弥生人の登場‐鉄と米

一般に、弥生時代と縄文時代の違いとして、稲作の有無があげられることが多いように思います。しかし最近では、技術の高さに違いはあったとしても、縄文時代にも稲作は行われていたのではないかとも言う人もいらっしゃるようです。私にはその真偽を確かめることはできませんが、弥生時代と縄文時代を分ける大きな要素として、もう一つ、鉄の使用の有無があると言っていいのではないかと思います。

鉄は農具に利用できることはもちろんのことですが、武器としても威力を発揮します。西洋の歴史でいえば、ヒッタイト人が鉄を使うことにより一世を風靡したというのも、鉄は青銅よりも丈夫なために矛を交えれば鉄が圧倒的に有利であり、更に言えば鉄は人の体を守る鎧にも使用できますから、仮に相手が青銅で斬りかかってとしても防御に優れています。テクノロジーの面で優位に立つものが勝利するというのは、いつの時代でも同じと言えるかも知れません。

縄文人と弥生人は別の民族なのか、それとも縄文人が弥生化したのかについてはよく議論される話題のように思います。縄文人の世界では、黒曜石が交易されていた可能性が指摘されていることから、宝石に価値を見出していたことはまず間違いないのではないかと思いますが、鉄を使っていたという話は聞いたことがありません。おそらくは高い確率で大陸なり半島なりから鉄の精製技術が伝わったのではないか、高温である種の金属を溶かせばいかようにも使用できるという夢のような技術は日本列島の外からもたらされたのではないかと思います。

さて、そのもたらされ方が問題なのですが、私個人の見解にはなるものの、平和的にもたらされたとはちょっと考えにくいのではないかという気がします。弥生時代の遺跡(巨大な墳墓など)は朝鮮半島南部にもよく似たものが多いと言われますが、そういった人たちが日本を征服したのではないかという気がします。たとえば鉄の武器と鎧を用い、馬に乗り、場合によっては弓矢も放つ。そういう相手に木の棒や石で対抗することは難しいことのようにも思え、当時の日本列島でゲルマン民族の大移動みたいなことが起きたのではないかという気がするのです。遺伝的なことや骨格の研究によって縄文人と弥生人の共通性を見出そうとする説も読んだことがありますが、征服者と現地の女性の間に子どもが生まれれば、共通点があるのはむしろ当然とすら言えるかも知れません。

或いは邪馬台国や天皇家はその子孫かも知れず、私たちもまた、その子孫なのかも知れません。そうはいっても2000年も前のことです。そういうこともあったかも知れないという知的好奇心の範囲で楽しんで議論すればそれでいいのではないかとも思えます。

広告



広告

縄文時代の精神世界

縄文時代、一般にはまだ米作は行われていなかったと考えられている一方、定住が進み、少なくとも畑作が行われていたことはまず間違いないと考えられています。想像するしかないですが、男は狩猟に出かけ、女性は畑作をしていたかも知れません。縄文時代と言えば、なんとなくとてつもない原始時代、旧石器時代みたいなものを連想してしまいそうになりますが、そのようなことは決してなく、洞窟に住んでいたわけではなくて竪穴式住居で暮らしており、動物の毛皮を身にまとっていたわけではなく、繊維によって編まれた服を着ていたこともまず間違いないものと考えられています。たとえば遮光器土偶のようなものを見ると、人形の表面に編まれた繊維を表現していると思われる筋や文様が入っていますから、そのことだけから見ても、繊維の衣類が既に存在していたことはまず間違いないのではないかと思います。

一般に縄文時代は身分格差がなかったと言われています。米作が行われなかったために富の蓄積(お米は保存ができますし、米作のためには当然に土地の確保が前提となり、より広い土地を持つものが、より富む)ができなかったことから、格差のなかった社会であるとする考えも根強くあるように思います。しかし、犬でもボス犬、アルファ雄がいるわけですから、縄文時代の人に格差がなかったと結論するのは或いは早計ではないかという気がしなくもありません。縄文時代は既に複数の家族が集団で暮らす集落があったことは三内丸山遺跡からも明らかで、そこには指導者がいたに違いありません。副葬品の違いから、格差の存在を類推できるとする説を読んだこともあります。

ただ、いわゆる絶対王政みたいなものがあったり、或いは巨大な資本家がいて労働者を搾取していたかとかいう話になれば、確かにそういうことはなかったかも知れません。しかし、アニミズム信仰があったことは議論が一致していると思いますから、そのような宗教的指導者、精神的指導者は存在したのではないかという気がします。縄文人の頭脳と現代人の頭脳にはほとんど違いはないと思いますから、彼らは当然にこの世には四季があり、四季に合わせて食物が育ち、文字はなくとも「一年」という概念が存在し、世界は循環しているということに気づいていたに違いありません。文字情報が残っていないのが残念なところではありますが、一万年も続いた中で、口伝により神話が作られ、神話と自然が融合した形でアニミズムが形成されたのではないかという気がします。縄文のヴィーナスと呼ばれる人形が発掘されたりしているように、縄文人の美的センスは見るものを圧倒するものがあり、岡本太郎さんが日本人は縄文時代の芸術にそのルーツを知るべきだと主張したのも私にはわかる気がするのです。縄文時代の火炎式土器に見られる製作者の情熱の発露のようなものを無視することはできません。炎を形にして保存するわけですから、そこに精神の動きというものを感じないわけにはいきません。

