織田信長の最終的な目的は何だったんでしょうか?争いのない平和な世の中の実現?天皇になり代わる?

信長は日本平定を実現した後は、中国大陸へ攻めていくことを考えていたらしいんですね。で、リアリストの信長が、本心で世界制覇的なことを構想したかと考えてみると、ちょっと怪しいと思えてしまってなりません。だとすれば、中国大陸に戦争に行く真の狙いは、日本国内は息子たちに統治させるとして、明智光秀羽柴秀吉徳川家康のような、やたらと優秀で織田の天下を狙いかねない、日本平定後は用済みの武将たちをていよく大陸に送り込んで全滅させようと目論んだのではないかという気がしなくもありません。秀吉が朝鮮出兵したときに家康が白けていたのも、そもそもの信長の大陸侵攻案の真の目的を見抜いていたからだつたとすれば、そのことから、なかなか香ばしい、人間関係の複雑さを感じ取れると言えるのではないかなと思います。




私は歴史が超超苦手です。学校では、100点満点中20点とかとってました。いま、旧約聖書を読みはじめて、「ああ、歴史がもっと好きだったらな」と思います。貴方の力で、僕を歴史好きに変えてくれませんか?

1人でいいので、好きな歴史上の人物を選んでください。そしてその人物の人生を他人に語るにはどうすればいいかなと考えてください。プレゼンをするようなイメージです。最初のうちはざっくりとしたあらすじみたいなことしか語れないかも知れませんけれど、だんだん調べていくうちに詳しくなっていき、周辺情報もどんどん取り入れて充実したプレゼンができるようにというのを掘り進めていくと自分でやっていてもとてもおもしろいですし、幅や深みも出てくると思います。

たとえば、織田信長が好きだとしますよね。最初の段階で知っているのは桶狭間の戦い本能寺の変だけかも知れません。ですが、関連書籍を読んだりしているうちに、桶狭間の戦いの敵方である今川義元に関することも分かってきます。徳川家康も登場してきます。桶狭間の地形について詳しくなってきたり、信長の伝記を書いた太田牛一とか、ヨーロッパに信長のことを報告したルイスフロイスとか、次々と関連人物が出て来て、その人ってどんな人なんだろうとかやっているうちに戦国から安土桃山まで詳しくなっていくようなイメージです。

私、一時、溥儀にはまっていて、映画の『ラストエンペラー』を繰り返しみたんですけど、その映画の中には、中国の抗日運動の発端である五四運動についても触れられているし、袁世凱もチラっと出てくるし、蒋介石の話題も出るし、昭和天皇の話も出てきますから、映画に登場する様々な場面や話題を完全に理解しようとするだけで膨大な知識量を要します。結果として非常に勉強になるんですね。更に詳しく考えていけば、なぜ毛沢東の話題は出ないのかとか、そういえば張学良は出てこないのはなんでだろうとか、再現なくどんどん新たな追加の考察材料にも出会うことになります。

旧約聖書がお好きでしたら、直球で古代史ですから、エジプトのファラオに関する知識も必要ですし、バビロニアに関する知識も必要になります。無数の映画や小説で旧約聖書に関する知識が関連しており、たとえばジェームスディーンの『エデンの東』は、なぜそういうタイトルなのかとか、ゴーギャンが描いたタヒチの絵画で真ん中にいる女性が木の実をとろうとしているのは、どういうことが言いたいのかとか、そのあたりは無数にいろいろあるわけですね。ギリシャ語やヘブライ語についても造詣があるともっと深い議論ができるでしょうし、更に日本語の文語訳と現代語訳の違いについても議論の対象になります。

そのようなイメージで取り組まれてみてはどうでしょうか?



幸若舞継承者の子孫のお稽古場を訪問させていただいたら、日本史への理解がぐっと深まる経験になった。

評論家活動をしている友人が都内某所の日本舞踊教室へ行くというので、一緒に伺わせていただくことになった。その友人は仕事の一環としてそちらへよく行くそうなのだが、私は完全に役に立たない立場でただの見学者でしかなく、本当に一緒に行っていいのかやや不安だったが、せっかくなので行かせていただくことにした。そしてそれは非常に貴重な経験になった。

幸若舞のお師匠の先生の名前は幸若知加子先生とおっしゃるお方で、その名の通り、歴史ある幸若舞継承者の子孫の方なのだが、普段は若柳恵華先生というお名前でご活躍されているのだという。で、どうしてお名前が2つあるのかという疑問にぶち当たるのだが、まずはその理由を説明するところから、由緒ある幸若舞と日本の歴史の深い関係について述べてみたい。この記事は先生からたくさんの聞かせていただいたお話を基礎として私なりの解釈を加えたものになるため、もし間違っていて、関係される方からご指摘を受ければ内容は訂正したいと思う。

先生にどうして2つお名前があるのかということなのだが、幸若舞はかつて江戸幕府の音曲役として支援を受けて発展していたものの、明治維新になると支援が受けられなくなり、おそらくは新政府から迫害される恐れもあったため、幸若舞の看板は一旦下ろし、表向きは普通の日本舞踊のお師匠様として活躍しつつ、信用できる人たちの間だけで密かに幸若舞が継承されることになったということなのだった。まさに秘伝の舞である。なので先生にも表のお名前と幸若舞の正当な継承者としてのお名前の2つがあるというわけだ。

ここで疑問に思うのは、なぜ江戸幕府が幸若舞を支援していたのかということなのだが、それが、徳川家康の父親が幸若舞の担い手だったというのである。徳川家康の父親といえば松平広忠だが、この人物が幸若舞を担い、家康の腹違いの兄弟が継承していったと言う。つまり徳川将軍家と幸若舞の家元のお師匠様は親戚筋ということになり、幕府の支援・保護を受けていたとしても納得できることではあるのだ。ここで、私はふと、あるところで「徳川家康は源氏の子孫ではなく、家康の実家の松平氏はそもそも猿楽師をしていた」という話を聞いたのを思い出した。もしその人が幸若舞のことをあまりよく知らず、「猿楽のようなもの」という認識だったのだとすれば、幸若知加子先生からおうかがいしたお話と、以前、私がよそで聞いたことのある話は一致する。

