第二次若槻礼次郎内閣-満州問題に翻弄された内閣

浜口雄幸が暴漢に襲われて執務が不可能になったことが原因で、浜口内閣が総辞職すると、西園寺公望は浜口雄幸と同じ民政党の若槻礼次郎を二度目の首相に指名します。浜口内閣は失政によって総辞職したわけではないため、憲政の常道にのっとり、西園寺は民政党政権を持続させました。

第二次若槻内閣では、日本の運命を決定づけたとも言える満州事変が起きており、外務大臣の幣原喜重郎が平和外交を進めようとしますが、中村大尉が張学良の配下に殺害されるたという事件が公表されたことで民意が激高していたため、幣原の対外融和策は「軟弱外交」と批判されます。

陸軍大臣の南次郎は若槻内閣の一員として協調路線に協力しようという意思はあったようなのですが、陸軍部内の強硬派からの突き上げを受け、板挟みの状態になってしまいます。満州事変は石原莞爾が独自の判断で勝手に起こしたと言ってもいいものですから、政治の側からは予算を止めるという対抗措置も不可能ではありませんでしたが、南次郎はそこまで踏み込むわけでもなく、現場の暴走を黙認、または追認していき、いわば成り行きまかせで主体性を失っていたように見えなくもありません。

若槻礼次郎は事態不拡大の方針で臨もうとしましたが、現場が勝手に動くことを抑えることができないことで、内閣が同様し始めます。内大臣の安達謙蔵は政友会との連立政権を組む挙国一致内閣を作ることで内閣の主導権を強めようと動き出し、当初は若槻もそれに乗ろうとしましたが、平和外交主義の幣原喜重郎と緊縮財政主義の井上準之助が反対します。政友会と連立すると政策に影響が出ますので、思うように政治ができなくなるというわけです。

若槻は幣原と井上に押し切られ、一旦はまとまりかけた政友会との連立を白紙に戻そうとします。安達謙蔵が内大臣を辞職することで丸く収めようとしましたが、頭にきた安達が辞表を出さずに自宅にこもりきったまま出て来ないという状態に陥ってしまい、内閣不一致で第二次若槻礼次郎内閣は総辞職へと追い込まれます。

このように見ていくと、昭和初期で軍部が台頭していく中、首相が軍への指揮命令権(統帥権)を持っていなかったこと、他の大臣を罷免する権限を有していなかったことが、日本の政治の大きな弱点になっていたことが分かります。伊藤博文は首相に権力が集まり過ぎないように配慮してそういう仕組みにしたのだと思いますし、首相指名権が元老にあったというのも、明治維新創業者世代が現役だったうちは真の意思決定者は元老であり、首相は実務者のトップに過ぎないという意識から生まれたことだと思いますが、幸運に恵まれた創業期と違い、この時期になると首相に嵌められた手枷足枷が柔軟性を奪い、責任のある意思決定ができないまま、滅亡へひた走りに走ったと思えなくもありません。

西園寺は若槻礼次郎が内閣不一致で総辞職したことを受け、失政による総辞職であったことから、政友会の犬養毅を後継首相に指名します。この政党政治の終焉が近づいていきます。

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浜口雄幸内閣‐軍縮と緊縮財政

浜口雄幸内閣は、田中義一内閣が某満州重大事件で天皇に叱責されたことを口実に退任した後、西園寺公望が「憲政の常道」にのっとり、結成されたばかりの民政党の総裁である浜口幸雄を首相に推薦することで登場します。

幣原喜重郎を外務大臣に起用し、ロンドン軍縮条約の成立に成功させます。ロンドン軍縮条約はワシントン軍縮条約に比べると日本に有利な内容になったと言え、ワシントン軍縮条約での軍艦保有比率ががイギリス10、アメリカ10、日本6だったことに対し、日本は自国の比率を7にすることを求めていましたが、ロンドン軍縮条約では日本の比率が6.975というほぼ7に達したと見て良いくらいの数字を獲得していますので、外交的には相手の面子を立てつつ自国の目的も果たして万々歳と言ったところなのですが、政友会から「統帥権干犯だ」というある種の攻撃の攻撃、議論の議論を持ち出されて、浜口を論難します。実質を見ずに政敵を論難することに腐心する政治家の様子から西園寺公望はじょじょに政党政治への理想を失っていったのではないかという気もします。幣原喜重郎は満州への利権拡大に対しても消極的で軍との折り合いも悪くなり、やがて政治家を引退しますが、平和主義志向と国際協調路線が評価され、戦後に首相に起用されています。

