大平正芳内閣‐40日抗争とハプニング解散

三木おろしの後、福田赴夫と大平正芳の間で結ばれた「大福密約」により、自民党総裁の任期を二年とした上で、二年後には再選を目指さず、福田が大平に禅譲するということで福田赴夫内閣が登場したものの、福田が約束を反故にし再選を目指しますが、福田が再選すれば角福戦争に決着がつき、田中角栄復権の目が摘まれてしまうということを田中派が懸念し、田中派の全面的なバックアップで大平正芳内閣が登場します。

大平正芳政権下ではソビエト連邦によるアフガニスタン侵攻と、それに対する抗議としての西側諸国のモスクワオリンピックへのボイコットがあり、ある意味では冷戦がクライマックスを迎えようとしていた時期とも言えます。その後、ゴルバチョフが登場して冷戦終結とソビエト連邦の崩壊まで10年ちょっとですが、当時はまだそういうことは分かりません。米ソそれぞれに人類を何十回でも滅亡させることができる核ミサイルを保有していつでも撃てるように相手に照準を合わせている時期であり、相互確証破壊だから安全なのか危険なのか判断できかねるというか、核戦争への漠然とした不安もつきまとうような時代だったとも言えそうです。

大平政権下で行われた総選挙では定数511に対して自民党の獲得議席が248と振るわず、福田・中曽根が大平に辞任を迫るという、いわゆる40日抗争が起きます。角福戦争的にも特に見どころのある、これはこれでクライマックスと言えます。自民党が敗けた理由としては、田中角栄への批判が強い中、大平が田中の下僕であるかのように見えたことは大きいかも知れませんが、三木おろし、大福密約と、政治の世界が椅子取りゲームに熱中している様子に対して国民に嫌気がさしたということもあるかも知れず、そういう意味では大平正芳に責任があるというよりは福田にも責任があるとも言えそうですが、いずれにせよ、自民党が分裂状態に陥り、大平は少数内閣でのかじ取りを迫られます。より田中依存を強めざるを得ないという、矛盾と心労のかさむ状況になっていたと言ってもいいかも知れません。

衆議院選挙後の首班指名選挙では、大平と福田に票が割れるという政党政治が機能としているとはとても言えない状況に陥りますが、決選投票で僅差で大平が勝利します。

翌年、社会党が、ハマコーがラスベガスで大損したことまで持ち出して内閣不信任決議案を提出すると、福田派、中曾根派議員が退場。どこにでもとりあえず噛んでくる三木派の議員も退場します。結果、不信任決議案が可決されるという、社会党も予期していなかった事態に至り、大平は解散権を行使。衆議院選挙が行われます。

公示日になって大平正芳は体調を崩して虎の門病院に入院し、小康を得た後に回復の兆しもありましたが、投票日を前にして亡くなってしまいます。自民党に同情票が集まり、自民党は284議席の安定多数を獲得します。

このように見てみると、大平正芳首相は就任後の解散で自民党の議席を減らし、福田・中曽根・三木にさんざん突かれて心労で亡くなったようにしか思えず、大変に気の毒で、結果として自民党が選挙に勝ったということは、それらの人間的過ちのつけを社会党が支払いというなんだかよく分からない展開を見せていたということができるかも知れません。

自民党の新総裁は田中角栄の意向が反映され、鈴木善幸が選ばれます。


福田赴夫内閣‐約束

三木武夫が政治的指導力の限界を呈する形で総辞職し、その次に自民党総裁・内閣総理大臣に指名されたのが福田赴夫です。三木の後継者には大平正芳と福田が取り沙汰されていましたが、都内のホテルで福田と大平がそれぞれの派閥の幹部の立ち合いのもと、総裁任期を二年に縮小した上で、福田の任期が終われば大平に禅譲するという密約がなされ、総裁選で福田が勝利するという展開になります。

福田赴夫は任期中に日中平和友好条約を締結したり、アジア開発銀行を作ったり、ODAを活発化させたりすることで、アジアを主軸に置いた外交を展開します。21世紀の現代、アジアの繁栄ぶりは世界史的にも記憶されていくことになるはずですが、その基礎を築いたという意味では、大きな意味があったかも知れません。また、戦争中の日本が「大東亜共栄圏」という理念を掲げますが、福田の時代になってようやく、戦争という手段に頼らずにそれをやったという意味でもちょっと感慨深い面もないわけではありません。

さて、その福田ですが、月日はあっという間に過ぎ去って、大平への禅譲の日が近づいてきました。過去、吉田茂鳩山一郎に「鳩山さんの公職追放が解けたら政権を返す」と約束しておきながら、その約束を反故にしていきますが、福田も大平への約束のことは忘れたかのように再選を目指して総裁選に立候補します。

