社会主義のいい点は?

「社会主義のいい点は?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

出発点が善意だということは信じてもいいと思います。ですが、いい点はそこだけです。社会主義は平等な分配を目指すものの、何を以て平等とするのかという哲学的な議論で必ず破綻する運命にあると思います。

たとえばサンクトペテルブルクに暮らす人と、オデッサに暮らす人に同じ分量の冬用の化石燃料を分配することはナンセンスです。社会主義であれば、役所が誰に何をどの程度分配するかを決めなくてはいけませんが、常にあらゆる分野で役所が最適解を導き出すことは不可能であるため、残念ながら社会主義は本質的に不平等を生み出す仕組みであると言わざるを得ません。地域や個々人の需要は千差万別であり、はっきり言えば市場に任せてしまった方がより適切な分配が可能になると私は思います。

おそらく、富めるものは永遠に富めるとするピケティの議論を用いて私に反論する人はいると思います。ですが、仮に世界の金融資産の90パーセントを個人が持っているからどうだというのでしょうか?その人は一人で世界の食糧を買い込み、みんなに分け与えないなどという無駄なことをするのでしょうか?結局のところ、市場に任せて人々に食糧が供給されていかざるを得なくなるのです。土地にしても同じことです。結局のところ大地主は適正価格で人々に住居を提供せざるを得ないのです。

では必需品が滞った場合はどうでしょうか?それは分配に問題があるのではなく、生産と流通に問題があります。生産と流通を一刻も早く改善するには、やはり市場に任せることで最適解を得られると私は思います。



【漢文】孔子の大同と小康と空想的社会主義的ユートピア

春秋戦国時代の春秋と戦国の一線を画す、後の東洋世界に巨大な影響力を与えた孔子は、魯国にとどまり、世を嘆いたそうだ。どのように嘆いたかというと、過去、それもうんとうんと過去の五皇の時代は麗しい理想的な世界だった。どれくらい理想的だったかというと、能力のある者は選ばれて指導者になるが、専制などとは全く違う無視無欲の指導者であり、人々は平和に幸福に暮らしている。どれくらい幸福かというと病気の人や社会不適合な人もみんな救済されていて、困っている人がそもそも存在しない。困っている人がいたら理想的なリーダーがきちんと処理してくれるので安心してみんなが暮らすことができる。失業者はもちろんいないし、他人の家に泥棒に入るようなけしからん者もいないので、家の入口に鍵をかける必要もないというくらいに平和で理想的な世界である。これを大同というらしい。

検証不可能なくらいに昔のことを取り上げて理想的な世界だったといいきってしまうあたりに復古趣味的な孔子個人の傾向を見ることもできなくもないのだが、トマスモアの空想的社会主義を連想させる、かつてあったはずのユートピアのイメージが孔子の念頭にあったに違いない。

大同と小康というものは有名な子曰くで始まる問答のある一節で、『礼記』に書かれてあるのだが、ちょっと話が飛び飛びな感じになっていて、孔子はまず大同について述べた後、現代(当時)について語りだす。その現代というのは信賞必罰で人は私利私欲で動いているが、まあそれなりに秩序は保たれているということになっていて、辛辣に魯国の王を批判するような内容ではないものの、大同にははるかに及ばないので、孔子の舌禍みたいな部分とも理解されている。孔子は一言多い、言わなくてもいいことを、敢えて不用意に言ってしまう性格だったようだ。

で、現代を軽く憂いた後で周の時代は良かったと、今よりは良かったが大同よりは劣るということで、その状態を小康と呼んだ。話が神話的古代ぐらい昔から入って現代に入って中間について話すという流れなので、ちょっと飛び飛びになっており、よく読めば「めっちゃ昔は空想的社会主義的なユートピア」で、「ある程度昔は、そこそこ良くて」「今は普通」ということを言いたいのだということが分かった。なぜ時間軸的に沿って言わないのか、しかも時代が下るにつれてだんだん世も末感が強くなっていると言いたいわけだから、時間軸に沿って話した方が分かりやすいのではないか、なぜそうしないのか、本当に孔子は頭がいいのだろうか。というような疑問を持ちつつ読んだ。

今、漢文を教えてくていれる人がきっちり頭の中で体系化されているので、この漢文も難しいことは難しいのだが、よく理解できた。教えてくれる人も孔子は時々ちょっと問題あると言っていたので、私の疑問も的外れというわけでもないのかも知れない。現代人の我々の価値観から言えば、この一節では理想的な世界では全ての男の仕事があるので、女は家から出なくていいということが書かれてあるため、男尊女卑が孔子の根底にあったということになり、批判されることもあるそうだ。