財政では井上準之助を大蔵大臣に起用し、緊縮財政と金本位制復活に入ります。世界恐慌のあおりもうけて景気はみるみる悪くなり、いわゆる昭和恐慌に陥りますが、国家財政そのものは良くなります、今日まで続く財政拡大によるリフレかデフレでも財政均衡かという議論のはしりみたいなものですが、個人的には関東大震災の心理的な傷が癒えないこの時期のデフレ不況が、日本人を心理的に追い詰め、戦争賛美、外国侵略への強い支持へとつながっていったのではないかという気がしなくもありません。緊縮ですので、もちろん軍縮も進めるため、やはり軍との折り合いがうまくいきません。後に暗殺の悲劇に見舞われます。戦前の政党政治時代の日本はとにかく暗殺が頻々として起きており、いろいろ読んでみてもきな臭い、疲れる時代という印象ばかりが強くなってしまいます。

浜口雄幸は東京駅で狙撃され、一命をとりとめます。幣原喜重郎が臨時首相を務めて難局を乗り切ろうとしますが、臨時首相の状態が長引いたことが政友会からの格好の論難の的となり、浜口内閣は総辞職します。また、狙撃された時の傷がもとで、浜口雄幸はまもなく亡くなってしまいます。

浜口内閣のもとで行われた衆議院総選挙では民政党が圧勝しており、浜口内閣の失政による総辞職ではなかったことから、西園寺は憲政の常道をあくまでも堅持して、民政党に政権を担当させる方針で、第二次若槻礼次郎内閣が登場することになります。

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加藤高明首相が急逝したことを受け、西園寺公望は憲政会の若槻礼次郎を首相に指名し、第一次若槻礼次郎内閣が登場します。若槻礼次郎内閣の時代に大正天皇が崩御し、昭和天皇が践祚・即位しています。

若槻礼次郎内閣での最大の出来事と言えば、やはり渡辺銀行の「結果的」な破綻とそれに続く昭和金融恐慌と言えるかも知れません。当時、松島遊郭移転に伴い代議士に対して不正な金銭の授受があったのではないかとの疑惑が広がり、現職の若槻礼次郎が予審を受けるというスキャンダラスな事態が展開しており、国会は空転していましたが、若槻礼次郎が政友会と政友本党の総裁と直に談判し関東大震災の復興のための国債発行の協力を取り付けることに漕ぎつけており、どうにかこうにか内閣は空中分解寸前でフラフラと飛び続けるという状態だったとも言えます。政友会は当時定着しつつあった「憲政の常道」に基づいて、若槻礼次郎が総辞職すれば、次は自分たちが与党になれるという目論見が生まれ、かえって党派党略で混乱を招こうとしていきますので、第一次世界大戦後の不況と関東大震災の影響の両方で、金融機関はどこも時限爆弾を抱えているような状態になっており、そういう時に政局が混乱して権力争いが深刻化したことは日本人にとってはいろいろな意味で不幸なことと言えるかも知れません。

1927年の3月14日、東京渡辺銀行から大蔵省に「今日中に破綻する」との連絡が入り、そのメモが帝国議会に出席していた片岡大蔵大臣に届きます。片岡大蔵大臣は答弁の際に「本日、渡辺銀行が破綻いたしました」と述べ、翌日の新聞にそれが掲載されて各地で取り付け騒ぎが起き渡辺銀行は本当に破綻してしまいます。メモを見ただけの片岡大臣が詳しいことを把握しないまま、さっそく議会で言ってしまうことには多少の疑問符が残りますが、若槻礼次郎内閣は議会運営で苦労していますので、話題や関心を渡辺銀行に向けさせることで、ちょっとは内閣批判が逸らされるのではないかという、ある種の甘い期待が片岡大臣の心中に芽生えたのではないかという気がしなくもありません。

いずれにせよ、上に述べたように、若槻礼次郎が野党の党首に「禅譲」を事実上約束することで、震災手形の発行に漕ぎつけ、なんとかなりそうに見えたのですが、新しい手形の発行には「台湾銀行の整理」が条件の一つに書き加えられていたため、今度は台湾銀行の破綻懸念が広がります。若槻礼次郎は議会が閉会中であったため、緊急勅令という形で日銀特融による台湾銀行の救済に動きますが、あろうことか枢密院がそれを拒否。台湾銀行は休業に追い込まれ、若槻礼次郎内閣は総辞職します。枢密院のメンバーには、憲政会に批判的な人物が多く、これをきっかけに若槻下しをしようという意思が働いたとも言われています。

与党の総裁が失政によって首相を退陣したことから、憲政の常道にのっとり、政友会の田中義一が首相に指名されます。田中義一内閣は満州謀重大事件で総辞職しますが、いよいよきな臭い時代に入っていくことになります。

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