映画の中のヒトラー

戦後映画で最もたくさん登場した人物の一人としてアドルフ・ヒトラーの名を挙げて異論のある人は少ないだろう。戦後、世界中の映画だけでなくドラマや漫画も含めれば、彼は無数に登場し、下記の直され、再生産あれ、時に印象の上塗りがなされ、時に犯罪性の再告発があり、時にイメージの修正が行われた。

彼を最もイメージ通りに再現し、かつそのイメージを強化する役割を果たしたのは、ソ連映画の『ヨーロッパの解放』(全三部)ではなかろうか。動き方、髪型、髭、声の感じ、狂気、死に方。全て我々にとってのヒトラーのイメージそのものである。特に死に方だが、振り返りたくなるほどとびきりの美しさを誇るエヴァ・ブラウンが嫌がっているにもかかわらず強引に口をこじ開けて青酸カリを押し込み、その後、なかなか勇気が振り絞れずに過去に愛した従妹の名を叫びつつこめかみの引き金を引くという流れは、エヴァ・ブラウンがヒトラーのことを命をかけてまで愛したいと実は思っていなかったにちがいなく、ヒトラーも彼女のことを愛してはおらず、ただ一人でも多く道連れにしてやろうと思ったに過ぎないというギスギスした相互不信によって塗り固められた愛情関係の存在が描かれている。見た人はいないわけで、本当にそうだったかどうかは分からないが、我々のイメージには合う。手塚治虫先生の『アドルフに告ぐ』の場合、実は第三者が忍び込んできて、せっかく名誉ある自決を選ぼうとしているのにそれだけはさせまいとヒトラーを殺害する。実際を見たわけではないので、そういう可能性がゼロではないということくらいしかできない。
ソ連映画の方が、最期の最後でヒトラーが英雄的自決という物語に浸り切れていたとは言えないのとは逆に、『アドルフに告ぐ』では英雄的自決という浪漫に浸ろうとしても浸らせてもらえなかったというあたりは面白い相違ではないだろうか。

だが以上の議論では実は重要な点を見落としてしまっている。ヒトラーが元気すぎるのだ。東部戦線がおもわしくなくなったころから、ヒトラーはパーキンソン病が進み、常に右手が震えており、老け込みが激しかったと言われている。ヒトラー最後の映像と言われている、彼が陥落直前のベルリンでヒトラーユーゲントを励ます場面では、それ以前の中年でまだまだ油がのっているヒトラーとは違い、老年期に入った表情になっている。絶対に勝てないということが分かり、一機に衰弱したものと察することもできるだろう。

で、それを作品に反映させているのが有名な『ヒトラー最期の12日間』である。手の震えを隠しきることすらできない老いたヒトラーは、ちょっとでもなんとかできないかと苦悩し、どうにもならないと分かると、無力感にひしがれつつ叫ぶ。憐れなヒットラー像である。この映画があまりにクオリティが高いため、その後のヒトラー物を作る際にはこの作品の影響が見られるのが常識になるのではないだろうか。以前のヒットラーは若々しすぎ、エネルギッシュ過ぎた。確かに政権を獲ったすぐのころなど、まだまだ元気で颯爽としていたに違いないが、晩年の彼には明らかな衰えが見られるのであるから、映画でベルリン陥落をやる際は、そこは留意されるべき点かも知れない。まあ、ベルリン陥落を映像化しようとするとやたらめったらと金がかかるはずなので、そんなにしょっちゅう映画化されるとも思えないが。

そのようにヒトラー象がいろいろある中、興味深かったのが『帰ってきたヒトラー』だ。激しい戦闘の結果、21世紀へとタイムスリップしてきたヒトラーは、人々の声をよく聞き、演説し、ドイツ人のプライドを大いにくすぐり熱狂的なファンが登場する。一方で、戦後ドイツではナチスの肯定はしてはならないことなので、激しい嫌悪を示す人もいる。だがこの映画で分かることは、ドイツ人は今でも本音ではいろいろ思っているということだ。敗戦国民なので言ってはいけないことがたくさんあるのだが、本心ではいろいろいいたい。ヒトラーのそっくりさん(という設定)が出てきて、「さあ、現代ドイツの不満を何でも述べなさい。私はドイツを愛している」みたいなことを言って歩くと、カメラの前でいろいろな人が政治に対する本音を話すのにわりと驚いてしまった。そして、ドイツ人の中には外国人には来てほしくないと思っている場合も多いということもよく分かった。編集次第なのかも知れないが、そういうことをカメラの前でヒトラーのそっくりさんと並んで話す人がいるというのも否定しがたい事実なのである。問題はヒトラー役の人物がやや体格が良すぎるし、若すぎるということかも知れない。しかも、なかなかいいやつっぽく見えてしまう。あれ?もしかして私も洗脳されてる?