長々と沿革を書いてしまっているが、ここからさらに幸若舞の本質に踏み込んでみたい。幸若舞とは天皇家とも関係の深い陰陽道の思想を継承する舞であり、能の源流であり、もしかすると雅楽とも関係のある実に古い踊りであって、北極星・北斗七星をメタファーにした足の動きをするのが特徴で、独特の摺り足をしたりドンと舞台を踏んだりするとのことで、それはお相撲のしこにも通じるものがあるのだということだった。日本で最初にお相撲をとったのは野見宿禰であると日本書紀に書かれているが、であるとすると、幸若舞は日本書紀以前の時代にまでそのルーツを遡って求めることができるということになる。摺り足は空手のような日本武術の基本的な動きであり、時代劇でもうまい人はきちんと摺り足を使って殺陣をするのだから、私はそのとき、日本の伝統芸術の基本中の基本の足の動きを宗家のお師匠様に教えていただいているということになっていたのである。源氏物語からアダプテーションした『葵上』という能の演目では、六条御息所が生霊となって現われて舞台をドンと踏み込んで音を響かせるが、これも源流は同じであろう。北極星は道教で天皇大帝とも呼ぶので、日本の天皇という称号の源流である可能性が極めて高いと思うのだが、それを表現する足の動きを幸若舞が継承しているのだとすれば、ここは完全に私の推測になるのだが、幸若舞は天皇家のための呪術を担っていた可能性が高いのではないだろうかと思えた。陰陽道は遅くとも天武・持統の時代には確立されていたため、幸若舞は飛鳥時代にまで遡ることができるということなのだ。

さて、私の脳裏に、陰陽道と関わりがあり、かつ徳川家康とも関わりのある人物の名前が頭にふと浮かんだ。織田信長である。信長は本能寺で自害する前に「敦盛」を舞ったことで知られていて、これは当時、本能寺から生き延びた女性たちの証言が残っているため、まず間違いなく「敦盛」を舞ったに違いないのだが、この「敦盛」は幸若舞なのだという。で、故竹内睦泰氏が語ったところによると織田氏は忌部氏の子孫であり、忌部氏とは中臣氏などとともに朝廷の祭祀を担当した家柄であるため、当然、陰陽道とも関わりがあることになる。だとすれば、織田信長は忌部氏の子孫であり、陰陽道に関する知識も豊富であったということになり、陰陽道の精神を継承する幸若舞とも深くつながっていたのだから、人生の最期に幸若舞のレパートリーである「敦盛」を舞ったということは納得できるのだ。信長と家康は今川義元を殺した後で清州同盟を結ぶことになるのだが、そもそも信長が忌部氏から続く陰陽道の継承者で、松平氏が幸若舞の継承者であったとすれば、今川義元がいなくなった後の時代の東海地方で両者が同盟を結ぶのはごく自然なことであるとも言えるだろう。私の完全な妄想だが、もしかすると信長と家康は幸若舞の人脈を通じて以前から密かに連絡を取り合って居り、桶狭間の戦いで今川義元が殺されたのも、今川の武将として戦いに参加していた家康が信長に協力していたからではなかろうか…などと私は妄想してしまった。だとすると幸若舞はギルドのネットワークみたいな感じで影響力を持っていたかも知れないのである。

以上までに述べたことが全て本当だと仮定した場合、これまでとは日本史に関して見えてくる景色が違ってくる。日本史に関わる理解もいろいろと変更されなくてはならなくなるかも知れない。実際、長い日本の歴史を通じて構築された複雑な人間関係・血脈・宗教的つながり、芸術的つながりなど、複数のルートで人はつながっていて、教科書に書かれている歴史はそのほんの上澄みをなぞっているに過ぎないに違いなく、いろいろと探れば関係者だけが密かに継承している歴史・事象・伝承などがたくさんあるに違いないと私は思ったのだった。

幸若知加子先生は、東京コレクションで「敦盛」を舞った時の動画を見せてくださったのだが、その時の先生が謳った「人生五十年」は軽やかな歌声でありながら、少し物悲しい、うまく表現できないが小さな女の子が「通りゃんせ」を歌っているような印象のものだった。数多のドラマや映画で信長が敦盛を舞うシーンが入れ込まれて来たが、どれも気合の入った野太い声の「敦盛」が多く、幸若知加子先生の動画の歌声とは全然印象が違う。人生の最期にあの信長が舞ったのだから、より迫力が出るように演出に力が入ったのだとは思うが、信長の肖像画を見れば、かなり繊細な性格であったことが想像できる。実際には幸若知加子先生の舞のように、もっと軽やかで、悲しげで、品性を感じる舞いだったのかも知れない。



歴史上、主君を裏切って相手方についた人の忠誠は信用されましたか?

裏切り者が信用されるわけないというのがお答えになると思います。蘇我馬子を裏切った蘇我石川麻呂は後に中大兄に難癖をつけられて自害。義経を裏切って殺しその首を頼朝に差し出した奥州藤原氏は、義経をかくまっていた罪があるとして滅ぼされました。室町幕府六代将軍足利義教を殺害した赤松氏は周囲から見捨てられて滅亡。応仁の乱はオセロゲームみたいに裏切りまくってますけど、結果として室町幕府の実体が失われていく勝者なき戦いで、もちろん誰も誰のことも信用しないカオス状態になり、十三代将軍義輝を殺した三好三人衆も早々に滅亡していますが、これも周囲に見捨てられた結果と思います。武田勝頼を裏切った穴山信君は家康と一緒に近畿地方を回り、その最中に本能寺の変のしらせを聞いて三河への脱出を図りますが、どういうわけか家康と別行動をとって殺されたか自害しており明らかに家康から信用されていません。明智光秀も本能寺の変の後、味方を得られず孤立したのもやはり誰からも信用されていなかったからで、関ケ原の戦いで西軍を裏切った諸大名たちはことごとく家を潰されていますが、これも家康が彼らを一切信用せず、重用もしなかった結果と思います。特に小早川秀秋に至っては暗殺の可能性が濃厚です。大坂夏の陣の直前、織田有楽斎が豊臣を見限って徳川についていますが、彼は信長の弟であって、そもそも主筋の人なので別格ですからお咎めなし。というより秀吉が織田氏を裏切った結果天下を獲ったと言えなくもないので、織田有楽斎には豊臣に対して実は使える義理がないのです。

という感じですから、やはり裏切ってはいけないのです。



久秀君や光秀君に裏切られました。私には何が足りなかったのでしょうか?

Quoraにて『久秀君や光秀君に裏切られました。私には何が足りなかったのでしょうか?』との質問をいただきましたので、以下のようにご返答いたしました。

足りなかったのはコミュ力とさせていただきます。

私はある時、ふと気づいたのですが、信長は桶狭間の戦いのメンバーのことは非常に深く信用していた一方で、それ以外の人のことはほぼ誰も信用していなかったと思うのです。秀吉が桶狭間の戦いに参加していたかどうかの確証はありませんが、秀吉本人がその経験をアピールしていたのも、おそらくは信長の寵愛を得られるのは桶狭間メンバーだけだと気づいていたからではないかという気がします。

桶狭間の戦いという極めて希少な経験を共有した人のことしか信用できなかったということを現代風に言うと、元甲子園球児が大人になっても当時のメンバーだけと仲良くし続けているような状態が続いたということになるのではないかと思います。

