明智光秀の動機-信長、死す

明智光秀が本能寺の変を起こした動機を考えるということに、今回は集中してみたいと思います。織田信長は最多出場で、信長のことは今回が8回目なのですが、今回で信長は最後になります。

で、光秀の本心を考察してみようという試みなわけですが、私は明智光秀単独犯行説でかなりのことを説明できると思います。あえて黒幕を設定する必然性はそこまで高くないのではないかなと思います。とはいえ、光秀をけしかけた人々はいたと思いますから、後半ではそこまで踏み込んでみるつもりです。

これまでに何度か述べてきましたが、織田信長は桶狭間の戦いのときに部下だったメンバーをファミリーと思っているふしがありました。桶狭間の戦いのとき、信長はまだ弱小戦国大名ですから、このときに信長についてきたメンバーこそが心の友というわけです。もっとも、佐久間信盛や林道勝のように桶狭間メンバーでありながら信長の晩年期になって追放された武将もいたわけですが、それは信長が血迷った状態に陥ってきたという証左であって、人間が落ち目になるとおかしなことをやってしまうというような感じで説明するのが妥当なのではないかと思います。

何が言いたいかというと、明智光秀は信長ファミリーにとって外様ですから、利用できる間は十分な報酬を与えて利用するわけですけれど、それができなくなったらポイなわけです。明智光秀の側からいえば、信長にとことん忠義だてする義理もないので、場合によってはわりと簡単に裏切っていい相手ではあるということなんですね。明智光秀は家臣に対し、自分はまるでゴミみたいな存在なのに信長様に拾っていただいて一城の主にまでなれたのだから、忠義を尽くさなくてはいけないという趣旨のことを話したことがあるそうですが、これって要するにギブアンドテイクが成立しているということなわけです。ギブアンドテイクが成立しなくなれば、光秀はさっと信長から手を引いてもおかしくないわけです。で、本能寺の変が起きた時に、光秀はギブアンドテイクが成立していない状態になっていた可能性があります。たとえば、信ぴょう性はそこまで高くないみたいなんですが、信長は光秀に毛利攻撃を命じた際、国替えも命じていて、今光秀に与えいている知行は信長が接収する。光秀は毛利の領地を攻撃して占領した土地は全部自分の領地にしてもいいと約束したという話があります。要するに光秀にまだ陥落していない土地を与えると空の証文を与えて、今実際に手にしている土地は取り上げるということになりますから、光秀は一城の主にまで出世できたから信長に忠義だてするけど、そこの前提が崩れることになるので、だったら寝首をかいてやろうと思ったとしても不思議ではないんですよね。

さらに、光秀はただ単に自由に毛利を攻撃すればよかったかと言えば、そういうわけでもなかったんです。秀吉が毛利攻めで苦労しているから、光秀の本来の仕事は秀吉のサポート、ヘルプなんですね。自分の新しい領地を毛利から奪わなければならないという切迫した状態にありながら秀吉のサポートをさせられるわけですから、これでは誰でも頭に来ます。メンツも実利もめちゃめちゃになったわけですから。

もう一丁つけくわえるならば、四国の長宗我部という戦国大名が信長に接近しようとしたとき、明智光秀に間を取り持ってもらっています。明智と長宗我部は関係が近いんですね。で、信長は長宗我部の四国における優位を認めると約束したわけです。長宗我部は信長の同盟者になって、家康みたいな立場になる予定だったと考えていいと思います。ところが信長軍行くところ必ず勝利する状態が続きましたから、もう、長宗我部のご機嫌をとる必要はないと信長は思ったらしく、以前の約束は撤回で、四国に遠征軍を送り込む準備を始めます。本能寺の変が起きた時はすでに準備万端整っていて、出発を待つのみだったか、あるいはすでに先遣隊出発していたくらいの時間的接着性があるんです。長宗我部との間を取り持った明智光秀からすれば、メンツ丸つぶれなんですよね。しかも、領地召し上げ秀吉サポートという要件も重なってあるわけですから、やっぱり、光秀がぶちぎれしてもおかしくなわけですね。

しかも、偶然にも、信長がうっかりしていたのか、京都に大軍を率いているのは光秀一人。信長は少数でお茶会とかのんきにやってるわけですね。これは襲うしかない、千載一遇のチャンスというわけです。

もともと信長に義理のない光秀が、メンツ丸つぶれで利益も奪われて、不本意な業務に強制的に従事させられていて、信長は無防備。これはねえ、繰り返しになりますけど、そりゃ、やってやろうと思いますよね。というわけで、明智光秀単独犯行説は十分に成立すると私は思うんですね。長宗我部の話は四国説という風に言われたりしますけど、四国説は光秀の動機を説明するものであって、黒幕が別にいるというのとは全然違うものです。ですから、単独犯行説の一部を構成するものですね。

じゃ、他の黒幕説をちょっと考えてみたいと思います。

私は、信長に近い人間で、最も信長を殺したいと思っていたのは家康だと思います。徹底的にバカにされ、なめられ、戦場では見棄てられ、妻と息子は信長への義理だてのために殺さなくてはならなくなったわけですから、家康の心境を考えれば、信長を激しく憎悪して当然です。しかし、信長にとことん馬鹿にされていた男が、光秀のような織田家の首脳レベルの男に影響力を与えることは可能かと考えれば、かなり怪しいように思いまうす。家康に光秀をコントロールすることできたとはちょっと思えません。本能寺の変が起きたとき、家康は堺を観光旅行していて、こんなところでのんきに滞在していては光秀の部下につかまって殺されるとびびった家康は、大和の山中や伊賀地方を越えて三河に少数の従者だけを連れて命からがらたどり着いています。もし、家康が黒幕だった場合、家康の脱出劇はやらせとかポーズみたいなものだったと言えますし、ある種のアリバイ作りみたいな話になりますが、この場合、当初はやらせのつもりが、家康が少数の供回りしかいないことは事実なわけですから、誰かに襲われて殺されてもおかしくはありません。で、真相は闇の中、死人に口なしというわけです。実際、家康と一緒に堺にいて、別ルートで脱出をはかった穴山梅雪はこのときに殺されています。そんなリスクを、あの慎重な家康がおかすでしょうか?できるだけ運任せの要素を排除しようとして生きた家康が、そんなことをするとは私にはとても信じられません。ですから、家康黒幕説は全くないと思います。

では次に、イエズス会黒幕説はどうでしょうか?イエズス会がキリシタン大名を通じて光秀を動かし、信長を殺させたというものですが、イエズス会は信長の理解を得て信徒を獲得していたわけですから、信長を殺す必要は全くありません。豊臣も徳川もカトリックを禁止しましたが、それくらい危険視されかねないことは多分イエズス会もわかっていて、信長のような理解者は実に得難いとも思っていたはずです。したがって、イエズス会黒幕説もないと思います。

次に秀吉黒幕説ですが、これはありそうに見えてやっぱりないと思いますねえ。というのも、秀吉が天下を獲るというビジョンを信長が生きているときに持っていたようにはちょっと思えないんですね。これは、私の推量でしかないんですけど、秀吉は天下を獲ったあと、それからどうしていいかわからなくなって甥の秀次を殺したり、朝鮮と戦争を始めたりと、常軌を逸したと思えるようなことをやっています。ですから、やっぱり、天下はなんだか降ってわいたように手に入ったけど、十分に準備できていたわけでもないというのが、透けて見えるような気がしてなりません。だから、この説は個人的にはなしですね。

そして、これはある程度ありうると思うのが、足利義昭黒幕説です。私は足利将軍であり、信長に徹底的に抵抗した義昭が信長を討てと光秀に命令した場合、光秀の心が多いに動いたとしても全く不思議ではないと思うのです。光秀はそもそも信長に義理立てする理由はそこまでないわけですし、足利義昭は名目上の将軍としての権威を保っていて、光秀にとってはもともとは足利義昭こそご主人様なわけです。ぽっと出の信長より、義昭の将軍としての権威の方が、はるかに光秀に対して説得力を持ったのではないでしょうか。それがすべてではないですし、義昭に遠大な構想があったとも思えませんが、光秀が本能寺の変を起こすための背中を押したということは十分にありうると思います。

それから、やはり外せないのが朝廷黒幕説ですね。十分にありうると思います。光秀にこっそり「やっちまえ。信長、やっちまえ」と吹き込むお公家さんたちがいて、光秀の心が動いたというものですね。光秀は教養のある人だったわけですから、お公家さんたちのありがたみをよく知っていて、歴史の知識が深ければ、信長がぽっと出だということもよくわかっているわけですから、朝廷の権威にひれ伏し、信長を殺す
決心をした、少なくとも背中を押されたということはあり得るというか、多分、そうだったんじゃないかなくらいに思えます。朝廷としては、前回も述べましたが、信長という不気味な男は殺してしまって知らぬ顔をしたいと思っていた可能性はありますし。ですから、光秀が信長を殺した後は、お公家さんらしく責任をとりたくないので、光秀を見棄てたとしても、あり得ると思います。

そのように思うと、朝廷と将軍という信長以前から存在した2つの権威の意向を受けて、まあ、光秀が忖度して本能寺の変を起こしたものの、その後のことについては朝廷も将軍もしれっと知らぬ顔を通したために、光秀は見捨てられて孤立したまま秀吉に敗れてしまったというのが真相だったのではないでしょうか。