『この世界の片隅に』の聖地巡礼をしてきた

この世界の片隅に』で泣いた日本人は数知れずで私もその一人だ。原子爆弾という非常に重い問題と、戦争というもう少し一般化可能な、しかし人間同士が命のやり取りをするという普遍的に難しい問題と、すずさんという稀有なキャラクター、顔も美しいが声も美しいのんとすずさんのシンクロ率の高さによって人々は心をわしづかみにされてしまった。

いつか呉に行きたい。すずさんの景色が見たいと思った人は多いはずであり、聖地巡礼で呉を訪れた人、或いは何度も呉に通った人は大勢いるに違いない。私も呉に行きたい、一度でいいから行ってみたいと思っていた。祖父が海軍の人でレイテ沖海戦から生きて帰って呉で終戦を迎えている。情報収集准尉で、原子爆弾関連のこともかなりの程度で知っていたという話だったので、全く縁もゆかりもない土地でもないのである。

先日、広島に一泊二日の出張があって、二日目の午前中だけ自由な時間があったので、朝6時に起きて呉に行き、午後の仕事の前に原爆ドーム、平和記念資料館を見学するという慌ただしい日程を組んだ。広島に行けばお好み焼きもあるし、野球が好きな人にとっては広島カープも魅力なのかも知れないし、私としては浅野40万石の広島城も訪れたいとも思ったが、限られた時間で広島という土地に敬意を払いつつ、聖地巡礼という本意を果たすには、こうするしかなかった。

まず呉まで行ったが意外と遠い。広島駅から一時間くらいかかってしまった。呉駅で降りたものの、土地勘もないし迷って歩いている時間もないので、駅の様子だけ急いで撮影して広島へ帰還することにした。

呉駅の外観
呉駅の外観

とんぼ返りではあったものの、やはり現地に行くというのは有形無形に学べることがある。実際に呉へいく電車の窓から瀬戸内海を見ていて気付いたのだが、延々と対岸が見える。いくら瀬戸内海が狭いとはいえ、対岸が近すぎないか?あそこはもう四国なのか?という疑問が湧き、そんなわけがないのでiphone11で地図と格闘して分かったことは呉の対岸にはけっこう大きな江田島があるということだった。江田島といえば海軍兵学校のあった場所で、江田島関連の本も出ている。映画とかも探せばあるかも知れない。私は江田島の名前は知っていて、海軍の学校があったことも知っていたが、みたことがないので江田島は江ノ島みたいな感じのところなのだろうと勝手な想像をしていたが、違う。江田島は呉港を包み込むように浮かんでいて、たとえば敵が海から来ても直接呉に攻め込むことを困難にしている。天然の要害なのである。制空権をとられてしまえば、あんまり関係はないけれど。とはいえ、このようなことは行ってみてやっと気づくことの一つではないだろうか。

江田島と思しき対岸

『この世界の片隅に』の終盤で呉の街に明かりがつく場面があって、その時の呉の街は対岸にいる若い海軍の兵らしき男たち越しに見えるような構図になっているのだが、あの場面は江田島兵学校から見える終戦後の呉ということだったのだ。聖地巡礼によって得られることは大きい。呉駅には『この世界の片隅に』のポスターも貼られていて、これは呉駅の面目躍如であって、素晴らしきファンサービスである。ブログに掲載したくて撮影したが、著作権とかいろいろあるので、ポスター以外のものも入るようにして、私のオリジナル作品には見えない、一目で駅に貼られたポスターだと分かるように撮影した。知的財産権の侵害との指摘を受ければ削除しなければいけないが、今回の記事は作品への敬意を込めているので、理解を得られれば幸いだ。

呉駅のこの世界の片隅にのポスター
呉駅に貼られた『この世界の片隅に』のポスター

急いで広島駅までもどり、路面電車で原爆ドームへ向かったが、電車が故障で止まってしまい、徒歩で到着することを目指したものの、ちょっと距離を感じたのでやむを得ずタクシーに乗車した。原爆ドームを見て戦慄し、平和記念資料館では涙なしには展示内容を見続けることができなかった。展示がリニューアルしたとは聞いていたが、犠牲者の個々人の方々の生活やお顔の写真、プロフィールなどがたくさん分かるようになっており、現実に生きていた市井の人が原子爆弾によって焼かれたのだということをより理解しやすくなっているように思えた。うんと以前に訪れた時、壊れた時計や熱で溶けた瓶などは確かにショッキングではあったけれど、どこの誰がどんな風に亡くなったのかというような情報が少なく、ただ、ショッキングなだけで、考えたり感じたりすることがあまりうまくできる内容ではなかったような気がした。ワシントンDCのホロコースト記念館を訪問した際、数多の個々人がどこでどんな風に亡くなったのかを戦後の調査で明らかにし、記念館訪問者にも分かるようにしていた展示は現実感があって、自分にそれが起きないとう保障はないという心境になり、真剣に考える契機になった。そして広島や長崎の平和祈念館もこのように個々人のことが分かるようにした方がいいのではないだろうかと思っていたのだが、展示内容はそのようにリニューアルされていたので、私は納得もした一方で、その問題の深刻さを突き付けられたような気がしてショックは大きかった。とはいえ、平和祈念館を訪問してショックを受けない方が問題があるので、私がショックを受けたのは正常なことだ。
原爆ドーム
原爆ドームを北側から見た光景。限られた時間内で急いで撮影した。『この世界の片隅に』のすずさんは反対の方角からスケッチしていたはず。

犠牲者の生前の写真や遺品などとともに、訪問者にショックを与えるのは経験者によって描かれた数多の絵である。原子爆弾の使用直後の写真は少ない。写真を撮っている場合ではなかっただろうし、撮影に必要な機材も吹っ飛んでしまっていて写真が残されているなどということはあまり期待できない。少ない写真によって当時の状況を知ろうとするドキュメンタリーなら見たことがあるが、限界があった。デジタル的な観点からの写真論になっており、肝心の悲しみや悲惨さからは結果的に溝のできる内容になってしまっているように思えてしまったのだ。原民喜の『夏の花』はショッキングだが、読者の想像力に大きく委ねられなければならないものだった。絵はそれらの諸問題を克服する表現手法だ。個別の絵に関することをここで書くのは避ける。とても私が分かったような気持ちで評論できるようなことではない。そうするには重すぎる。

