日中戦争4 満州事変‐石原莞爾と張学良

張作霖氏が殺害される事件が起きた後、息子の張学良氏‐この人は20世紀の東アジア関係史で最も謎に包まれた人物と言えるかも知れないですが‐が張作霖氏の軍隊と地盤を継承します。張学良氏にはいくつかの選択肢がありました。一つは南下の機会を模索するソビエト連邦と連携すること、もう一つは大陸での権益の拡大を模索する関東軍と連携すること、三つ目は軍閥が群雄割拠する中、力を伸ばしてきた蒋介石氏と連携することです。

で、結果として張学良氏が蒋介石氏との連携を選びます。普通に考えて、当時、張作霖氏が関東軍によって命を奪われたことは既に知れ渡っていましたから、人情の問題としても関東軍との連携はさすがにないだろうと思います。一部には実は張学良氏はソビエト連邦の工作員で、それで蒋介石氏に近づいたんだとする説もあるようですが、私は噂で聞いたことがあるだけなので、まあ、そういう噂もありますよ、くらいに留めておきたいと思います。張学良氏の回想インタビューは音声、動画、書籍など複数ありますが、私が中国語で発行された最近の回想ものの書籍では、若いころにどんなガールフレンドと付き合っていたかを張学良氏がいきいきと語っているような内容で、しかも実名を出していますから、本当にこんなものを外に出していいのかとも思いましたが、後に起きる西安事件については一切の口を閉ざしているあたり、墓場まで重大な何かを持って行ったことは確実で、それが何なのかは永遠の謎になると思います。

さて、張学良氏が満州地方で実力を保ちつつ蒋介石氏と連携することは、関東軍にとってはなかなか面倒なことだったと言えると思います。関東軍が割って入る隙のようなものがありません。全ては張作霖氏を殺害した河本大作大佐が悪いのですが、そっちの方は放置したまま、どうやって割って入るかということを考え抜いた石原莞爾が柳条湖事件を立案します。当時、中村大尉が諜報活動中に張学良麾下の部隊に殺害されたこともあって、現状をなんとかしようと関東軍が模索していた様子も感じ取れます。繰り返しになりますが、河本大佐の件をうっちゃってなんとかするというのは、ちょっと難しいことではなかったかとも思えます。

いずれにせよ、1931年9月18日、板垣征四郎大佐や石原莞爾中佐らが柳条湖での南満州鉄道を破壊し、それを国民党の軍の仕業であると自作自演して先端を開きます。土肥原賢二、甘粕正彦が奉天占領に動き、関東軍は満州地方全域を手に入れる方向で動いていき、天津で亡命生活を送っていた愛新覚羅溥儀を迎え入れて独立政権の確立を目指します。日本領にせず、独立傀儡政権の確立へと動いて行ったことは、パリ不戦条約のような第一次世界大戦後の新しい国際秩序の中で、あからさまな侵略行動がとれない時代に入ったからだと説明することもできると思います。




リチャード・ストーリィ『超国家主義の心理と行動』の日本帝国滅亡必然説

リチャード・ストーリィなる人物はイギリス生まれの学者さんなのですが、過去、日本がなにゆえに帝国主義に邁進し、滅亡したかを実証的に研究したのが『超国家主義の心理と行動』という著作です。原文の英語のタイトルは「Double patriot」となっていますが、ここで言うダブルとは二重という意味ではなくて、二倍という意味、普通より二倍の濃さを持った愛国主義というイメージなのだそうです。

玄洋社の頭山満のような、アジア主義者が民間で広がり、彼らが軍人とつながって拡大主義が台頭するというのを延々と様々な資料を用いて述べています。『西園寺公望と政局』のような資料も用いていますので、日本人であれば彼の研究を後追いして裏取りをするのも可能と思います。

面白いのは226から日中戦争あたりの記述で、重要なファクターとして石原莞爾が登場します。226事件皇道派が一掃された後に、石原莞爾が陸軍の大物たちを裏で操り、対ソビエト戦に備えた国家構想を抱き、実現しようとしていた一方で、陸軍内部では統制派が登場し、彼らが日中戦争にのめり込んでいきます。いつ、どこで誰が何を話し合ったのかを克明に再現しており、研究というよりは取材の集積みたいになっています。

