は相当な無理ゲーだったと残念ながら認めざるを得ないかも知れません。

軍事扶助法にも触れており、これは応召した兵士に残された家族の面倒をしっかり見るという趣旨のもので、大正6年に作られた法律のようなのですが、台湾ではそれがなされていないことを嘆いている部分もあり、植民地を含んだ国家総動員が整備されつつある様子、或いは整備しようとしていた様子を見て取ることができます。

更に当該の文書では、資源の有効活用と機密の保護に注意を喚起しており、昔、NHKのドキュメンタリーで見たような、鉄類は子供のおもちゃからお寺の鐘まで、機密保護については治安維持法まで駆使するようにと関係者を叱咤しており、なかなか緊迫感がある内容になっています。もし空襲に見舞われるような事態になった場合、関東大震災では「流言飛語」によって「周章狼狽、被害を拡大したのは明瞭なる事実」であるから、空襲になった場合も冷静沈着でなければならないとも述べており、果たしてそれが関東大震災直後に起きた朝鮮人殺戮を意味するのかどうかに関心が向いてしまいますが、それについてはそれ以上書いてないのでわかりません。空襲を想定しているところが興味深いとも思えます。蒋介石の軍が日本を空襲することはほとんど考えられませんでしたから、やはりアメリカとの戦争を昭和12年の段階で予想・予期していたのではないか、それとも太平洋戦争はいわゆる予想の自己実現的なものだったのかと首を傾げ、考えさせられてしまいます。

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昭和史1-排日運動の歴史

昭和史1-排日運動の歴史

とある公的機関刊行物の昭和12年9月15日付の号では、当時の日中関係に関する当局者の見方が述べられており、当時、日本の当局者がどのように日中関係を理解していたかということを知る上で興味深いものになっています。

当該の文章では、縷々、平和と正義を重んじる日本軍に対し、中国サイドで排外主義が盛り上がり日本だけでなくフランスなど欧米諸国に対しても排外主義を発揮し、その製品を奪ったり、破壊したりしていたことを述べているとともに、日本人殺害事件が幾たびとなく頻発し、さらには日本軍に対する挑発行動も目立つため、やむを得ず関東軍が展開エリアを広げ、満州事変、熱河作戦を行ったのだ、盧溝橋事件もまたしかりである。というような趣旨のことが述べられて、そのような中国に於ける排日運動は40年もの歴史を持つのだとも述べ、はっきり言えばかなり憤っています。昭和12年9月のことですから、既に上海事変は始まっており、南京攻略戦にはまだ至っていない。そういう時期に当たります。

当該の文章では、それらの諸事件が起きた背景にはコミンテルンの動きがあると指摘しており、当該文章の結びでは

満州事変以降の数々の排日抗日事件は、総て蒋介石が自己の政権を維持し支那(ママ)の統一を促進せんが為めに支那国民に排日抗日思想を徹底せしめた結果現はれたものであって、それにロシア共産党の指令に基く支那共産党の魔の手も加はって抗日運動は益々熾烈無軌道となったのである

と述べ、問題は中国ではなく、むしろその背後にあるコミンテルンだと指摘しています。その続きではコミンテルンは一旦は蒋介石に中国支配をさせておいて、内側から赤化運動を行い、中国全体を共産主義にすることが狙いになっているので、注意せよ。というむすびになっているわけです。

この刊行物に書いてあることがどこまで信用できるのか、そもそもが書き手のバイアスがかかってはいないのか、それとも反共の著者が強引にコミンテルンを結び付けているだけなのか、私には判断のしようがありません。ただ、当局者がどういう認識を持っていたかということを知るという点で興味深いことのように思えます。



阿部信行内閣‐当事者能力の喪失

平沼騏一郎内閣が「欧米の天地は複雑怪奇」として総辞職をした後、後継の首相選びは難航します。外交、日中戦争ともに手詰まりで出口がなく、西園寺公望は「(後継首相に誰がいいか)自分には意見がない」とまで言い出したと言われます。首相の成り手がいないという深刻な時代に立ち至った時、陸軍が阿部信行擁立に動き、消去法的に阿部信行が首相に指名されることになります。

阿部信行の出身母体は陸軍でありながら、皇道派にも統制派にも属しておらず、多少リベラルな面も持っていた人物とも言われていますが、外交でも日中戦争でも打てるべき手がなくなっており、始まった時から死に体だった感がぬぐえません。そのような人物を首相に据えざるを得ないほど、日本そのものが当事者能力を喪失していたのではないかとすら思えてきます。

阿部内閣時代にアドルフヒトラーがポーランドに侵攻し、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告をすることで、第二次世界大戦が始ってしまいますが、阿部はヨーロッパ情勢に対しては中立の姿勢を見せます。更に、行き詰まった外交を打開する目的で、外交権を外務省から内閣へと奪い取ることを画策しますが、外務省職員の強い反発を受け、こちらの方は頓挫してしまいます。

汪兆銘政権を相手に日中講和の可能性を探りますが、そもそもが蒋介石を抜きにした和平案ははっきり言って無理があり、蒋介石とのルートを確保しようとしなかった、またはできなかったということは、日中戦争解決が根本的に不可能だったことを示していると言えるかも知れません。

