関ケ原の戦い‐家康勝利の理由

明治時代、軍事指導のために日本に来たドイツ人のメッケルは、関ケ原の戦いの布陣の図面を見た瞬間、西軍の勝利であると発言したと言います。最近は諸説あって、本当に陸軍大学などに伝わった、古典的な関ケ原の合戦図面が正しいかどうかについては議論がありますが、それでもそこまで大きく実態から離れてはいなかったでしょうし、伝統的に伝わる図面では西軍が家康の陣地を挟み撃ちする形になっていますから、挟み撃ちされたほうが負けるという絶対的な戦いの定理に照らし合わせて、メッケルは迷わず西軍の勝ちであると発言したわけですね。

もちろん、我々は西軍は負けたことを知っています。しかも半日で西軍は総崩れになり壊滅的な敗北を喫したわけです。なぜ、そうなったのか、今回はそれを確認しておきたいと思います。

関ケ原の戦いでは、徳川秀忠の軍が真田の領地で足止めされてしまい、東軍の戦力が整わないままに戦いが始まっています。西軍でも毛利輝元が大坂城の大部隊を連れてこないまま戦いが始まっていますから、どっちもどっちとも言えますが、実は陣地の構成や兵隊の数とは関係のないところで、戦いの結果は決まっていたということができるのです。

というのも、家康は関ケ原の戦いでは、関係者全員を騙す、最後まで騙しぬくとの覚悟を決めて戦場に臨んでいます。そして目論見どおりにみんなが騙されまくって家康勝利になったのです。家康は心理戦で勝利したというわけです。ここで家康がどんな風にだましたのかを見てみましょう。

最大の騙しは、家康があくまでも豊臣秀頼の家臣としての言動を決して崩さなかったことです。これにより、福島正則のような豊臣家への忠誠心が極めて厚い武将を東軍に取り込むことに成功しました。もし家康が秀頼に対して反旗を翻していると考えられたとすれば、多くの武将の支持を失っていたことは違いありません。すでに天下統一がなされた後の時代ですから、誰も戦乱の世に逆戻りしたいとは思っておらず、家康に協力すれば謀反人の汚名も着なければならぬとなれば、みんな嫌がって逃げてしまいます。しかし、家康は関ケ原の戦いを徳川vs豊臣の戦いではなく、徳川vs石田であるとの演出をすることに成功しました。福島正則は石田三成のことが殺したいほど憎んでいましたから、秀頼に反抗するのではない限り、家康の味方についたというわけです。福島正則はこの点について徳川家康に確認する手紙を送っていますから、やはり本心では不安に感じていたのでしょう。まあ、ここは見事に家康に押し切られてしまいました。福島家は戦争が終わった後は言いがかりをつけられてつぶされていますから、ここはかわいそうですが、頭脳戦に負けてしまったというわけです。

次の家康の騙しは毛利輝元に向けてなされたものです。毛利輝元は石田三成に依頼されて西軍の名目上の総大将になり、大坂城に入っていました。家康は毛利輝元に手紙を送り、戦争が終わったら大幅に毛利氏の領地を増やすから、大坂城から動かないでくれと頼んでいます。毛利輝元はそれを受け入れ、大坂城から動きませんでした。

関ケ原の戦いの布陣図を見ると、徳川家康の背後をつくことができる位置に、毛利秀元、安国寺恵瓊、吉川広家の部隊が存在しましたが、この3人は毛利氏の武将なわけですね。家長の毛利輝元が戦争に参加するふりをするだけなのですから、彼らも戦うふりをするだけで本気で家康を攻めるつもりにはなりませんでした。要するに図面の上では西軍が家康を挟み撃ちできる状態でしたが、実際には家康の背後の西軍はやる気がなかったのです。家康の陣地の背後は安全だったというわけです。

