竹下登内閣‐田中角栄のエピゴーネン

中曽根康弘が史上稀に見る円満な退陣と中曽根裁定を経て、竹下登政権が登場します。当初、竹下登と安倍晋太郎の間には密約があり、福田赴夫大平正芳の間で結ばれたものと同様に、竹下は一期で退陣し安倍に禅譲するという約束になっているとの憶測もありましたが、竹下派が田中派同様の巨大派閥だったため、数の力で竹下登は長期政権を狙ってくるとの憶測もありました。

ところがいわゆるリクルート事件によって全てに狂いが生じてきます。更に安倍晋太郎氏は世間が沸騰している最中に病に倒れ、他界してしまいます。また、竹下内閣では消費税3パーセントの導入を推し進め、増税ですのでこれも世論の反発を呼び、世論調査では支持率3パーセントという酷い結果が出たこともあって、支持率と消費税が同じ率とすら揶揄されました。竹下登は「税の基本を消費税にして、その分所得税を下げなければ国民の勤労意欲が下がる」と周囲の人に話したことがあるそうですが、現代に至るまで消費税が上昇し、所得税は下がらないという竹下さんの釈明とは違った展開を見せており、財務省が見事に思惑通りに進めたように見えなくもありません。

竹下内閣時代に昭和天皇が崩御し、平成の時代が始まりますが、竹下内閣自体は大変に短く一年と少しで退陣を余儀なくされます。その後、復権を目指し、裏で政界を握る手法は田中角栄と同じであり、また、遂に復権を果たせずに終わったことも、田中角栄と同じだったと言えるかも知れません。

竹下登は退任後も上述のように政界の実力者であり続け、宇野宗佑、海部俊樹、宮澤喜一というある種の傀儡を立て、小沢一郎を首相にしようと考えたこともありますが、竹下登と金丸信が長時間説得したものの、小沢一郎は頑として首を縦にふりませんでした。振り返ってみるとこの時ほど小沢首相がリアリティを持った時期はありませんでしたが、小沢一郎ほどの政治家になれば、理想の大内閣を作りたいと言うものがあり、竹下支配の下での首相就任は嫌だ、海部俊樹のような扱いを受けるのは御免だと思ったのかも知れません。

その後、政治の世界は竹下登vs小沢一郎で展開し続けて行きます。私は個人的に鳩山邦夫内閣総辞職までを大小沢一郎時代と名付け、それ以降を小小沢一郎時代と名付けています。

竹下登は退陣に当たり、当たり障りのない、絶対に竹下の力を脅かすとは思えない、知名度の低い宇野宗佑を指名し、史上稀に見る短命内閣が登場することになります。


中曽根康弘内閣‐プラザ合意・ロンヤス・中曽根裁定

鈴木善幸から禅譲を受ける形で、要するに田中角栄のバックアップを受けて中曽根康弘が自民党の総裁に選ばれます。大平正芳首相の時代に福田赴夫とともに田中の盟友である大平を攻撃する側に回っていましたので、今度は田中にくっついて首相にしてもらうのかと風見鶏とあだ名されます。行われた総裁選挙では福田赴夫が中川一郎を出馬されましたが、中川一郎本人はこの時に相当無理をしたらしく、中曽根が勝利した総裁選後に自ら命を絶つという悲劇が起きています。また、中曽根康弘の任期中に日航機事故も起きており、不穏なものも漂う内閣だったと言うこともできるかも知れません。

就任期間は日本の首相としては珍しい5年に及び、行政改革に力を入れ国鉄、日本専売公社、日本電信電話公社の民営化を成し遂げ、外交面ではアメリカのレーガン大統領とロンとヤスで呼び合う仲であることをアピールし、更にはソ連封じ込めには積極的で、日本はアメリカの不沈空母となって場合によっては宗谷海峡や千島列島を封鎖するというようなことまで話し、当時は物議を醸しました。中国に対しても友好的で、中国が作った経済特区に日本の投資を促しています。

経済面では竹下登大蔵大臣がニューヨークで行われたプラザホテルに出席し、ドルの全面安(当時の経済情勢から見て、円も全面高)を容認するプラザ合意が結ばれ、日本はバブル経済へと突入していくことになります。竹下大蔵大臣はその立場上知り得た為替動向に関する情報を利用して首相になるための莫大な資金を手に入れたという噂を聞いたことがありますが、飽くまでも噂なので、本当かどうかは知りません。

この中曽根時代に政治の世界を大きく揺るがしたのは、田中派の竹下登が小沢一郎や梶山清六、橋下龍太郎などの大物を引き連れて新しい派閥を作り、田中派の大半の議員がそちらに流れて行ったという事件です。田中角栄が政権復帰のために大平正芳、鈴木善行、中曽根康弘など他派閥の人物を傀儡首相にしていく一方、田中の子飼いの政治家が首相になることは下剋上を恐れて田中が決して認めなかったことから、竹下登が旗揚げしたもので、佐藤栄作と田中角栄の関係を連想させるものです。

竹下登に裏切られたとも言える田中角栄はそれから完全に酒浸りになってしまい、突然脳梗塞で倒れ、政治活動事態も滞るようになていきます。もちろん、田中の新潟三区は最強鉄板地盤になっていましたので、次の総選挙でも田中角栄は30万票を集めて当選していますが、やがて引退することになります。大変に無念で悲痛な心境だったのではないかと推察します。

田中角栄が倒れたことで、中曽根は自由になったともいわれ、中曽根政権後期では「すでに死にたい。後は引き際」くらいに思われていた人が突如、「死んだふり解散」に討って出、思惑通り300議席という大勝利をおさめ、一年の任期延長を獲得します。

ポスト中曽根という話が飛び交うようになり、竹下登、安倍晋太郎、宮澤喜一の誰かということになりましたが、話し合いで後継首相を決めようと言うことになり、中曽根に裁定が一任されます。中曽根は竹下、安倍、宮沢それぞれに自分が選ばれるのではないかと気を持たせていたとも言われています。竹下は安倍とよく会談を開いており、宮澤喜一は結構、相手にされてなかったみたいです。

中曽根康弘は竹下登を後継者として指名し、竹下登内閣が登場することになります。