【自己訓練】相手を見下したり、バカにした態度をとらない

当たり前のことですが、相手を見下したり、バカにした態度をとるようなことは決してお勧めできることではありません。しかしながら、人は時として、場合によっては自分でも気づかないうちにそういうことをやってしまっていることがあります。職場での上下関係で、下の人に対して、お店の人に対して、或いは大してよくは知らないけど社会的地位の低い人、またはそんな風に見える人に対して、そういう態度を無意識にとってしまうことはあるかも知れません。

そういう態度をとってしまい、相手がそれを敏感に感じ取った時、私やあなたはそんなことがあったことすら忘れるかも知れません。しかし、もしかすると相手が復讐を誓うこともあり得ます。その人は立場が下であるが故に、正面切って復讐して来ないかも知れません。しかし、虎視眈々と機会を狙っているかも知れませんし、私やあなたが困った時に、その相手に頼ることはできないでしょう。そういう意味では、普段から自分より目下の人に対して横柄な態度をとることは潜在的な敵を増やすことになります。また、周囲もそんなあなたを見ています。周囲の人もそんなあなたや私に対していい印象は抱かないでしょうから、非好意的な中立者を増やしていくことになります。

ですから、成功する人生を得るためには逆のことをやればよいということになります。田中角栄の人心掌握術として、実にシンプルですができる親切はやっておくというものがあったそうです。大変にシンプルです。そしてそれは上に書いたこととは逆のことです。やれる範囲で親切にしておけば、好意的中立者が増えます。好意的中立者が大勢いることは、民主主義の社会では不可欠な要素です。いざいよいよ決戦、一騎打ちという場面になった時、好意的中立者が自分の味方をしてくれる。そして天下を獲れるというわけです。

見下したり、バカにしているかどうかは高い確率で見抜かれます。普段から、周囲の人に、心の中でだけでも良いので少々でもいいから敬意を持つ、敬意を払うことができる時には敬意を払うというのを心掛けると、人生がよりよくなる可能性が上がるのではないかと思います。



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鈴木善幸内閣‐護憲と言葉の綾

大平正芳首相の急逝を受けて、新しい後継総裁・首相として指名されたのが鈴木善幸でした。鈴木善幸は元社会党の人で、自民党政治でもあまり目立たない人であったため、アメリカあたりでは「鈴木って誰だ?」と言われたそうです。

鈴木善幸が選ばれた要因としては、田中角栄の影響力を維持することが最大で、今回の場合は大平首相を死ぬまで追い詰めたとも言える福田赴夫や中曽根康弘が次の表舞台に出るわけにもいかず、田中と大平のつなぎ役をしていた鈴木善行が選ばれたのは、本人にとっては正しく青天の霹靂みたいなことだと思いますけれど、自民党が椅子取りゲームに熱中し過ぎて人材が枯渇したという見方もできるかもありません。

鈴木善幸は元々社会党の人で、吉田茂の民主自由党に入って保守系の政治家になります。そうは言っても護憲主義がけっこう強いらしく、「アメリカとの同盟は軍事同盟ではない」という発言が議論を呼び、アメリカからも不審の目で見られるようになっていきます。冷戦の真っ最中ですから、そういったことには確かに敏感になるかも知れません。ただし、鈴木善行は日米安保は肯定する立場でもあり、要するに日本国憲法は個別的自衛権しか認めていないから、アメリカとの同盟を軍事同盟であるとは認めることはできないが、日米安保は肯定するという禅問答みたいなことを言いだしており、ほとんど言葉の綾みたいなもので、要するに現状の変更はしないのだからそれで良いではないかと言うこともできますが、社会党からは発言の矛盾は突かれるだけでなく、そんな細かい事はアメリカ人の知ったことではないので、「軍事同盟ではない」という言葉が一人歩きした感も否めません。