以上は、私がそう思うというだけですから、今回も、歴史の謎について想像して楽しむという感じで受け取ってもらえればいいなと思います。今回は信長の死を扱いましたが、推理を楽しむことに力が入ってしまい、レクイエムという感じにはなりませんでした。しかし、これは信長がそれだけ凄い男であったということの裏返しですから、信長への賛辞であると、信長ファンの方には受け取っていただければ幸いです。




天皇と信長

信長が京都の支配者だった時代の天皇は正親町天皇です。正親町天皇は在位期間が30年ほど続き、かなり長く天皇として在位しています。平安時代、幼少期に天皇に即位して大人になるころには退位して上皇になるというパターンが普通でした。後白河天皇が30歳近い年齢で即位したとき、年齢的におじさん過ぎるために超異例であったと言われているほどなわけですね。天皇は、かわいい少年が似合うわけです。お雛様人形でも、お内裏様とお雛様はお若いからかわいいのです。で、大人になる前に退位したということは、天皇の在位期間も短いんですね。天皇を退位した後の長い人生をみんな充実して過ごしたいわけで、儀式や慣例にしばられる天皇という立場はあんまり長くやらなくてちょうどいい、というような感じだったんだと思います。

ところがですね、じゃ、どうして正親町天皇がこんなに長く天皇として在位したのか、しかもかなりのご高齢になるまで続けていましたから平安時代とは真逆な状態になっていたわけですけれど、なぜそうなるのかというと、要するにお金がなくて、代替わりのための儀式にかかるお金を節約する必要があったというわけです。古代、天皇家は名実ともに日本でもっとも裕福な人々であったわけですが、だんだん武士に歴史の主役を奪われていき、室町時代では足利幕府にいろいろ面倒を見てもらっていたのが、戦国時代になると足利将軍も息も絶え絶えという感じになって生活が厳しくなってゆき、その日の朝食にも困るというところまで追い詰められていくようになりました。

で、天皇陛下が即位される時にはいろいろな儀式があるということは、最近令和になったばかりですから、みんなよく知っているわけですけれど、儀式をやるにはお金がかかるわけですね。特に、新しい天皇陛下が即位されたばかりのときに行われる大嘗祭は、非常に大がかりで費用もそれだけ嵩みます。しかも、お金がなくて大嘗祭を省略したりすると、天皇としての完全性が疑問視されたりするので、なるべく儀式の省略とかは避けたいということになります。ということになってくると、新しい天皇が即位されるた場合、できるだけ長く天皇に在位していただかなくては困る、できれば一生、在位していただきたいということになってきます。そのほうが節約からですね。一人の天皇が長く在位すれば、その次の天皇にバトンタッチされるころには、新しい天皇もすでにちょっとご高齢、で、がんばって長く天皇に在位されると、次の天皇もまたちょっとご高齢で即位し、がんばって長く在位。というようなことになっていきます。正親町天皇がご高齢で長く在位されたというのは、そのような事情が続いた結果なわけです。

その正親町天皇と信長の関係は、ちょっと微妙なものがあって、両者は互いに無視するわけにはいかないけれど、かといって、そんなに信用していない、というような感じの状態が続きます。1573年に将軍の足利義昭が信長によって京都を追放されますが、その後、信長が将軍になったかというと、そういうわけではありません。もし本当に信長を将軍に任命しようということになると、義昭を強引に将軍職から解任し、足利氏とは血縁でもなんでもない、特に名門というわけでもない、金と兵隊だけ持っている信長という尾張地方から来た男を将軍に任命するということになりますから、手続き的にも心理的にも壁が高いわけです。かといって、関白職というのは五摂家が独占する職位ですから、信長を関白に任命するのも、なんかおかしい。太政大臣はもともと名誉職みたいなものですが、単なる名誉職なので、それでお茶を濁すにしては信長は力がありすぎるわけです。で、なんかおかしいということになります。それで、とりあえず信長は右大臣ということになりました。右大臣も十分に位人臣を極めたポジションではあるんですけど、飽くまでも天皇や関白のために実務を行う、行政官のトップのような感じですから、天下人信長とは、なんとなく釣り合わないんですね。源氏将軍が右大臣に任命されましたが、それは源氏将軍の立場が武士のトップであるというだけで、日本の支配者でもなんでもないという認識があったからです。一方、京都を制圧した信長は天皇の次あたりに迫ってきて当然の人ですから、右大臣は微妙なんですね。で、1578年に信長は右大臣を辞職してしまいます。その理由はわかりませんけれど、多分、微妙だったからなんじゃないかなと思います。信長としては、自分の実績にふさわしい地位なら受け取るけれども、右大臣のような微妙な立場を続けると、朝廷の手足で終わってしまうところに不満なり不安があったのかもしれません。その後、本能寺の変まで、信長は特に職位のない支配者という、分かったような分からないようような立場で居続けます。

現代風に言うと、会社の筆頭株主が経営陣をやめさせた後、自分が社長とかCEOとかに就任するわけでもないのに、社長のオフィスで仕事をしている、というような感じでしょうか。あの人はいったいどういう資格で社長室を使っているのか?との疑問は誰にでも湧くんだけれど、かといって、筆頭株主ですから誰も文句が言えないという感じでかなあと思います。

このような信長の動きは、正親町天皇とその周辺の朝廷の人々からは、極めて警戒すべきことのように考えられたはずです。この男は、右大臣では不満らしい。じゃ、何が狙いなのか?という疑心暗鬼も生まれたかもしれません。信長は延暦寺焼き討ちとかやる男です。延暦寺を焼き討ちする根性があるのなら、朝廷の御所を焼き討ちするのも厭わないかもしれない。実力行使で天皇家をつぶしにかかってくるかもしれないという不安が全くなかったとは思えません。その不安が決定的なものだったかどうかは、わかりませんが、関係者の誰もが、ちらっとは頭の中に思い浮かべたはずです。

しかも、信長は正親町天皇の譲位を求めたこともあって、こいつは天皇家をコントロールしようとしているのか?との疑念も抱かせたに違いありません。信長が正親町天皇の譲位を求めず、さらに長く在位することを求めたのではないかとの説もあるようなのですが、要するに信長は天皇人事に介入していたということになりますから、天皇人事に口を出す時点で、ちょっと危ないやつだと思われたはずです。なにしろ信長は無冠の帝王なわけですから。

そういうわけですから、信長に何らかの地位を与えようという動き生まれてきます。猫に鈴をつける、猛獣に鎖をつけるというわけです。天皇から与えられた役職を受けるということは、天皇のしもべとして朝廷に尽くすという意味です。ですから、信長みたいな巨人には、なんとしてもそういう誓いを立てさせておきたいと朝廷側は思うでしょうねえ。武田勝頼が織田信長と徳川家康によって滅亡させられたのち、信長に対して、朝廷の方から役職に関するオファーが入ります。征夷大将軍、関白、太政大臣、好きな役職を選べというものです。これを三職推任といいます。3つの職を推薦して任命するということで、三職推任というわけですね。

その話を聞かされた信長は即答せず、こんど京都へ行ったときに正式に返事しますんでお待ち下さいというような返事をしたそうです。で、朝廷に返答をするために本能寺に宿泊し、いよいよ翌日、朝廷へ行くという前に明智光秀に討たれてしまいます。

本能寺の変、朝廷黒幕説を支持する人は、このタイムスケジュールに着目するわけですね。信長が返答する前に殺してしまえと考えたということなわけです。

普通、征夷大将軍か関白か太政大臣か、どれか好きなのを選べと言われたら恐れ入って、素直にどれか選ぶと思うはずです。ところが、ちょっと待ってくださいと信長は言うわけです。信長のことだから、新しい注文をつけてくる可能性があります。で、それがどれほどの注文なのかは、予想がつきません。なにせ、これまでに信長は蘭奢待という正倉院の宝物である素敵な香りがする香木の破片を切り取らせたり、天皇家が使用する暦について、織田氏が使用している三島歴というものに変更するよう求めたりしています。蘭奢待の破片をくれというのは、かなり破格な要求なわけですが、暦の変更はさらに大きなインパクトがあります。というのも、暦の決定権こそがすなわち、日本の統治権と考えられているからです。暦によって今日が何月何日かが決められます。陰陽道的な占いも暦によって左右されます。お金や物を超越した、目で見たり手で触ったりできない究極の次元にあるパワーが暦の決定権で、それを持つのは天皇と決まっているわけです。信長は天皇の統治権に介入したとみなされてもおかしくはなく、即ち、信長は天皇の権威に挑戦していた可能性もあるわけです。もし、信長が本気だしたら金と兵隊は信長の圧勝ですから、やっぱり朝廷を焼き討ちされてもおかしくはない、あいつにはその能力だけでなく意思もあると判断されたとしても不思議ではないんですよね。

これまでに、蘇我入鹿、平清盛、足利義満あたりが天皇家の権威や統治に挑戦した結果、あとちょっとくらいのところで突然命を落とすという黄金パターンと言っていいようなものがありますねえ。というようなことは私も述べてきましたが、そのトリが信長という風に位置付けていいかもしれません。んー、やっぱり現代まで続いている可能性が雑誌『ムー』に指摘されている八咫烏の人たちがお仕事をされたんでしょうかね。どうなんでしょうね。本当のところは永遠に分かりませんけれど、そういうのを推理して楽しむという感じでいいと思います。