このような絵がたくさん集まったのはNHKが広島の人々に呼び掛けたからなのだそうだ。経験者が生きているうちに、絵という手法で記憶を後世に残そうと考えた人がNHKにいたのだ。NHKには批判も多いが、このようなことはNHKでなければできないだろう。この点は大きく評価されなければならないと私には思える。

映画『ダンケルク』とゴジラ

第二次世界大戦では、前半では枢軸国側の圧倒的優位に物事が進んで行きます。近代戦争は「資本力」が物を言いますから、冷静に考えれば資本力に劣る日本・ドイツが、世界一金持ちのトップ2を争うアメリカ、イギリスと戦争して勝てるわけはないのですが、少なくとも前半に於いては気合や戦術、集中力みたいなもので枢軸国が圧倒し「もしかしたら、日独が勝つかも」という幻想のようなもの、または不安のようなもの(立場によって違うでしょう)が世界に広がっていったと言えます。

そのドイツ圧倒的優位を象徴的に示すとともに、ゆくゆくはドイツの敗北をも予言することになった戦いが、ダンケルクの戦いです。フランスのダンケルク海岸に英仏が追い詰められ、逃げ場がなくなるわけですが、ドイツ軍がじわじわと包囲網を縮小していく中、海を渡ってイギリス側へと撤退する、史上最大規模の撤退戦であったとも言えます。ドイツ軍にとっては包囲戦で、英仏軍にとっては撤退戦なわけです。

で、ダンケルクの戦いでのイギリスまでの撤退作戦をダイナモ作戦と呼ぶわけですが、映画『ダンケルク』では、この撤退戦の難しさ、厳しさ、そして最後の鮮やかな成功を描いています。この映画をみて気づいたのは、英仏にとっての敵であるドイツ兵が全く、ほぼ完全に登場しないことです(最後にちらっと物語の展開上、やむを得ず、人影程度に、個性を感じさせない程度にドイツ兵が映りますが、それだけです)。

過去、第二次世界大戦関連の映画は何度となく制作され、とりわけドイツ軍の将兵を如何に描くかというのが演出の腕の見せ所のような面があったように思います。たとえば『バルジ大作戦』では、ナチスが理想とした金髪の沖雅也みたいに顔立ちの整った将校と、彼の身の回りの世話をする老兵の姿は、それぞれに個性を持ち、人間的感情を持っていることを表現することに演出サイドは力を入れていることが、一回でも見ればわかります。ナチスの将兵は時に冷酷に、時に人間的に、時に滑稽に、場合によっては優しい人として描かれたことも少なくはありません。どのように描くかは、演出の考え方次第ですが、ナチスという強烈なイメージを残した歴史的事象であるだけに、腕の見せ所でもあったと言えます。

ですが、ダンケルクでは彼らの姿は先ほど述べたように、ほとんど描かれません。ドイツ軍の飛行機は出てきます。Uボートも話題としては出てきます。ドイツ軍の砲弾の雨あられは描かれます。そのようなメカニックなものはふんだんに描かれるわけですが、人間としては登場しません。

このような演出には、実際には見えない敵が迫っているという不安を表現するのに効果があるように思えますが、敢えて言えば、ジョーズやジェイソンのような得体の知れない存在、日本の場合で言えば人間ではない敵という意味でゴジラのような素材としてドイツ軍を使っているという見方もできるのではないかと思います。尤も、ゴジラは鳴き声に哀切が籠っており、既に指摘されているようにゴジラは南太平洋で死んだ日本軍将兵たちのメタファーと捉えられるのが一般的ですから、ゴジラが必ずしも相応しいたとえではないかも知れないのですが…。

さて、ゴジラをたとえに出すのが正しいのかどうかはともかく、私はこの映画が戦争映画として成り立つのだろうかという疑問を若干持ってしまいました。戦争映画は敵と味方がそれぞれに人間であると描くことに、ある種の見せ場のようなものがあるのではないかという気がしてならないからです。ガンダムでも人気があるのは連邦軍よりもむしろザビ家の人間関係やシャアとセイラの兄妹愛の方にあるように思えますし、『スターリングラード』では冷酷で凄腕なドイツ軍将校が最後に負けを認める際に帽子を脱いで死を受け入れるというある種の騎士道精神を挟み込んでくるわけですし、『風の谷のナウシカ』でもクシャナの人物像は大きなウエイトを占めているわけです。

そう考えると『ダンケルク』という映画は戦争映画ではなくアクション映画なのではないか、或いはある種のサイコホラーなのではないかと言う気がします。それが悪いというわけではありません。確かに見応えのある映画ですから、一回は見てもいい映画だと思います。ただ、戦争映画としてはちょっと物足りないかなあと思ってしまいます。



エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』とナチズム

エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』はあまりに有名すぎて私がここでどうこう言うまでもないことかも知れません。「社会心理学」という分野にカテゴライズされてはいますが、基本的にはフロイトやアドラーの近代心理学の基礎を踏まえ、それを基にドイツでナチズムが勃興した理由を考察している超有名な著作です。