党内融和に図り、各派閥にポストをバランスよく分配するという手法をとったため、それまでの三木、福田、田中の時代に比べれば党内の抗争は静かになり、長期政権すら視野に入ってきましたが、鈴木善幸は自分の再選を否定し、中曽根康弘を後継者として推し、田中角栄のバックアップも得て、中曽根は総裁選に勝利します。政治家としての手腕がどうかとかはともかく、穏やかな良い人だったのではないかとは思えます。

大平正芳内閣‐40日抗争とハプニング解散

三木おろしの後、福田赴夫と大平正芳の間で結ばれた「大福密約」により、自民党総裁の任期を二年とした上で、二年後には再選を目指さず、福田が大平に禅譲するということで福田赴夫内閣が登場したものの、福田が約束を反故にし再選を目指しますが、福田が再選すれば角福戦争に決着がつき、田中角栄復権の目が摘まれてしまうということを田中派が懸念し、田中派の全面的なバックアップで大平正芳内閣が登場します。

大平正芳政権下ではソビエト連邦によるアフガニスタン侵攻と、それに対する抗議としての西側諸国のモスクワオリンピックへのボイコットがあり、ある意味では冷戦がクライマックスを迎えようとしていた時期とも言えます。その後、ゴルバチョフが登場して冷戦終結とソビエト連邦の崩壊まで10年ちょっとですが、当時はまだそういうことは分かりません。米ソそれぞれに人類を何十回でも滅亡させることができる核ミサイルを保有していつでも撃てるように相手に照準を合わせている時期であり、相互確証破壊だから安全なのか危険なのか判断できかねるというか、核戦争への漠然とした不安もつきまとうような時代だったとも言えそうです。

大平政権下で行われた総選挙では定数511に対して自民党の獲得議席が248と振るわず、福田・中曽根が大平に辞任を迫るという、いわゆる40日抗争が起きます。角福戦争的にも特に見どころのある、これはこれでクライマックスと言えます。自民党が敗けた理由としては、田中角栄への批判が強い中、大平が田中の下僕であるかのように見えたことは大きいかも知れませんが、三木おろし、大福密約と、政治の世界が椅子取りゲームに熱中している様子に対して国民に嫌気がさしたということもあるかも知れず、そういう意味では大平正芳に責任があるというよりは福田にも責任があるとも言えそうですが、いずれにせよ、自民党が分裂状態に陥り、大平は少数内閣でのかじ取りを迫られます。より田中依存を強めざるを得ないという、矛盾と心労のかさむ状況になっていたと言ってもいいかも知れません。

衆議院選挙後の首班指名選挙では、大平と福田に票が割れるという政党政治が機能としているとはとても言えない状況に陥りますが、決選投票で僅差で大平が勝利します。

翌年、社会党が、ハマコーがラスベガスで大損したことまで持ち出して内閣不信任決議案を提出すると、福田派、中曾根派議員が退場。どこにでもとりあえず噛んでくる三木派の議員も退場します。結果、不信任決議案が可決されるという、社会党も予期していなかった事態に至り、大平は解散権を行使。衆議院選挙が行われます。

公示日になって大平正芳は体調を崩して虎の門病院に入院し、小康を得た後に回復の兆しもありましたが、投票日を前にして亡くなってしまいます。自民党に同情票が集まり、自民党は284議席の安定多数を獲得します。

このように見てみると、大平正芳首相は就任後の解散で自民党の議席を減らし、福田・中曽根・三木にさんざん突かれて心労で亡くなったようにしか思えず、大変に気の毒で、結果として自民党が選挙に勝ったということは、それらの人間的過ちのつけを社会党が支払いというなんだかよく分からない展開を見せていたということができるかも知れません。

自民党の新総裁は田中角栄の意向が反映され、鈴木善幸が選ばれます。


福田赴夫内閣‐約束

三木武夫が政治的指導力の限界を呈する形で総辞職し、その次に自民党総裁・内閣総理大臣に指名されたのが福田赴夫です。三木の後継者には大平正芳と福田が取り沙汰されていましたが、都内のホテルで福田と大平がそれぞれの派閥の幹部の立ち合いのもと、総裁任期を二年に縮小した上で、福田の任期が終われば大平に禅譲するという密約がなされ、総裁選で福田が勝利するという展開になります。