さて、このような信長の偏愛的性格は当然、桶狭間の戦い後に信長の部下になった武将たちには気づかれていたに違いありません。偏愛の楽しみは、偏愛されない人間たちを、はっきりと分かるように違った扱いをすることにあるとすら言えるからで、信長もおそらくそうしたことでしょう。しかも表面的な地位や報酬はしっかりと十二分に与えた上で利用し、働かせ、決して愛を与えないという高等なサディスティック心理戦略が採られていたと考えるべきで、松永久秀も、明智光秀も、はじめのうちは、このように厚遇してくれる人のもとで働けることになって良かった、天下を獲る武将の下で働けて光栄だと思ったかも知れませんけれど、だんだん、愛だけは決して与えられないという事実に気づき、煩悶し、信長を見捨てる決心をしたのではないかと私には思えるのです。

松永久秀の場合、信長がほしがる茶器と一緒に爆死したわけですから、それをとってみてもどれほど粘着質な関係性が両者の間に存在したかが想像できます。信長は松永久秀よりも茶器をもっと愛していて、それをそうだと周囲の人にも分かるように振る舞っていたに違いありません。松永久秀は愛されなかったことの復讐をあのような形でしたのではないかという気がします。

信長はその最晩年になると、桶狭間メンバーも見捨て始めます。おそらくは武田も脅威ではなくなったので家康も殺していいし、他のメンバーがいなくてもやっていけると勘違いしたのかも知れません。となると、実は桶狭間メンバーを本気で信用していたかどうかも怪しいのですが、いずれにせよ、そういう本当に大切にしなければならないはずの長年の部下を追放したりし始めるわけですね。それを見た明智が、おっしやってやろうと思ったとして私にはなんら不思議ではないのです。明智光秀ほどの慧眼の持ち主であれば、信長の強さの本質が桶狭間メンバーとの結束の強さにあったことに気づいていたはずですし、且つ、信長がそのようなメンバーを見捨て始めたということは、信長が勘違いをして自ら最大のパワーの源を棄てている状態になっているとも気づいたでしょう。そういうわけですから、私は明智光秀単独犯で本能寺の変は説明できると考えています。

で、最後についでになるんですけど、足利将軍についても少しだけ触れておきたいと思います。足利義昭は信長の協力で上洛し将軍になった後も信長をよく慕い、あなたはお兄さんか父親のような存在だと手紙に書いたりしています。そんなことを後世の資料としても残るであろう将軍名義の手紙にしたためるくらいですから、本当に信長には心理的な親密さがあったのだと思います。さて、信長はコミュ障ですから、そこはほれ、「俺、お前のことに人間的な愛情は感じてないから。将軍にもしてやったんだから、後は俺の命令通りにすればいいし、命令は手紙でするから、そもそも会う必要もなくね?」くらいの突き放しがあったのだと思います。ですから、足利義昭は駄々をこねる幼児のような心境で信長を殺せと武田信玄や上杉謙信に手紙を送ったのではないでしょうか。信長が不死身だとどこかで思いこんでしまっていて、本当に不死身なのかどうかを確かめようとしたのかも知れません。

長くなってきたので、そろそろ終わりますけど、考えてみると、信長って誰かに似てるなあと書きながら思ったんですが、昔の小沢一郎さんにそっくりです。昔の小沢一郎さんは眩しくてみんなに恐れられて、そしてとても愛されていました。過去30年の日本政治は小沢一郎とともにありました。そして見事に、与野党を含むほぼ全ての人が疲れ果ててしまい、彼から離れて行きました。私、ここまで書くのは小沢一郎さんが好きだったからですよ。

本当に長くなってしまいました。すみません。



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甲府を歩いて解けた武田信玄の謎

信長は裏切られても案外許してるのに、有岡城に入った黒田官兵衛が確実に寝返ったのかどうか状況を確認する事もなく長政をあっさり殺せと命じましたがなぜでしょうか?

「信長は裏切られても案外許してるのに、有岡城に入った黒田官兵衛が確実に寝返ったのかどうか状況を確認する事もなく長政をあっさり殺せと命じましたがなぜでしょうか?」というquoraでの質問に対する私の回答です。

信長は裏切った者をゆるしたことは基本ありません。有用な者は生かしました。ゆるしたのではなく、活用することにしたわけです。従って、一度でも裏切ったことのある者が無用になれば、何をされるかは分かったものではありません。実の同母弟だって殺されているのです。唯一、裏切ったことがある者の中で、ゆるされていたであろう人物は柴田勝家なのですが、それは織田家の内紛に於いてでの話であって、織田家に弓を引いたことはありませんでした。信長もその面を評価し、勝家を信用していたものと思います。

さて、この細かな機微をよく理解していたであろう人物に松永久秀を挙げたいと思います。彼は二度目(だったと思います。三度目とかだったらすみません)に信長を裏切った時、おそらく、今回投降しても自分はもはや役に立たないだろうから殺されるだろうと悟ったが故に自害するに及んだのではないかと思うのです。

信長はそもそもごく一部の人間を除き、ほとんど誰のことも人間的に愛してもいなかったし、信じてもいなかったと私は考えています。じっくりと彼の人生を眺めてみると、おそらく、桶狭間の戦いに参加していたメンバーのことだけは本気で信頼していたようなのですが、それ以外の人物はただの駒でしかなく、役に立つかどうかだけが相手を図る尺度になっています。桶狭間のメンバーには柴田勝家も参加していましたし、木下藤吉郎も多分参加していました。

信長は平気で浅井との盟約を破り、怒って反旗を翻した浅井長政を裏切者であるとして追い詰めて殺していますが、信長の行動の基準を考えれば、浅井との同盟が朝倉義景との戦争の役に立たないので同盟を破ったわけで、信長的には至極合理的なわけです。

このことに気づいていたであろう人物として明智光秀を挙げたいと思います。彼は徹底的に信長の役に立ちましたが、ある時、信長は自分が完全にすり減ってしまうまで使い倒し、使えなくなったら適当に理由をつけて追放するなり殺すなりするであろうと気づいていたのだと思います。だからこそ、光秀もドライになり、信長を殺せるときに殺しておこうと考えたのではないかと思うのです。

尤も、信長は最晩年のころになると桶狭間メンバーに対しても冷淡になっており、自分の息子たちを安定させることしか考えなくなっていましたから、信長を守るはずの家臣を遠ざけ、まさか光秀みたいな外様に自由意志があろうはずがないくらいの思い込みがあり、つけいられたのでしょう。

このように考えますと、信長は黒田官兵衛が役に立つとはとても思えなかったし、少なくともその段階では敵の城に入ったまま出てこない、要するに結果を出していないのですから、殺しても別に、何の痛みも感じないということであったに違いありません。




明智光秀の動機-信長、死す

明智光秀が本能寺の変を起こした動機を考えるということに、今回は集中してみたいと思います。織田信長は最多出場で、信長のことは今回が8回目なのですが、今回で信長は最後になります。

で、光秀の本心を考察してみようという試みなわけですが、私は明智光秀単独犯行説でかなりのことを説明できると思います。あえて黒幕を設定する必然性はそこまで高くないのではないかなと思います。とはいえ、光秀をけしかけた人々はいたと思いますから、後半ではそこまで踏み込んでみるつもりです。