内容の大半はサディズムとマゾヒズムに対する一般的な説明に終始しており、まさしく心理学の解説書みたいな感じですが、サディズムとマゾヒズムが対立項として存在するのではなく、同時に同一人物の内面に存在するとする彼の指摘は我々が普段生きる中で意識しておいた方がいいことかも知れません。

曰く、サディズムを愛好する人物は相手から奪い取ることに満足を得ようとすると同時に、権威主義的であるが故により高位の権威に対しては進んで服従的になり、自らの自由を明け渡すというわけです。ですので、ある人物は自分より権威のある人物に対しては服従的なマゾヒストであり、自分より権威の低い(と彼が見做した)人物に対してはサディストであるということになります。人はその人が社会的にどの辺りの地位に居ようと、権威主義的である限り、より高次なものに対して服従し、より低次と見做せるものに対しては支配的になるということが、連鎖的、連続的に連綿と続いていることになります。

この論理は私にはよく理解できます。誰でも多かれ少なかれ、そのような面はあるのではないでしょうか。権威は確かに時として信用につながりますが、権威主義に自分が飲み込まれてしまうと、たとえサディズム的立場に立とうと、マゾヒスト的立場に立とうと、個人の尊厳と自由を明け渡してしまいかねない危険な心理構造と言えるかも知れません。

フロムはアドルフ・ヒトラーを分析し、彼自身が大衆の先導をよく心得ていたことと同時に権威に対して服従的であったことを明らかにしています。イギリスという世界帝国に対するヒトラーの憧憬は、チェンバレンがズデーデン地方問題で譲歩した際に、軽蔑へと変化します。なぜなら如何に抗おうととても勝てないと思っていた相手に対して持っていてマゾヒスト的心理が、相手の譲歩によって崩れ去り、なんだ大したことないじゃないかと意識が変化してサディズム的態度で臨むようになっていくというわけです。

自由都市はドイツ発祥です。ですから、本来ドイツ人は自由と個人の尊厳を愛する人々であるはずですが、第一次世界大戦での敗戦とその後の超絶なインフレーションと失業により、絶望し、他人に無関心になりヒトラーというサディストが現れた時、喜んでマゾヒスト的に服従したともフロムは指摘しています。ドイツ人のような自由と哲理の伝統を持つ人々が、自ら率先してナチズムを支持し、自由を明け渡し、文字通り自由から逃走したことは、単なる過去の奇妙かつ異例なできごととして片づけることはできず、如何なる人も状況次第では自由を明け渡し、そこから逃走する危うさを持っていることがこの著作を読むことによってだんだん理解できるようになってきます。

私はもちろん、自由と民主主義を支持する立場ですから、フロムの警告にはよく耳を傾けたいと思っています。簡単に言えば追い詰められすぎると自由から逃走してしまいたくなるということになりますから、自分を追い詰めすぎない、自由から逃走する前に、自分の自由を奪おうとする者から逃走する方がより賢明であるということになるのかも知れません。





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昭和史72‐昭和16年7月2日の御前会議‐日本帝国終了のお知らせorz

昭和16年7月2日、近衛内閣が御前会議で「情勢ノ推移二伴フ帝国国策要綱」を採決します。閣議決定ではなく、御前会議ですから当時の感覚としては変更不能な絶対神聖な決定だと考えられたに違いありません。

私の手元にある資料では「御前会議にて重要国策を決定 内容は公表せず不言実行」と書かれてあります。当時の一般の人はどんな国策が決められたのかはさっぱり分からなかったというわけです。もちろん、現代人の我々はその内容を知る事が出来ます。1、大東亜共栄圏の確立を目指す 2、南進するが状況次第で北進もする 3、そのためには万難を排して努力する、というのが当該の御前会議で決められた国策だったわけです。

「大東亜共栄圏」については、当時はブロック経済圏を持たなくては生き延びることができないと信じ込んでいる人が多かったですから、まあ、理解できないわけではありません。大東亜共栄圏という美名を使って日本円経済ブロックを作ると言うのは、当時、覇権国のプレイヤーを自認していた日本帝国としては悲願だったということは、分かります。しかし、2番目の南進と北進両方やるというのは、玉虫色、ご都合主義、政府内の南進論者と北進論者の両方を満足させるための無難に見えて実は滅亡必至の国策だったと言わざるを得ません。日本帝国はもともとは南進を志向し、広田弘毅内閣以降、それは国策として進められ、日本帝国が南へ拡大しようとしていることは周知の事実であったとも言えますが、一方でソビエト連邦と共産主義に対して警戒感を持つグループでは北に備えるべしとの声が根強く、松岡洋右がソビエト連邦と中立条約を結んだことは平和的且つ低コストで北の脅威を払拭できた「はず」だったにもかかわらず、ドイツが不可侵条約を破ってソビエト連邦に侵攻したことで、「あわよくば」的な発想が持ち上がり、ドイツ側からは日本のソ連侵攻について矢の催促が来ていたことで、まあ、迷いが生じてしまったと言えるのではないかとも思えます。そもそも西で蒋介石と戦争を継続中で既に軍費が嵩んで日本帝国は青色吐息になり始めていたわけですが、更に東のアメリカと睨み合う中、南にも攻めていく、北にも攻めていくというのは、無理難題というものです。日本帝国は誰にも強要されたわけではなく自分たちで無理難題に挑戦することを選択してしまったと結論せざるを得ません。

