司馬遼太郎は『義経』という作品に於いて、義経は戦争の神様のような男であると同時に、政治的には白痴であると述べています。なぜなら、義経は後白河から検非違使の役職を受けることにより、頼朝から敵視され身を滅ぼすことになったからで、検非違使の役職を受けるとはどういうことかについての認識がなかったというわけです。私はこの指摘は半分正しいと思いますが、残り半分は懐疑的です。今回はそのあたりを少し述べてみたいと思います。
まず、結論から言うと、頼朝はまず間違いなく義経は用済みになったら殺すか追放すると決めていたと私は思っています。一般には、京都の朝廷から独立した政権の構想を抱く頼朝が、後白河から検非違使に任命されることで京都と鎌倉との両属状態になった義経を敵視したために、追放劇があったとされていますが、検非違使の件は義経追放の口実に過ぎなかったであろうと私には思えるのです。
その理由なのですが、一つ目の理由として、義経とともに平家追討の功績を上げた頼朝の弟の範頼も後に殺されているということを挙げたいと思います。頼朝には何人もの異母兄弟がいますが、その多くは若くして亡くなるか、僧侶になって権力から距離をとるかどちらかになっており、現実政治に参加していたのは範頼と義経だけでした。そして平家追討をやり遂げた二人は当然、頼朝にとってライバルであり、頼朝さえ死ねば彼らに源氏の棟梁のチャンスは巡ってくるわけですから、この二人への警戒心は強く、順番に死に追い込んだというのが真相なのではないかと私には思えるのです。もちろん、二人の弟を殺した後、頼朝も不可解な死を遂げていますから、全てを仕組んだのは北条氏なのかも知れません。たとえば北条政子が頼朝に対し、義経と範頼には警戒しなければならないと吹き込み、排除させたのではないでしょうか。本来、頼朝にとって兄弟は一緒に源氏を支える重要な仲間です。父の義朝の時代にいったん滅んだと言ってもよい源氏は、頼朝が再度創業したようなものですが、結果として頼朝が自分の意思で弟たちを死に追いやり、後は頼朝と世間知らずな息子たちと見た北条氏が源氏潰しを始めたと見るのはそこまで見当違いのようにも思えません。頼朝は金も兵隊も北条氏に頼っていましたから、義経と範頼がいなくなった後は裸の王様みたいになっていました。北条氏の権力への明確な意思によって、そのように仕組まれたのだと私はこの時代のことを考えるたびに、そのように思えてしかたがないのです。
次の理由として、頼朝の義経追放の命令書の発表時期の不可解さがあります。義経が後白河によって検非違使に任官されたのは、1184年の8月のことなのですが、頼朝が義経追放の命令を発したのは1185年の4月です。ちなみに平家が滅亡したのは同じ年の3月でした。即ち頼朝は義経が平氏を滅亡させるのを待って追放の命令を出したということになるのです。用済みになったから義経を排除したと考えるのが普通なのではないでしょうか。
義経はその命令書で京都に留まるようにと命じられました。鎌倉への帰還は認めないというのです。私はこの時の義経の動きについて、残念な思いになってしまいます。この時の選択ミスがよくよく考えてみると、義経の命取りになったのではないかと言う気がするのです。義経にとって最大の庇護者は後白河でした。ですからそのまま京都にとどまり後白河の右腕として活躍していれば、義経は京都政界に於いて不動の地位を得ることになり、後白河は頼朝を征夷大将軍に任命することを非常に嫌がっていましたから、義経にしかるべき地位を与えて源氏の棟梁格として扱うことにより、頼朝を中央政治から排除するということもあり得たわけです。義経には清盛のように政権の簒奪を考えるような野望もありませんでしたし、木曽義仲のように部下に粗暴なふるまいもさせなかった、京都育ちの知識人ですから、後白河とはうまくやれた可能性は充分にあります。むしろ鎌倉の武士たちが義経の京都人ぽい雰囲気に反発しまくっていましたから、義経は懐かしいふるさとの京都にとどまっていればよく、敢えて敵地の鎌倉に帰還しようなどという無謀なことを考える理由などなかったのです。