これまでに何度か述べてきましたが、織田信長は桶狭間の戦いのときに部下だったメンバーをファミリーと思っているふしがありました。桶狭間の戦いのとき、信長はまだ弱小戦国大名ですから、このときに信長についてきたメンバーこそが心の友というわけです。もっとも、佐久間信盛や林道勝のように桶狭間メンバーでありながら信長の晩年期になって追放された武将もいたわけですが、それは信長が血迷った状態に陥ってきたという証左であって、人間が落ち目になるとおかしなことをやってしまうというような感じで説明するのが妥当なのではないかと思います。

何が言いたいかというと、明智光秀は信長ファミリーにとって外様ですから、利用できる間は十分な報酬を与えて利用するわけですけれど、それができなくなったらポイなわけです。明智光秀の側からいえば、信長にとことん忠義だてする義理もないので、場合によってはわりと簡単に裏切っていい相手ではあるということなんですね。明智光秀は家臣に対し、自分はまるでゴミみたいな存在なのに信長様に拾っていただいて一城の主にまでなれたのだから、忠義を尽くさなくてはいけないという趣旨のことを話したことがあるそうですが、これって要するにギブアンドテイクが成立しているということなわけです。ギブアンドテイクが成立しなくなれば、光秀はさっと信長から手を引いてもおかしくないわけです。で、本能寺の変が起きた時に、光秀はギブアンドテイクが成立していない状態になっていた可能性があります。たとえば、信ぴょう性はそこまで高くないみたいなんですが、信長は光秀に毛利攻撃を命じた際、国替えも命じていて、今光秀に与えいている知行は信長が接収する。光秀は毛利の領地を攻撃して占領した土地は全部自分の領地にしてもいいと約束したという話があります。要するに光秀にまだ陥落していない土地を与えると空の証文を与えて、今実際に手にしている土地は取り上げるということになりますから、光秀は一城の主にまで出世できたから信長に忠義だてするけど、そこの前提が崩れることになるので、だったら寝首をかいてやろうと思ったとしても不思議ではないんですよね。

さらに、光秀はただ単に自由に毛利を攻撃すればよかったかと言えば、そういうわけでもなかったんです。秀吉が毛利攻めで苦労しているから、光秀の本来の仕事は秀吉のサポート、ヘルプなんですね。自分の新しい領地を毛利から奪わなければならないという切迫した状態にありながら秀吉のサポートをさせられるわけですから、これでは誰でも頭に来ます。メンツも実利もめちゃめちゃになったわけですから。

もう一丁つけくわえるならば、四国の長宗我部という戦国大名が信長に接近しようとしたとき、明智光秀に間を取り持ってもらっています。明智と長宗我部は関係が近いんですね。で、信長は長宗我部の四国における優位を認めると約束したわけです。長宗我部は信長の同盟者になって、家康みたいな立場になる予定だったと考えていいと思います。ところが信長軍行くところ必ず勝利する状態が続きましたから、もう、長宗我部のご機嫌をとる必要はないと信長は思ったらしく、以前の約束は撤回で、四国に遠征軍を送り込む準備を始めます。本能寺の変が起きた時はすでに準備万端整っていて、出発を待つのみだったか、あるいはすでに先遣隊出発していたくらいの時間的接着性があるんです。長宗我部との間を取り持った明智光秀からすれば、メンツ丸つぶれなんですよね。しかも、領地召し上げ秀吉サポートという要件も重なってあるわけですから、やっぱり、光秀がぶちぎれしてもおかしくなわけですね。

しかも、偶然にも、信長がうっかりしていたのか、京都に大軍を率いているのは光秀一人。信長は少数でお茶会とかのんきにやってるわけですね。これは襲うしかない、千載一遇のチャンスというわけです。

もともと信長に義理のない光秀が、メンツ丸つぶれで利益も奪われて、不本意な業務に強制的に従事させられていて、信長は無防備。これはねえ、繰り返しになりますけど、そりゃ、やってやろうと思いますよね。というわけで、明智光秀単独犯行説は十分に成立すると私は思うんですね。長宗我部の話は四国説という風に言われたりしますけど、四国説は光秀の動機を説明するものであって、黒幕が別にいるというのとは全然違うものです。ですから、単独犯行説の一部を構成するものですね。

じゃ、他の黒幕説をちょっと考えてみたいと思います。

私は、信長に近い人間で、最も信長を殺したいと思っていたのは家康だと思います。徹底的にバカにされ、なめられ、戦場では見棄てられ、妻と息子は信長への義理だてのために殺さなくてはならなくなったわけですから、家康の心境を考えれば、信長を激しく憎悪して当然です。しかし、信長にとことん馬鹿にされていた男が、光秀のような織田家の首脳レベルの男に影響力を与えることは可能かと考えれば、かなり怪しいように思いまうす。家康に光秀をコントロールすることできたとはちょっと思えません。本能寺の変が起きたとき、家康は堺を観光旅行していて、こんなところでのんきに滞在していては光秀の部下につかまって殺されるとびびった家康は、大和の山中や伊賀地方を越えて三河に少数の従者だけを連れて命からがらたどり着いています。もし、家康が黒幕だった場合、家康の脱出劇はやらせとかポーズみたいなものだったと言えますし、ある種のアリバイ作りみたいな話になりますが、この場合、当初はやらせのつもりが、家康が少数の供回りしかいないことは事実なわけですから、誰かに襲われて殺されてもおかしくはありません。で、真相は闇の中、死人に口なしというわけです。実際、家康と一緒に堺にいて、別ルートで脱出をはかった穴山梅雪はこのときに殺されています。そんなリスクを、あの慎重な家康がおかすでしょうか?できるだけ運任せの要素を排除しようとして生きた家康が、そんなことをするとは私にはとても信じられません。ですから、家康黒幕説は全くないと思います。

では次に、イエズス会黒幕説はどうでしょうか?イエズス会がキリシタン大名を通じて光秀を動かし、信長を殺させたというものですが、イエズス会は信長の理解を得て信徒を獲得していたわけですから、信長を殺す必要は全くありません。豊臣も徳川もカトリックを禁止しましたが、それくらい危険視されかねないことは多分イエズス会もわかっていて、信長のような理解者は実に得難いとも思っていたはずです。したがって、イエズス会黒幕説もないと思います。

次に秀吉黒幕説ですが、これはありそうに見えてやっぱりないと思いますねえ。というのも、秀吉が天下を獲るというビジョンを信長が生きているときに持っていたようにはちょっと思えないんですね。これは、私の推量でしかないんですけど、秀吉は天下を獲ったあと、それからどうしていいかわからなくなって甥の秀次を殺したり、朝鮮と戦争を始めたりと、常軌を逸したと思えるようなことをやっています。ですから、やっぱり、天下はなんだか降ってわいたように手に入ったけど、十分に準備できていたわけでもないというのが、透けて見えるような気がしてなりません。だから、この説は個人的にはなしですね。