星の動きもよく読んでいたに相違ありません。空気はきれいで街灯もないわけですから、星はくっきりとよく見えたはずです。そして毎日、北極星を中心に夜空が回転していること、季節ごとに見える星が違うことは当然気づいていたはずですし、夜空を見るための専門職みたいなな人もいて、それが占術と結びつき人々にとっての精神的指導者がいたのではないか、星の動きは地上の四季と連動していることは見ていればわかるはずですから、世界ある種の和音の複合によって構成されていると考えたとしても全く不思議はなく、そう考えなかったとするほうがむしろ不思議なようにすら思えます。

縄文時代は遺跡から類推するしかなく、文字情報がなかったことは大変にもったいないことですが、それでも、むしろそれだからこそ、縄文時代には深い精神性に基づく文化が存在したのではないかと想像することは大変に興味深い試みであるようにも思えます。当時の人も人は死ぬという絶対的な事実を前にたじろいだに違いなく、死体が土にかえっていくという不思議は、自然と人がつながっていることの証明として理解されたのではないかとも思います。当時の歌の一つも現代に伝わっていれば、縄文人の精神世界がよりよくわかるはずですが、残念ながらそれらしいものがあるというのは聞いたことがありません。もしかするとアイヌ人々の歌に残っているかも知れませんが、アイヌの言葉にも大和の影響がみられるようですから、そこから類推・再現するのも難しいことかも知れません。

広告



広告

縄文時代は意外と豊かだったらしい件

私が子どものころの縄文時代に対するイメージは、いわば原始時代です。はじめ人間ギャートルズとあまり変わらない印象です。そして、日本が縄文時代でナウマンゾウを追いかけていたころに、大陸では巨石を使い農業を発展させた文明が花開いていたのだ、というような対比で理解していたように思います。

しかし、最近は縄文時代は意外に生活水準が高く、高い精神性を持っていたことも分かってきていますし、私個人としても「ふーん、そうだったのかあ」と目からうろこ的なところがあります。

縄文人の生活水準の高さが注目されたのは三内丸山遺跡の発掘が進み、集落が再現されたことも大きな要因かも知れません。高楼があって、そこに人がのぼって海の様子を見、魚の群れが見つかればみんなで漁に出かける。大きな家で大家族で暮らしていたということも、大家族が暮らせるような大きな家を建てる技術があったということを示します。

また、当時の女性は様々な装飾品を用いて暮らしていたことも分かっており、貝殻で作られた装飾品の他、ヒスイが出てくることもあるようです。ヒスイの採れない地域でもヒスイの装飾品が出てくることから、通商や交易が、たとえ物々交換であったとしても行われていたことが分かり、縄文時代の丸木舟が各地で見つかっていることも、あるいは交易に舟が用いられていた可能性を想像させます。

土偶も各地で見つかっていますが、土偶の文様から、当時の人は鮮やかな衣装を身にまとっていたことが分かり、布を作る技術もあったということになります。実際に布も見つかっているようです。東北地方から北海道にかけては環状列石が見つかっており、それは主として日時計として用いられたか太陽を信仰の対象にしていたかを示すように見えますが、北海道では北斗七星の環状列石があり、夜の天体を信仰の対象にしていたことをうかがわせます。星を読んでいたとすれば、航海技術の水準も高かったのではないかと想像できます。

農業が行われていたことはもちろんで、近年では当時の遺跡からお米も見つかっていることから、稲作もしていたと見られています。

惜しむらくは文字が残っていないことで、いわゆるヲシテ文字もどうやら違うようですし、ここまで高い、文明と呼んでもよさそうなほどの水準の生活を送っていながら、文字が生まれなかった故に記録が残っていないということは、かえって好奇心を刺激されてしまいます。中南米の文明も文字がなく、紐の色や結び目で通信していたということですから、或いは縄文時代も似たような情報伝達はなされていたかも知れません。

「縄文人の暮らす日本列島に大陸から弥生人がやってきて、縄文人を征服して大和朝廷ができた」というざっくりとしたイメージを持つ人は多いと思います。私もざっくりとはそう思っています。ただ、言語という視点から見てみると、そう簡単に言い切れないかも知れません。日本語は必ず最後に子音を発音します。中国語や韓国語はそうではありません。また、古事記、日本書紀、万葉集などでは「ヤマト言葉」と漢語を使い分けている(または混合して使用している)様子からは、日本語という、大陸とは隔絶した言語体系を中国語の言語体系を用いて表記することに苦心していたことが分かります。それは大和朝廷の人々が縄文から使われていた言語体系を継承していて、一部の渡来人から得た中国語の表記を学んだという構図を浮かび上がらせるものではないかなあという気がしてしまいます。もちろん、分かりません。個人的にそんな気がするだけです。