しかし義経は、鎌倉に向けて出発します。そして鎌倉と藤沢の間くらいにある腰越で足止めされてしまうのです。今でも江ノ島電鉄の腰越駅というのがあって、あのあたりを通ると私はきらきらと光る海を見つめながら鎌倉への入境許可がおりるのをじっと待つ義経の様子を想像してしまいます。義経は腰越状と呼ばれる手紙まで書いて頼朝に理解を求めましたがなしのつぶてであり、やむを得ず京都へと引き返すことになります。
義経は京都の自宅でおそらくはくすぶった心境で日々を送っていたはずですが、ここへ頼朝から追手が差し向けられます。追手は義経にやられてしまいましたが、頼朝のやり方に怒りを隠すことできず、義経は同盟者の源行家とともに後白河に頼み込んで頼朝追討の命令を出してもらいます。義経からすれば後白河の命令書があれば自分が正義の側に立てると踏んだのだと思いますが、これは後白河のやり方とは全く違うので、後白河からは決定的にうっとうしいやつ認定された可能性が強いように思います。後白河は正義・不正義、正統・傍流などの考え方で生きてきた人ではないです。もともと天皇になれない運命で諦めていたのが、関係者が死んだことによって偶然権力への道が開けました。平清盛という巨人との権力ゲームでも、常に待つことで状況の改善のきっかけをつかんできました。要するにじっと待ちながらこつこつとやれることやることにより、既成事実を積み上げて気づくと勝利しているというのが後白河のやり方なわけです。それに対して義経は命令書のような体裁を整えることを優先していますから、後白河の目から見て義経には勝てないということは明らかなことであったでしょう。先ほども述べましたが、義経が鎌倉へなんか行かずに京都にとどまり、後白河の希望通り検非違使の仕事をしていれば、ちょっとずつ出世をしてそのうち将軍なり左大臣なりになった可能性は充分にありますし、京都で義経が健在でいた限り頼朝が征夷大将軍の地位を手に入れる可能性は極めて低い、絶望的であったとすら思えます。源氏のトップが2人いるということはあり得ず、後白河の懐に義経がいる以上、源氏の棟梁にふさわしいのは義経で、頼朝は実績も特にない普通の人になってしまったことでしょう。この場合、義経は後白河の権威を充分に受けていますから兵隊も集めやすく、頼朝は手も足も出なくなった可能性すらあります。しかし義経は鎌倉へいったん向かいましたから、このことによって自分は京都の公家社会とは距離を置く鎌倉武士なのだと宣言してしまい、結果として京都での居心地を悪いものにしてしまっていました。平家打倒によって人々が感じた熱は次第に冷め、義経は平家との戦いが始まる前のような無名の人物となんら変わらないような立場へと転落してしまったというわけです。
義経は公式に頼朝打倒を掲げ兵も募集しましたが、兵は集まりませんでした。義経は全国の武士から狙われる身となってしまい、やがてかつて自分を厚遇してくれた奥州藤原氏へと身を寄せます。しかし頼朝の圧力に屈した奥州藤原氏によって包囲・攻撃され、義経は自害するという悲劇的な運命を辿りました。結果としてはこの悲劇性があるがゆえに義経の人気は高まったと言えると思います。日本一人気のある歴史上の人物は疑いなく義経でしょう。
義経美少年伝説というものがありますが、なぜそのような伝説が生まれたのかは気になるところです。義経の肖像画が中尊寺に残されてはいますが、戦国時代か江戸時代に描かれたものだと考えられています。そのため、実物を反映しているとは考えられません。おそらくは能の舞台で義経が登場する時、義経役は必ず幼い男の子でなくてはならないとの決まりが長く守られてきたため、舞台のかわいい男の子のイメージが人々の心の中に定着し、美少年伝説が形成されていったのではないかと思います。義経は短い人生で多くの女性と交際した人で、その数は5人や10人ではすまないくらいの感じだったようです。ですから義経の人生をよりリアルに描こうとすると、その時々に応じていろいろな女性が登場しなくてはいけません。そして官能的なやりとりも描かれざるを得ない場合もあるわけです。しかし、能という芸術は男女の官能というものを表現することを徹底的に嫌いました。ドナルド・キーン先生の『日本人の美意識』では、特に静御前との別れが官能的になりかねないために要注意で、観客にそういったことを一切連想させないために幼い男の子に義経役を演じさせるのだと解説しています。最近では児童労働の問題がありますから、大人の男性が義経役をやることも容認されるように時代に合わせて変化しているそうです。