福田赴夫は任期中に日中平和友好条約を締結したり、アジア開発銀行を作ったり、ODAを活発化させたりすることで、アジアを主軸に置いた外交を展開します。21世紀の現代、アジアの繁栄ぶりは世界史的にも記憶されていくことになるはずですが、その基礎を築いたという意味では、大きな意味があったかも知れません。また、戦争中の日本が「大東亜共栄圏」という理念を掲げますが、福田の時代になってようやく、戦争という手段に頼らずにそれをやったという意味でもちょっと感慨深い面もないわけではありません。

さて、その福田ですが、月日はあっという間に過ぎ去って、大平への禅譲の日が近づいてきました。過去、吉田茂鳩山一郎に「鳩山さんの公職追放が解けたら政権を返す」と約束しておきながら、その約束を反故にしていきますが、福田も大平への約束のことは忘れたかのように再選を目指して総裁選に立候補します。

悪い言い方をすれば考えが甘かったとも言えるのかも知れないのですが、大平正芳は田中角栄の盟友であり、田中派が攻勢をかけることで、実際の総裁選挙では大きな差が開き、大平正芳が次期首相として指名されます。福田が密約で首相になり、その前の三木が椎名裁定というちょっと傍目には分かりにくい裏の駆け引きの結果で首相になったことを思えば、公正明大な投票で選ばれた分、まだましなようにも思えてきます。

その後、首相が変わる毎に福田赴夫再登板論が浮上し、本人もなかなかやる気だったようですが、それが実現することはありませんでした。田中角栄のカムバックへの執念は有名なものですが、福田と田中が互いに「お前にだけにはやらせない」と潰し合い、双方ともに挫折したと見ることもできるかも知れません。

福田首相時代にダッカ日航機ハイジャック事件が起きますが、この時福田は「人命は地球よりも重い」という名言(迷言?)とともにハイジャック犯たちの要求を受け入れて人質の解放に成功しています。こんにちでもこれは一つの議論のしどころであり、テロリストに資金を渡すのは絶対ダメと考えるべきか、やっぱり人命優先でよかったと思うべきかで意見の割れるところではないかと思います。私個人としてもどっちが正しかったかということについては本当に何とも言えません。

いずれにせよ、時代は大平になりますが、三木派、福田派がなどが内閣不信任決議で欠席するというパフォーマンスに出て、いわゆるハプニング解散へとつながっていきます。

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田中角栄内閣‐日中国交正常化と暗転

佐藤栄作の派閥議員を大方抱き込んで田中角栄は田中派を旗揚げします。佐藤栄作は後継総裁に福田赴夫を推していましたが、福田を破り、田中角栄内閣が登場します。三角大福中時代の始まりであり、角福戦争の始まりでもあります。

田中角栄は戦争中からその才覚を発揮し、朝鮮半島に軍需工場を建てる計画(敗戦でとん挫)から巨額の富を得て、金満政治家として政界で頭角を表し吉田茂の側近とも言われていきますが、同時にその人間性に惚れた人も多かったと巷で言われています。ただ、どんな風に豊かな人間性を持っていたのか、少なくとも今残っている動画や写真からは推し量り難いものがあり、実際に会った人ではないと分からなかった部分もあったのかも知れません。

ある時、東京の椿山荘で田中角栄がスピーチをすると、いかにも良家のお嬢様という感じの方が角栄に花束を贈呈した際、角栄はお嬢様にポケットから一万円札を取り出して握らせようとし、公衆の面前でお金を受け取ることに躊躇していたお嬢様は角栄の顔を潰すわけにもいかないので渋々受け取ったというエピソードがあるそうです。その時、周囲の人から「お嬢様が困っていたじゃないですか」と言われ「君ね、お金をもらって嬉しくない人間はいないんだ」と反論したと言います。

