立花隆さんが亡くなりました。彼の著書で感銘を受けたもの、もしくはおすすめなどありますか?

私は『臨死体験』ですね。立花さんはその書籍の最後のところで、死後の世界については死んでから心配すれば良いのだと結ばれていました。

この著作で立花さんは臨死体験は、そのほとんどが脳内の作用で説明が着くのだけれど、でも、ではなぜ人に精神が宿るのか(即ちなぜ私たちには心があるのか)は説明できないと述べています。全てが脳内の作用であれば臨死体験は夢みたいなものであり、脳の作用を超えた精神が存在するのであれば、臨死体験の先には神様に会える世界があるのかも知れないということになるわけです。

後に立花さんはインタビューに答えて、自分の人生の最後の望みは穏やかで充分な臨死体験をすること、即ち、満足できる死出の旅を経験することだと述べていました。どうも言葉の節々から、立花さんは臨死体験は脳内作用であろうと判断されていることが感じられましたが、このたび最期を迎えられたことが分かった今、立花さんの望み通りの臨死体験が経験されたことを祈りたくなります。

私は村上春樹さんの『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』で書かれた人が死を迎える時の内面的な時間の感覚と立花さんの探求した臨死体験は非常に似ているのではないかと思っています。それはどういうものかというと、脳内ではほんの短い時間、臨死体験が起きているのだけれど、死にゆく本人の主観的な時間の流れは1000年に匹敵する可能性があるということです。

例えば死後の世界に得られる永遠の命、神の千年王国みたいな表現がされることがありますけど、上に述べたように物理的時間が数分でも、主観的時間が千年であれば、人は誰もが死を迎えた時、永遠とも思える、千年の内面的時間を経験するのかも知れません。ですから死に際が大事、布団の上で安らかに死を迎えることが重要なのではないかと思うのです。安らかに死を迎えれば、主観的千年も安楽なものであるということがあり得るからです。

死を迎える時に神様によって審判されるとか、閻魔大王によって審判されるとかというのも、同じ理屈で昔から表現されてきたことなのではないかとも思います。ですから、あんまり外道な生き方をしてろくでもない死に際を迎えることのないようにすることは極めて重要なことではないかと考えています。

私がまだ疑問に思っていることとして、臨死体験は果たしてどれくらい続くのだろうかというものがあります。立花さんの著作では、マウスは命を失う直前のほんの短い間に非常に強い脳波が出ることが観察されることが述べられています。この生命が尽きる直前の激しい脳波が放出されている時間、臨死体験が起きている可能性があると。しかし脳波が出終わった後、本当に完全な死を迎えたと言えるのだろうかと私は思うのです。極めて微弱な、計測不能なくらいに微弱な電気信号はまだ出ていて、マウスは引き続き臨死体験をしているということはあり得るのではないだろうかという疑問が私には残って居ます。

脳死後に臓器提供の意思を示している人の体が臓器摘出中に動くことがあるというのも聞いたことありますし、体が抵抗して暴れ出すというのも読んだことがあって、それが誇張された表現なのかどうかは分かりませんけれど、脳死と判定された状態というのは実はまだほんのわずかに命の電気信号は通っているにもかかわらず、完全に死んだと判定されてしまうということではないのかと思えなくもないのです。脳死後に臓器を摘出されたり、死後に行政解剖されている時、死者は臨死体験を断ち切られている可能性はあると思うのです。ですから首を切る処刑法なんかも、臨死体験を断ち切るという意味で残酷な刑なのかも知れないとかも思うのです。

で、ですね、じゃあ、臨死体験が完全に終わるまでどれくらいかかるのかって話になるんですけど、もしかするとその期間が49日なんじゃないかなと。死者の魂は49日間この世にとどまると言わていることの真実の意味は、それだけの期間、人はかなりゆっくりと完全な死に向かって行くということであるとすれば、その間、臨死体験が継続されていないと誰に断言できるでしょうか。

そう考えると、火葬って結構やばい気がするんです。私、最近、死後は土葬がいいなあと思うようになって、どうすれば土葬してもらえるのか、キリスト教圏への移住も含んで考えるようになっています。



立花隆さんの著作を読んで、死とは何かを考える

立花隆さんの著作は、『臨死体験』『サル学の現在』『死は怖くない』など、幾つか拝読したことがあります。立花さんは脳の機能に関する最新の研究をフォローすることで、死とは何かを説明しようと試みているわけですが、臨死体験に関する取材を通じて、立花さんの解答に辿り着いていらっしゃるようです。

まず、臨死体験とは何かを一応、押さえておきたいと思います。人が心肺停止などの状態に陥ると、通常は脳に酸素が届かなくなり、死に至ります。しかし、時々、ぎりぎりのところで心肺の活動が再開し、生還する人がいます。最近は救急医療の技術が発達していることで、そういう人の数が増えているらしいです。そのような人たちが心肺停止をしていた間、共通してある種の夢のような現象を視覚的に体験することが分かっており、これを一般に臨死体験と呼ぶわけですが、有名な話なので私が細かく述べる必要もないのですが、まず目の前に川があり、それを超えるとそれは美しい野原があって、お花が一面に咲いていて、気分もよく、幸福感に包まれて、前へ前へ進んでいくといずれかの段階で、過去に亡くなった親族や知人が現れたり、親族でも知人でもないけれど、すっごい崇高な存在に出会ったりします。臨死体験をした人は神に出会ったと表現する人もいるようです。そういった死んだおばあちゃんや神か天使か分からないsomething greatみたいな存在に、お前はまだ早いから帰りなさいと言われて引き返したところで意識が戻るというパターンが一般的で、他には途中で門があり、鬼か悪魔か分からない門番みたいな人がいて「あんたがこの門をくぐるのはまだ早い」と追い返されて意識が戻るというケースも少なくないようです。