仮に、ドイツと一緒に戦争に勝って日独新世界秩序みたいなものを作り上げることを優先するとするならば、断然、北進が正しく、ソビエト連邦は二正面戦争になりますから、日独勝利でもしかたら英米も弱気になって妥協するということはあり得なくもなかったかも知れません。この国策を受けて関東軍は満州で関東軍特別演習を行い、北進の機会を伺いますが、世界に「私たちは野心があります」とわざわざ宣言するような行為をしておきながら、日ソ中立条約もありますし、ノモンハンのトラウマもあって一線を越えることはありませんでした。資本力でドイツが劣っていることは一般知識だったとすら言えますから、長期戦でソビエト連邦に絶対に勝てるかと問われれば、普通なら絶対に勝てるとは思えないはずですが、ヒトラー信仰の空気が支配的になっており、日本が加担しなくてもドイツが努力でソビエト連邦を滅ぼしてくれるだろうというあまりに甘い観測で、状況を見誤ってしまったとも思えます。

一方で、南進は以前から国策だったこともあり、南部フランス領インドシナへの進駐をアメリカからの警告を受けていたにもかかわらず遂行し、結果としては経済封鎖を受けて、やむを得ず真珠湾攻撃へと至ります。すなわち、北進優先だったら戦争には勝てたかも知れないのに、南進の方を積極的に進めて日本帝国は滅亡への道をまっしぐらに大急ぎで駆け抜けてしまったと言ってもいいのではないかと思います。しかも「3」で万難を排してそれを遂行すると昭和天皇の隣席で決めてしまったので、アメリカと戦争してでも南進を推し進めることになってしまったわけです。日本帝国終了のお知らせorzです。資料を読めば読むほどがっくしですが、まだしばらくは続けます。

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昭和史71‐植民地と総力戦

日中戦争が泥沼化していく中、植民地では志願兵制が導入されていきます。私の手元の資料では植民地の人の健康管理、体力増進をやたら強調していますので、将来的には徴兵制に対応できるように整えようとしていた意図があったようにも思えます。

朝鮮半島での志願兵制は少し早かったようですが、昭和17年には台湾でも志願兵制が施行されることになり、それに先駆けて皇民報公会なるものも組織されることになったと、手元にある資料の昭和16年7月1日付の号で述べています。

で、この皇民報公会が何をするのかというと、台湾全島民を組織化し、皇民化を徹底し、お国へのご奉公をいつでもやれる組織にするということらしく、これまで「総力戦」という言葉は何度も当該資料で出てきましたが、ここにきてそれを実際にやろうというわけです。とはいえ、既に経済警察が置かれて経済の仕組みは統制経済、近衛文麿が大政翼賛会を作って政治的にも政党政治が死に絶え、蒋介石との戦争に莫大な戦費を使っていますから、とっくの昔に総力戦は始まっているとも言えますし、もうちょっとつっこんだことを言うとすれば、全島民ということですから女性、子供、老人も組織化するとしても、一体、それが戦争にどういう役に立つのか私にはちょっとよく理解できませんし、そういうことをやろうとするというのは日本帝国に焦りがあったことの証明のようにも思えます。

台湾は南進論の拠点と位置づけられており、当時既に東南アジア進出(侵略?)は既定路線になっていたわけが、当時、それらの地域はほぼ全域が欧米の植民地だったので、欧米諸国と戦争するつもりが充分にあったということも分かります。当該の号では、アメリカ、イギリスの民主主義・自由主義の体制に対抗して民族生存の戦いが行われるという趣旨のことが書かれてありますから、やなりわりと早い段階でアメリカとの戦争は想定されていたと言えると思いますが、一方でよく知られているように、中央ではぎりぎりまで本当にアメリカと戦争するべきかどうかで悩みぬき、憔悴していたとすら言える印象がありますし、ぎりぎりのところで近衛文麿が思いとどまろうとして東条英機の反発に遭い、首相の座を投げ出すあたり、政治家は迷っていたけれど、官僚は準備万端整えつつあったと見てもいいのかも知れません。もちろん、官僚は目の前の仕事に力を尽くしたのだと思いますが、大局的な判断するべき閣僚たちが右往左往の状態に陥っていたと見るべきなのかも知れません。

ここは想像になりますが、中央の意思決定関係者たち(政局関係者たち)、軍、官僚、植民地官僚、外交官がそれぞれにある人はアメリカとの戦争は困ると言い、ある人は蒋介石打倒のためなら世界を相手に戦争すると言い、ある人は戦争以外の手段で東南アジアを自分たちのブロックを確立しようとし、全体としては大東亜共栄圏という国策がある以上、周囲との軋轢、摩擦、対立は避けられないとも思えるものの、その国策はやめてしまおうという勇気のある人はいなかった。それが結果としては滅亡への悲劇につながったのではないかという気がします。


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昭和史62‐皇民化と教育

とある情報機関の発行する昭和15年5月21日付の号では「皇民化と教育」という、日本型帝国主義研究の畑としてはそのものずばりとも言えるタイトルの記事があったので、ちょっと紹介してみたいと思います。当該記事の著者は今井盛太郎という人で、台北第二中学校の校長先生をしている人であるとのことです。今井盛太郎さんという人のことについては検索をかけてもよく分かりませんでしたが、台北第二中学校について検索をかけてみたところ、現在の中正区という高級繁華街のエリアに属する地域に存在したということで、抗日運動をする人物を多く輩出したとwikipediaの中国語版には書かれてありました。日本語のバージョンは存在していません。抗日運動の面々についてwikiを深く掘り下げていけばもうちょっといろいろ分かるかも知れないですが、今回は当該の記事に照準を合わせたいと思います。