武田滅亡-レクイエム

武田信玄が病没した後、武田家中は複雑な思惑が入り乱れるようになっていったようです。というのも、後継者の勝頼のことを認めない家臣たちがいて、いっそのこと武田家を出て独立しようかという動きを見せる者もいたらしいんですね。部下に認められないリーダーというのは非常にいたたまれない立場になりますから、勝頼としても焦りを感じていたのではないかと思います。勝頼を心理的に揺さぶったであろう家臣に穴山梅雪という人物がいたのですが、彼は武田氏とは血縁関係でもある重臣なんですが、勝頼の下だったら、家臣なんかやめて独立した戦国大名になるもんねという姿勢を持っていたそうです。この男は武田氏が滅亡する時に織田・徳川連合のほうに寝返って武田滅亡に加担したのですが、本能寺の変が起きたどさくさの中で殺されています。裏切者を軽蔑する誰かが穴山を死に追い込んだとしても不思議ではないですね。

それはそうとして、武田氏滅亡の第一歩は、やはり極めて有名な戦国の合戦である、長篠の戦いの結果によるものでした。一般的に長篠の戦いでは、日本最強の騎馬軍団で突入しようとする武田軍に対して、織田・徳川連合軍は3000丁の銃を準備し、防御柵から銃口を出して銃撃して勝利したとされています。当時、銃に弾を込めて撃つのには時間を要したため、銃砲隊は三つに分かれ、前の隊が撃っている間に後ろの隊が弾を込めるというやり方を採用したとされています。しかし否定的な意見も多く、真実であったかどうかは誰にも分りません。重い銃を扱う兵隊の体力的な問題や、熱く銃身の耐久性の問題などから疑義が呈され、この有名な三段撃ちはそんな長時間できるものではないとも言われています。何十年も前に制作されて『ズール戦争』という映画があるんですが、この映画ではアフリカの植民地にいた少数のイギリス軍部隊が現地のアフリカ人部族に包囲され、兵力差100倍かそれ以上か、というような戦いになるんですけど、イギリス側の将校は兵隊たちに三段撃ちをさせていました。ですから、三段撃ちというやり方は決して突飛なものではなく、銃に対する理解のある人物が頭をひねれば思いつく範囲のアイデアではないかと思いますけれども、まあ、今はそういうわけで、信長が三段撃ちさせたかどうかは微妙な問題になっているわけですね。仮に三段撃ちしなかったとすれば、最強騎馬軍団をを相手になんで信長が圧勝したのかという疑問が湧くんですけれど、津本陽さんは長篠の現場の様子を見て、土地があまりに狭隘であるため、馬がまっすぐ突っ込んでいくという戦法は困難だっただろうから、信長は若さゆえに焦る勝頼を長篠におびき出してつぶしたんじゃないかとの見解を書いていました。私はなるほどなあと、結構納得しましたねえ。

で、ですね、泣く子も黙る武田騎馬軍団はほとんど全滅に近い負け方をしました。武田軍はだいたい2万人くらい兵隊がいたらしいんですが、戦死者は1万2000人に及んだそうです。基本的にそれらの戦死者は織田・徳川陣営に突っ込んでいって亡くなっています。つまり、どんなに犠牲が出ても、武田の騎馬武者が敵陣に突っ込みさえすれば勝てるとの確信があったため、とにかく敵陣に乗り込むまで突っ込み続けたということだったんでしょうねえ。一部、敵陣に入るのに成功したらしいのですが、全体としてはたどり着く前に倒れてしまったようです。

武田軍は命からがら帰っていったわけですが、武田勝頼の本領はむしろこの時から発揮されたという面もないわけでもありません。なにしろ、それから7年間も彼は武田氏を守りました。完全敗北したにもかかわらず、信長・家康が一気呵成に攻め込むのはためらう程度に領国を守ったんですね。

信長は朝廷に働きかけ、武田勝頼を朝敵に認定させます。信長は一方で勝頼とも和平協議もやっていましたから、和戦両線というわけです。しかも、朝敵認定というやり方は、心理的な動揺を誘うものですから、なかなかに巧妙とも言えますが、信長がそんなことまでしなければならないと思うほど、勝頼はよわっちくはなかったということの裏返しとも思えます。

1582年2月、織田・徳川連合軍が武田領に侵攻を開始します。武田軍は有効な反撃ができないまま混乱に陥ってしまったと言われています。しかも穴山梅雪が徳川家康の方についたため、武田側では勝利を確信できない兵隊たちの逃走も相次いだようです。

武田勝頼と家族・郎党の一行は逃走中に滝川一益に追いつかれそうになり、自害して果てました。その時の心境を想像すると、本当につらいですね。せめて死に際が穏やかであったことをのぞみます。主君を裏切った穴山梅雪はその数か月後に殺されていますが、ざまみろとかちょっと思っちゃいます。鎌倉時代から続いた武田氏はこのようにして滅亡したというわけですね。

本能寺の変は同じ年の6月に起きています。徳川家康は武田討滅の祝賀のために京都を訪れて信長に会い、さらに堺へ観光旅行に出かけていた最中に本能寺の変が起きたというわけです。このとき、家康と一緒に穴山梅雪もいたんですが、とにかく故郷へ脱出して帰ろうという最中に殺されているわけで、謀殺されたんじゃないかなという疑いを抱きたくなるシチュエーションで穴山は死んでいます。家康も心の中では穴山を軽蔑していたに違いないですから、殺しちゃっていいよ。とか思っていたんじゃないかなという気すらしてきますね。

武田氏を滅亡させることは、信長・家康にとって悲願でしたから、ようやく達成されたというわけですが、武田滅亡直後にこんどは信長が死に、家康が死にかけたわけですから、実に絶妙なタイミングで物事が動いていったという気がしなくもありません。武田氏という非常に大きな存在から身を守るのが織田・徳川同盟の主たる目的でしたから、もはやこの同盟はそこまで必要ではありません。信長と家康が互いを敵として認識し始めたということはなかっただろうかと私は想像してしまいます。第二次世界大戦でベルリンが陥落した後、西からドイツに入ったアメリカ軍と東から入ったソビエト軍が出合い、すでに心の中では、次の敵はこいつだなと互いに思ったという話がありますが、そういったものが信長と家康の間にも漂ったのではないでしょうか。ちょっと深読みしすぎかもしれませんけれど。



浅井長政‐信長の友達だった男の話

近江地方に勢力を築いた浅井氏は、地理的に隣接する六角氏との抗争の種を常に抱えていました。浅井氏は越前の朝倉氏と代々の同盟関係を維持していましたが、六角氏と朝倉氏は離れているため、六角対策としてはそこまで機能しているとも言い難く、織田信長の妹であるお市と浅井長政が婚姻関係を結ぶことによって織田・浅井同盟を結ぶことは、渡りの船みたいな、願ってもない、いい話だったように思います。信長にしても、浅井との同盟は非常にメリットの大きいものでした。当時、足利義昭を養っていた織田信長は、義昭を将軍にするための上洛を模索していましたが、信長のいた岐阜から京都へまでの途中に浅井も六角もいるわけで、手なずけるなり、つぶすなりしなくてはいけません。浅井を手なずけて六角をつぶすというのは、一つの戦略と言えるでしょう。浅井と六角だと浅井の方が強いことは確かなので、強いほうと同盟して弱いほうをつぶすというわけです。それでも簡単につぶれなかった六角は、それはそれで見るべきところもあると言えるでしょうねえ。

さて、浅井長政が織田信長と同盟を結ぶにあたり、一つだけ気がかりなことがありました。それは、もし織田と朝倉が戦争したら、浅井はどうすればいいのかという問題です。一番いいのは織田と朝倉が戦争しないことですが、こればっかりは浅井が決められることではありません。信長は、もし朝倉と戦争する場合は、事前に浅井に知らせると約束し、それで浅井も了解して同盟は成立し、信長は安心して京都に入り足利義昭を将軍にして、事実上の天下の頂点に立つことができました。足利義昭を手なずけている限り、信長は義昭の名を使って日本中の武士に命令することができるのです。事実上の最高権力者なのです。で、朝倉義景が京都まで挨拶に来ないので、信長は朝倉を攻撃することにしました。そしてそのことを浅井には伝えていませんでした。信長が約束を破ったのです。この件について信長なりの言い訳がないわけではありません。仮に領地争いのようなことで、朝倉と戦争する場合、それは私的な戦争になるわけですから、浅井に、そういうわけで了解してくださいと一言入れるのが筋ではあるけれど、朝倉義景が京都の将軍に挨拶に来ないのを討伐するのは公的な仕事なのだから、浅井長政に一言入れる義理はないというわけです。言うまでもないことですが、浅井長政はそんなことで納得することはできません。

浅井長政は信長をとるか、朝倉をとるかついて相当に悩んだでしょう。同盟のつきあいの古さをいえば、朝倉との同盟の方がはるかに長いので、朝倉をとるべきですが、浅井長政はお市の方との関係がよく、政略結婚であったにもかかわらず、二人は本当に愛し合っていたらしいのです。ですから、愛する奥さんの実家と戦いたくないという気持ちもあったはずです。結論として彼は朝倉との同盟を優先することにしました。愛情関係よりも義理や信頼を選んだというわけですね。

信長が3万人の兵隊を連れて朝倉領へ向かった時、浅井長政は信長に反旗を翻しました。浅井と朝倉に挟み撃ちにされる状況になってしまった信長は兵隊たちを見捨てて脱出します。信長が殺されたら駿河の今川氏みたいな運命をたどることになりかねないため、信長脱出は正しいですが、同盟者の家康も見捨てられたらしく、自分でなんとか脱出したみたいです。家康と信長の関係を見ると、家康が完全になめられていたことがよくわかります。