そして、これはある程度ありうると思うのが、足利義昭黒幕説です。私は足利将軍であり、信長に徹底的に抵抗した義昭が信長を討てと光秀に命令した場合、光秀の心が多いに動いたとしても全く不思議ではないと思うのです。光秀はそもそも信長に義理立てする理由はそこまでないわけですし、足利義昭は名目上の将軍としての権威を保っていて、光秀にとってはもともとは足利義昭こそご主人様なわけです。ぽっと出の信長より、義昭の将軍としての権威の方が、はるかに光秀に対して説得力を持ったのではないでしょうか。それがすべてではないですし、義昭に遠大な構想があったとも思えませんが、光秀が本能寺の変を起こすための背中を押したということは十分にありうると思います。

それから、やはり外せないのが朝廷黒幕説ですね。十分にありうると思います。光秀にこっそり「やっちまえ。信長、やっちまえ」と吹き込むお公家さんたちがいて、光秀の心が動いたというものですね。光秀は教養のある人だったわけですから、お公家さんたちのありがたみをよく知っていて、歴史の知識が深ければ、信長がぽっと出だということもよくわかっているわけですから、朝廷の権威にひれ伏し、信長を殺す
決心をした、少なくとも背中を押されたということはあり得るというか、多分、そうだったんじゃないかなくらいに思えます。朝廷としては、前回も述べましたが、信長という不気味な男は殺してしまって知らぬ顔をしたいと思っていた可能性はありますし。ですから、光秀が信長を殺した後は、お公家さんらしく責任をとりたくないので、光秀を見棄てたとしても、あり得ると思います。

そのように思うと、朝廷と将軍という信長以前から存在した2つの権威の意向を受けて、まあ、光秀が忖度して本能寺の変を起こしたものの、その後のことについては朝廷も将軍もしれっと知らぬ顔を通したために、光秀は見捨てられて孤立したまま秀吉に敗れてしまったというのが真相だったのではないでしょうか。

以上は、私がそう思うというだけですから、今回も、歴史の謎について想像して楽しむという感じで受け取ってもらえればいいなと思います。今回は信長の死を扱いましたが、推理を楽しむことに力が入ってしまい、レクイエムという感じにはなりませんでした。しかし、これは信長がそれだけ凄い男であったということの裏返しですから、信長への賛辞であると、信長ファンの方には受け取っていただければ幸いです。




天皇と信長

信長が京都の支配者だった時代の天皇は正親町天皇です。正親町天皇は在位期間が30年ほど続き、かなり長く天皇として在位しています。平安時代、幼少期に天皇に即位して大人になるころには退位して上皇になるというパターンが普通でした。後白河天皇が30歳近い年齢で即位したとき、年齢的におじさん過ぎるために超異例であったと言われているほどなわけですね。天皇は、かわいい少年が似合うわけです。お雛様人形でも、お内裏様とお雛様はお若いからかわいいのです。で、大人になる前に退位したということは、天皇の在位期間も短いんですね。天皇を退位した後の長い人生をみんな充実して過ごしたいわけで、儀式や慣例にしばられる天皇という立場はあんまり長くやらなくてちょうどいい、というような感じだったんだと思います。

ところがですね、じゃ、どうして正親町天皇がこんなに長く天皇として在位したのか、しかもかなりのご高齢になるまで続けていましたから平安時代とは真逆な状態になっていたわけですけれど、なぜそうなるのかというと、要するにお金がなくて、代替わりのための儀式にかかるお金を節約する必要があったというわけです。古代、天皇家は名実ともに日本でもっとも裕福な人々であったわけですが、だんだん武士に歴史の主役を奪われていき、室町時代では足利幕府にいろいろ面倒を見てもらっていたのが、戦国時代になると足利将軍も息も絶え絶えという感じになって生活が厳しくなってゆき、その日の朝食にも困るというところまで追い詰められていくようになりました。

で、天皇陛下が即位される時にはいろいろな儀式があるということは、最近令和になったばかりですから、みんなよく知っているわけですけれど、儀式をやるにはお金がかかるわけですね。特に、新しい天皇陛下が即位されたばかりのときに行われる大嘗祭は、非常に大がかりで費用もそれだけ嵩みます。しかも、お金がなくて大嘗祭を省略したりすると、天皇としての完全性が疑問視されたりするので、なるべく儀式の省略とかは避けたいということになります。ということになってくると、新しい天皇が即位されるた場合、できるだけ長く天皇に在位していただかなくては困る、できれば一生、在位していただきたいということになってきます。そのほうが節約からですね。一人の天皇が長く在位すれば、その次の天皇にバトンタッチされるころには、新しい天皇もすでにちょっとご高齢、で、がんばって長く天皇に在位されると、次の天皇もまたちょっとご高齢で即位し、がんばって長く在位。というようなことになっていきます。正親町天皇がご高齢で長く在位されたというのは、そのような事情が続いた結果なわけです。

その正親町天皇と信長の関係は、ちょっと微妙なものがあって、両者は互いに無視するわけにはいかないけれど、かといって、そんなに信用していない、というような感じの状態が続きます。1573年に将軍の足利義昭が信長によって京都を追放されますが、その後、信長が将軍になったかというと、そういうわけではありません。もし本当に信長を将軍に任命しようということになると、義昭を強引に将軍職から解任し、足利氏とは血縁でもなんでもない、特に名門というわけでもない、金と兵隊だけ持っている信長という尾張地方から来た男を将軍に任命するということになりますから、手続き的にも心理的にも壁が高いわけです。かといって、関白職というのは五摂家が独占する職位ですから、信長を関白に任命するのも、なんかおかしい。太政大臣はもともと名誉職みたいなものですが、単なる名誉職なので、それでお茶を濁すにしては信長は力がありすぎるわけです。で、なんかおかしいということになります。それで、とりあえず信長は右大臣ということになりました。右大臣も十分に位人臣を極めたポジションではあるんですけど、飽くまでも天皇や関白のために実務を行う、行政官のトップのような感じですから、天下人信長とは、なんとなく釣り合わないんですね。源氏将軍が右大臣に任命されましたが、それは源氏将軍の立場が武士のトップであるというだけで、日本の支配者でもなんでもないという認識があったからです。一方、京都を制圧した信長は天皇の次あたりに迫ってきて当然の人ですから、右大臣は微妙なんですね。で、1578年に信長は右大臣を辞職してしまいます。その理由はわかりませんけれど、多分、微妙だったからなんじゃないかなと思います。信長としては、自分の実績にふさわしい地位なら受け取るけれども、右大臣のような微妙な立場を続けると、朝廷の手足で終わってしまうところに不満なり不安があったのかもしれません。その後、本能寺の変まで、信長は特に職位のない支配者という、分かったような分からないようような立場で居続けます。