私はこのエピソードに田中角栄という人物のいろいろなものが詰まっているように思えてなりません。おそらく田中角栄はこの時、感激したんだと思います。華やぐように美しく、かつ清楚で身ぎれいな良家のお嬢様がわざわざ自分に花束を届けてくれたということに感動したんだと思います。そして、その感激と感謝の気持ちを即座に表したいと思って彼の頭に浮かんだのはお札を渡すことだったのです。

どこまで言ってもお金の人とも言えますし、良家のお嬢様に感激する素朴さに私は心が打たれる部分もありますが、田中角栄の限界が見える気がしないわけでもありません。

佐藤栄作と福田赴夫を倒して首相の座についた田中角栄は、日中国交正常化という大仕事を成し遂げます。結果として台湾が完全につまはじきにされることにもなりますので、良かったのか悪かったのかはもう少し後世にならないと、少なくとも中国と台湾の間で話がつかないことには判断しかねるようにも思えます。

その後、文芸春秋に『田中角栄研究』が掲載され、田中金脈政治が世に問われることになり、激しい批判の中で田中角栄内閣は総辞職する展開に至ります。当時、新聞記者たちは田中角栄のお金をばら撒く政治首相をよく知っており、知っているけど、書くほどのことではないと思って書かなかったのだと言われます。いわゆる記者クラブと政治がどういう関係にあったかが推察できるエピソードであったとも言えます。

その後の政治の世界は首相返り咲きを狙う田中角栄と、後に首相になってやはり返り咲きの好機を伺う角福戦争の文脈で語られるようになっていきます。

田中角栄・竹下登・小沢一郎を比較する

自民党の主流は長らく佐藤栄作→田中角栄→竹下登の系統が引き継いでいました。ただし、引き継ぎ方は常にクーデター方式で、円満な引き継ぎというものはなく、極端な言い方をすれば親分と子分による血で血を洗う仁義なき戦いを続けていたという見方をしてもいいと思います。

田中角栄、竹下登の両氏は優れた集金力を有しており、21世紀になってからはその系統の末端にいると言っても良い小沢一郎氏が金権、闇将軍などと言われたものですが、田中・竹下両氏のそれに比べればまだまだ規模の小さいものだったのではないかという気がしなくもありません。

竹下氏は大蔵大臣時代にプラザ合意をまとめたことで世界的な脚光を浴び、反田中角栄クーデターをやり切ってみせ、次期首相候補の時も、竹下、安倍、宮澤から誰か一人を中曽根康弘氏が選ぶといういわゆる中曽根裁定でも見事に指名を勝ち獲っています。その裏で何があったについては想像する以外の方法を私は持ちませんが、集金力には極めて優れていた人と言われています(小沢一郎氏はその点、「集金力」というよりは「集票力」かと)。人心掌握にも長けており、田中角栄が派手なパフォーマンス的に(大金をさっと握らせる、泣いてみせる、新品の靴と白いスーツで田んぼに入る)人の心を掴む手法を得意としていたのに対し、竹下氏はさりげなく、目立たないように、後から、ああ、あの人がやってくれたんだと気づくくらいの控えめさで自然と巧みにかつ、たぶん長期的な人心の掌握を得意としていたように思います。その点、理屈、剛腕、裏技でなんとかしようとする小沢一郎氏は田中・竹下的な意味での人心掌握に長じているとは言えません。ディベートの才能を一番持っているのは小沢氏だと思いますが、ある意味ではその才能に溺れてしまったところがあり、それが裏目に出てしまったことも一度や二度ではないように思います。

