言語の覇権は帝国主義、植民地主義、二つの大戦を経て結局は英語が握り世界語になりましたが、フランス語やスペイン語が覇権を握る可能性はあったのでしょうか?

やはり英語が一番強いという事実は揺るがなかったと思います。福沢諭吉が長崎と大阪オランダ語を勉強し、江戸へ移ってから横浜で外国語をたくさん目にするんですけど、看板とかが全然読めなくて驚くんですね。看板はどこも英語であると知り、彼は急いで英語の勉強を始めます。これはつまり、19世紀半ばの段階で横浜で暮らす欧米人たちの間で既に英語優位が確立されていたことを意味します。

じゃ、フランス語はどうだったのでしょうか。フランスは長くヨーロッパの大国として認知されていましたが、それは主としてブルボン王朝からナポレオン時代にかけてのことであって、本格的に帝国主義が世界に広まる19世紀後半から20世紀前半に於いては、ちょっと弱い国に転落していました。ナポレオン3世はベトナムを植民地化しましたが、それはむしろ数少ない成功例と呼ぶべきであって、日本での英仏代理戦争と言える戊辰戦争イギリス側の勝利、インドでもイギリス勝利、アフリカでもイギリス勝利ですから、科学技術の発展により世界が狭くなった20世紀ではフランスに世界を主導するだけのパワーはありませんでした。パリ解放でシャルルドゴールが連合軍から戦車をかしてもらってパリ入城の先頭に立ちますけれども、このエピソード自体が、フランスは名目上の戦勝国でしかないことを示しています。

じゃ、スペインですけど、スペインが隆盛を極めたのは大航海時代ですから、ナポレオンどころの話じゃないんですよね。南米諸国は次々と独立するし、メキシコはナポレオン3世の計略でフランスが獲得しかけたこともあります。米西戦争でももちろんアメリカの勝ちです。

というわけで、スーパーパワーがスペイン→フランス→イギリス→アメリカへと変化していく中、我々はちょうど、英米という2つのスーパーパワーの時代の終わりごろを生きていることになると思いますから、そりゃ英語だよな。と言わざるを得ない感じではないかと思います。

さて、今後、中国がスーパーパワーになるかと言えば、私は難しいと思いますが、世界的な天下三分の計みたいな感じで米中が勢力圏を分け合うことはあり得ると思います。



大阪府にまつわる体験、エピソード、雑感、知識、トリビア等をお聞かせ下さいませんか?

大阪市役所が淀屋橋にあるわけですけど、そのすぐ近くに適塾跡があるんですね。で、淀屋橋ってどういうところかというと、江戸時代は日本中の諸藩の蔵屋敷がひしめき合い、諸藩の御用を請けるための商人がひしめき合い、流通のために舟がぎっしりとひしめき合う日本経済の中心であったわけですよね。福沢諭吉の父親も蔵屋敷で働くお侍さんで、諭吉はその空気を吸って育ち、すぐ近くの適塾で学んだということになります。戦前は大阪の方が東京よりもモダンでおしゃれで発展していたと言われていますが、それは江戸時代からの経済的な基礎があったからで、しかも適塾はまさしく日本近代を支える人材を育てた場所だったわけですから、私は先日適塾跡を歩き、ふと「全てはここから始まった」とつぶやいてしまいました。



佐久間象山の海防策

佐久間象山は幕末の蘭学者として子弟に吉田松陰や勝海舟のような超大物がいたことや、アメリカとの交渉事と担当したことなどでつとによく知られています。更に最期は京都で暗殺されるという運命を辿っていますから、尚のことドラマチックで、しかも残っている写真もやたらと迫力がありますから、そういった意味でも印象深い人物です。

松代藩士でもともとは儒学を勉強していた学者ですが、幕府が藩主を海防掛に任命したことで顧問官のような立場になり、急ぎ蘭学に取り組み魏源の『海国図志』を取り寄せたり、オランダ風説書に目を通すなどをして海防のための基本政策のようなものをまとめます。海防策、海防論、海防八策などと呼ばれます。