この記事では、皇民化という言葉は以前からあったが、数年前まではそんなに熱心には言われていなかった。とし、以前は台湾の学生が学校でも平然と台湾語を使っていたが、最近はそういうことはなくなって隔世の感があるし、家庭でも日本語を意識的に使うようになってなかなかめでたいみたいなことが書いてあります。次いで、そもそも「皇民化」とはということについて、日本帝国の人は全員が皇民なのだけれど、使用する言葉、生活習慣、更には血統までもが「内地」と同じになる状態と定義し、過去の例としてなんと坂上田村麻呂の東北遠征を挙げています。即ち、東北の人だって、今では疑いようのない皇民なんだから、台湾の人もそういう風になれるはずとしているわけです。その目玉になるのが創氏改名で、日本風の名前を持てることは台湾人にとって大変な栄誉としたうえで、新しい名前が見ればすぐに台湾人と分かるようなのでは意味がないから、そういう風にならないように、如何にも日本人という感じの名前を持たなくてはいけないとしています。最後のまとめの辺りでは、日本人と台湾人の関係を姑と嫁の関係に例え、嫁は婚家の習慣風習によく馴染むように努力しないといけないが、姑の方も何かといじめるようなことがあってはいけないとしています。

現代人の感覚から言えば、皇民化という政策はわりとナンセンスというか、何のためにそんなことをするのかと訝しく思ってしまいますが、この今井さんという校長先生は大変熱心にこのことについて考えていたらしく、「本島人」を受け入れている学校として、ここまで日本語化が進んだのは結構苦労したみたいなことも書いており、一部には今まで日本語化・皇民化が進んでいなかったことへの批判があるが、そんなに簡単なものじゃねえと言う趣旨のことも書いています。嫁姑の関係に例えて、台湾人をいじめるようなことがあってはいけないという趣旨のことを書いているのは、教師として学生を思う心情がつい吐露されているようにも思え、帝国主義・皇民化政策と学生に嫌な思いはさせたくないというアンビバレントがこの人内面にあったのかも知れません。ただ、当時は皇民化=絶対いいこと。なので、学生の将来を思い願う真っ直ぐな教師として、ゆっくりでもいいから皇民化してくれよという願いがあったようにも思えます。現代の我々の価値観から言えば当然NGですが、今井さんの良心のようなものもちょっと評価してあげたいような気もしなくもありません。

当該の号ではドイツ軍のマジノ線突破(実際には迂回)、チェンバレン首相辞任、満州港皇帝「陛下」日本訪問決定などの情報も入っており、第二次世界大戦がいよいよ本番に入って来たことが分かります。ドイツのポーランド侵略に対しイギリス・フランスが宣戦布告をしたものの、西部戦線ではフランス軍とドイツ軍がにらみ合うだけの「幻の戦争」とも言われましたが、実際の作戦行動に出て、文字通り戦闘状態に入ったわけで、これから、はっきり言えば恐ろしい状態へと突入していくことになります。当時の資料を読むのは精神的なダメージが大きいですが、今後も当面続けたいと思います。

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昭和史56‐ドイツ必敗予言‐次期大戦の経済的研究

とある情報機関の機関紙の昭和14年12月11日付の号で、ポール・アインチヒという人物の『次期対戦の経済学的研究』について言及されている記事がありましたので、ちょっと紹介してみたいと思います。ポール・アインチヒという人物について検索してみたところ、彼はルーマニア出身で後にフィナンシャルタイムスの記者になり、英国に帰化した人物のようです。で、当該の記事に曰く

先づ「英国は戦闘には敗けるかも知れないが、戦争にはきっと勝つであらう」と云ひ又、「ナチス・ドイツの恐るべき戦闘力に、たとひファシスト・イタリーの援助があったにしても、民主主義国が必ず勝つといふことは、戦争の結果が大いに経済的理由によって左右されるものである限り、疑ひに一点の余地もない」と断じまして最後に左の如く結んでおります。
「若しも第二次世界大戦が始まるならば、それは必ずや長期戦になるであらうが、長期戦に於ては経済的理由が勝ち負けを決する極めて重要な要素であるから、英吉利のやうな金準備が豊かであり、之によって豊富な食料品や原料品を得られる国は、独逸のやうな金が少く又、食料品や原料品の乏しい国に対し、必ず最後の勝利を得る事が出来る事は、前大戦の時と同じである」と言うて居るのであります。