1940年1月、汪兆銘の側近が香港に逃れ、汪兆銘と日本との間に交わされている和平交渉が「売国的」なものであると暴露し、講和交渉がこれ以上不可能と考えた阿部信行内閣は総辞職へと至ります。阿部は総辞職にあたり「日本の国は陸軍とそれ以外に分裂している。ここを調整するのは想像していた以上に難しかった」という主旨の弁を残したと言われていますが、政治家や外交官がどれほど手を尽くしても軍が実力行使でちゃぶ台返しで既成事実を積み重ねていくという図式がもはや慣例化しており、シビリアンコントロールは喪失していたと見るべきですので、この段階で既に日本の命運は尽きていたと思えなくもありません。

歴代の首相の動きを見ているとかくも複雑怪奇なことが外国人に説明して分かってもらえるわけもなく、知れば知るほど暗澹たる気持ちになっていきます。阿部信行内閣の次はこれもまた短命な米内光正内閣が登場します。


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広田弘毅内閣

226事件で岡田啓介首相が退陣した後、組閣を命じられたのが広田弘毅です。当初、西園寺公望は近衛文麿を首相に推す意向を持っていたようですが、近衛が固辞し、吉田茂の説得で広田弘毅が組閣を引き受けることになったという経緯があるようです。

広田弘毅という人は見るからに文官風で、東京裁判で裁かれている姿を見ると、違和感というか受け入れがたいというか、何か不可思議な儀式を見せられているような気分になってしまうのですが、広田弘毅内閣の時代に軍部大臣現役武官制を復活させたこと、日独防共協定を結んだこと、それから近衛内閣の時代に外務大臣を務めた際、南京攻略戦後に強行な外交策に出てトラウトマン和平工作を水泡に帰させたことなど、確かに要所要所で日本が滅亡していく方向へと舵を切っていたと見ることも可能かも知れません。

軍部大臣現役武官制については、仮に予備役の軍人を大臣に据えることができたとしても、軍部大臣そのものが大抵の場合、陸海軍の意向を受けて行動もするし、辞表もチラつかせて脅しかけてくるしという面があるので、このことだけで軍国主義への道を開いたと考えるのは酷なように思えます。このような制度を作ろうと作るまいと、犬養毅が統帥権干犯問題で内閣を揺さぶる手法が可能だということを証明した後は、軍のなすがままにならざるを得なかったのではないかと私には思えます。

では、日独防共協定はどうでしょうか。日本としてはソビエト連邦に備えるための外交策で、リッペントロップが積極的に活動して締結されたものですが、後にアドルフヒトラーは独ソ不可侵条約を締結したことで「欧米事情は複雑怪奇」と言わしめるほどに当時の国策を実現していくものではなかったことが分かります。日本はアドルフヒトラーの外交のお遊びにつき合わされて引っ張りまわされただけで、英米からの敵視が増幅するという副作用もあったわけですので、こっちは体を張ってでも拒絶すべきものだったのではないかという気がします。

後に重臣会議のメンバーとなった広田弘毅は日独伊三国同盟の締結について、英米を敵に回すという理由で強く反対したらしいのですが、果たして日独防共協定は推して三国同盟に反対するというのはどういう心境なのかと首を傾げてしまいます。

もちろん「ソビエト連邦の脅威に対抗できるのならばヒトラーと手を組む、そうでなければ手を組まない」というロジックが理解できないわけではありません。しかしながら、最終的には対英米の協和が必須だったことは間違いなく、重要なポイントには取り組まず、小手先でいろいろなんとかしようとしたのが裏目裏目に出たのではないかという気がしなくもありません。大局を見誤っていたとしか言えません。

南京攻略戦後の交渉材料のつり上げによるトラウトマン工作の破綻は、広田弘毅が「外交のプロ」として、敵の首都を陥落させた以上、要求は更に大きくできるという常道を通したのかも知れませんが、実際問題としてはそれも裏目に出たわけで、策士策に溺れるの感が否めません。

東京裁判では広田弘毅は「自ら計らわない」に徹し、一切の自己弁護を行わなかったことで知られています。もしかすると、ヒトラーや蒋介石との外交で策謀を働かせ、次々と裏目に出て国を滅亡に導いてしまったことへの自責のようなものからそのような心境になったのではないかという気がします。

そうはいっても文官が文官としての仕事をして極刑に処されるというのはやはり気の毒というか、感情的に受け入れがたいものがあります。広田弘毅という人物をどう評価するかは、或いはあと30年ぐらい待ってみて、東京裁判の時代に生きていた人がいなくなったくらいからやり直さなくてはいけないのかも知れません。

広田弘毅内閣は馬場鍈一大蔵大臣の超巨大予算で混乱が生じ、寺内寿一陸軍大臣と政友会の浜田国松との間で「軍を侮辱するのか」「軍を侮辱していない。速記録を見返して軍を侮辱した箇所があったら私は腹を切る。もし見つからなかったら寺内君が腹を切れ」というタイマンの張り合いが起き、頭にきた寺内は広田首相に懲罰的な議会の解散を要求しますが、広田内閣は内閣不一致として総辞職します。

当時はもはや軍の影響力を排除した組閣は不可能に近い状態に陥っており、予備役の林銑十郎が次の組閣を担うことになります。

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