【自己訓練】贅沢しなくても幸せだと気づく

贅沢することは確かに楽しいです。おいしいものを食べる、素敵なホテルに宿泊する、豪華な旅行をする、素敵な洋服を着る。ヘリコプターで東京の夜景を見る、豪華客船に乗る、などなど、この世にはいろいろな贅沢がありますし、贅沢すれば心も充実して、人生捨てたものじゃないと思える効果があることは確かだと思います。

ただし、贅沢できなければ心が充実しないかと言えば、それは違うということについては多くの人が同意してくださるのではないでしょうか。天候のいい日はそれだけで幸福感を得ることができます。友人と会い、コーヒー一杯で語り合う時の幸福感もまたしかり。家族となんとなく過ごすだけで幸福を感じる人もいることでしょう。分かりやすくパッとお金を使うことよりも、小さなこと、お金のかかならないこと、些細なことに幸せを感じるように自分を訓練することは、よりよい人生を送るために有効ではないかと思います。

これもやはり自己訓練です。小さいところに良いところを見出すのです。安いお店で食事するときに、ああ、食事ができてありがたい。おいしくないお店で食べても、それでも誰かが努力していろいろな人の手を経て自分の目の前にお料理が届けられたことのありがたみを考える。洋服にお金をかけられない場合、有酸素運動で体を絞ればファストファッションが似合う体になることも期待できます。お金をかけずに幸福感を感じられることを工夫して、試行錯誤してみるのです。

もちろん、贅沢するなと言うわけではありません。贅沢は経済を活性化させるという観点からもいいものです。時には贅沢することも大切です。ただし、自分が幸福になることを贅沢に委ねてしまうと、そういった外から与えられるものに幸福度を依存してしまうことになってしまいます。美食は不幸の始まりという言葉がありますが、美食しなくても幸福だと自分で気づけるようになれば、幸福のハードルが下がりますから、結果として幸福になりやすいと言えます。また、いわゆる「引き寄せの法則」のようなスピリチュアル系の教えでも、幸福感を持っていると幸福が引き寄せられるということですから、どんな時でも幸福でいるようにする、そのように自己訓練をするということは、長い目で見れば内面的にも外形的にも幸福になる可能性を上げることができると言えるのではないかと思います。



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【自己訓練】昼飯程度なら奢る

お金は大切なものですから、あまりにも気前よくパッパッと使うことは慎まなくてはいけません。で、難しいところですが、あまりにケチりすぎてもよくありません。使う時にはきれいに使うということがより豊かな人生を送るために有効なことではないかと思います。要するに生きたお金の使い方をするということです。

生きたお金の使い方の一例として、お昼ご飯を他人に奢るというのがあるのではと思います。夕ご飯を他人にごちそうするのは、ちょっと財布にとっても厳しいですが、ランチ程度なら財布にも優しいですし、運が良ければ相手は奢ってくれたことを覚えていてくれて、他人にもいい評判を語ってくれるかも知れません。

もしかすると相手はそんなことを忘れてしまうかも知れませんが、何回か奢ってあげれば自然と人間関係的な優劣が生まれ、奢る側は心理的には楽な立場でいられます。変な言い方をすればお金で心理的な楽を手に入れるとも言えますが、とはいえ、気持ちよく人間関係を送るには、ちょうどいい投資ではないかと思います。

生きたお金の使い方として、よく自己投資と言われます。スキルアップや見分を広めるために投資するわけです。ですが、究極には人間関係への投資ということが言えなくもないように思えます。豊かな人生を感じるためには豊かな人間関係があってこそです。ですので、究極の自己投資は周囲の人への投資ということが言えますし、お昼ご飯なら相手にとっても奢られてもいい程度の金額ですし、自分にとっても負担をあまり感じません。

多少、年齢を重ねると年下の人は目下の人と食事をする機会も増えてきます。その場合など、きれいに気分よく奢らないと、相手からの敬意を失うことにもなりかねません。それでもお財布にとって厳しいという場合、回数を減らして奢るのです。独身の人なら孤独な食事の回数が増えるというデメリットはありますが、少ない回数で印象を良くしておくほうがベターに決まっています。