最初の川はまさしく我々が一般的に言うところの三途の川に相当するものと言え、古来、人々がそういったものが存在すると認識していた証のようなものとも思えますが、臨死体験中にイエスキリストに出会う場合もあれば、ご先祖様に出会う場合もあるため、ある程度の文化的差異というものが存在するのではないかとも考えられています。もし、臨死体験に文化的差異が影響しているとすれば、文化的差異とは生きている間に教育されたりして会得するものなわけですから、真実に「あの世」に行ったというわけではないという結論に必然的に辿り着かざるを得ません。即ち、臨死体験という現象が実際に存在するからと言って、死後の世界が本当にあるとは断言することはできないわけです。

そのため、立花さんは世界中の脳科学の学者に取材したりすることを続けることで、臨死体験は物理的に説明可能なものであるとの結論に至ります。臨死体験は神秘体験でもなんでもなく、唯物論的に説明できるというわけです。マウスを使った実験により、生き物が真実に死を迎える直前に脳が激しく活動し、その後、完全に死に至るという現象が観測されたことから、臨死体験もまた、そのようなものなのではないか、いよいよ真実に生命が失われるという時になって、幸福な感覚で死んでいけるというシステムが人間に備わっているのではないかというわけです。そこから先、生物が完全に死んだ後、果たして本当にあの世があるのかどうかについては、死んでみなければ分からない領域に入ってしまうことになり、門番に入っていいよと言われて入った後、どうなるかは、どんなにがんばって知恵を絞り、観察を続け、ケーススタディを積み重ねてもやっぱり分からないという結論に至らざるを得なくなります。

しかしながら、それらの取材を通じて立花さんは死が怖くなくなったと言います。真実に死んだ後、仮に唯物論的な人間観が正しく、自分が消えて無くなるにせよ、自分が消滅するその瞬間は、生きているときでは味わうことができないほどの素晴らしく、美しく、崇高で、幸福なものであるに違いないのであれば、本当に自分が消えて無くなったら何も分からなくなるのだから、そこは心配する必要はなく、人生最後の幸福な経験を楽しもうくらいの感覚でいいのではないかくらいに立花さんは考えているようです。立花さんの著作を読むと、その瞬間を楽しみにしているようにすら思えなくもありません。また、時間的感覚というのは主観的なものですから、村上春樹さんの『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』のように、客観的物理的な死が訪れ、肉体が消滅するとしても、主観的時間感覚は1000年でも持続可能、ほぼ永久に無限に自分の存在を感じることは可能であるとも推測することができるため、客観的には死んだとしても主観的には不死であると考えることすら不可能ではありません。

しかしながら、立花さんは1つだけ条件をつけています。幸福な臨死体験をするためには、死の床の環境が良くなくてはいけないというのです。たとえば寒いところで倒れていたら、極寒の臨死体験をしたという事例があるため、暑いところで倒れてしまえば灼熱の臨死体験をする可能性もあり、事故などで即死の場合は臨死体験そのものが断絶されてしまう恐れもあり、暑くもなく寒くもない環境で安楽に死んでいけることが肝要であるとのことらしいです。

もっとも、個人的にはマッチ売りの少女や、イエスキリストの最期の瞬間を題材にした『最後の誘惑』という映画のように、如何に過酷な環境であったとしても、幸福感や主観的時間の変化というものはあり得るとも思えますから、いわゆる「畳の上で死ぬ」ということにそこまで固執しなくてもいいかも知れません。『戦場のメリークリスマス』でジャックセリアズ少佐が日本軍の虐待を受け死んでいくとき、過去に裏切ったことでうしろめたさを感じている相手である弟がセリアズ少佐の前に現れ、自宅へと招きますが、これも少佐の臨死体験ということになるのかも知れません。とはいえ立花さんの考えの方が正しい可能性もありますから、もし、死ぬのなら、自宅のベッドの上で眠るようにというのが理想的とも思えます。

最後に、もう一つ、欠くことのできない重要な議論があります。過去、臨死体験した人々によって語り継がれた三途の川や神や天使が脳の機能によって説明できるとすれば、神や仏は本当に存在しないのかという疑問が残ります。唯物論で「そんなものは存在しない」と押し切ることももちろんできますし、釈迦の教えの場合であれば、エネルギー不滅の法則には人間の魂というエネルギーも含まれるのだから、死ねば即輪廻転生ということも、ロジックとして成立しないわけではありません。もちろん、検証不可能なことですが、立花さんは、臨死体験が脳科学によって説明できるとしても、宗教を否定することはできないと結論しています。なぜなら、人間が死ぬときに、そのような幸福な体験をしなければならない合理的説明は存在せず、そのような安らかな死が与えられるように生まれた時からプログラムされているとすれば、そのプログラムがあるということ事態が、神のなせる業であるかも知れず、それを否定する材料は一切ないからということになります。

まあ、いろいろあるとしても死んでみなければわかりませんし、人は必ず死ぬわけですから、死んだ後のことは心配せずに、今を懸命に生きるということに尽きるかも知れません。
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