現代風に言うと、会社の筆頭株主が経営陣をやめさせた後、自分が社長とかCEOとかに就任するわけでもないのに、社長のオフィスで仕事をしている、というような感じでしょうか。あの人はいったいどういう資格で社長室を使っているのか?との疑問は誰にでも湧くんだけれど、かといって、筆頭株主ですから誰も文句が言えないという感じでかなあと思います。

このような信長の動きは、正親町天皇とその周辺の朝廷の人々からは、極めて警戒すべきことのように考えられたはずです。この男は、右大臣では不満らしい。じゃ、何が狙いなのか?という疑心暗鬼も生まれたかもしれません。信長は延暦寺焼き討ちとかやる男です。延暦寺を焼き討ちする根性があるのなら、朝廷の御所を焼き討ちするのも厭わないかもしれない。実力行使で天皇家をつぶしにかかってくるかもしれないという不安が全くなかったとは思えません。その不安が決定的なものだったかどうかは、わかりませんが、関係者の誰もが、ちらっとは頭の中に思い浮かべたはずです。

しかも、信長は正親町天皇の譲位を求めたこともあって、こいつは天皇家をコントロールしようとしているのか?との疑念も抱かせたに違いありません。信長が正親町天皇の譲位を求めず、さらに長く在位することを求めたのではないかとの説もあるようなのですが、要するに信長は天皇人事に介入していたということになりますから、天皇人事に口を出す時点で、ちょっと危ないやつだと思われたはずです。なにしろ信長は無冠の帝王なわけですから。

そういうわけですから、信長に何らかの地位を与えようという動き生まれてきます。猫に鈴をつける、猛獣に鎖をつけるというわけです。天皇から与えられた役職を受けるということは、天皇のしもべとして朝廷に尽くすという意味です。ですから、信長みたいな巨人には、なんとしてもそういう誓いを立てさせておきたいと朝廷側は思うでしょうねえ。武田勝頼が織田信長と徳川家康によって滅亡させられたのち、信長に対して、朝廷の方から役職に関するオファーが入ります。征夷大将軍、関白、太政大臣、好きな役職を選べというものです。これを三職推任といいます。3つの職を推薦して任命するということで、三職推任というわけですね。

その話を聞かされた信長は即答せず、こんど京都へ行ったときに正式に返事しますんでお待ち下さいというような返事をしたそうです。で、朝廷に返答をするために本能寺に宿泊し、いよいよ翌日、朝廷へ行くという前に明智光秀に討たれてしまいます。

本能寺の変、朝廷黒幕説を支持する人は、このタイムスケジュールに着目するわけですね。信長が返答する前に殺してしまえと考えたということなわけです。

普通、征夷大将軍か関白か太政大臣か、どれか好きなのを選べと言われたら恐れ入って、素直にどれか選ぶと思うはずです。ところが、ちょっと待ってくださいと信長は言うわけです。信長のことだから、新しい注文をつけてくる可能性があります。で、それがどれほどの注文なのかは、予想がつきません。なにせ、これまでに信長は蘭奢待という正倉院の宝物である素敵な香りがする香木の破片を切り取らせたり、天皇家が使用する暦について、織田氏が使用している三島歴というものに変更するよう求めたりしています。蘭奢待の破片をくれというのは、かなり破格な要求なわけですが、暦の変更はさらに大きなインパクトがあります。というのも、暦の決定権こそがすなわち、日本の統治権と考えられているからです。暦によって今日が何月何日かが決められます。陰陽道的な占いも暦によって左右されます。お金や物を超越した、目で見たり手で触ったりできない究極の次元にあるパワーが暦の決定権で、それを持つのは天皇と決まっているわけです。信長は天皇の統治権に介入したとみなされてもおかしくはなく、即ち、信長は天皇の権威に挑戦していた可能性もあるわけです。もし、信長が本気だしたら金と兵隊は信長の圧勝ですから、やっぱり朝廷を焼き討ちされてもおかしくはない、あいつにはその能力だけでなく意思もあると判断されたとしても不思議ではないんですよね。

これまでに、蘇我入鹿、平清盛、足利義満あたりが天皇家の権威や統治に挑戦した結果、あとちょっとくらいのところで突然命を落とすという黄金パターンと言っていいようなものがありますねえ。というようなことは私も述べてきましたが、そのトリが信長という風に位置付けていいかもしれません。んー、やっぱり現代まで続いている可能性が雑誌『ムー』に指摘されている八咫烏の人たちがお仕事をされたんでしょうかね。どうなんでしょうね。本当のところは永遠に分かりませんけれど、そういうのを推理して楽しむという感じでいいと思います。


武田滅亡-レクイエム

武田信玄が病没した後、武田家中は複雑な思惑が入り乱れるようになっていったようです。というのも、後継者の勝頼のことを認めない家臣たちがいて、いっそのこと武田家を出て独立しようかという動きを見せる者もいたらしいんですね。部下に認められないリーダーというのは非常にいたたまれない立場になりますから、勝頼としても焦りを感じていたのではないかと思います。勝頼を心理的に揺さぶったであろう家臣に穴山梅雪という人物がいたのですが、彼は武田氏とは血縁関係でもある重臣なんですが、勝頼の下だったら、家臣なんかやめて独立した戦国大名になるもんねという姿勢を持っていたそうです。この男は武田氏が滅亡する時に織田・徳川連合のほうに寝返って武田滅亡に加担したのですが、本能寺の変が起きたどさくさの中で殺されています。裏切者を軽蔑する誰かが穴山を死に追い込んだとしても不思議ではないですね。

それはそうとして、武田氏滅亡の第一歩は、やはり極めて有名な戦国の合戦である、長篠の戦いの結果によるものでした。一般的に長篠の戦いでは、日本最強の騎馬軍団で突入しようとする武田軍に対して、織田・徳川連合軍は3000丁の銃を準備し、防御柵から銃口を出して銃撃して勝利したとされています。当時、銃に弾を込めて撃つのには時間を要したため、銃砲隊は三つに分かれ、前の隊が撃っている間に後ろの隊が弾を込めるというやり方を採用したとされています。しかし否定的な意見も多く、真実であったかどうかは誰にも分りません。重い銃を扱う兵隊の体力的な問題や、熱く銃身の耐久性の問題などから疑義が呈され、この有名な三段撃ちはそんな長時間できるものではないとも言われています。何十年も前に制作されて『ズール戦争』という映画があるんですが、この映画ではアフリカの植民地にいた少数のイギリス軍部隊が現地のアフリカ人部族に包囲され、兵力差100倍かそれ以上か、というような戦いになるんですけど、イギリス側の将校は兵隊たちに三段撃ちをさせていました。ですから、三段撃ちというやり方は決して突飛なものではなく、銃に対する理解のある人物が頭をひねれば思いつく範囲のアイデアではないかと思いますけれども、まあ、今はそういうわけで、信長が三段撃ちさせたかどうかは微妙な問題になっているわけですね。仮に三段撃ちしなかったとすれば、最強騎馬軍団をを相手になんで信長が圧勝したのかという疑問が湧くんですけれど、津本陽さんは長篠の現場の様子を見て、土地があまりに狭隘であるため、馬がまっすぐ突っ込んでいくという戦法は困難だっただろうから、信長は若さゆえに焦る勝頼を長篠におびき出してつぶしたんじゃないかとの見解を書いていました。私はなるほどなあと、結構納得しましたねえ。