悪い言い方をすれば考えが甘かったとも言えるのかも知れないのですが、大平正芳は田中角栄の盟友であり、田中派が攻勢をかけることで、実際の総裁選挙では大きな差が開き、大平正芳が次期首相として指名されます。福田が密約で首相になり、その前の三木が椎名裁定というちょっと傍目には分かりにくい裏の駆け引きの結果で首相になったことを思えば、公正明大な投票で選ばれた分、まだましなようにも思えてきます。

その後、首相が変わる毎に福田赴夫再登板論が浮上し、本人もなかなかやる気だったようですが、それが実現することはありませんでした。田中角栄のカムバックへの執念は有名なものですが、福田と田中が互いに「お前にだけにはやらせない」と潰し合い、双方ともに挫折したと見ることもできるかも知れません。

福田首相時代にダッカ日航機ハイジャック事件が起きますが、この時福田は「人命は地球よりも重い」という名言(迷言?)とともにハイジャック犯たちの要求を受け入れて人質の解放に成功しています。こんにちでもこれは一つの議論のしどころであり、テロリストに資金を渡すのは絶対ダメと考えるべきか、やっぱり人命優先でよかったと思うべきかで意見の割れるところではないかと思います。私個人としてもどっちが正しかったかということについては本当に何とも言えません。

いずれにせよ、時代は大平になりますが、三木派、福田派がなどが内閣不信任決議で欠席するというパフォーマンスに出て、いわゆるハプニング解散へとつながっていきます。

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田中角栄内閣‐日中国交正常化と暗転

佐藤栄作の派閥議員を大方抱き込んで田中角栄は田中派を旗揚げします。佐藤栄作は後継総裁に福田赴夫を推していましたが、福田を破り、田中角栄内閣が登場します。三角大福中時代の始まりであり、角福戦争の始まりでもあります。

田中角栄は戦争中からその才覚を発揮し、朝鮮半島に軍需工場を建てる計画(敗戦でとん挫)から巨額の富を得て、金満政治家として政界で頭角を表し吉田茂の側近とも言われていきますが、同時にその人間性に惚れた人も多かったと巷で言われています。ただ、どんな風に豊かな人間性を持っていたのか、少なくとも今残っている動画や写真からは推し量り難いものがあり、実際に会った人ではないと分からなかった部分もあったのかも知れません。

ある時、東京の椿山荘で田中角栄がスピーチをすると、いかにも良家のお嬢様という感じの方が角栄に花束を贈呈した際、角栄はお嬢様にポケットから一万円札を取り出して握らせようとし、公衆の面前でお金を受け取ることに躊躇していたお嬢様は角栄の顔を潰すわけにもいかないので渋々受け取ったというエピソードがあるそうです。その時、周囲の人から「お嬢様が困っていたじゃないですか」と言われ「君ね、お金をもらって嬉しくない人間はいないんだ」と反論したと言います。

私はこのエピソードに田中角栄という人物のいろいろなものが詰まっているように思えてなりません。おそらく田中角栄はこの時、感激したんだと思います。華やぐように美しく、かつ清楚で身ぎれいな良家のお嬢様がわざわざ自分に花束を届けてくれたということに感動したんだと思います。そして、その感激と感謝の気持ちを即座に表したいと思って彼の頭に浮かんだのはお札を渡すことだったのです。

どこまで言ってもお金の人とも言えますし、良家のお嬢様に感激する素朴さに私は心が打たれる部分もありますが、田中角栄の限界が見える気がしないわけでもありません。

佐藤栄作と福田赴夫を倒して首相の座についた田中角栄は、日中国交正常化という大仕事を成し遂げます。結果として台湾が完全につまはじきにされることにもなりますので、良かったのか悪かったのかはもう少し後世にならないと、少なくとも中国と台湾の間で話がつかないことには判断しかねるようにも思えます。

その後、文芸春秋に『田中角栄研究』が掲載され、田中金脈政治が世に問われることになり、激しい批判の中で田中角栄内閣は総辞職する展開に至ります。当時、新聞記者たちは田中角栄のお金をばら撒く政治首相をよく知っており、知っているけど、書くほどのことではないと思って書かなかったのだと言われます。いわゆる記者クラブと政治がどういう関係にあったかが推察できるエピソードであったとも言えます。

その後の政治の世界は首相返り咲きを狙う田中角栄と、後に首相になってやはり返り咲きの好機を伺う角福戦争の文脈で語られるようになっていきます。