策を弄するという点では竹下氏がぴか一だったのではないでしょうか。田中角栄氏が実利とディールで相手を陥落させるというわりと分かりやすい手法を得意としたのに対し、もう一ひねりできる人が竹下さん。小沢一郎が経世会を割って出るという、いわば反田中角栄クーデターの再現を竹下登氏に対してやろうとしますが、その時、参議院の経世会議員には手を入れないという両者の紳士同盟が交わされたにも関わらず、竹下氏はさっと参院経世会議員たちを引き入れてしまいます。小沢氏はそこで追い詰められてしまい、宮澤内閣不信任案賛成、更に自民党脱党という裏技的無理ゲー(今振り返ればかなりの無理ゲー)へと極端な手法を選ぶようになっていきます。

小沢一郎氏は細川内閣成立させるものの、社会党が嫌いだというわりと幼稚な理由で社会党はずしを画策しますが、裏目に出てしまい、自民党(即ち竹下陣営)が社会党を取り込むという国民が椅子からひっくり返るようなウルトラCで形勢が逆転します(自民社会連立はかなりの無茶ぶりに見えましたが、自社間の気脈は55年体制ができたころから通じていたそうな)。

その後、小沢氏は自由党を作り、小渕政権時代に自民復帰を目指しますが、自分たちで作った選挙制度に縛られてしまい、自民と自由の両方を解党しなければ合流できないという足枷がついてしまい、小渕氏が倒れてしまってその話は立ち消えしてしまいます。

竹下氏が元気な間、小沢一郎氏は結果としてはほぼ手も足も出なかった、周辺でくるくる回っていただけだった、サッカーで言えばただ相手をマークして相手チームのプレイヤーを妨害することくらいしかできなかったと言ってもいいように思います。それだけ竹下氏が策士として上手だったことも示唆しているとも言えるでしょう。

田中角栄氏が首相再登板を目標に鉄の軍団を縛り付けたのと同様、リクルート事件で失脚した竹下氏も首相再登板を狙って何もできない無力な首相を次々と擁立していきますが、やがて橋本龍太郎氏→小渕恵三氏という自派閥の次世代にバトンタッチし、途中から再登板への野心をあまり持たなくなったように見えます。この辺り、最後まで再登板にこだわった角栄氏の方がより執念の人だったと言えるかも知れません。

現在、小沢一郎氏は小政党の党首となった今でも野党共闘作戦で非自民政権の確立に執念を燃やしていると言います。自分が首相になるのがゴールではないため、その分、目標が大きく、一度目標を達成してもまた自民政権が復活するため終わりのないマラソンになっており、政治・政策的に何が正しいかはともかく、政治家人生そのものは悲劇的なものに見えて仕方がありません。

宮澤不信任決議案が採決された時はマスコミでも自民長期政権への批判が激しく、小沢一郎の活躍は颯爽としたかっこいいものに見えましたし、長い間、私は小沢氏に期待と幻想を抱いていました。できれば、安楽な余生を。政治的な意味ではなく、小沢氏個人の幸福な余生を今は望みます。

写真はwikipediaの田中角栄の項目に掲載されているものを使用しました。数十年のいきさつを知る人から見れば、いろいろな意味で涙を誘ういい写真だと思います。余談になりますが、田中角栄が小沢一郎を「かわいがった」と言われることには疑問を感じています。小沢氏のお父さんが急死されて地盤を引き継ぐという時、角栄氏は「選挙区で辻説法を2万回するように。そうすれば田中派に入れてやるかどうか考えよう」という主旨のことを言ったそうです。小沢氏が本当にそれをやって改めて角栄氏を訪問すると憮然とした表情で「まあ、いいだろう」と言ったといいます。向かう気だけは強いぼんぼんの二代目とはあまりしっくりいかないと角栄氏は感じていたのではという気がします。同じボンボンでも鳩山由紀夫氏や細川護熙氏とは小沢さんは性格がだいぶ違います。この写真を見ても、小沢氏はまだまだ若い、良くも悪くも青い感じです。田中角栄氏の表情が適度に渋いあたりからもいろいろ読み取れなくもない気がします。








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