当初は民間の運動に注目していますが、後半はほとんど政治の中枢、政局のドラマで、ナチスと同盟をしたいグループとそうでないグループとの相克、昭和天皇が狂信的愛国者を嫌っていたという点で狂信的愛国者は大きな矛盾をはらんでいたが、木戸内大臣が昭和天皇さえ守ればいいという覚悟で彼らを適当にスルーしていく様子、政治家たちが暗殺を恐れて軍をコントロールできなくなる様子等々が非常に詳しく書かれています。記述は真珠湾攻撃の直前までなされていますが、日本は北進論と南進論で分裂したいたものの、北進すればソビエト連邦との戦争は必至、南進すればアメリカとの戦争は必至、どう転んでもナチス滅亡も必至だったため、対ソ戦であろうと対米戦であろうと「日本にとって破滅に終わるという点で、まったく変わるところはなかったのである」と書かれています。滅亡まで「国家主義運動は走り切った」とも書いてあるため、一旦暴走した愛国主義は滅亡まで突き進むしかなかったのだと言うことも示唆しています。

特徴を上げるとすれば、原則として東京裁判で事実認定されたことをベースにしており、そういう意味では昭和天皇に対してはあまり批判的ではなく、一方で軍や愛国主義者に対しては冷たい視線が維持されています。ヨーロッパ人が日本の軍国主義を書くとどうなるかということがよく分かる一冊と言えます。


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第二次若槻礼次郎内閣-満州問題に翻弄された内閣

浜口雄幸が暴漢に襲われて執務が不可能になったことが原因で、浜口内閣が総辞職すると、西園寺公望は浜口雄幸と同じ民政党の若槻礼次郎を二度目の首相に指名します。浜口内閣は失政によって総辞職したわけではないため、憲政の常道にのっとり、西園寺は民政党政権を持続させました。

第二次若槻内閣では、日本の運命を決定づけたとも言える満州事変が起きており、外務大臣の幣原喜重郎が平和外交を進めようとしますが、中村大尉が張学良の配下に殺害されるたという事件が公表されたことで民意が激高していたため、幣原の対外融和策は「軟弱外交」と批判されます。

陸軍大臣の南次郎は若槻内閣の一員として協調路線に協力しようという意思はあったようなのですが、陸軍部内の強硬派からの突き上げを受け、板挟みの状態になってしまいます。満州事変は石原莞爾が独自の判断で勝手に起こしたと言ってもいいものですから、政治の側からは予算を止めるという対抗措置も不可能ではありませんでしたが、南次郎はそこまで踏み込むわけでもなく、現場の暴走を黙認、または追認していき、いわば成り行きまかせで主体性を失っていたように見えなくもありません。

若槻礼次郎は事態不拡大の方針で臨もうとしましたが、現場が勝手に動くことを抑えることができないことで、内閣が同様し始めます。内大臣の安達謙蔵は政友会との連立政権を組む挙国一致内閣を作ることで内閣の主導権を強めようと動き出し、当初は若槻もそれに乗ろうとしましたが、平和外交主義の幣原喜重郎と緊縮財政主義の井上準之助が反対します。政友会と連立すると政策に影響が出ますので、思うように政治ができなくなるというわけです。

若槻は幣原と井上に押し切られ、一旦はまとまりかけた政友会との連立を白紙に戻そうとします。安達謙蔵が内大臣を辞職することで丸く収めようとしましたが、頭にきた安達が辞表を出さずに自宅にこもりきったまま出て来ないという状態に陥ってしまい、内閣不一致で第二次若槻礼次郎内閣は総辞職へと追い込まれます。

このように見ていくと、昭和初期で軍部が台頭していく中、首相が軍への指揮命令権(統帥権)を持っていなかったこと、他の大臣を罷免する権限を有していなかったことが、日本の政治の大きな弱点になっていたことが分かります。伊藤博文は首相に権力が集まり過ぎないように配慮してそういう仕組みにしたのだと思いますし、首相指名権が元老にあったというのも、明治維新創業者世代が現役だったうちは真の意思決定者は元老であり、首相は実務者のトップに過ぎないという意識から生まれたことだと思いますが、幸運に恵まれた創業期と違い、この時期になると首相に嵌められた手枷足枷が柔軟性を奪い、責任のある意思決定ができないまま、滅亡へひた走りに走ったと思えなくもありません。

西園寺は若槻礼次郎が内閣不一致で総辞職したことを受け、失政による総辞職であったことから、政友会の犬養毅を後継首相に指名します。この政党政治の終焉が近づいていきます。

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