戦争が終わった後で毛利は領地を増やしてもらえるどころか領地を削られています。毛利氏はこの恨みを250年忘れず、幕末の動乱の時代にひたすら討幕運動をするわけですから、本当にいろいろなことが因果応報みたいになってます。安国寺恵瓊に至っては斬首されていますから、だまされて斬首って本当に気の毒です。

さて、最後に小早川秀秋ですが、彼は騙されたというよりもいろいろ考えて、西軍を見捨てることにしたわけですが、かといって本当にぎりぎりまで悩んでいたかというと、そうとも言い難いところがあります。というのも、家康とは密約が成立してはいたのですが、その密約の実行を担保するために家康から監視役が送り込まれていました。ですから、秀秋がぎりぎりまでどっちが勝ちそうなのか旗色をうかがっていたというのは、後世に脚色されている可能性があります。とはいえ、もし本当に家康が負けそうなら、家康から送られてきた監視役なんて殺してしまえばいいわけですから、やはり戦場で家康有利と判断したというのはあるでしょうね。また、小早川秀秋には、あまり秀頼に肩入れする義理はなかったんです。もともと秀秋は将来、秀吉の後継者になることを期待されていた時期がありました。秀秋は秀吉の妻のねねのお兄さんの息子として生まれ、幼少期に秀吉の養子になりました。秀吉とは直接の血のつながりがなかったものの、当時、秀吉の姉の息子である秀次が秀吉の後継者と目されていて、秀次にもし何かあれば、秀秋が後継者になると見られていたのです。

ところが秀頼が生まれてきます。秀次は殺され、秀秋は小早川家に養子に出されました。秀秋の場合、まだ養子に出されただけで済んでよかったとすらいえますが、秀頼が生まれてきたおかげで、豊臣氏から冷遇されたわけですから、秀頼に対して処理しきれない感情があったに違いありません。ですから、家康から甘い言葉で誘われると、だったらそうしようかな。という揺れる気持ちが常にあって、そこを家康に付け込まれたとみるべきかも知れません。関ケ原の戦いが終わって2年ほどで病死していますが、20代の若者で、一番健康な時期ですから、毒殺のような気もしてしまいますが、いずれにせよ裏切者にはろくな未来がないようです。

さて、石田三成はどうすればよかったのでしょうか?実は三成は秀頼の出馬を狙っていたようなのです。もし、秀頼が戦場に出てきて、後方でいいので座って戦いの行く末を見守っていたとします。もちろん、秀頼を擁立しているのは石田三成ですから、果たしてどちらが正規軍は明らかになります。徳川家康の味方をすれば、謀反人扱いされてしまうわけですね。福島正則は反転して家康を狙ったでしょう。その状態で毛利輝元だけ大坂城にこもっているわけにもいきませんから、秀頼の隣に毛利輝元が座るという図になります。その場合、家康の背後の毛利の兵力が家康に襲いかかることになりますから、西軍勝利は間違いなかったでしょう。家康は殺されていたはずです。

豊臣氏が滅亡したのは、家康が様々な陰謀を巡らせたからですが、秀頼を外に出す勇気を淀殿が持っていれば、後の悲劇を回避することは十分可能なことだったと思います。陰謀はしょせん、正面切った、正々堂々としたものに対抗することはできないのですから、もし、淀殿と秀頼の母子に同情するとすれば、この時に出馬していれば…ということを悔やんでしまわざるを得ません。

というわけで、次回は豊臣氏の滅亡の話になります。



石田三成襲撃事件

豊臣秀吉が亡くなった後、豊臣家臣の間での対立が激しくなっていきます。「対立」と言うよりも、憎悪のぶつかり合いと呼んだほうがいいかも知れません。対立の主軸になったのは、加藤清正や福島正則を中心とする豊臣家武闘派家臣のグループと、石田三成や小西行長のような文系官僚タイプのグループによるやはり利害関係というよりは、感情的な対立と呼ぶべきものが表面化していきました。