よく、友達と旅行するのは要注意と言われます。長時間一緒にいると相手の悪い部分が見えてしまいますし、自分の悪い部分も見られてしまいます。ある人は「友達と旅行に行くなら、全部こっちが奢る」と断言していました。そうすることで人間関係の摩擦を減らすことができるというわけです。損して得取れというわけです。

旅行となれば大変ですが、昼食程度で好印象を得られるのならお得もお得、大お得です。私も友人と昼食する際は「僕が奢るよ」と言うことが多いです。その場合、なるべく安いランチを選びますが、それで人間関係が円滑に進むのであれば、安いものです。



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【自己訓練】問題点に気づいたらできる範囲で改善のための努力をする

人生にはうまくいかないこと、計画通りに進まないこと、期待通りにならないこと、不遇の時期、いろいろな不愉快なことに出会います。それは毎日のように起きるとすら言ってもよく、嫌なことを数え上げるときりがないとすら思えます。

時にそれは他人のせいにしてしまいたくなる時もありますし、場合によっては本当に他人のせいという場合もあるかも知れません。運、不運ということもありますから、自分に責任があるとは思えないようなことで不愉快できごとに出会うということも決して少なくはありません。

しかし、自己訓練のつもりで、勇気をもってその不愉快なことに向き合うことはより人生を得るために重要なことではないかと思います。他人のせいのことに向き合ってどうするのか?単なる不運と思えることに向き合うこととはどういうことか?という疑問を持つ人もいるかも知れません。ですが、そういったことでも向き合い方というものはあるはずです。つまり、自分のできることをやるということです。それはできれば復讐などの否定的な入り方をしないことが理想的です。むしろ、自分のできる範囲の中で何をどうすれば事態が改善するかについて頭を使い、考え、知恵を絞るのです。

そうすれば、環境のせいと思えることであっても、他人のせいと思えることであっても、或いは運の問題と思えるようなことであっても、何かが必ず改善するはずです。そしてそれは時には突破口にすらなり得ます。自分が変われば他人が変わるとよく言いますが、無理に自分を変えることは感情的に自分を殺してしまうことになりかねませんから、必ずしも一番いい方法とまでは思えません。ただ、できる範囲で改善するということなら誰でも、どんな人でもいくつでもできることはあるはずです。できる範囲のことから改善すればよいのですし、真摯に人生を生きることになるのではないかと思えます。

ただ、やりすぎは禁物です。何事も無理は禁物と思います。できる範囲のことをコツコツと改善することにって気づいたときに小さな芽が出ている、それでも奢らずに続けていくと、小さな花が咲き、運がよければ大輪の花が咲くこともありません。できることをしていない人に花が咲くことはありません。仮に咲いてもちょっとした雨や嵐で散ってしまいます。こつこつと自分にできることを無理なく改善していくことは、少々の雨にも嵐にも負けない財産になることでしょう。繰り返しになりますが、無理してはいけません。自分に無理をかけることは長続きしません。それに、無理したことには必ず反動が来ます。無理なくゆっくり焦らず改善する、そのための努力をすることは人生という長いスパンで眺めた時に効果的で真摯な生き方を言えるのではないかと思えます。



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【自己訓練】自分より凄い人に対して、卑屈にならず、かつ反発せずに、自分が劣っていることを認める

生きてると、必ず自分より凄い人、優れた人に出会います。それは仕事の能力や勉強の面で優れている人かも知れません。或いは社交性、金銭力、家柄、学歴、容貌などなど、自分より優れている人は大勢います。

そういう人と出会った時、人はどのような反応を示すものでしょうか。ある人は反発します。「あの人はお金を持っているかも知れないけど、人間性では劣っている」とか、「あの人は勉強しかできないんだ」とか、あの人が成功したのは悪いことをしたからだ。或いは所詮〇〇だ。など、反発するための方便はいくらでも生み出すことができます。これをしていては人間的成長がありません。負けを認めるというのも必要なことです。負けを認めれば、敗因を分析し、自分を改善することへとつなげていくことができます。

一方で、負けを認めたからと言って卑屈になっていけません。卑屈はダメな自分を認めているという点では潔いかも知れませんが、改善する努力へとつながっていきません。自己改善の努力をせずに、ちょっとした小賢しさで得をしようとしたり、「卑屈な笑顔」で相手を丸めこもうとします。そういう人は魅力的ではありません。当然、人間的成長にもつながりません。