当時、信長は袋のネズミ状態になっており、敵は武田信玄、浅井長政、朝倉義景、石山本願寺、将軍足利義昭と、戦国のオールスターのお出ましです。そうそうたる顔ぶれと言えるでしょう。普通に考えれば、織田信長が殺される番です。ところが、信長包囲網の最も強力な武将である武田信玄が陣中で病没し、武田軍が信長包囲網から脱落しました。信長は足利義昭との関係修復を模索しましたが、義昭がかたくなに拒否したため、やむを得ず彼を追放します。石山本願寺とは持久戦ですが、まあ、包囲していればいいわけですから気は楽ですね。となると、残るは浅井・朝倉なわけです。信長し大軍を率いて出陣し、浅井を攻めます。朝倉義景が救援のために出陣してきましたが、浅井と朝倉は連絡を取り合うことができず、おそらくは朝倉義景が怖くなってしまったのだと思いますが、朝倉軍が撤退します。信長は背後から襲い掛かり、2万の兵力を擁した朝倉軍は壊滅し、朝倉義景は血縁の者に裏切られて命を落としています。

そしていよいよ、信長はじっくりと浅井長政を叩き潰すことにしました。すべての敵をつぶしてきた信長に浅井長政が対抗することは現実的にはあり得ません。浅井長政は死を覚悟したはずです。小谷城に織田軍が突入し、まるで第二次世界大戦の時のスターリングラードの戦いとか、ベルリン攻防戦みたいに、壁一つ、部屋一つを奪い合うような白兵の激戦が展開されたようです。戦いの最中、織田軍から何度も浅井氏に対する降伏勧告があったらしいです。しかし、浅井川は受け入れず滅亡を選びました。小谷城は本丸以外が信長軍の手中に落ちたという段階で、長政の妻で信長の妹であるお市と、お市と長政の間に生まれた三人の娘たちが織田軍に引き渡されました。その間、短時間とはいえ休戦状態になっていたと思いますが、もし実際にその場にいれば、極めて劇的な場面であったに違いありません。ドラマでこの場面を再現しているのを見たことはありますが、真実味のある映像にすることは非常に難しいのではないかと思いました。この時助かった3人の娘たちがそれぞれ時代の有力者と結婚し、時代を作っていきます。ずいぶん前に中国映画に『宋家の三姉妹』というのがあって、神保町の岩波ホールでみましたんですが、三姉妹が孫文と結婚したり蒋介石と結婚したりというわけで、ドラマチックな人生を歩んだ姉妹を注目している映画なんですね。浅井長政の娘の三姉妹もそんな感じですよね。この娘たちの中には、後に秀吉の側室として秀頼を生み、徳川家康に殺される淀殿もいました。二代将軍徳川秀忠に嫁いだお江もいたわけです。凄い三姉妹です。

お市と三人の娘が引き渡されたのち、戦いが再開されましたが、浅井長政が自害して戦いは終了しました。浅井氏滅亡…というわけではありません。実は浅井氏はもうちょっとだけ長く続きました。織田信長もすぐに気づきましたが、浅井長政には三人の女の子のほかに、男の子が二人いたらしいのです。男の子はどこへ行ったのかということが問題になりました。懸命な捜索が行われました。浅井氏の息子が生きていれば、将来、源頼朝みたいに復讐してくるかもしれません。浅井を根絶やしにしなければならないというわけです。二人の男の子のうち上の子はほどなく発見され、非常に残酷な手法で殺されたとされています。弟の方は出家してお坊さんになったと伝えられています。

浅井長政が死に、その父親の久政が死に、長政の息子も死に浅井氏は完全に滅亡させられたわけですが、信長はそれでもまだ納得できませんでした。浅井長政と久政の頭蓋骨に金箔を塗り、インテリアの装飾みたいにしてしまったらしいのです。頭蓋骨に金箔を塗って、そこにお酒を入れて杯にしたともいわれますが、さすがにそこまでやってないという説もあるので、そこは保留ですけれど、死者の頭蓋骨をインテリアの装飾みたいにして見せものにしたというエピソードからは、信長がいかに浅井長政に執着していたかを想像することができます。

信長は浅井長政に反旗を翻されたことが辛くてならなかったに違いありません。私は信長の心境を想像するに、浅井長政に対しては友情を感じていたような気がしてなりません。何度も降伏勧告をしたのも、友達と仲直りしたいからです。にもかかわらず、浅井長政は仲直りするくらいなら死んだほうがましだという姿勢を貫きました。信長を徹底的に侮辱したわけですね。ですから、信長の方でも、長政の頭蓋骨をインテリアデザインで装飾するという形で、友情を受け取らなかった長政に仕返しをしたのです。ただし信長はむなしかったに違いありません。どんなに長政の死体を侮辱したとしても、長政は死んでいるわけですから、長政には伝わらないのです。死体への侮辱は、単に信長の自己満足でしかあり得ないのです。信長は神仏を恐れないというスタンスでやっていたわけですから、こんなことで宗旨替えするわけにもいきません。

浅井長政の当時10歳の息子を殺したというのも、非常に残酷です。平清盛は確かに頼朝と義経の命を助けましたが、普通、近代以前であっても、父親が戦争に負けたからと言って、息子が必ず死ななくてはならないというものではありません。お坊さんになるとかして、現実政治に関わらないということが分かれば命くらいは助けるのが普通です。清盛が源氏の息子を助けたということには寛大さや人道的な優しさの発揮があったと思いますけれど、かといって、頼朝と義経を殺すというのも残酷すぎて当時の人の感性から言っても受け入れがたいものだったはずです。ですから、清盛の方が普通なのであって、信長の方が異常なのだと私は思います。滅ぼした相手の息子さんなら、むしろ引き取って大切に育ててやるくらいの寛大さや度量は必要です。冷酷なリーダーでなければ生き残れないかもしれませんが、優しいリーダーでなければ生き残る資格はないと言えるでしょう。

浅井長政のことは信長の人間的な弱さのいったんを垣間見ることができます。結構、粘着質で、不本意なことが起きた時にそれをLet it goできないという人格的な問題を抱えていたように思えます。彼の粘着的な性格は足利義昭とのやりとりでも垣間見ることができましたし、これまでにも何度か触れてきましたが、信長は桶狭間の戦いに参加したメンバーを偏愛する傾向があって、それもやはり人間関係に対する粘着的な性格が反映されているのではないかと思えます。

友達って、大切です。私にとっても大切です。友達は大切にしましょう。



足利義昭-信長を最も困らせた男

室町幕府最後の将軍である足利義昭は、織田信長をとことん困らせた男としてその名を歴史に残しました。今回は義昭の前半生を簡単に確認し、どんな風に信長を困らせぬいたかを見てみたいと思います。

もともと義昭は将軍になる予定ではありませんでした。彼の兄である足利義輝が13代将軍に就任しており、権力者の家でよく見られたことですが、後継者争いに発展することを避けるため、義昭は出家してお坊さんになっていました。奈良の興福寺で修業していましたが、将軍の弟なわけですから、それはもう大切にされて不自由のない生活を送り、傲慢な性格で成長したそうですが、まあ、それだけったら、傲慢な人なんていくらでもいますし、どうってことはなかったんですよね。足利将軍でもっとも傲慢だったのは足利義満かもしれませんけれど、義昭は義満ほど頭が切れたわけでもないので、単に性格の悪い僧侶にすぎなかったわけです。権力ゲームが好きな人でしたから、興福寺の中で権力争いしたかもしれませんけど、それってコップの中の嵐ですから、歴史に名を遺すこともなかったでしょう。ただし、彼の性格がそこまで困ったちゃんになってしまったのは、将軍家に生まれながらお坊さんという禁欲生活を強要されたことへの激しい怒りみたいなのがあったのかもしれません。そこは同情すべきポイントかもしれませんね。

で、このまま一生をお寺の中で終える予定だった義昭ですが、人生が急展開を迎えます。兄の将軍足利義輝が白昼堂々殺害されるという大事件が起きてしまいました。義輝は二条城で仕事をしていたのですが、そこを実質的に京都を支配する三好一族の軍隊に囲まれてしまいます。足利将軍は応仁の乱以降、形式的な権力しか持っておらず、力のある武士の言いなりで、当時はそれが三好さんだったというわけなんですが、義輝は脱三好を画策し、上杉謙信に協力を求めたりしています。上杉謙信が本気出して京都に攻めてきたら三好一族なんて弱小すぎてあっという間に蹴散らされてしまいますから、三好さんとしても義輝を止めるにはどうしたらいいか真剣に考えたんでしょうけど、殺すのが一番早いということになったんでしょうね。で、二条城を白昼包囲して義輝を殺害したわけです。義輝は剣術の名手として知られていましたから、相当に善戦したともいわれていますが、僅かな側近とともに軍団を相手にしたわけですから勝ち目はありませんでした。角川映画で高倉健さんが薬師丸ひろ子を背負いながら敵軍と戦うというのがあったと思いますけど、その映画では戦車とか機関銃とか持ってる一個大隊みたいなのを相手に高倉健さんが一人で戦うんですね。で、最後は勝つかどうかわからないまま終わるので、ああ、きっと健さんはやられちゃったんだろうなと観客は想像するわけですが、まあ、それくらいの戦力差だったと思います。義輝はランボーなみに優秀だった可能性がありますけど、戦力差が凄すぎて限界があったんですね。本当に気の毒です。

で、義輝殺害事件の余波が義昭にも及びました。義昭は監禁されました。傀儡として擁立された可能性もありますが、殺された可能性も十分にあります。義昭の弟で仏門に入った人はこの時に殺されています。そして義昭は脱出に成功しました。足利将軍家の家臣たちが、義昭だけは守らなければならないと考え、義昭を助けたわけです。彼らの思いを考えると胸が熱くなります。