加藤清正派も石田三成派もどちらも秀吉子飼いの武将であり、幼少年期から一緒に育ったような間柄なのですが、それゆえに感覚の合わない者同士、憎悪の深さも半端なかったらしいのです。

特に朝鮮半島での戦争の時は、石田三成のような文系官僚は輸送などのロジスティクスを担当し、秀吉に視察の結果を報告する役割を担った一方、清正は前線で体を張ったわけですが、自然、三成が秀吉にどのような報告をするかで、いろいろなことに違いがでてきます。今でも人事査定は誰がやるかで違いが出ます。まあ、そのようなことだと思えば、小さなことの積み重ねでついにゆるせなくなってしまったと加藤清正の感情が理解できないわけではありません。また、まじめに仕事をこなしただけの三成が、なぜ憎まれるのか、知るかそんなこと、迷惑な。と思ったとしても全く理解できないわけでもありません。要するにどちらにもそれなりの理があるということになります。

前田利家が生きている間は、まだ双方に対する置石みたいな役割を担うことができていて、対立の暴発を押しとどめることができていたようなのですが、前田利家が死ぬと、もう止まらないとばかりに加藤清正や福島正則たちが軍隊を組織して大坂の石田三成の屋敷を襲撃しようと動き始めます。

察知した三成は急ぎ伏見へと逃げるのですが、清正たちは伏見へ追っていき、遂には伏見城を包囲するという事態まで発展します。このとき、三成は伏見のいずれかの場所にいたはずですが、一説には伏見の自分の屋敷にいたともいわれますし、他には徳川家康の屋敷にかくまわれたともいわれています。真実はどうかはわかりませんが、徳川家康にかくまわれたとしても不思議ではありません。

というのも、当時の徳川家康は豊臣家臣の頂点である五大老の一人として伏見城で政務をこなしていましたから、要するに伏見城とその城下は家康のテリトリーであり、家康としては伏見城界隈で加藤清正と石田三成が個人的な恨みを理由に殺し合いをすることは止めさせる必要がありますから、家康が宿敵三成をかくまったとしても、家康の立場なら十分にあり得るのです。仮に家康の屋敷ではなく、伏見城内にかくまわれたのだとしても、家康の意思が働かなければ三成はかくまわれませんから、家康が三成を助けたという構図に違いはないのです。

当時、前田利家がいなくなった後では、家康の天下取りの構想を押しとどめるものはいませんでした。秀吉は大名が個人的に訴訟を取り扱ったり、婚姻関係を取り扱ったりすることを禁止すると遺言しましたが、家康はそういうのは無視して自由に動き始めていました。豊臣政権が家康に乗っ取られるとの危機感を持った石田三成とはすでにバチバチの対立関係にありましたから、事実上の敵同士でありながら家康が三成をかくまうというところに歴史のおもしろさがあるとも言えると思います。

加藤清正や福島正則は家康に説得されて石田三成を殺害することをあきらめます。石田三成もそのまま佐和山城へと帰り、引退の身になりますから、まあまあ、痛み分けといったところかも知れません。関ケ原の戦いが起きた時、加藤清正は九州の領国にいて動きませんでした。福島正則に至っては東軍に参加し、その先鋒になっています。

加藤清正と福島正則は石田三成同様に豊臣氏に絶対の忠誠心を持っていたことは確かなようなのですが、三成とは違って家康の野心に十分に気づくことができず、家康の老獪な手練手管で骨抜きにされてしまい、豊臣氏を守ることができなかったことを思うと、なかなか残念な家臣たちのようにも思えます。あるいは、家康の野心に気づかないわけではなかったけれど、三成への憎悪が優先してしまい、三成が采配を振る西軍には参加しようとしなかったというわけですから、彼らの大局を見る目のなさは気の毒なほどです。