いずれにせよ、興味深いのはトマスモアの空想的社会主義と孔子の大同の世界がかなり似通っているという部分で、孔子がある種のコスモポリタン的な発想を持っている人だということが分かったのは収穫だった。漢文の世界は奥深いぜ。



関連記事
【漢文】易経とは何か

トマスモアの『ユートピア』の理想と現実

15世紀後半から16世紀前半までを生きたイングランド人のトマスモアは、その著作である『ユートピア』で、完全に理想的な世界を表現しています。それは、農業生産が完全自給の世界であり、人々の労働時間は一日6時間と定められ、都市と農村の格差を無くすために、二年ごとに都市と農村の人々を入れ替え、更には最も便利な蓄財のツールである貨幣は廃止される世界です。

以前、フランス映画で、とある地球外の文明人たちが、貨幣のような不便で人の心を濁らせる存在はすでに不要になっている生活を送っていましたが、集会場で物々交換をしていたので、「それではかえって不便ではないか…」という感想を持ってしまい、やっぱり通貨無き社会というのは難しいものなのではないかとも思えます。

もし、トマスモアの描いたような、労働時間も決まっており、一切の格差がないとすれば、それは確かにいい社会のように思えますが、人には経済と労働以外の格差も存在するため、完全に格差を消滅させることは不可能というか、それを目指すとかえって人間性を失うことにもなりかねず、経済に限定して格差をなくし、それをして理想郷だと考えるのは、私はちょっと浅はかなのではないかと個人的には思えます。また、そのような社会は変化のダイナミズムに乏しい可能性が高いように思え、結果として多様性を容認せず、環境要因の変化にももろい社会になるのではないかという気もしなくもありません。

格差はあるけど、平和でお気楽だったのが江戸時代です。武士は今日と同じ明日を生きることができることで安心して仕事をすることができます。しかも、臨時で寝ず番みたいなのはあったとしても、基本的には夕方には家に帰れるという理想的で平安な仕組みです。仮にこれについて社会主義的な批判をするとすれば、そのような安心安定は農村から搾取によって成立していたため、容認し難いということになるのではないかと思います。実際、現代人で武士のような特権階級が実際に存在することがいいと思っている人はいないでしょうから、やはり、江戸時代の武士的平安はトマスモアの理想郷とはかなりの違いがあると言えると思います。

一方、江戸時代の農村では、確かに東北地方の冷害のような深刻なことも起きたとはいえ、農村は農村で高い自治を保ち、かつ、平和で、豪農と呼ばれた家も多かったように、それなりに豊かさを享受していたのではないかと思います。ですが、農村の高い自治というものがくせもので、私の頭には『楢山節考』的な生きづらさが浮かんできてしまいます。

興味深いのは、平和主義者であったトマスモアは平和維持のための強力な軍隊の存在が必要だと考えていたことです。強制力がないと、もっとお金がほしいから一日八時間働くというけしからんという輩が出てくるとも言えますし、都会の生活が好きなので、農村に行きたがらないという人も出てくるということもあるかも知れません。理想郷を他者から狙われないための自衛という意味も当然に入るはずです。一歩間違えれば文化大革命に突入しかねない話とも思えます。トマスモアが考えていたのは、ホッブスのレヴァイアサンとか、ナウシカの巨神兵みたいな感じのものかも知れません。宮崎駿は巨神兵のような存在の必要性を認めながらも拒絶したいという矛盾と葛藤の中をナウシカで描いたのだと思いますが、最近の南スーダンPKOとか、或いは力の均衡による平和とか、パクスアメリカーナとか、いろいろな議論をはらみそうな論題ではあるかも知れません。

これは私個人の人間観にかかわることですが、やはりトマスモア的理想郷を作るためには、その社会に参加する人間に高い倫理性が求められるのではないかと思えます。市場原理主義やグローバリズム、自由経済主義のようなものは、社会主義とは逆の発想のようにも一見思えますが、市場原理主義や自由主義経済は虚偽の表示をしないなどの高い倫理性が求められる仕組みであると私は考えていて、トマスモアであろうと、アナーキズムであろうと、経済リベラルであろうと、個々人に高い倫理性が求められますので、突き詰めるとあまり違わない社会になるのではないかとも思います。

トマスモアはヘンリー八世の離婚に反対して処刑されるという、命をかけて信念を貫いた人ですが、彼自身も、高い倫理性を実践すべく日々自己を教育していたのかも知れません。