彼の海防論は目を見張るほど正鵠を射たもので、イギリスが現在、中国を好き放題に切り取っており、中国のことがだいたい終われば次は日本を狙ってくるであろうこと、日本の武士は白兵戦には強いが海戦にはそもそもノウハウが全くないため非常に心もとないこと、仮にイギリスの江戸上陸を阻止することができたとしても、先方は江戸が大都会で食料物資の集まる大消費地であることを知っており、太平洋のどこぞの島を占拠して軍艦を数隻でも浮かべておけば、日本列島の周囲を巡る廻船を襲撃して江戸に大きなダメージを与えることが可能であることなど、シーレーンまで見通して現状の厳しさを藩主に訴えています。その上で、日本では西洋軍艦の建造が長らく禁止されていたが、将軍家慶の英断でそれが可能になったことを高く評価し、まずはオランダ船を20隻ほど購入して操練し、ノウハウを得、ゆくゆくは自前の西洋軍艦が持てるようになるべきと具申しています。西洋からマスケット銃が入って来た時、日本人は見よう見まねでそれを試作し、ゆくゆくは本格的な銃の大量生産国になったという過去の歴史をよく踏まえた上で、まずは西洋軍艦に触ってみようというわけです。また、西洋軍艦は金属でできているわけですが、長崎でいろいろ輸入するために国内の銅貨がどんどん流出しているのを制御し、その銅を用いて軍艦の資材に充てるという提言もしています。鉄の船と銅の船が戦えば、勝敗は明らかでまず間違いなく鉄の船が勝つはずですが、木の船よりは頑丈なことは間違いないでしょうから、とりもあえずも金属の確保ということを考えていたようです。慧眼と言えます。

その後日本では尊皇攘夷思想が強くなり「西洋かぶれ」と見做された象山は上にも述べたように暗殺されてしまいます。ですが、象山はそもそも儒教を学んだ人であるため、人間観や世界観は儒教を基礎にしており、道徳は東洋が優れており、芸術(ここでは技術のこと)は西洋が優れているという発想法が彼の出発点であり同時に生涯を貫いた結論であったようにも思えます。人間性から生活習慣まで西洋風にすべしと考えた福沢諭吉とはこの点で大きく異なりますし、或いは世代の違いというものもあるのかも知れません。

佐久間象山は人生の終盤に於いて、まず吉田松陰がペリーの船に乗り込もうとした事件に連座する形で失脚し、蟄居。次いで慶喜が意見を求めるというので京都に行って暗殺されてますので、ふって湧いた災難とはこのことだとどうしても思ってしまいます。




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西郷隆盛‐利他的サイコパス

西郷隆盛‐利他的サイコパス

西郷隆盛は維新三傑の一人に数えられ、剛毅さ、大胆さ、無私の精神、大局観など稀に見る大人物ともてはやされています。しかし、彼の歩んだ道を辿ってみると、かなり無茶というか、精神的にいかれた感じの人であった可能性も否定できないのではないかと思えます。

例えば、藩父島津久光とタイマンなみに意地の張り合いをしたこととか、下級藩士ながら京都で暗躍し、同志の僧侶月照を殺したこと(所説あり)、小御所会議で山之内容堂が異論を唱えて引かない様子を聴いて「殺せばいいじゃないか」という怖い意味での豪胆さ、最後まで徳川慶喜を殺そうとした執念、どれをとっても豪胆、剛毅というよりは目的のためなら手段を択ばぬサイコパスで、世渡りというものを一切考えておらず、常に明日死んでも別にいいという思い切り良さで乗り切っていたことが見えてきます。維新後も征韓論という無茶を唱えたり、西南戦争も始めから死んでもいいやで始めた感がどうしても拭えず、その心中には尋常ならざる激しい炎を抱えていたのではないかと思います。

しかしながら、そのような人物であるにもかかわらず、名声、声望、人望に於いて西郷隆盛ほど突出した人はいないのではないかとも思えます。日本の歴史で彼ほど高く賞賛される人を見つけるのは難しいでしょう。彼は島津久光と対立することで、二度島流しに遭っています。島流しにされていた間、やることがないのでひたすら漢書を読み、勉強したそうです。漢学の世界は2000年前に完成されているもので、道徳、倫理、世渡りとのバランスの取り方、勝ち方、情けのかけ方など成功法則の塊みたいになっていますから、西郷隆盛は島流しに遭っている間にそのような人間とは如何にあるべきか、或いは利他性、人徳というようなものを学び、結果として後天的な自己教育、自己訓練の結果、声望のある人物へと変貌したのではないかと私には思えます。目的のためには手段の択ばぬサイコパスですから、島流し中は本気で勉強して納得し、サイコパスらしくその後は学んだことを徹底したのでははないかと思えるのです。

さて、そのような西郷隆盛は最期は全く勝つ見込みのない西南戦争を始めて、それでもとことん山県有朋を困らせ、最終的には切腹して人生を終えます。明治維新の際には徹底した細心さ、緻密な計算をした西郷が勝つ見込みのない戦争をしたことは現代でも不思議なことのように語られることがありますが、西南戦争のきっかけを作ったのは薩摩の不平士族たちであり、西郷は「そうか。分かった。一緒に死んでやるよ。どうせ死ぬならみんなでパーッと死のうじゃないか」と決心し、サイコパスらしくそれを貫いたのかも知れません。