福島正則は関ケ原の戦いの直前に家康にあてて出した手紙の中で、家康がこの戦いに勝った後も豊臣秀頼に対して反逆しないよう約束してほしいと求めています。家康はいくらでも約束したでしょうが、そのような空手形みたいな約束にすがりつつ、彼は結果として主君筋の豊臣氏を滅ぼすのに一役買っていたわけです。

加藤清正も福島正則も家康が天下をとったあとでいろいろ理由をつけられて家をつぶされています。だいたい、本来西軍につくのが筋な武将で東軍の側について長持ちした大名家はほとんどありません。やはり、そういうタイプの武将は家康からすれば敬意を払う対象ではないので、つぶしていいやと思うのではないでしょうか。小早川秀秋なんかもそうそうに不審な病死を遂げています。

武田勝頼が滅ぼされたときに、穴山梅雪が徳川家康に協力して武田氏を裏切っていますが、ほどなく不審な死を遂げています。家康は実家が弱小なので相当な苦労をした人ですし、三河武士の忠誠心以上の宝はないと気付いていたでしょうから、そのあたりがの倫理がちょっと怪しいやつには容赦なかったように思えます。

さて、石田三成は一応は家康のおかげで命拾いし、佐和山城で関ケ原の戦いのための構想を練ります。誰を引き込み、誰が裏切るかというようなこと、どこで決戦するかというようなことをいろいろと考えたと思います。現代風に言えば自民党総裁選挙の票読みみたいなことだったのだろうと思いますが、当時は負ければ殺されますからもっと真剣なものだったかも知れません。

しばらくしてから家康は会津地方の上杉氏を討伐するという理由で上方を離れて出発します。石田三成は上杉氏と気脈を通じて家康の出撃をうながしたわけですが、家康も自分が上方にいない間に三成が挙兵するであろうことを知った上で三成の動きを見つめいました。双方、分かったうえで、それぞれに騙されたふりをしつつ、だましあうという心理戦、駆け引きを経て、戦国日本の最終決戦である関ケ原へと突き進んでいくことになります。



司馬遼太郎『関ケ原』を読むと、関ケ原の戦いわけのわからない部分がわりとよく分かるようになる

関ケ原の戦いのわけのわからない部分は、一般的に豊臣秀頼を擁立した石田三成と徳川家康が戦ったということで説明されています。しかし、だとすれば豊臣政権という正規政権を守るための戦いであるにもかかわらず、なぜ秀吉七本槍と言われた福島正則が徳川家康につき、加藤清正は事実上の局外中立みたいになっていたのかということとがよく分かりません。

いろいろ読んでもわかったようなわからないような感じで上手に全体像をつかむことが分かりません。これは関係者、世間一般、などなどそれぞれにこの戦いの位置づけが違うことから説明が難しいややこしいことになっていることに原因があります。

まず、石田三成は徳川家康を謀反人と位置づけ、自分たちが豊臣政権の正規軍であるという立場を採って戦いに臨みます。一方の徳川家康ですが、そもそも上杉征伐を豊臣政権の正規軍という体制で行うために出発し、その途上で石田三成の旗揚げを知りますから、徳川家康こそが豊臣政権の正規軍という立場で、石田三成こそ謀反人という立場で戦いに臨むわけです。

ついでに言うと朝廷から見れば、関ケ原の戦いは石田三成と徳川家康の私闘という立場で事態の推移を見ていたものと考えられます。関ケ原の戦いから徳川家康の将軍就任まで3年もかかっているという事実は、朝廷が豊臣政権を正規の政権と見做していたため、私闘で勝っただけの徳川家康に将軍職を与える正当性があるとは当初考えていなかったことを示すものと思えるからです。

徳川家康に福島正則がついたのは関ケ原の戦いを大嫌いな石田三成をやっつけるための私闘と位置づけ、豊臣政権の正当性は一切毀損されないと思っていたかららしく、福島正則、加藤清正ともに豊臣政権への忠誠心は厚いものがあったと言われていますから、簡単に言うと大局観のようなものが全くなかったと考えるのが正しいように思えます。