大切なことは自分より優れた人に出会ったときに負けを認め、どうすれば自己改善できるかについて考え、実践することです。これもまた自己訓練です。人の自然な心の動きに任せていては、反発心を正当化して自分を守ろうとするか、卑屈な態度で自分を守ることだけを考えるようになります。ですから、自分を訓練して、自分より優れた人に対して確かにそうだと認め、敬意を払い、自分もそれに近づけるように改善点を見つけ出していくことを心掛けることが、より魅力的な人格者になり、よりよい人生を送るために効果的ではないかと思います。自戒も込めていますので、私もまだまだ道半ば。これからも自己訓練を続けたいと思います。



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【自己訓練】弱い人を守るという意思を持つ

弱い人を守るというのはある種の憧れの姿だと私は思っています。弱いものを助けるために颯爽と登場し、戦い、黙って去っていくヒーローのイメージ。一つの人間の理想像です。しかし、本当にそれができているかどうかと自分に問いかけた時、必ずしもそのようにできていると自信を持ってイエスと答えることはできません。大抵の人も私と同じではないかと想像します。なぜなら、1弱い人は誰のことを言うのかが考え方によって違ってくるので判断に迷う 2自分が弱い側の人間だと思って怒りを感じる(場合もある) 3何かに忙殺されたりしていて弱い人を守っているだけの余裕がない(場合もある)ということは誰にでもあることのように思うからです。

それらのような難しい問題を含みますから、弱い人を守るということを完全に実行することは無理かも知れません。しかしそれでも、自分の日常生活の中でできることはあるはずですから、それを忘れずに実行していくということを、せめて時々思い出して実践するということは人間的な成長にとって有効ではないかと思えます。

例えば子供は現代では貴重な存在です。その上、通常、子供は大人よりも弱い立場です。ですから、まずは子供を守るということを意識するのもいいかも知れません。自分の子供がいるという人は自分の守るということを考えるでしょうし、それはそれでもちろんいいのですが、他人の子供であっても必要があれば守るという意識を持つことは人格を高めていく上で有効ではないでしょうか。

また、「イジメ」が起きる要因は弱いものイジメをしている人にその自覚がないからではないかと私は考えています。何らかの大義名分を振りかざして弱いものイジメをしていないかどうか、時々でいいので自分に問いかけてみるのは効果的と思います。意外とやっているかも知れません。自分の内面を点検し、もし、そういう面があればそこを改める努力をする。これも自己訓練です。完全にはできないかも知れないけれど、努力することはできるはずです。

では最後に、イジメられている人、またはイジメられた経験のある人はどうすればいいでしょうか。イジメに遭えば、人生で損をした心境にならざるを得ません。どこかでバランスを取らなくては、復讐しなくてはやっていられないという心境にもなるはずです。飽くまでも人格向上のための自己訓練と考え、人生をよりよくするためのテクニカルな問題として考えるならば、イジメられた経験については損切りする覚悟を持つべきではないかと思います。これは簡単なことではないはずです。酷い目に遭わされたことを恨みに思い、心の奥深くに閉じ込めている人は多いかも知れません。或いは誰でも多かれ少なかれ、そういうものを閉じ込めているかも知れません。私にももちろんあります。ですが、そこを損切して恨みに思わない。相手を赦す。せめて自分はそういう被害に遭うことの苦しさや無念さを知っているのだから、自分は他人には同じことはしない、そういう場面に遭遇すれば、イジメられている人の味方をする勇気を持つ。というような努力をすることは、人格的な向上、人間的な成長に大きな効果を持つのではないかと思います。正しい正しくないの前に、自己訓練として上に述べたような努力は価値のあることではないかと私は思います。イジメられた経験のある人が、その恨みを棄てる覚悟を持ち、復讐のパワーを自覚的に利他の精神に切り替えることができた時、真実に慈愛のある人格者的な行動が実践できるのではないか、むしろイジメられた経験のある人にはそのようになれる特権を持つという意味で選ばれた人なのではないかと私には思えます。

人間関係、仕事、お金、恋愛などは以上のような人格的向上のための自己訓練を経た結果、自然についてくるものなのではないかと私は思いますので、自戒も込めて、実践していきたいと思うのです。