と紹介しています。後の歴史の展開を知っている我々から見れば、ポール・アインチヒのドイツ必敗の予言はその理由も含めて完璧に的中したということが分かりますが、当該記事の筆者は、「必ずしもそうとは思はない」としながらも、「近代戦」が経済戦であることは認めています。次いでアドルフ・ヒトラーの著作である『我が闘争』の内容を紹介し、ヒトラーがドイツが第一次世界大戦で敗けたのは、銃後の国民が節約に徹しなかったからだと述べているとして、日本も蒋介石との長期戦に勝つためには、国民が隠忍自重し、我慢を重ねて贅沢をせず、節約して経済戦に勝たなくてはならないとしています。当時の段階は、英米の蒋介石政権への肩入れは明らかで、何せ世界の大国であるアメリカとイギリスが蒋介石に存分に援助を与えているわけですから、経済戦の面でも昭和14年の段階で、緒戦で連勝しながらも実は日本の側が窮していたわけで、当該記事の著者もその事情ははっきりしすぎるくらいによく分かっていたようで、筆致からは焦燥感のようなものを感じ取ることができます。当時の日本はすでに経済戦でも敗けていて、国際世論は日本に味方せず、東南アジア華僑も蒋介石支持でしたから情報戦でも敗けていたと言わざるを得ないように思えます。また「大東亜共栄圏」という理念も、要するに植民地をたくさん持っているイギリスは何かと有利なので、日本もそうしたい、或いはそうしないと世界に追いついていけないという焦燥感と表裏一体、不離不足だったということ、イギリスみたいになるためには、遅れてきた日本のような帝国も経済ブロックを持たなくてはいけないという、切実さのようなものも感じ取れます。

結果としては日本帝国は植民地の維持だけでも大変で、更に満州国や汪兆銘政権への援助で手いっぱいになり、太平洋戦争が始まると占領地が広すぎてどうしていいか分からないというところまで追い込まれていきますから、石橋湛山の言うところの「小日本主義」が正しかったと言えますし、戦後の日本が繁栄したのも、小日本主義に徹したからと言えるようにも思います。いよいよ昭和15年、アメリカとの開戦前夜の息詰まる危機感と焦燥感のある記事がどんどん出てくるはずですから、日本人の私としては歴史に関心があるという意味では、多少わくわくもしますが、同時に日本帝国の滅亡へのまっしぐらを辿るわけですので、何ともやりきれない心境にもなってしまいます。


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昭和史49‐時局ポスター・慰問品展示会

第二次・第三次近衛文麿内閣‐破綻と手詰まり

米内光政内閣が陸軍の倒閣運動によって崩壊すると、近衛文麿が再び首相に指名されます。大政翼賛会が作られ、近衛文麿の国家社会主義的な色彩が濃くなっていきます。その一方、第二次近衛内閣で特にその動きが目立ったのが松岡洋右です。松岡の基本的な外交に対する思想は、如何にしてアメリカに対抗するかであり、アメリカに対抗する力を持てば、自ずと両国間に平和がもたらされるというものだったようです。ある種のパワーバランス思想ですが、松岡の外交姿勢は後半から空回りをし始めます。

そのためにはソビエト連邦の抱き込みが肝心で、松岡はかなり早い段階から日ソ不可侵条約の構想を胸に抱いていたのではないかとも思えます。石原莞爾が世界最終戦争は日本とアメリカの間で行われると考え、その戦争に備えるために対ソ防衛の観点から満州という広大な緩衝地帯を得なくてはならないという考えを持ったことと、通底部分もあったようにも思えます。その他、陸軍を中心に日独伊三国同盟への強い推進力が働き、松岡は日独伊ソの巨大な対アメリカ陣営を築こうとしていたと言われています。

過去、日独防共協定を結んだ後に独ソ不可侵条約が結ばれ、平沼騏一郎が「欧米の天地は複雑怪奇」と言う言葉をのこして総辞職したことを考えれば、或いは松岡はその複雑怪奇な欧州事情に深入りし過ぎ、策士策に溺れるの状況に陥ったと見ることもそう的外れなことではないかも知れません。

松岡がヨーロッパとの外交に熱心だった時期、アメリカのハル国務長官と駐米大使との間で中国・満州問題で話が進み、松岡抜きで日米関係に進展があったことに腹を立て、閣議を休んだりするようになり、その辺りから松岡の孤立気味な面が目立ってきます。

ドイツが独ソ不可侵条約を破ってソビエト連邦に侵攻した際、松岡は北進論を唱えて日ソ不可侵条約を破棄してソビエト連邦に侵攻するべきだと主張します。近衛文麿が嫌がり、昭和天皇もそのことについて不信感を持ったと言われています。日ソ不可侵条約を成立させたのが松岡本人だということを思えば、その毀誉褒貶にはついていけないところも確かにあり、日独伊ソ連合が水泡に帰した時点で松岡の構想は破綻していたと見るべきかも知れません。一方で、ドイツとソビエト連邦が戦争している以上、ソ連の脅威は心配しなくていいという南進論が持ち上がり、閣内の意見もそちらへ傾いていきます。

一連の動きには「信義」というものが著しく欠けており、やはり、知れば知るほどがっくり来ます。

結果としては行き過ぎた南進によってアメリカの対日経済制裁とその先の戦争へとつながっていきますので、人間としてどう考えるかはともかく、大局的には北進してソビエトの脅威から自由になることを目指すべきだとした松岡の意見は必ずしも的外れではないとも言えます。もっとも行けども行けども果てしない広いシベリアで日本軍が立ち枯れする可能性の方が高かったでしょうから、何といっても早期に蒋介石との講和を確立することが最も大切だったのですが、それだけは絶対にしようとしない頑なさが日本を滅びる要因だったのかも知れません。