百戦錬磨の大狸の徳川家康は、それをうまいこと言って、豊臣政権に挑戦するわけないじゃん。この戦いは豊臣政権の簒奪を狙う石田三成をやっつけるための戦いに決まってるじゃんという立場を貫き、まんまとそれに乗せられたという感じでしょうか。

もちろん、徳川家康は怪しいなあ、豊臣政権を潰して自分の政権を作ろうとしているんじゃないかなあと思った人は多いはずですが、そこからは心理戦も絡んできます。内心、徳川家康が次の天下を獲るだろうけど、豊臣政権に挑戦するのはスジが悪い。でも、表面上家康と三成の私闘ということなら、問題ないよねという立場で次の権力者徳川家康にすり寄るものが続出します。石田三成は嫌われまくったということで有名ですが、石田三成が嫌いな人は上に述べたような理屈で家康につくわけです。

一方、大局をきちんと見ていて、徳川家康をほうっておくと豊臣政権は潰されるよね。という立場で戦いに臨んだのが宇喜田秀家。漁夫の利でなんかとれるといいなあと思っていたのが毛利輝元。という辺りになるのではないかと思います。

さて、この戦争で誰がどちについたのかについては二人の女性の要素も無視できません。一人は秀吉の正妻である北政所、もう一人は秀頼の母親の淀殿です。北政所の目には、秀頼を生んだ淀殿に豊臣家を乗っ取られたような心境でしょうから、淀殿・三成同盟にシンパシーはありません。徳川家康に肩入れし、秀吉に恩を感じる大名に家康に加担しろとけしかけます。一方淀殿は三成と同じく人望にかけ、諸大名への影響力はありません。

突き詰めると、豊臣家内部の人間関係が分裂していたことが、徳川家康に隙を与えたとも言え、あらゆる権力が滅びる時はまず内部の崩壊があるということがこの場合にも当てはまるのではないかと思えます。司馬遼太郎さんの『関ケ原』を読むとその辺りのややこしいところがよく分かるようになります。

この戦いの以降、大坂の陣で豊臣家が完全に滅ぼされるまでの間、豊臣は豊臣で政権掌握者、家康は家康で政権掌握者というちょっとよく分からない曖昧な状況が続きます。これを終わらせるために家康は難癖をつけて大坂の陣を起こすわけです。

元々秀吉によって出世させてもらった豊臣家臣で家康に加担した大名たちを家康は快く受け入れていますが、戦争が終わった後はばんばん潰しています。家康が内心、裏切り者を軽蔑していたことを示すものではないかとも思いますし、やはり裏切るというのはいい結果をもらたらさないという教訓も含んでいるような気もします。

司馬遼太郎さんの作品に言及すると、島左近かっこいいです。私もかくありたいものです。



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原田眞人監督の『関ケ原』、観てきました。原田監督は「男にとって女性とは何か」を考え抜き、それが作品の内容に反映されていると私には思えます。で、どういう視点になるかというと、男性は女性に愛されなければ生きていけない(ある意味では独立性のない)存在であると規定し、女性から愛されるとどうなるか、愛されなければどうなのか、ということを問いかけてきます。たとえば『自由恋愛』では圧倒的な経済力にものを言わせて2人の女性を手に入れたトヨエツが、最後、女性たちに見放され悲しく退場していくのと対照的に女性たちは女性たちだけで存分に輝く世界が描かれます。『クライマーズハイ』では、妻に愛されなかった新聞記者が、妻以外の女性に愛され、後輩女性記者とは恋愛感情抜き(潜在的には恋愛感情はあるが、顕在化しない状態)で仕事に向き合います。