西郷は遺体が確認されていないため、生存説はついて回り、福沢諭吉も西郷隆盛はロシアにいるらしいという文章を書いたこともあるようなのですが、合理性を追求した福沢諭吉には、西郷的サイコパスが理解できなかったのではないかという気がします。あの西郷があんな風に死ぬわけない、絶対に復讐してくる。と福沢諭吉の思考回路ではそのようにしか思えなかったのかも知れません。もっとも福沢諭吉は外国語の能力だけでこつこつ出世した努力家タイプで、明治維新という天下の大転換には直接関わることができませんでしたから、その辺りのルサンチマンがあって、福沢が権力の末端に入り込んだのは咸臨丸の水夫という肉体労働で勝海舟のことはめちゃめちゃ嫌いでしたから、西郷隆盛に対してもせっかく自分が出世のレールに乗り始めた幕府を倒した恨みもあって、「潔く死んでるわけがねえ」とついつい思ってしまったのかも知れません。しかし、西郷隆盛がサイコパスだという視点から見れば、死ぬと決めたからにはその目的を達成したということなのだろうと私には思えます。



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福沢諭吉と勝海舟

前回、『徳川慶喜と勝海舟』で、「多分、徳川慶喜は勝海舟が嫌いだったと思う」と書きましたが、福沢諭吉も勝海舟のことがかなり嫌いだったことはつとに知られています。

福沢諭吉と勝海舟の出会いは咸臨丸でアメリカに行った時のことで、福沢諭吉は一水夫、勝海舟は艦長待遇です。おそらくは言いたい放題でかなりわがままな性格を地で行っていたであろう勝海舟には反感を感じたらしく、後年、船酔いで部屋に閉じこもっていたという些細なエピソードから始まり、明治後期に入って福沢諭吉が自分の言論メディアとして活用していた『時事新報』で書いた『痩我慢の説』では、三河武士なら勝ち負けを考えずに薩長と勝負するのが本来であるはずなのに、負けることを前提にへらへらと和睦して、しかも維新後は新政府の碌を食むとは何事かと「勝安房」と名指しで批判しています。

福沢諭吉と勝海舟はともに明六社のメンバーですが、何かの会合でばったり出会ったときに勝海舟があまりにふざけた服装をしていたので、「あんたアホか(大意)」という風に言ったという話も読んだことがあります(福沢諭吉は大阪育ちですので、かなり重厚な大阪弁を使いこなしたであろうと推量します)。

勝海舟はおしゃべりとおふざけが大好きのちゃきちゃきの江戸っ子ですので誰かにいじられたかったに違いなく、この時は福沢諭吉に悪意ある突っ込みをされてそれでも嬉しかったのではなかろうかと想像します。誰にもいじられないときは、自分から誰かをいじりに行ってうざがられていたに違いないと私には思えます。

福沢諭吉と勝海舟は外交面でも考えの違いがあり、福沢諭吉は金玉均の失脚を経て失意の果てに『脱亜論』を書き、もう、アジアとは関わりたくない、外交は欧米とやればいいじゃないかという主旨のことを書きます。稀にですが、福沢の脱亜論をしてアジア侵略主義の先鞭と勘違いしている人がいますが、それは真逆の解釈で、繰り返しになりますが関わりたくないというのがその趣旨ですから、「侵略」のようなことをすればべったりと付き合わなくてはいけませんので福沢はそういうことを選択肢に入れていません。

一方で勝海舟はいわばアジア連合主義で且つ侵略には否定的でした。勝海舟は李鴻章のところにスパイまで送り込んでいろいろ清朝のことを調べたそうですが(スパイを送ったというのは勝海舟本人の言に拠りますので真相は不明ですが…)、中国があまりに広すぎて日本人に扱いきれるような土地ではないということと、中国人は商売人の文化が発達しているため、計略策略に優れており、その点で日本人はとても敵わないことを主張しています。私も中国語を長く学んで中国人や台湾人と多く話をしましたが、確かにその謀するところの奥深さには恐れ入るところがあり、一筋縄でわかったつもりになれる相手ではありません。その点、勝海舟は慧眼と言えます。その前提で、勝海舟は中国人は敵にするとしんどいが、味方につけるのが得策で、連合して欧米と対抗することをよしとしていたようです。玄洋社に通じる考えです。

思想信条主義主張にどれが正しくてどれが間違っているというものを安易に断ずることはできず、福沢諭吉と勝海舟のどちらがより正しいということは言えませんが、私は個人的には三田会のメンバーとして福沢諭吉先生に肩入れしたいです。ごくごく個人的にですが。



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