映画『がんばっていきまっしょい』のアントレプレナーシップ

伝説的な映画です。四国の高校、多分、わりと進学校に入学した女の子がボート部を始めたいと考えます。しかし、男子ボート部があるものの、女子ボート部がありません。彼女は思案し、自分でボート部を作ればいいのだと結論します。望みを達成するための壁はいろいろあります。まず部員が必要です。最低5人必要ですので、4人の仲間を集めなくてはいけません。次にボート部のノウハウがありませんから、先輩に教えてもらわなくてはいけません。そしてようやく、自分たちの実力を養成するという段階に入っていくことができます。やってるうちにだんだん様になってきますが、とても本格的な感じにはなりません。

東京がえりの本格的な先生がやってきます。ただ、わけありらしく、だらっとして陰気な、感じの悪い先生です。

いろいろ嫌なことも不安になることもありますし、新年度になって入ってきた新入部員がたった一人と、先が思いやられることも出てきます。ですが「なんとかなるよ」と言ってがんばります。「なんとかなるよ」はいい言葉です。根拠はないけど、諦めなくていい、続けていい、という優しい心が入っている言葉です。そして人生、大抵のことはなんとかなりますので、そういう意味では人生の真実を含んだいい言葉だとも言えるかも知れません。

主人公が腰を痛めたり貧血になったりで、一時はボートをやめようかとも考えますが、乗り越えて最後まで、最後の一瞬までがんばります。ただ、全国大会に進むことはできませんでした。全国大会に進めないのは普通です。それよりも与えられたチャンスに最後の一瞬まで努力することにスポーツの醍醐味のようなものがあるのかも知れません。強いか弱いかより、好きなことを一生懸命やっている姿を見ると、応援したくなります。無理と思えるようなことでも、最初の一歩を踏み出して、この映画の場合ですと、女子ボート部を作ることから始めて、未開の平野に乗り出すことは、今風に言えばアントレプレナーシップの原点みたいなものですから、どんなことでもやってみるという大切さを知ることができる映画ということができるかも知れません。それに、やってるうちに仲間ができたり、コーチ役を引き受けてくれる人が現れたりと自分が渦の中心になってがんばってると助けも現れるという、これもまた人生の真実を映しているようにも思えます。

喜んだり、悲しんだり、不安になったり、仲間同士の絆を感じたり、誰もが高校生の時に感じるであろういろいろなものが詰まった映画です。誰でも自分の高校時代を思い出し、懐かしみながら登場人物に感情移入して観ることができるかも知れません。淡い恋愛感情も入っていて、この映画には余すところがありません。青春は甘い思い出のように語る人がいますが、実際には緊張感に満ち満ちていて、精神的にも消耗する大変な時期です。この映画ではそういうのも感じ取ることができます。

私はスポーツは全然ダメで、スポーツの部活もやりましたが、才能のある人や英才教育を受けた人には全然及ばないぱっとしない部員でした。実際にはいい成果を出す部員はきゃーきゃー言われるは表彰されるは女の子から告白されるはで、リア充ないい思い出に溢れるのだろうと思いますが、ぱっとしない部員というのはなかなか無様で、誰にも特に振り返ってもらえることもありませんから、何のために自分の時間を使って運動しているのかよくわからなくなってきます。でも、大人になるとぱっとしなくてもこつこつ子のことをえらいなあと思うものですから、年齢や立場によって感じ方も変わってくるのかも知れません。

あと、田中麗奈がでずっぱりですから、ファンにとってはまさしく古典的名作になるのではないかなと思います。

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実相寺昭雄監督『姑獲鳥の夏』の不思議で美しい世界

何が現実で何が仮想なのかよく分からなくなってくる、不思議な映画です。狭くて不気味な坂道、五芒星の印の入った提灯、古びた洋館、何故か分からないけれど見るものを不安にさせる白黒の古い日本の街角の写真、思わせぶりな台詞の連続、人が死んだり生まれたり、不思議な世界。一回観ただけでは何が何だかよく分からなくて、二回観てもやっぱりよく分からなくて、わかったつもりになってしまうとかえって、もしかすると何かを見落としたのではないかという不安が更に膨らむ、不思議な映画です。

原田知世が梗子と涼子の二役をしています。しかし、涼子は多重人格者で京子という人物が同じ体の中に生きているので、だんだん、梗子と涼子と京子が混じってきて、分からなくなっていきます。今は京子?涼子?梗子?となっていきます。途中からどうでもよくなってきます。原田知世がいっぱい出てるからまいっかと思います。原田知世が見れるのならそれでいいやという心境になっていきます。更に田中麗奈も出てくるので、充分にお得感があります。

永瀬が若いです。当たり前ですが『KANO』と随分感じが違います。若くて、繊細で、おしゃれな感じがします。関口巽の役ですから、本当だったら地味な筈なのに、それでもおしゃれな感じがするのはさすがだなあと思います。

映像はやたら斜めだったり、遠近法ぽかったりして観ていて頭がくらくらしてきます。ライトの使い方もいろんな工夫があって、着いたり消えたりで目がちかちかしてきます。実相寺昭雄監督がそれを狙って作っているのですから、頭がくらくらして普通です。目がちかちかするのも当然といえば当然です。

音楽もなんか怖いです。武満徹ほど怖くないですが、この映画は映像が怖かったりするので、合わせ技で観る側がエネルギーを使います。エネルギーを使わせるということはいい映画だという証拠です。

第二作の『魍魎の匣』は関口巽以外キャストが同じですが、映画の雰囲気は全然違います。一作目は映画の狙いが観るものを不安に感じさせることにありますが(不安を感じることで楽しいというところでしょうか)、第二作目は合理的、分かりやすくて明快です。どちらもそれぞれにいいところがあるので、どっちがより良いとかそういうことは簡単には言えません。

たとえば夢野久作とか渋沢龍彦みたいな不思議な世界を描く作品は日本の近代の主要な要素な一つだと思います。遠藤周作さんの『スキャンダル』もその流れの中で理解できるかも知れません。その延長線上にこの映画もあるような気がします。フロイト的な心理学を参照してエロスとタナトスに迫ろうとする流れです。心理学はどこまでが科学でどこから先が虚構や仮説になるのかよく分からない学問のように思います。そのよく分からないところを衝いていくので、こういう作品が魅力的に感じるのかも知れません。