『関ケ原』では、石田三成を愛する伊賀くノ一の初音と徳川家康を愛する、これもはやはり伊賀のくノ一の蛇白(だったと思う)の2人は同じ伊賀人でありつつ、敵と味方に分かれるという設定になっています。石田三成を美化するスタンスで描かれ、徳川家康のタヌキぶりを強調する感じで描かれていますが、純粋で真っ直ぐな石田三成は行方不明になった初音を思いつつ、戦いに敗れて刑場へと向かいますが、その途上で初音が現れ、あたかも関係者でもなんでもないふりをして軽く会釈をします。石田三成と初音はプラトニックな関係ですが、その分、清潔感があり、石田三成という人物のやはり純粋さを描き切ったように感じられます。生きているということを見せるために彼女は現れたわけですが、石田三成は彼女の無事を知り、安心して刑場へと送られていきます。『ラセーヌの星』というアニメでマリーアントワネットが2人の子供が脱出できたことを知り、安心して刑場へと向かったのと個人的にはダブります。

一方で、徳川家康は話し上手で女性を魅了することも得意です。関ケ原の合戦の最中に陣中に現れた刺客に対し、白蛇が命がけで家康を守ろうとしますが、家康は彼女と刺客をまとめて切り殺してしまいます。原田作品ファンとしては、たとえ時代物映画であったとしても「女性を殺す」というのは最低の行為ということはすぐに察することができますから、家康という人物の悲劇性が描かれているというか、家康が自分の命のためには自分を愛した女性をためらいなく殺してしまう悲しい人生をおくった男という位置づけになるのではないかと思います。

徳川家康は役所広司さんが演じていますが、悪い奴に徹した描かれ方で、多分、この映画のためだと思いますが、全力で太っており、ルックス的にも悪い奴感が全開になっており、監督の求めに応じて役作りをしたこの人は凄い人だとつくづく思えてきます。

原作を読んだことがなかったので、すぐに書店に行き、原作を買い、現在読んでいるところですが、原作と映画にはかなりの違いがありますし、原田監督としては原作を越えた原田色をしっかり出すということを意識したでしょうから、原作と映画の両方に触れてしっかり楽しむというのがお勧めと思います。

原田監督の作品は、分からない人には分からなくていいというスタンスで作られているため、予備知識がないとなんのことか分からない場面や台詞がたくさん出てきます。私も一部、ちょっとよく分からない部分がありましたが、それはみる側の勉強不足に起因していることになりますから、原作を読んだり、他にもいろいろ勉強してまた映画を観て、そういうことか、と納得するのもありかも知れません。



石田三成と加藤清正

豊臣秀吉の死後、豊臣家の家臣は石田三成、小西行長の文治行政官派閥と、加藤清正、福島正則などの武闘派に分裂します。一般に、関ケ原の戦いは豊臣氏に忠誠を誓う石田三成が、ポスト豊臣を狙う徳川家康に挑戦したものだと言われていますが、よく少しよく見てみると、石田三成派が加藤清正派の一掃を狙い、失敗したという側面があるようにも思えます。

豊臣秀吉は朝鮮半島を通って明に攻め込み、当時の世界観で言えばほぼ世界征服に等しい野望を抱きます。それは無駄で無意味な野望ですので、それを評価する人はいないと思いますが、秀吉に引き上げてもらった武将たちは真っすぐな気持ちで戦争に臨み、朝鮮半島に上陸して北上していきます。

この時の戦争のことで、おそらくは当初から肌の合わなかったであろう文治派と武闘派の決裂が決定的になります。加藤清正は秀吉への忠誠心の一心で、鴨緑江を越えて満州族と戦闘するところまで行きますが、堺の商人の息子で、秀吉に取り立てられて武将になった小西行長は平壌から先へは進もうとせず、和平工作することによって戦後の貿易利権を得ようと画策します。また、第二次朝鮮出兵では、加藤清正の動きを朝鮮王朝側に伝えて、加藤清正の戦死を狙う動きを見せており、そのような動きは加藤清正のような当事者であればじっとよく観察していれば分かってきますから、両者が分裂するのは当然と言えば当然のことのように思います。命がけの戦いをしている時に裏切者が出れば、それを赦すというのはなかなかできることではありません。