そして義昭は越前の朝倉義景のところへ身を寄せ、その後、織田信長へと頼る相手を変えています。信長のところへ身を寄せる際、朝倉義景のところにいた明智光秀が一緒についてきて、光秀は信長と義昭の両方の家臣という特殊なポジションを築いていきます。義昭が将軍に就任すれば、全ての武士は義昭の家臣ということになりますから、信長の家臣であると同時に義昭の家臣というのは論理的には成り立ちうるわけです。あんまり現実的ではないという面はありますけれど。このような明智の特殊な立場はのちに本能寺の変を決心する大きな要因になったであろうと思います。一途に信長への忠誠心を保つ義理は明智にはないんですよね。

で、それはそうと、義昭と信長の関係は非常にいいものでした。義昭は信長を兄のように慕い、信長も義昭への敬意を常に払っていたようです。信長は義理堅いところがあって、義昭にも義理堅く接していたみたいなんですね。信長が大軍を率いて京都に入り、三好一族は京都を脱出します。当時、三好一族の傀儡だった十四代将軍がいたんですけど、その人も逃走し、間もなく亡くなっています。

そして義昭は信長の武力と財力を背景に朝廷から将軍に任命されます。命からがら興福寺を脱出し、長年京都の外を放浪していた彼は、ついに念願を果たしたというわけです。義昭は信長への感謝の気持ちが非常に強いですから、信長に副将軍のポジションをオファーします。信長は断っています。信長は義昭の協力者という立場を貫いていて、頼朝にとっての北条氏みたいな感じになると思うんですけど、もし副将軍を受けてしまうと、義昭の直接の家臣という立場になりますから、忠誠を誓わなくてはいけません。信長はそれを避けたかったんだろうと思います。

義昭からすれば、え?こいつ、副将軍を受けないの?どういうつもり?と信長の真意を測りかねたに違いありません。信長経済や貿易に有利な地点で活躍することだけを望み、それ以外の野心をかなえようとはしませんでした。発想法が普通の戦国大名とは全然違うので、義昭に具体的な利益を与えてもらおうとか思ってないんですね。ただし、義昭は政治的には極めて有効なカードですから勝手に動くのは困ります。信長は義昭に対し、自分の同意なしに政治の仕事をすることを禁じました。将軍には全国の武士に対する命令権があるわけですが、命令書を出すという場合、必ず信長の同意を得ることとしたわけです。

義昭は激怒しました。義昭は信長の人形であると宣言されたようなものです。法的に信長には義昭を拘束する権利はありませんでしたから、あくまでも両者の紳士同盟という形でしか合意はできないんですけれど、信長にはお金と兵隊があって、義昭にはないわけですから、義昭は信長のいうことをきくしかないわけです。ですが、義昭という人は傲慢でわがままな人間として歴史に記憶されているような人ですから、信長との約束は平気で破っています。それどころか信長を殺せと全国の有力な武士に向けて命令書をこっそり発行しています。信長の知らないところで発行されたものですが、法的には十分に有効な命令書です。

この時、信長は下手をすると平安末期の平氏みたいに各地から攻め込まれて滅亡するリスクをも抱えざるを得なくなってしまいました。しかも、困ったことに信長が最も恐れた武田信玄が義昭の命令書で決心を固め、京都へ向かって進撃を始めました。まともにぶつかったら殺されるかもしれない相手ですから、信長は人生で最大の危機を迎えたと言っていいかもしれません。信長包囲網が形成されていました。信長の妹のお市をお嫁さんにして同盟を結んでいた浅井長政も気づくと敵についています。浅井長政は朝倉義景と同盟関係だったんですが、信長が朝倉へ攻めて行ったためにどちらに着くか選択しなければならず、付き合いの長い朝倉義景を選びました。浅井長政はきっと律儀でまじめな性格だったんでしょうね。

というわけで、信長は絶体絶命でしたが、徳川家康を精神的にめちゃくちゃにした武田信玄が信長の領地へ入ろうかという段階になって、なんと病死します。信長包囲網に参加していた人たちは武田信玄を頼りにしていたわけですから、武田軍が黙々と撤退していったことに大きなショックを受けたはずです。義昭は信玄が死んだことも知らずに挙兵し、ひっこみがつかなくなってしまいます。信長はなんとか義昭との関係を修復しようと努力しますが、義昭は拒否しました。信長はやむを得ず義昭を追放します。信長は義昭を殺す決心ができなかったんでしょうね。信長は恐ろしい人というイメージがありますが、人間関係にはナイーブな面があって、義昭に対してもナイーブさがあらわれていたように私には思えます。ただし、義昭の判断は正解だったとも思います。もしこのとき、情に流されて信長と和解した場合、あとで暗殺される可能性がありますから、人は決断すれば振り返ってはいけないのです。信長と戦うと決心した以上、義昭はたとえ追放されても受け入れて戦うしかなかったと思いますね。結局、義昭は毛利氏に拾われて、そこで亡命政権を作りますから、南北朝時代の南朝みたいな感じになって義昭は持久戦に入ったと言えます。そして信長よりもうんと長生きして歴史の生き証人みたいになっていきますから、信長と義昭のどっちが勝ちかといえば、案外、義昭の勝ちだったのかもしれません。信長と義昭のどっちに生まれたいかという設問があれば、たいていの人は信長と答えるでしょうし、私も信長の方がいいですが、どっちが勝ったかと設問すれば、答えは分かれるのではないでしょうか。義昭が明智光秀に信長殺しをけしかけた可能性は指摘され続けてきました。想像ですけど、光秀は、そういった命令の書かれた手紙くらいは受け取っていて、彼が最終決心をする際に背中を押した可能性は十分にあるわけです。義昭の命令で本能寺の変が起きたとすれば、義昭の最終勝利ということなのかも知れませんね。

以上のようなわけですから、足利義昭という人は、別に優秀でもないし、性格も悪いので全然、憧れたりしないんですけど、でも、信長を最も困らせた男という意味で、ある種のすごみを感じなくもありません。お寺のお坊さんから将軍、そして亡命政権の樹立ですから、なんとも忙しい人生を送った人だとも言えそうですね。



武田信玄陰険伝説

武田信玄は戦国武将の中でも特別有名な人物だと言えますが、彼がそこまで著名な理由の大きな要因は織田信長、徳川家康という二人の天才が強いプレッシャーを感じた相手がこの武田信玄だったということにあるのではないかと思います。私は以前、学生から、好きな戦国武将は誰かと質問され、武田信玄と答えたことがあります。これから武田信玄のことをめちゃくちゃ言いますけれど、基本的には信玄への愛があるのだと思っておつきあいいただければ幸いです。

信長と家康が同盟を維持し続けたのは、武田信玄に対抗する必要があったからですし、武田信玄が晩年に於いて織田信長を討つために京へ向けて出発したときは、やはり信長、家康そろって、これはもしかすれば万事休すかと恐怖を感じたに違いないと思いますから、まあ、それだけでもすごいわけですよね。

武田軍は日本最強騎馬軍団を持っていて、負け知らずと評価も高いですから、さぞ、武田信玄もすごい人、一度はあってみたい、オーラの光るカリスマみたいに想像してしまいますが、彼の人生をたどってみると、性格は陰湿で、内面には相当に鬱屈したものを抱えていたに違いないとどうしても思ってしまいます。

たとえば、非常に有名な話ですが、彼はまず父親の武田信虎を追放しています。クーデターを起こし、隣の今川領に追いやって、信玄は死ぬまで信虎を受け入れることはありませんでした。信虎はその後京都に行ったりして第二の人生をエンジョイしていた時期もあったようなのですが、信玄が死ぬと武田領に呼ばれ、楽隠居として晩年を過ごします。武田氏が信長に滅ぼされる前に天寿を全うして他界していますから、信虎は結構、運のいい男とも思うのですが、注目したいのは、信玄が信虎を殺していないということです。その気になったら殺すチャンスはいつでもあったと思いますが、おそらく、幼少期から信虎にいじめられ続けたに違いない信玄に信虎を殺す勇気はなかったのでしょう。それだけ信虎への鬱屈した気持ちは強かったのだろうとみることもできると思います。殺してしまったら、憎むことができなくなっちゃうので、殺さなかったのかもしれません。

信玄は近しい人物と激しく対立した面を持つ人ですが、特に激しかったのは、彼の父親との対立よりも、むしろ息子との対立と思います。後継者と目されていた義信が謀反に参加していたとの疑いをもたれます。信玄は彼をお寺に幽閉したのですが、なんと幽閉期間は2年に及び、義信はそのお寺でなくなっています。父親に殺されたと見るべきだとは思いますが、仮に直接に手を下されていなかったとしても、2年も幽閉されたら心身がおかしくなって当たり前ですから、自殺であろうと病死であろうと信玄が殺したようなものといえると思いますね。

結局、信玄の後継者は正室の三条の方の生んだ男子ではなく、側室の諏訪一族の女性に産ませた勝頼ということになったのですが、こんなことをすると伝統ある甲斐武田氏の古い家臣たちはついてきません。三条の方は京都のお公家さんの娘さんですから、その血筋の高貴に誰もが納得しており、三条の方の生んだ息子さんだったら文句はないわけですが、勝頼の母親は武田氏によって滅ぼされた諏訪氏の女性なわけです、俺たちが滅ぼした家の娘さんの生んだ息子が主君ってか?そんなのありかよ?という不満がわいてくるんですね。今なら血筋で人間を判断することは許容されませんが、当時は本人の努力や個性よりもまず血筋です。ですから、勝頼は血筋的にあんまりぱっとしないんです。そういう勝頼を後継者にしてしまうと、お家騒動の元になりますし、勝頼本人も苦労します。勝頼はかなり優秀な人物だったらしいですから、信玄の後継よりも、独立させて好きにさせたほうがもっと凄い実績を残したかもしれません。