近衛文麿は南進論に絶対反対を唱える松岡洋右を外すため、昭和天皇とも諮って総辞職し、松岡抜きの第三次近衛内閣の組閣をその日に命じられます。

第三次近衛内閣では南部仏印に進駐してアメリカの経済制裁を受けるという顛末を迎えますが、そもそもルーズベルトは南部仏印まで来たら経済制裁をすると先に警告しており、その警告を甘く見た近衛内閣の失策と個人的には言わざるを得ません。また、アメリカはその前に日米通商航海条約も破棄しており「有言実行、約束は守る」というアメリカ人の価値観がよく見えて来るとも言えますが、ここまで明白に警告してくれちるのに、そこを華麗にスルーするのが私には謎に思えてなりません。

近衛文麿はハワイでルーズベルトと会談することで、率直な話し合いによって自体の打開を目指します。近衛はルーズベルトと面識があったため、実際に会って話せば何とかなると思ったのだと思いますが、仏印進駐、日中戦争、満州国と難題山積で、一体何を話し合うつもりだったのかと私には訝し気に思えます。果たして近衛にはそれらの大問題でルーズベルトを納得させるだけの大幅譲歩ができたのかと言えば、あまり期待できなさそうな気がしてしまいます。

いずれにせよ、日本に石油が入ってこなくなりましたので、遠からず連合艦隊は張り子の虎と化し、陸軍の戦車は動かず、飛行機も飛ばず、馬に乗るしかなくなる日が近づきます。対米会戦が検討されるものの、荻外荘での話し合いでは近衛が「戦争は無理なので外交で解決を…(どうするかは見通しは全然立たない…)」と言ったのに対し東条英機が御前会議で外交で目途が立たない場合は戦争すると決めたじゃないかと詰め寄り、このことで近衛文麿は難局丸投げ総辞職を選びます。

東条英機が次の後継首相に選ばれますが、事態がとことん悪化した後での責任とらされ内閣の要素が強いです。とはいえ、そこまで悪化させた責任は東条英機にもあるわけで、やっぱり繰り返しになりますが、知れば知るほどがっくりするほかありません。


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阿部正信内閣が当事者能力を失って総辞職すると、陸軍では畑俊六が後継首相として指名されるのではないかという期待が広がり、ある種の熱が生まれてきます。ところが昭和天皇は陸軍が日独伊三国同盟に積極的なことに不安を感じており、昭和天皇の意思によって海軍の米内光政が後継首相に指名されることになりました。

天皇が後継首相の選考に影響力を発揮することは立憲君主という性質上問題があり、本来であればそういうことはできないはずです。ただ、昭和天皇が人事に積極的な意思を示し、それが実現することは異例のこととはいえ、天皇の政治に対する影響力が非常に曖昧なものであったことが分かります。戦後、昭和天皇の戦争責任はどこまで問えるかという議論は無数になされましたが、制度上の権能と実際上の影響力に乖離があり、その乖離の程度には天皇以外の外的要因が働くことも多く、結果として真相が測りがたいという難しいことに至ってしまったという印象が残ります。

また、政党政治家に首相指名の話がいかなかったのは、昭和天皇や西園寺公望のような究極のエスタブリッシュメントが、政党政治家たちのことを、人気投票で選ばれるために嘘もつくし政権を獲るためには見苦しい陰謀も厭わず、白を黒といい抜けようとするレトリックを駆使することに疲れていた、或いは失望していた、「政党政治家は二流の人間のやることだ」という諦観に至っていたというようにも見えてきます。広田弘毅が首相指名される時、天皇は広田氏が名門の出身者でないことを不安に感じたというエピソードもあるようですが、当時のことですから、まだ、天皇と周辺には日本は究極のエスタブリッシュメントが寡頭政治をするのがちょうど良いと思っていたのではないかとも感じられます。もっとも、当時の気配であれば政党政治家が首相になれば陸軍なり憲兵なりに命を狙われる可能性が高く、危なくておちおち首相に指名できないという側面もあったかも知れません。

ヨーロッパではアドルフヒトラーがポーランドを分割占領した後、イギリス・フランスとも西部戦線で対峙していましたが、しばらくは双方ともに積極的な攻勢に出ることがなく、半年ほど事実上の休戦状態に入ります。米内光政はドイツとの同盟に懐疑的で、ヨーロッパで本当にアドルフヒトラーが勝つかどうか分からないという雰囲気の中、同盟締結に踏み切らないままでいましたが、ドイツ軍が国境の森林地帯を抜けてフランスのマジノ線要塞を後方から攻撃するという虚をつく電撃作戦で勝利し、早々にフランスが降伏したことから、陸軍部内ではバスに乗り遅れてはいかんということになり、とにかく非ドイツの米内光政を引きずりおろせという話が持ち上がって、畑俊六が陸軍大臣を辞任し、陸軍の総意として後任の大臣は出さないという挙に出たため、米内内閣は総辞職せざるを得なくなります。

陸軍という際限なき冒険主義者が軍部大臣現役武官制を盾にとり、日本という馬の鼻づらをあらぬ方向へと引きずり回す様子が見てとれ、知れば知るほどがっくり来ます。本当にこの時代の出来事はがっくりくることばかりです。

米内内閣の次は、近衛文麿が二度目の組閣を命じられることになりますが、この段階では西園寺公望は近衛にあまり大きな期待は持っていなかったと言われます。近衛は中国での「聖戦」を貫徹しつつ、日本を国家社会主義みたいな国にして、アメリカ様のご機嫌をとるという無理と矛盾に満ちた国策を進めようとし、やがて運命の太平洋戦争へと続いていきます。


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