で、ですね、泣く子も黙る武田騎馬軍団はほとんど全滅に近い負け方をしました。武田軍はだいたい2万人くらい兵隊がいたらしいんですが、戦死者は1万2000人に及んだそうです。基本的にそれらの戦死者は織田・徳川陣営に突っ込んでいって亡くなっています。つまり、どんなに犠牲が出ても、武田の騎馬武者が敵陣に突っ込みさえすれば勝てるとの確信があったため、とにかく敵陣に乗り込むまで突っ込み続けたということだったんでしょうねえ。一部、敵陣に入るのに成功したらしいのですが、全体としてはたどり着く前に倒れてしまったようです。

武田軍は命からがら帰っていったわけですが、武田勝頼の本領はむしろこの時から発揮されたという面もないわけでもありません。なにしろ、それから7年間も彼は武田氏を守りました。完全敗北したにもかかわらず、信長・家康が一気呵成に攻め込むのはためらう程度に領国を守ったんですね。

信長は朝廷に働きかけ、武田勝頼を朝敵に認定させます。信長は一方で勝頼とも和平協議もやっていましたから、和戦両線というわけです。しかも、朝敵認定というやり方は、心理的な動揺を誘うものですから、なかなかに巧妙とも言えますが、信長がそんなことまでしなければならないと思うほど、勝頼はよわっちくはなかったということの裏返しとも思えます。

1582年2月、織田・徳川連合軍が武田領に侵攻を開始します。武田軍は有効な反撃ができないまま混乱に陥ってしまったと言われています。しかも穴山梅雪が徳川家康の方についたため、武田側では勝利を確信できない兵隊たちの逃走も相次いだようです。

武田勝頼と家族・郎党の一行は逃走中に滝川一益に追いつかれそうになり、自害して果てました。その時の心境を想像すると、本当につらいですね。せめて死に際が穏やかであったことをのぞみます。主君を裏切った穴山梅雪はその数か月後に殺されていますが、ざまみろとかちょっと思っちゃいます。鎌倉時代から続いた武田氏はこのようにして滅亡したというわけですね。

本能寺の変は同じ年の6月に起きています。徳川家康は武田討滅の祝賀のために京都を訪れて信長に会い、さらに堺へ観光旅行に出かけていた最中に本能寺の変が起きたというわけです。このとき、家康と一緒に穴山梅雪もいたんですが、とにかく故郷へ脱出して帰ろうという最中に殺されているわけで、謀殺されたんじゃないかなという疑いを抱きたくなるシチュエーションで穴山は死んでいます。家康も心の中では穴山を軽蔑していたに違いないですから、殺しちゃっていいよ。とか思っていたんじゃないかなという気すらしてきますね。

武田氏を滅亡させることは、信長・家康にとって悲願でしたから、ようやく達成されたというわけですが、武田滅亡直後にこんどは信長が死に、家康が死にかけたわけですから、実に絶妙なタイミングで物事が動いていったという気がしなくもありません。武田氏という非常に大きな存在から身を守るのが織田・徳川同盟の主たる目的でしたから、もはやこの同盟はそこまで必要ではありません。信長と家康が互いを敵として認識し始めたということはなかっただろうかと私は想像してしまいます。第二次世界大戦でベルリンが陥落した後、西からドイツに入ったアメリカ軍と東から入ったソビエト軍が出合い、すでに心の中では、次の敵はこいつだなと互いに思ったという話がありますが、そういったものが信長と家康の間にも漂ったのではないでしょうか。ちょっと深読みしすぎかもしれませんけれど。



浅井長政‐信長の友達だった男の話

近江地方に勢力を築いた浅井氏は、地理的に隣接する六角氏との抗争の種を常に抱えていました。浅井氏は越前の朝倉氏と代々の同盟関係を維持していましたが、六角氏と朝倉氏は離れているため、六角対策としてはそこまで機能しているとも言い難く、織田信長の妹であるお市と浅井長政が婚姻関係を結ぶことによって織田・浅井同盟を結ぶことは、渡りの船みたいな、願ってもない、いい話だったように思います。信長にしても、浅井との同盟は非常にメリットの大きいものでした。当時、足利義昭を養っていた織田信長は、義昭を将軍にするための上洛を模索していましたが、信長のいた岐阜から京都へまでの途中に浅井も六角もいるわけで、手なずけるなり、つぶすなりしなくてはいけません。浅井を手なずけて六角をつぶすというのは、一つの戦略と言えるでしょう。浅井と六角だと浅井の方が強いことは確かなので、強いほうと同盟して弱いほうをつぶすというわけです。それでも簡単につぶれなかった六角は、それはそれで見るべきところもあると言えるでしょうねえ。

さて、浅井長政が織田信長と同盟を結ぶにあたり、一つだけ気がかりなことがありました。それは、もし織田と朝倉が戦争したら、浅井はどうすればいいのかという問題です。一番いいのは織田と朝倉が戦争しないことですが、こればっかりは浅井が決められることではありません。信長は、もし朝倉と戦争する場合は、事前に浅井に知らせると約束し、それで浅井も了解して同盟は成立し、信長は安心して京都に入り足利義昭を将軍にして、事実上の天下の頂点に立つことができました。足利義昭を手なずけている限り、信長は義昭の名を使って日本中の武士に命令することができるのです。事実上の最高権力者なのです。で、朝倉義景が京都まで挨拶に来ないので、信長は朝倉を攻撃することにしました。そしてそのことを浅井には伝えていませんでした。信長が約束を破ったのです。この件について信長なりの言い訳がないわけではありません。仮に領地争いのようなことで、朝倉と戦争する場合、それは私的な戦争になるわけですから、浅井に、そういうわけで了解してくださいと一言入れるのが筋ではあるけれど、朝倉義景が京都の将軍に挨拶に来ないのを討伐するのは公的な仕事なのだから、浅井長政に一言入れる義理はないというわけです。言うまでもないことですが、浅井長政はそんなことで納得することはできません。

浅井長政は信長をとるか、朝倉をとるかついて相当に悩んだでしょう。同盟のつきあいの古さをいえば、朝倉との同盟の方がはるかに長いので、朝倉をとるべきですが、浅井長政はお市の方との関係がよく、政略結婚であったにもかかわらず、二人は本当に愛し合っていたらしいのです。ですから、愛する奥さんの実家と戦いたくないという気持ちもあったはずです。結論として彼は朝倉との同盟を優先することにしました。愛情関係よりも義理や信頼を選んだというわけですね。