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【自己訓練】文句を言ってくる人がいたら、笑顔で対応する

生きていれば、文句を言ってくる人には必ず出会います。クレームを全く受けずに人生を過ごすことは不可能と言ってもいいでしょう。文句を言われた際、対応は2つに分かれます。1つは怒りに対して怒りで対応する。2つは怒りに対して笑顔で対応する。というものです。

怒りに対して怒りで対応してはいけません。なぜなら、怒ったら負けだからです。相手が論理的、具体的、現実的でない怒りをぶつけて来た場合、その人は既に負けています。負けている人に対して怒る必要はありません。また、論理的、具体的、現実的なクレームが来た場合にも怒る必要はありません。論理的、具体的、現実的に対応すればいいのです。

さて、単に怒りをぶつけてこられるようなクレームを受けるのは確かに不愉快です。また、そのようなクレームに対して「あなたは正しい、ごめんなさい」という姿勢で対応する必要もありません。明るい笑顔で「そうですか」と答えるのが第一歩です。相手は自分が言っていることを相手は理解したとということを理解します。それだけで相手の態度は軟化する可能性がありますから、そのあとは笑顔で対応です。もし相手が軟化しない場合、やはり笑顔での対応でOKです。なぜならその人は価値ある意思疎通を目指しているわけではなく、文句を言いたいだけなのですから、そのようなケースでは怒りで対応するだけの価値がありません。

結論としては笑顔でスルー。これもまた訓練です。怒りをぶつけられると怒りが湧きます。そこを笑顔でスルーするのです。人生の質があがるに違いありません。



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【自己訓練】必要以上のものをほしがらない

人は多くのものを欲しがります。私もそうです。いろいろなものが欲しいです。いい服、いい友人、いい食事、いい恋人、いい家族、いい肩書、いい車、いい家etc…しかし、こういったものに対してほしいほしいと思い続けていると、時として欲望に振り回され、自分を見失ってしまうことになりかねません。自分を見失ってしまった状態で成功したり、幸福になったりすることは不可能と思いますから、ほしがる心理を自らコントロールすることが、結果としてよりよいいろいろなもの、有形無形のものを手に入れる近道になるのではないかと思います。

美食は不幸の始まりという言葉があります。あのお店のあのお料理が食べたい、あのお店のあの人が作ったあのお料理が食べたい、あのお店のあの人が作ったあの素材を用いたお料理が食べたいという風に、美食を追求し始めると食事で満足できる回数が減っていきます。食事に満足できないことは不幸です。むしろ、前回にも述べましたが、卵かけごはんで満足できることこそ、幸福になるための近道と思えます。

友人や恋人、職場環境についても場合によっては同じことが言えるかも知れません。幸福な人生のためには良い友人や良い恋人、或いは良い家庭や良い職場環境を得ることは重要なことです。しかし、気に入らないからと言ってよりよいものを求めて渡り歩いたり、とっかえひっかえしている人にそのようなよりよい人間関係がもたらされる可能性は低いのではないかと私は考えています。これは自戒も込めて書いていますが、今目の前にいる人よりも大切な人はいません。今の友人より良い友人はいません。今の恋人より良い恋人はいません。今の職場より良い職場はありません。なぜなら、今、目の前にいる人は、あなたの目の前にいることに価値があると思うからこそ目の前に現れてくれているのです。その人を大切にせずに人間関係が広がっていくことはありません。今の恋人はあなたの価値を認めているからこそ、あなたと交際しています。その恋人をふってまであなたを愛する人に出会う確率はそれほど高くありません。家庭もそうです。職場環境もそうです。今の職場はあなたに給料を払う価値があると考えるからこそ、あなたに職場環境を提供しています。そのことを分かった上での転職はもちろんあっていいと思いますが、今の職場に恵まれているという感覚を持つ事が出来ない人は、次の職場に行っても恵まれていないと感じることでしょう。もちろん、ブラックな職場やサイコパスとの人間関係は人生の破壊をもたらしかねませんから、そこには見極めが必要です。もしブラックだとすれば、或いはサイコパスだとすれば、恋々とせずに断ち切る勇気も必要になります。ただし、たいていの場合はそうではないはずですから、簡単に切り捨てるということはお勧めできません。

