武田信玄が病没した後、武田家中は複雑な思惑が入り乱れるようになっていったようです。というのも、後継者の勝頼のことを認めない家臣たちがいて、いっそのこと武田家を出て独立しようかという動きを見せる者もいたらしいんですね。部下に認められないリーダーというのは非常にいたたまれない立場になりますから、勝頼としても焦りを感じていたのではないかと思います。勝頼を心理的に揺さぶったであろう家臣に穴山梅雪という人物がいたのですが、彼は武田氏とは血縁関係でもある重臣なんですが、勝頼の下だったら、家臣なんかやめて独立した戦国大名になるもんねという姿勢を持っていたそうです。この男は武田氏が滅亡する時に織田・徳川連合のほうに寝返って武田滅亡に加担したのですが、本能寺の変が起きたどさくさの中で殺されています。裏切者を軽蔑する誰かが穴山を死に追い込んだとしても不思議ではないですね。
それはそうとして、武田氏滅亡の第一歩は、やはり極めて有名な戦国の合戦である、長篠の戦いの結果によるものでした。一般的に長篠の戦いでは、日本最強の騎馬軍団で突入しようとする武田軍に対して、織田・徳川連合軍は3000丁の銃を準備し、防御柵から銃口を出して銃撃して勝利したとされています。当時、銃に弾を込めて撃つのには時間を要したため、銃砲隊は三つに分かれ、前の隊が撃っている間に後ろの隊が弾を込めるというやり方を採用したとされています。しかし否定的な意見も多く、真実であったかどうかは誰にも分りません。重い銃を扱う兵隊の体力的な問題や、熱く銃身の耐久性の問題などから疑義が呈され、この有名な三段撃ちはそんな長時間できるものではないとも言われています。何十年も前に制作されて『ズール戦争』という映画があるんですが、この映画ではアフリカの植民地にいた少数のイギリス軍部隊が現地のアフリカ人部族に包囲され、兵力差100倍かそれ以上か、というような戦いになるんですけど、イギリス側の将校は兵隊たちに三段撃ちをさせていました。ですから、三段撃ちというやり方は決して突飛なものではなく、銃に対する理解のある人物が頭をひねれば思いつく範囲のアイデアではないかと思いますけれども、まあ、今はそういうわけで、信長が三段撃ちさせたかどうかは微妙な問題になっているわけですね。仮に三段撃ちしなかったとすれば、最強騎馬軍団をを相手になんで信長が圧勝したのかという疑問が湧くんですけれど、津本陽さんは長篠の現場の様子を見て、土地があまりに狭隘であるため、馬がまっすぐ突っ込んでいくという戦法は困難だっただろうから、信長は若さゆえに焦る勝頼を長篠におびき出してつぶしたんじゃないかとの見解を書いていました。私はなるほどなあと、結構納得しましたねえ。
で、ですね、泣く子も黙る武田騎馬軍団はほとんど全滅に近い負け方をしました。武田軍はだいたい2万人くらい兵隊がいたらしいんですが、戦死者は1万2000人に及んだそうです。基本的にそれらの戦死者は織田・徳川陣営に突っ込んでいって亡くなっています。つまり、どんなに犠牲が出ても、武田の騎馬武者が敵陣に突っ込みさえすれば勝てるとの確信があったため、とにかく敵陣に乗り込むまで突っ込み続けたということだったんでしょうねえ。一部、敵陣に入るのに成功したらしいのですが、全体としてはたどり着く前に倒れてしまったようです。
武田軍は命からがら帰っていったわけですが、武田勝頼の本領はむしろこの時から発揮されたという面もないわけでもありません。なにしろ、それから7年間も彼は武田氏を守りました。完全敗北したにもかかわらず、信長・家康が一気呵成に攻め込むのはためらう程度に領国を守ったんですね。
信長は朝廷に働きかけ、武田勝頼を朝敵に認定させます。信長は一方で勝頼とも和平協議もやっていましたから、和戦両線というわけです。しかも、朝敵認定というやり方は、心理的な動揺を誘うものですから、なかなかに巧妙とも言えますが、信長がそんなことまでしなければならないと思うほど、勝頼はよわっちくはなかったということの裏返しとも思えます。
1582年2月、織田・徳川連合軍が武田領に侵攻を開始します。武田軍は有効な反撃ができないまま混乱に陥ってしまったと言われています。しかも穴山梅雪が徳川家康の方についたため、武田側では勝利を確信できない兵隊たちの逃走も相次いだようです。
武田勝頼と家族・郎党の一行は逃走中に滝川一益に追いつかれそうになり、自害して果てました。その時の心境を想像すると、本当につらいですね。せめて死に際が穏やかであったことをのぞみます。主君を裏切った穴山梅雪はその数か月後に殺されていますが、ざまみろとかちょっと思っちゃいます。鎌倉時代から続いた武田氏はこのようにして滅亡したというわけですね。
本能寺の変は同じ年の6月に起きています。徳川家康は武田討滅の祝賀のために京都を訪れて信長に会い、さらに堺へ観光旅行に出かけていた最中に本能寺の変が起きたというわけです。このとき、家康と一緒に穴山梅雪もいたんですが、とにかく故郷へ脱出して帰ろうという最中に殺されているわけで、謀殺されたんじゃないかなという疑いを抱きたくなるシチュエーションで穴山は死んでいます。家康も心の中では穴山を軽蔑していたに違いないですから、殺しちゃっていいよ。とか思っていたんじゃないかなという気すらしてきますね。
武田氏を滅亡させることは、信長・家康にとって悲願でしたから、ようやく達成されたというわけですが、武田滅亡直後にこんどは信長が死に、家康が死にかけたわけですから、実に絶妙なタイミングで物事が動いていったという気がしなくもありません。武田氏という非常に大きな存在から身を守るのが織田・徳川同盟の主たる目的でしたから、もはやこの同盟はそこまで必要ではありません。信長と家康が互いを敵として認識し始めたということはなかっただろうかと私は想像してしまいます。第二次世界大戦でベルリンが陥落した後、西からドイツに入ったアメリカ軍と東から入ったソビエト軍が出合い、すでに心の中では、次の敵はこいつだなと互いに思ったという話がありますが、そういったものが信長と家康の間にも漂ったのではないでしょうか。ちょっと深読みしすぎかもしれませんけれど。