信長が3万人の兵隊を連れて朝倉領へ向かった時、浅井長政は信長に反旗を翻しました。浅井と朝倉に挟み撃ちにされる状況になってしまった信長は兵隊たちを見捨てて脱出します。信長が殺されたら駿河の今川氏みたいな運命をたどることになりかねないため、信長脱出は正しいですが、同盟者の家康も見捨てられたらしく、自分でなんとか脱出したみたいです。家康と信長の関係を見ると、家康が完全になめられていたことがよくわかります。

当時、信長は袋のネズミ状態になっており、敵は武田信玄、浅井長政、朝倉義景、石山本願寺、将軍足利義昭と、戦国のオールスターのお出ましです。そうそうたる顔ぶれと言えるでしょう。普通に考えれば、織田信長が殺される番です。ところが、信長包囲網の最も強力な武将である武田信玄が陣中で病没し、武田軍が信長包囲網から脱落しました。信長は足利義昭との関係修復を模索しましたが、義昭がかたくなに拒否したため、やむを得ず彼を追放します。石山本願寺とは持久戦ですが、まあ、包囲していればいいわけですから気は楽ですね。となると、残るは浅井・朝倉なわけです。信長し大軍を率いて出陣し、浅井を攻めます。朝倉義景が救援のために出陣してきましたが、浅井と朝倉は連絡を取り合うことができず、おそらくは朝倉義景が怖くなってしまったのだと思いますが、朝倉軍が撤退します。信長は背後から襲い掛かり、2万の兵力を擁した朝倉軍は壊滅し、朝倉義景は血縁の者に裏切られて命を落としています。

そしていよいよ、信長はじっくりと浅井長政を叩き潰すことにしました。すべての敵をつぶしてきた信長に浅井長政が対抗することは現実的にはあり得ません。浅井長政は死を覚悟したはずです。小谷城に織田軍が突入し、まるで第二次世界大戦の時のスターリングラードの戦いとか、ベルリン攻防戦みたいに、壁一つ、部屋一つを奪い合うような白兵の激戦が展開されたようです。戦いの最中、織田軍から何度も浅井氏に対する降伏勧告があったらしいです。しかし、浅井川は受け入れず滅亡を選びました。小谷城は本丸以外が信長軍の手中に落ちたという段階で、長政の妻で信長の妹であるお市と、お市と長政の間に生まれた三人の娘たちが織田軍に引き渡されました。その間、短時間とはいえ休戦状態になっていたと思いますが、もし実際にその場にいれば、極めて劇的な場面であったに違いありません。ドラマでこの場面を再現しているのを見たことはありますが、真実味のある映像にすることは非常に難しいのではないかと思いました。この時助かった3人の娘たちがそれぞれ時代の有力者と結婚し、時代を作っていきます。ずいぶん前に中国映画に『宋家の三姉妹』というのがあって、神保町の岩波ホールでみましたんですが、三姉妹が孫文と結婚したり蒋介石と結婚したりというわけで、ドラマチックな人生を歩んだ姉妹を注目している映画なんですね。浅井長政の娘の三姉妹もそんな感じですよね。この娘たちの中には、後に秀吉の側室として秀頼を生み、徳川家康に殺される淀殿もいました。二代将軍徳川秀忠に嫁いだお江もいたわけです。凄い三姉妹です。

お市と三人の娘が引き渡されたのち、戦いが再開されましたが、浅井長政が自害して戦いは終了しました。浅井氏滅亡…というわけではありません。実は浅井氏はもうちょっとだけ長く続きました。織田信長もすぐに気づきましたが、浅井長政には三人の女の子のほかに、男の子が二人いたらしいのです。男の子はどこへ行ったのかということが問題になりました。懸命な捜索が行われました。浅井氏の息子が生きていれば、将来、源頼朝みたいに復讐してくるかもしれません。浅井を根絶やしにしなければならないというわけです。二人の男の子のうち上の子はほどなく発見され、非常に残酷な手法で殺されたとされています。弟の方は出家してお坊さんになったと伝えられています。

浅井長政が死に、その父親の久政が死に、長政の息子も死に浅井氏は完全に滅亡させられたわけですが、信長はそれでもまだ納得できませんでした。浅井長政と久政の頭蓋骨に金箔を塗り、インテリアの装飾みたいにしてしまったらしいのです。頭蓋骨に金箔を塗って、そこにお酒を入れて杯にしたともいわれますが、さすがにそこまでやってないという説もあるので、そこは保留ですけれど、死者の頭蓋骨をインテリアの装飾みたいにして見せものにしたというエピソードからは、信長がいかに浅井長政に執着していたかを想像することができます。

信長は浅井長政に反旗を翻されたことが辛くてならなかったに違いありません。私は信長の心境を想像するに、浅井長政に対しては友情を感じていたような気がしてなりません。何度も降伏勧告をしたのも、友達と仲直りしたいからです。にもかかわらず、浅井長政は仲直りするくらいなら死んだほうがましだという姿勢を貫きました。信長を徹底的に侮辱したわけですね。ですから、信長の方でも、長政の頭蓋骨をインテリアデザインで装飾するという形で、友情を受け取らなかった長政に仕返しをしたのです。ただし信長はむなしかったに違いありません。どんなに長政の死体を侮辱したとしても、長政は死んでいるわけですから、長政には伝わらないのです。死体への侮辱は、単に信長の自己満足でしかあり得ないのです。信長は神仏を恐れないというスタンスでやっていたわけですから、こんなことで宗旨替えするわけにもいきません。

浅井長政の当時10歳の息子を殺したというのも、非常に残酷です。平清盛は確かに頼朝と義経の命を助けましたが、普通、近代以前であっても、父親が戦争に負けたからと言って、息子が必ず死ななくてはならないというものではありません。お坊さんになるとかして、現実政治に関わらないということが分かれば命くらいは助けるのが普通です。清盛が源氏の息子を助けたということには寛大さや人道的な優しさの発揮があったと思いますけれど、かといって、頼朝と義経を殺すというのも残酷すぎて当時の人の感性から言っても受け入れがたいものだったはずです。ですから、清盛の方が普通なのであって、信長の方が異常なのだと私は思います。滅ぼした相手の息子さんなら、むしろ引き取って大切に育ててやるくらいの寛大さや度量は必要です。冷酷なリーダーでなければ生き残れないかもしれませんが、優しいリーダーでなければ生き残る資格はないと言えるでしょう。

浅井長政のことは信長の人間的な弱さのいったんを垣間見ることができます。結構、粘着質で、不本意なことが起きた時にそれをLet it goできないという人格的な問題を抱えていたように思えます。彼の粘着的な性格は足利義昭とのやりとりでも垣間見ることができましたし、これまでにも何度か触れてきましたが、信長は桶狭間の戦いに参加したメンバーを偏愛する傾向があって、それもやはり人間関係に対する粘着的な性格が反映されているのではないかと思えます。

友達って、大切です。私にとっても大切です。友達は大切にしましょう。