信玄の陰険さは外部との戦争にも表れています。たとえば、駿河の今川氏ですが、織田信長との戦いで今川義元が死んだあと、どうしても今川氏はぱっとしないわけですね。で、だったら、もらっちゃおうということで、三河の徳川家康に話をもちかけ、三河と甲斐の二正面から駿河を攻略し、今川氏を滅ぼして家康と信玄は旧今川領を二分しています。家康はちょっと前まで今川軍団のメンバーでしたから、そういう男に今川を攻めさせるっていうのは、結構、陰険なやり口なわけです。今川にとっては弱り目に祟り目です。しかも、関東甲信越地方は上杉謙信に対抗するために武田、今川、北条で三国同盟を維持することが基本姿勢でしたから、まあ、そういったこれまでの経緯とか全部無視して、関係者みんなが傷つくことを承知で、やっちゃうわけです。すごいですよね。血も涙もないですよね。

そのような武田信玄には、徳川家康もひどい目にあわされています。三方ヶ原の戦いでは、武田信玄が家康の軍隊を待ち伏せして壊滅させていますから、赤子の手をひねるようなものというか、まだ若い家康をもてあそぶという残酷な心理も見え隠れしています。

さて、武田信玄が家康をいじめることになった理由は、織田信長を殺す目的で甲斐を出発し、途中で家康の領地である三河を通ったからですが、信玄に狙われた信長は、信玄には勝てないとの自覚があったので、かなりのプレゼント攻撃をしかけていたようです。信玄の好きなものを調べて、それを甲斐まで送り届けていたみたいなんですね。で、信玄に漆塗を贈ったとき、信玄は漆を削らせて、どれくらい厚く漆が塗られているかを調べさせたそうです。想像以上にたっぷりと漆が塗られていて、信玄は信長を称賛したそうですが、もらった漆塗りを削らせるって、その発想が陰険ですよね。しかも、最高級の漆塗りをもらうだけもらっておいて、やっぱり信長を殺す決心をするわけですから、知れば知るほど、いやなやつです。

ですが、戦場に奇跡が起きました。織田信長と戦う直前、武田信玄は陣中で病死し、武田軍は黙って甲斐へと引き返します。戦国最強の大軍団が静かに帰途に就く様子は風の谷のナウシカでオームたちが森へ帰っていくくらいの迫力のある絵になったことでしょうね。信長は自分の強運に自信を持ったに違いありません。信長が最も恐れた男である武田信玄が、いよいよ本当に信長を殺そうとしていた、その直前になって、病死するんです。ほとんどフィクションみたいな話です。

武田信玄が信長を殺そうと決心した理由には、将軍足利義昭からの命令ということもありますが、信玄が仏教を熱心に信仰しており、信長の一向宗門徒の虐殺や延暦寺焼き討ちを看過できなかったという話もありますよね。信長からすれば、信心深い信玄が志半ばで倒れ、罰当たりのはずの自分が完全勝利するんですから、神仏なんか、存在しねえと確信したとしても無理からぬことかもしれません。それでも、ある時、魔が差したようにして明智光秀にやられちゃうわけですから、人間の運命とは不思議なものです。

私たちは戦国時代に生きていませんから、命のやりとりをする必要はありません。運命は不思議なものだから、がんばっていればきっといいこともあるよ、と、よりよい未来を信じてがんばりましょう!



信長と家康-忖度と憎悪

今川義元が桶狭間の戦いで戦死した後、今川軍は駿河地方へと帰って行きますが、松平元康、後の徳川家康はもともとの自分の領地である三河地方にとどまり、独立を果たします。そして信長と清州同盟を締結し、戦国大名としての人生を歩むことになります。最終勝利者である徳川家康の第一歩という点で、メルクマールなできごとであったということができるでしょう。

しかし、清州同盟を結んだ時の徳川家康がそこまで喜びに満ちていたかと想像すれば、おそらくそのようなことはなかったでしょう。桶狭間の戦いが行われる以前の彼は今川氏に隷属している状態でした。厳密に言えば今川の家臣ではなく、れっきとした大名の息子ではあったわけですが、事実上は今川氏のところで育てられ、もし実家が裏切ったらいつでも殺される運命にあるという、かごの鳥みたいな人生を送っていたわけです。いわば、三河地方は法的なオーナーは松平氏ではあったものの、実質的には今川氏の植民地みたいになっていたわけですね。そして今川が撤退して織田と同盟したわけですが、これって実質的には織田の植民地になったということを意味しています。家康からすれば、それまでのご主人様が今川だったのが、ご主人様が変わったというだけのことにすぎません。しかも、今川氏が家康のために様々な教育を施し、お嫁さんまで与えてあげたのに対し、信長は家康を駒として利用することしか考えていなかったようですから、家康としては内心しぶしぶだったのではないかと思います。前回にも述べましたが、信長は桶狭間の戦いの時に味方だったメンバーだけを身内と考えていて、それ以外の家臣は捨て駒でしたが、家康は桶狭間の時は今川サイドの武将だったわけですから、ベストメンバーには入っていないわけです。

それでも家康は織田信長と同盟することで安全保障上、大きなメリットを得ることができました。最大のメリットは織田に対して従属的な立場でしたから、信長に狙われる心配がないというものです。日米安保の最大のメリットはアメリカに敵認定されないことだというようなことを言っている人がいましたが、織田と徳川の同盟も同じで、家康にとっては信長に敵認定されないというメリットを享受することができたわけです。具体的には尾張方面の防衛を心配する必要がありませんでしたから、今川と武田信玄のサイドへの防衛について考えさえしていればよく、それだけ楽だったということができます。武田サイドも家康の実力を認めていたからこそ、今川を攻略して分けませんか?などの打診もしてきたのだということができるでしょう。もちろん、家康の実力とはすなわち、信長が後ろ盾にいるという事実そのものであったわけです。清州同盟の非常に大きな役割としては、織田と徳川が連合しているために日本最強と言われた武田サイドが慎重になって攻めてこないというもので、家康的には非常に助かったはずですが、裏返すと武田がもし滅亡すれば、不要な同盟にもなるわけで、そういう消極的な同盟でもあったということもできそうに思います。

清州同盟が成立してからしばらくの間、三河・尾張地方は信長と家康による平和が生まれ、そこに武田も参加することで、戦乱からは逃れられるという大変に安定したいい状態が続きました。しかし、もともと積極的に京都へ進撃しようとはしていなかった武田信玄が、足利義昭の命令を受けて京都へ向けて進撃を開始し、一機に日本で最も危ないバルカン半島みたいな地域へと変貌していきます。

2万人とも4万人ともいわれる大量の兵隊を率いた巨大な武田信玄の軍は、甲斐・信州を2つに分かれて出発し、後に合流して三河の徳川家康の領地に入ります。家康の居城の前を悠々と通り過ぎたことは非常に有名です。武田信玄にとって、主敵は信長で、家康は全く相手にしていないというわけです。家康は面子にかけて武田信玄と戦うことを決心し、城を出て戦ったのが有名な三方ヶ原の戦いですね。家康の軍隊が少数でやや散開しながら武田信玄の軍隊を追尾したところ、武田サイドは丘を越えた向こう側で密集した状態で家康たちを待ち受けており、少数で分散していた徳川軍は多数で集中していた武田軍に短時間で壊滅的な打撃を与えられたと言われています。

徳川家康も殺されかけましたが、ギリギリセーフでお城に帰り着き、その時の自分の軽挙妄動を反省する目的で絵師を呼び、恐怖で震える自画像を描かせたというのは非常に有名なエピソードです。

日本最強の武田信玄は、家康を追い払った後、織田信長を殺すつもりで進撃を続けるつもりでしたがその途上で病死し、甲斐地方へと引き返していきます。黒澤明監督の影武者という映画では武田信玄は徳川軍の狙撃手の銃撃を受けて戦死したものの、その死を秘匿するために仲代達也さんを信玄の影武者として起用したというのがこの映画の主たる筋なわけですが、実際的な死因はともかく、信長にとっては絶妙のタイミングで信玄がなくなったことは確かであったと言えます。ちなみに黒澤監督は当初、勝新太郎さんを主役にこの映画を撮影するつもりでしたが、途中で喧嘩になってしまい、やむを得ず主役を仲代達也さんに変更したそうです。この映画では影武者なのにみんなに愛されるという人の心を描こうとしたところがあって、そうするとカツシンの愛嬌みたいなのを黒澤監督は期待していたと思います。実際に映画を観たところ、そういう愛されキャラを仲代達也さんもやっていますが、天真爛漫な感じが似合うカツシンの方がはまり役だったのかなあと思わなくもないですね。仲代さんだとちょっと考えすぎな感じになってしまいそうな気がします。