石田三成も朝鮮半島に上陸しますが、後方の占領地には行くものの、前線へは行きません。仕事の割り当てが違いますから、文官が前線に行く必要はないと言えばそれまでですが、北へ北へと戦って進んだ加藤清正のような立場からすれば、「石田三成は安全なところで口だけ達者だ」と怒りを感じたとしても、それは人情としてそうなるだろうとも思えます。蔚山城の戦いで「一部の日本兵がサボタージュをしていた」という報告が豊臣秀吉の耳に入り、秀吉はサボタージュしたとされる武将たちを叱責しますが、この時の告げ口した側とされた側で秀吉家臣たちは決定的に分裂したとも言われています。

このことの恨みが秀吉の死後に起きた石田三成暗殺未遂事件につながり、反石田派の豊臣家臣たちが関ケ原の戦いでは家康につくという展開になります。このような展開が起きたことの背景には、関ケ原の戦いが当時は豊臣vs徳川の戦いだと考えられていなかったことの証の一つとも言え、石田三成側は自分たちは豊臣秀頼を戴く正規軍のつもりだったかも知れませんが、徳川家康側としては、石田三成が私闘を開始したという議論が可能な構図だったとも言えます。

もし、石田三成の心中を想像するならば、徳川家康は豊臣氏にとって危険な存在なので何とか理由をつけて潰したいが、同時に加藤清正などの同じ豊臣氏内部の政敵をまとめて一掃したい、むしろ人間的な感情としては家康よりも加藤清正や福島正則との決着をつけたい、または自分に対する暗殺未遂事件へのリベンジがしたいということが大きな動機になっていたのではないかとも思えます。同じ職場にそういう相手がいたとしたら、現代でも心理的な負担は大きいに違いありませんから、関ケ原の戦いの準備をしている時、石田三成の脳裏に浮かぶ顔は家康よりも加藤清正だったかも知れません。

関ケ原の戦いの時、反石田三成派の福島正則は東軍の先頭で戦い、加藤清正は九州から動きませんでした。福島正則は徳川家康の味方になるに辺り、豊臣秀頼に害をなさないということを徳川家康に確認を取ろうとしています。仮に豊臣秀頼が石田三成に請われて関ケ原の戦場に登場していれば、どっちが正規軍かがあまりに明らかで徳川家康は負けていたかも知れないとも言われますが、豊臣家家臣が二派に別れて戦っていた以上、秀頼カードがもし切られていれば、有効に機能した可能性は十分にあると思います。そうはなりませんでしたが。

関ケ原の戦いが1600年で、徳川家康が征夷大将軍に任命されるのが1603年ですので、家康は朝廷への工作に3年もかかっていることになり、朝廷としても、また世間的にも関ケ原の戦いを歴史にどう位置付けるについて迷っていたということが感じられます。関ケ原の戦いで徳川家康が勝ってはいるものの、豊臣氏不介入のところで行われた私闘である限り、豊臣氏の権威が揺らぐものではないはずで、この辺りの筋論をどう乗り切るか、家康は苦労したに違いありません。

話が家康に逸れてしまいましたが、石田三成は関ケ原の戦いの後、行方をくらますものの見つかって斬首されます。小西行長も同様の運命を辿ります。加藤清正は豊臣氏への忠誠は変わりませんので、家康と秀頼の会見の際には秀頼を守る目的で二条城へ行き、秀頼に贈られた饅頭に毒が入ってはいけないと、自分が食べて二か月後に病死しています。遅効性の毒が入っていたのではないかと言われる所以になっています。

以上のようなことを考えると、豊臣家臣の分裂が徳川家康に好機を伺う余地を与えたとも言え、チームワークや団結の乱れがいかに深刻な問題かということが分かります。

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