人間関係や職場環境はあなたが成長すれば自然により良いものになっていきます。追及すると逃げていくのはお金も異性も環境も同じです。私は行き詰まりを感じた時は、必要なものは全て今、目の前にあると考える自己訓練をするように心がけています。結果として今の環境や関係を大切にすることになりますから、少しずつ物事が良くなることが実感できることが多々あります。今でも日本は最高クラスに環境の良い国ですから、大抵の場合、必要なものは目の前に存在するはずです。ないものねだりをする前に、目の前のものを大切にするということに目を向けるのはどうでしょうか。これも自己訓練の一環となり、自分の成長を促す材料になるのではないかと思います。



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【自己訓練】現状で恵まれていることに気づく

2chで一世を風靡したひろゆきさんが、美食は不幸の始まりみたいなことを言っている動画をyoutubeで見たことがありますが、私は確かにその通りと妙に納得してしまいました。彼曰く、卵かけごはんをおいしいと思えないのは不幸であるとのことなのです。確かに正論と思います。卵かけごはんは確かに安くてしかもとてもおいしいです。頭の中で想像しただけでも幸福感が広がるくらいにおいしいです。卵ごはんを食べるお金もないという人は多分、ほとんどいないと思います。ですから、手に入るところに幸せはごろごろ存在すると言ってもいいかも知れません。卵とお米が自分のところに回ってくるのは物流システムがあるおかげですが、交換は人の本来的な行動であるとレヴィストロースも指摘している通り、物流システムは人間が持つ本来的な「交換したい」という本能に根差しており、突き詰めれば神が人に与えた本性の結果、卵とお米が自分のところに回ってきたと言うこともできると思います(神という言葉を使いましたが、特定の宗教は関係ありません。念のため)

いずれにせよ、そのように実は人は生きているだけで様々なものに恵まれています。寝る場所があり、意見交換をする友達がいて、大抵の人には職業があり、多い少ないはあっても収入があり、卵とお米を買うことができます。このような一見当たり前のことが、実は天の恵みであるということ、自分は恵まれているということに気づくことは精神衛生上、とても良い効果があるのではないかと思います。宗教チックな言い方やお説教的な言い方を避けるとすれば、現状の自分が恵まれていると考える訓練をすることで、精神衛生がより良い状態になり、結果として人生がよくなっていくというテクニカルな問題として論じることも可能と思います。

神様とか天の意思とかそういうものを信じるか信じないかは別にして、現状の自分は恵まれているという訓練は私もなるべくやるようにしています。結果としては頭に来ることや腹が立つことは減少します。人生は主観のみによって構成されていますので、怒りが減少することは即、人生の質が向上したと言っていいはずですから、今後もこのような自己訓練は続けたいと思っています。意図的に幸福感を増幅させるよう訓練することによって、実際に幸福になっていくということは多くの人が提言していることでもあります。また、幸福を感じる自己訓練は、成功する人生への道のりとも思います。

テクニカルな問題として、他者との比較はなるべく避けるべきです。時には他の人と比較することで自分の問題点が見え、改善すべき課題に気づくということもありますから、他人との比較を一切するべきではないとまでは言いませんし、比較するという思考回路がなければ人間の本性である交換が成立しません(自分はAとBを比較した結果、Aの方がよりよいと思うが、手元にはBがある。一方で、Bの方がより良いと思うけど、手元にはAがある人がいて、交換が成立します)。そのように思うと、比較するという思考を一切断ち切ってしまうことは人間性の喪失にもつながりかねませんから、比較することを完全に止めることはできません。しかし、繰り返しになりますがテクニカルな問題として他人と自分を比較し過ぎないように自分の思考に注意すべきではないかと思います。精神衛生上効果があると信じ、私は今日も、自己訓練をしています。



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当たり前のことですが、相手を見下したり、バカにした態度をとるようなことは決してお勧めできることではありません。しかしながら、人は時として、場合によっては自分でも気づかないうちにそういうことをやってしまっていることがあります。職場での上下関係で、下の人に対して、お店の人に対して、或いは大してよくは知らないけど社会的地位の低い人、またはそんな風に見える人に対して、そういう態度を無意識にとってしまうことはあるかも知れません。