それはそうと、武田信玄が死んでも、武田勝頼が後を継ぎ、日本最強の武田軍団は手付かずで生きています。しばらくして長篠の戦いで武田軍は壊滅的打撃を受け、中部日本の勢力図が大きく書き換わっていくことになるのですが、そのような状況下で、家康の長男の信康が武田サイドと内通しているのではないかとの疑いが織田信長サイドから提示されました。当時、既に武田サイドは息も絶え絶えの青色吐息で、死に体でしたから、家康の息子がわざわざ内通するとも考えにくいですが、かつて微妙なパワーバランスを担っていたころの武田ではなく、当時の武田は織田・徳川にとって完全な敵として認定されていましたから、そんな武田と内通していることが事実だったとすれば、大スキャンダルにもほどがあり、徳川氏そのものが織田によって攻め滅ぼされてもおかしくありません。弱り切った家康は信康を切腹させます。形としては切腹ですが、要するに殺したようなものです。彼の母親も殺されます。家康は信長に忖度して、息子と奥さんを殺したわけです。実に残酷な経験ですね。

ですから、家康が密かに信長を憎悪したとしても全く不思議でもなんでもありません。そもそも、家康は信長に従属して靴をなめるような態度で接していたわけです。それでも嫁さんと息子を殺すことになったのですから、家康の本心を想像すれば信長に義理立てする理由はもはやなさそうにも思えます。家康は信長に忖度しつつ憎悪していたのではないかと私には思えます。

本能寺の変が起きたのは織田・徳川連合軍が武田を攻め滅ぼして間もないころのことです。家康は武田滅亡のお祝いに京都を訪問し、信長の接待を受けています。接待の実務を担ったのは明智光秀で、仕事ぶりが悪いと信長に酷い目に遭わされたともされていますが、本当かどうかは分かりません。

分かっているのは、本能寺の変が起きた時、信長にとっても家康にとっても、互いに必要のない存在になっていたということです。武田が滅亡した以上、清州同盟を継続する理由はありません。ましてや家康にとっては信長は息子と嫁さんの仇みたいなものですし、信長にとって家康は単に邪魔な存在です。問題はどちらが先に手を下すかということだけだったのかも知れません。信長が先手だった場合、家康がやられることはまず間違いありませんから、パワーバランスを見極める天才だった家康が先に手を出す決心をしても不思議ではありません。

そのような理由で本能寺の変家康黒幕説みたいなものも登場するわけですね。真相は分かりませんけれども、家康が黒幕だったとしても驚きませんねえ。



信長の心理的原風景としての桶狭間の戦い

桶狭間の戦いは、物量で圧倒的優位な今川義元が織田信長に襲い掛かり、返り討ちにあったできごととして特によく知られている戦国時代の出来事だと言えます。兵力差については諸説あるようですし、大げさなものだと今川軍4万と織田軍2千という20倍の兵力差だとするものも見たことがあります。一方で、今川2万で織田5千という控えめな、現実的な試算もみたことがあります。桶狭間の戦いでの信長の動きを見ると、少数精鋭で今川義元の首だけを狙うという特殊任務みたいなことを君主が先導して行った作戦ということになりますから、あまり兵力差は関係ないように思います。少数精鋭が肝になりますから、織田軍は少数であればあるほど実際の戦闘でも都合が良かったに違いなく、全体の兵力はともかく、今川義元に襲い掛かった兵隊は数百程度でちょうどよいのではないかなとも思います。義経は屋島の戦いで200人の部下で平家の背後をついています。桶狭間でもそんな感じではないでしょうか。

桶狭間の戦いが行われた場所も諸説あって、だいたいの場所は分かっているものの正確に「ここでした」というのは特定には至っていないようです。信長の同時代人で太田牛一という人がいたのですが、彼は信長の文書秘書みたいなことをやっていた人で、信長のことを極めてよく知っていた人物でした。信長の手紙のやりとりを全て知っていたはずですから、家康や秀吉よりも遥かに信長のことを細部に至るまで理解していたに違いありません。彼は『信長公記』という信長の伝記を書き残していますが、そこで今川義元は桶狭間山に陣取り、少数の信長軍が突如として襲い掛かったとしています。今川義元は慌てて輿に乗り脱出を図ったものの織田軍に包囲され、逃げ場を失いました。大勢の兵隊が義元の腰を担いでいましたが、外側から順番に織田の兵隊によって切り倒され、義元はついに輿から外へと出てきます。義元は織田の兵隊数度切り結びましたが、足を切られて倒れ、とどめを刺されたとされています。義元が陣取っていたとされる桶狭間山ですが、いまだにその位置を特定されてはいません。木曽川などの三角州エリアである濃尾平野ですから、そもそも山なんかなさそうなんですが、もしかすると古墳だったのかも知れません。古墳が近畿地方だけに集中していると考えるのは間違いで、日本全国各地に相当な数が発見されており、愛知県でももちろん多くの古墳が見つかっています。大阪の仁徳天皇陵には戦国時代に誰かが陣地を築いたと思しき跡が残っているそうですから、今川義元もそのようにしたとして不思議はないわけです。

さて、この戦いの肝になるのは、極めて少数で圧倒的に不利だったはずの織田軍が、ゲリラ的な戦法で奇跡的に勝利したということにあるのですが、その後の信長の戦い方を見てみると、二度と同じような奇跡を期待しているわけではないとの慎重さを見出すことができるように思います。信長は桶狭間の戦いでギリギリセーフで勝ったわけですが、これで慢心したのではなく、二度とあのような戦い方で勝てるとは思わないというか、二度とあんな目に遭いたくないとでも思っているかのように、常に物量で敵を圧倒していったわけです。その分かりやすい例が一向宗に対するやり方で、鍬とかを持って抵抗する一向宗の信徒に対し銃を撃ちまくって虐殺しています。また、物量で圧倒できない相手とは事を構えようとせず、武田信玄や上杉謙信のように勝てる自信のない相手にはへりくだった手紙とプレゼントを送ったりしていますから、信長はとても慎重な人なのだということがよく分かります。それでも時々負けてますから、信長はそこまで戦術に優れた武将でなかったこともなんとなくうかがえるわけです。彼は物量を充分に蓄えてから戦うという意味では常に戦略で勝利しています。少数精鋭で奇襲するという戦術で勝ったのはそれこそ桶狭間だけでのことであって、信長の生涯では例外的な勝ち方なのであり、彼はそれを教訓として二度と同じ戦い方を選んでいないわけですから、桶狭間のときはよほど絶体絶命の覚悟をしていたのでしょう。ですから、それだけ信長にとって深く心に刻まれたできごとであり、彼の生き方に影響したことであったように思えます。

なぜそこまで桶狭間が信長の人生に影響したということを強調したいのかというと、どうも、じっくり見ていくと、信長の軍団にいた大勢の武将のうち、信長にとっては、桶狭間の戦いに参加していた武将がベストメンバーであり、それ以降に信長の軍門にくだったものは、飽くまでも外様で、捨て石みたいな扱いを受けいたように見えるのです。たとえば佐久間信盛であったり、あるいは池田恒興、柴田勝家であったりという織田家宿老クラスの武将は全て桶狭間の戦いに参加しています。また、秀吉も一応は参加していたらしいことになっているので、もしそれが事実で、信長もそのことを知っていたとすれば、秀吉が異例の出世をした理由の一つは、桶狭間メンバーだったからということも言えなくもなさそうな気がします。

逆に言うと、たとえば信長に反旗を翻した松永久秀や明智光秀などは所詮は桶狭間以降に来たメンバーですから、信長にとっては利用価値だけが問題なのであり、死んだってどうってことのない、所詮は織田軍の部品に過ぎないと見られていたのではないか、それが当人たちにはよく分かっていたため、ためらいなく裏切ったのではないか、とも思えます。足利義昭もそういうのを感じていたから、途中から感情的に嫌になって信長と対立したのかも知れません。

明智光秀は信長に辛くあたられ、領地も召し上げられたうえに秀吉のサポートで出撃させられたなどのことが本能寺の動機として挙げられることが多いですし、どうして明智光秀にそこまで辛く当たったのかなどとも詮索する人もいるでしょうけれど、信長からすれば当然だったのかも知れません。光秀は桶狭間メンバーではないのですから。

以上のように考えれば、桶狭間の戦い以降の信長の考えていたことや感じていたことなどをより深く理解できるのではないでしょうか。彼にとっては桶狭間の戦いが極めて怖い、びびってしまう戦いであったが故に、その時の仲間が真の仲間であり、それ以外は所詮は手ごまだったのです。ですから、手ごまが裏切るのはそりゃそうだとも言えるというわけです。

しかしながら、それらの駒でしかない武将たちは信長にはとても反抗できる存在では本来ありませんでした。反抗したってやられちゃいますから、反抗=死なわけです。松永久秀はそこまで分かった上で、信長に反旗を翻した後は茶釜を抱えて爆死するというゴダールの気狂いピエロに出てくる失恋した男みたいな最期を選んだわけです。しかしながら光秀は打倒信長に成功しました。実は光秀に命を狙われるちょっと前から信長はやや常軌を逸し始めていたのではないか、だからこそ隙が生まれ、そこを光秀につけこまれたのではないかと私には思えます。というのも、晩年の信長は佐久間信盛や林秀貞のような桶狭間メンバーを追放しています。何が信長に起きたのかは分かりませんが、信長を守るはずだった桶狭間メンバーを自ら遠ざけるということは、実は自殺行為だということに信長は気づくことができなかったのではないでしょうか。

今後数回にわけて、信長の人生を辿ってみたいなあと思っています。日本史で最も人気のある人物について取り組めるわけですから、とてもエキサイティングですね。楽しみです。



明智光秀の自分探し

明智光秀はルーツや経歴が分かったような分からないような不思議な人物で、人物評価も一定しない。本能寺の変の実行犯であることは確かだが、『信長の棺』などで描かれているように、最近は光秀の他に黒幕がいたのではないかという話が流行しており、そっちの方がおもしろいので支持が集まるという構図ができあがっていると言える。

これは、戦前に秀吉が忠臣として高く評価されていたことと関係がある。明治新政府は徳川政権の否定を徹底する必要があったため、明治維新と一切関係のない豊臣秀吉を持ち上げた物語を流布させる必要があった。私が子どものころは戦前の教育を受けた人がまだまだ世の中を仕切っていたので秀吉は立派な人説が流布しており、私も『太閤記』の子供向け版みたいなのを読んで、頭が良くて心がきれいな豊臣秀吉は立派な人だと刷り込まれていた。秀吉は織田信長と良好な人間関係を築き、家臣としても誠実に仕えていて、その誠実さはどれくらいかというと信長が死んだあとに光秀と取引せずに打ち取ったのだからこの上もなく立派な人でそりゃ天下もとるでしょう。というような感じの理解になっていたので必然的に光秀は主君を殺した挙句に自分もやられるダメなやつ説を採用することになる。

やがて時代が下り、21世紀に入ってから秀吉善人説はほぼ姿を消したように思える。光秀を倒した後の秀吉の行動は人間性を疑わざるを得ないほど冷淡で打算的であり、知れば知るほど織田政権の簒奪者だというイメージが強くなってくる。そこから光秀が悪いのではなく裏で糸を引いていたのは秀吉なのではないか、いやいや、家康でしょう、いやいや義昭でしょう、いやいや五摂家でしょうと話がいくらでも散らばって行くのである。

大学で光秀についてしゃべらなくてはいけない時、私は上に述べたような事情をふわふわと考えて、毎年視点を変えてみたり、学生へのサービスのつもりで様々な陰謀説があるという話をしたりする。で、なんとなく光秀の肖像画を見ていて、新しい視点を得た気がしたのでここに備忘のために書いておきたい。憂鬱そうな光秀の表情は自分探しをする学生にそっくりでだ。

明智光秀の憂鬱そうな表情。肖像画はその人の内面を語ることがしばしある。

私は自分探しをする学生を否定しない。大学の教師になるようなタイプは大抵自分探しに時間を浪費するからだ。大学院に行く時点で他の同年代とは違う人生を歩むことになるし、更に留学とかさせてもらったりとかするので他の同世代とは人生に対する姿勢や考え方が広がる一方だ。なので、そういう学生の気持ちは私はよく分かるつもりでいる。

それはそうとして、明智光秀の肖像画を見ていると、ああ、この表情がこの人物の人生を語っているのだなあという心境になった。写真のない時代、絵師は人物の特徴を懸命に肖像画に書き込もうとする。信長、秀吉、家康の肖像画はそれぞれの絵師がその人物の特徴を懸命にとらえて描いたものだと説明すれば分かってもらえると思う。家康と慶喜は目がなんとなく似ていると私は思うのだが、家康の絵師がその特徴をしっかりと捉えていたからだと言えるだろう。

光秀はいつ生まれたのかもあまりはっきりしないし、土岐源氏ということになっているがどんな風に育ったかもよく分からない。ある時から朝倉義景の家臣になり、ある時から足利義昭の家臣になり、ある時から信長の家臣になるという渡り歩き方をしている。深い教養で京の公家たちとも親交があったとされるが、その割に雑な人生を送っているとも言える。想像だが戦国武将は仁義がなければまかり通らない。仁義のないものは後ろから刺されて終わるはずである。光秀の渡り歩き方には仁義がない。義昭の家臣と言っても足利幕府に累代で仕えてきたとかそういうのではない。現代風に言うと大学院から東京大学なのだが、東大ブランドを使うみたいな目で見られていたに相違ないのである。そして彼の憂鬱そうな表情からは、そうでもしなければ人生を這い上がることができなかったのだという彼だけの心の中の真実も見えて来るような気がしてならない。

そう思うと、信長を殺そうという大胆な発想を持つ人間が当時いたとすれば、光秀くらいなのではないか、従って黒幕などというものは存在せず、光秀単独犯行説が実は最も正しいのではないかと最近思うようになった。このブログは私が思ったことを書くのが趣旨なので了解してもらいたい。

秀吉は臨機応変に動くことができるが、自分から大きく物事を構想して操るタイプとは言えない。深い企てを考えるタイプであるとすれば朝鮮出兵のような誇大妄想的行動は採らない。信長が死んだからいけるんじゃねと踏んだのであり、信長を殺すというようなリスクをとるタイプではない。

家康も信長を殺したかったかも知れないが、リスクをとるタイプではない。朝廷も言うまでもないがリスクはとらないし、信長が朝廷を廃止しようとしていたから背後には朝廷が動いたというのは証明できない前提を幾つも積み重ねた結果生まれてくるものなので遊びで考えるのはいいが本気で受け止めることはできない。義昭黒幕説もあるが、義昭には影響力はなかった。

光秀を現代風に表現すれば新卒であまりぱっとしない企業の総合職に滑り込み、転職を重ねて、途中は公務員をやった時期もあって、気づくとグーグルとかアップルとかアマゾンとかソフトバンクみたいな新時代の企業の役員にまで出世したような感じになるはずで、わざわざボスを倒してまで実現しなければならないことなどあるはずがない。だが、自分探しを続けていた(たとえば私もその一人であって、ここではある程度の自嘲を込めているので了解してほしい)タイプは、大胆なことをやってみたくなるのである。光秀が大胆なことをすれば自分が抱えている小さな悩みを解決できるかも知れないというリスキーな思考方法を選ぶタイプだったとすれば、それで充分に、いろいろなことの説明がつくのではないだろうか。



織田信長と豊臣秀吉



豊臣秀吉は晩年、織田信長に寝所から引きずり出されて叱責される夢を何度となく見たといいます。想像するしかありませんが、病気が重くなり自分が近い将来亡くなることへの直観、自分の死後、徳川家康に秀頼が押しつぶされるのではないかという不安、秀次とその一族郎党を殺したことへの良心の呵責などが織田信長という巨大な存在に集約されて秀吉の夢の中に出て来たのではないかという気がします。

また、織田信長暗殺秀吉黒幕説に立てば、信長を殺したのも秀吉ですから、そのことも重く彼の心にのしかかったかも知れません。明智光秀の信長殺害に関する毛利に宛てた手紙が偶然にも秀吉の陣営に届くというのも話がうますぎて、あんまり信用できません。また、近衛前久の猶子になって公卿の家柄になり関白職を手に入れるという流れを見れば、近衛前久と秀吉が密某して信長を殺したとする説も必ずしもとんでも説とも言えない気がしてきます。

信長暗殺秀吉黒幕説が仮に都市伝説のようなものだとしても、本能寺の変の後の秀吉の動きは織田政権の簒奪そのものと言ってよく、このことの事実関係に議論があるわけでもありませんし、主家がその当主が殺されて困っている時に漁夫の利を狙っていくというのは、人間的に全然信用できないということの証左でもあり、そりゃ信長に叱責される夢を見るのも無理のないことのように思えます。

『太閤記』みたいなのを読むと、秀吉が信長の草履を温めていたなどのよくできた主従関係のエピソードが描かれていて、できすぎな感が強いわけですが、太田牛一の『信長公記』では少年時代の信長は結構な悪ガキで行儀も悪く、不良仲間と肩を組んで連れ立って練り歩いていたそうですから、ヤンキーカーストの頂点に立つ信長の目からすれば、秀吉は自分の分をよくわきまえて従順なパシリだったという風な感じで
したでしょうから、使いやすかったのかも知れません。

ヤンキーカーストの世界では強い者と弱い者がはっきりと区別され、席次のようなものも明確になっており、そういうのに馴染めない人物は村八分みたいにされてしまいますので、ローンウルフを選ぶしかなく、芸術家になったり(成功するとは限らない)、坊さんになったりしたのだと思いますが、カーストの内側にいる場合は、力さえあれば逆転したい、下剋上したい、席次を上げたいと思うのが常とも言えるでしょうから、秀吉の場合は正しくその夢を実現したのだと言えますし、且つ、それによって得られる現世的な楽しみを存分に享受したとも言え、おめでとうというくらいのことを言ってあげてもいいですが、清須会議や秀次事件を見ると、「姑息」「ずるがしこい」という言葉どうしても私の頭に浮かび、利休切腹のことを考えると「小さい男」という言葉が浮かび、朝鮮出兵や天皇の北京行幸計画などについては無謀、アホ、現実認識の歪みなどを感じてしまいます。

秀吉のことをただあしざまに述べてしまっているだけになってしまった感がありますので、少しは褒めることも述べようと思いますが、彼の子飼いの家臣たちの忠誠心は非常に高いもので、そこは人の心を掴むのに長けており、この人のためなら死んでもいいという武将が何人もいたという事実は称賛されるに価することではないかと思います。石田三成と加藤清正は互いに憎み合う関係で、殺し合いにまで発展しますが、豊臣氏への忠誠という立場では同じで、関ケ原の戦いの後も豊臣秀頼がかくも大切にされて敬意を集めたのも彼らの忠誠心の高さ故という気がします。秀吉の弱点は一代で天下を獲ったために譜代の家臣がいなかったことだという指摘を読んだことがありますが、たとえば幕末では徳川の譜代大名や旗本たちは結構役立たずで、長年仕えた家臣が頼りになるとは必ずしも言えないという気もします。

やがて全部家康がもらい受けることになりますので、いろいろあってホトトギスですね。

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