そういう態度をとってしまい、相手がそれを敏感に感じ取った時、私やあなたはそんなことがあったことすら忘れるかも知れません。しかし、もしかすると相手が復讐を誓うこともあり得ます。その人は立場が下であるが故に、正面切って復讐して来ないかも知れません。しかし、虎視眈々と機会を狙っているかも知れませんし、私やあなたが困った時に、その相手に頼ることはできないでしょう。そういう意味では、普段から自分より目下の人に対して横柄な態度をとることは潜在的な敵を増やすことになります。また、周囲もそんなあなたを見ています。周囲の人もそんなあなたや私に対していい印象は抱かないでしょうから、非好意的な中立者を増やしていくことになります。

ですから、成功する人生を得るためには逆のことをやればよいということになります。田中角栄の人心掌握術として、実にシンプルですができる親切はやっておくというものがあったそうです。大変にシンプルです。そしてそれは上に書いたこととは逆のことです。やれる範囲で親切にしておけば、好意的中立者が増えます。好意的中立者が大勢いることは、民主主義の社会では不可欠な要素です。いざいよいよ決戦、一騎打ちという場面になった時、好意的中立者が自分の味方をしてくれる。そして天下を獲れるというわけです。

見下したり、バカにしているかどうかは高い確率で見抜かれます。普段から、周囲の人に、心の中でだけでも良いので少々でもいいから敬意を持つ、敬意を払うことができる時には敬意を払うというのを心掛けると、人生がよりよくなる可能性が上がるのではないかと思います。



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人は生きている間に必ず誰かから恩義を受けます。全く誰にも助けてもらわずに生きて行ける人は絶対にいないことでしょう。親に生んでもらった恩義までしみじみと思いましょうとまで言うとちょっと説教臭いように思うので、そこまでは言いませんが、自分に恩を与えてくれた人に礼を述べるというのは大切なことではないかと思います。

恩義を受ければ返したくなるものですが、恩義は常に返せるものとは限りません。命の恩人に恩義を返そうと思うと、恩人が命の危険に晒されて自分がそれを助け得る立場になるというレアなケースでしか恩義を返すことはできません。ですが、礼を述べることはできます。

恩義は意外なところでたくさん受けているはずです。小さなところでは席を譲ってもらったり、道を譲ってもらったり、そのほか困っている時に助けてくれた人はちょっと過去を振り返ってみても相当大勢いるはずです。その多くを忘れてしまっているかも知れませんから、そういうのを思い出す時間を持つというのも、自分の人生が多くの人に支えられてきたということに気づくいいきっかけにできるかも知れません。

他人の助けて生きることができるということに気づけば、自然と物腰が柔らかくなります。目の前にいるこの人ももしかすると私を助けてくれることがあるかも知れず、或いは自分が気づいていないだけで、目の前の人がいるというだけで助けになっているということもあるかも知れません。そう思うと、やはり自然に物腰穏やかで腰が低く、言葉遣いも優しくなります。そういう人には更に人気が出るでしょうから、より感情面でも豊かな人生を築いていくことができるかも知れません。そのような感情面で豊かな生活を送る一つの手段として、恩のある人にはきちんと礼を述べるということは、効果があるのではないかと思います。

最近、以前にいろいろ世話になった偉い先生と教務で出くわし、私は「いろいろお世話になりました」と深々と頭を下げたことがあります。この人にはきちんとお礼を言わなくてはいけないと前から考えていたので、ばったり出くわした時に自然とそういう態度になったわけです。相手の先生はそこまで深々と頭を下げなくてもいいのに、なんか照れるなあ、みたいな顔をしていましたが、それくらいでちょうどいいと思います。大学の教務は全ての情報が集まり、また発信される情報ステーションです。人当たりがいいだけで出世できるような甘い世の中ではないはずですが、そういう一面があるということを教務の関係者に見られたというのは、悪いことではありません。逆に悪い態度や不貞腐れた態度をしている時も教務の人は何も言いませんが、自分のいないところで噂が尾ひれを付けて広がっていく筈ですから、注意が必要です。自分で意識していなくても悪い印象与える言動をしてしまうことはあり得ますから、意識していい印象を与えることのできる言動を一回でも多くやっておく方が、いろいろな面でよりよいに決まっているとすら言っていいと思います。

今からでも遅くないので、恩のある人に対してはメールなり手紙なり、或いはばったり会った時なりにお礼を述べましょう。お礼を述べるのは言う側も言われる側も周囲で見ている人もいい気分になれるものです。



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