日中戦争7 リットン調査団

満州事変が起き、満州国が誕生して溥儀が執政に就任するという流れが東洋で起きている一方で、西洋では中華民国から満州国は国際法違反によってつくられたものだとする提訴が国際連盟に対して行われ、日本側でも国際法に違反していないことは証明できるという姿勢を貫き、要するに諸方面が同意した上でイギリスのリットン卿を団長とするリットン調査団が組織されます。

実際に満州地方を歩いた期間はそこまで長かったわけではなく、東京や北京なども訪問し、日中双方の要人、その他当事者そのものと言える溥儀とも面談するなどしてリットン卿は実際のところを判断しようとしたわけです。調査と言っても諜報活動のようなことをしたというよりは、公正明大且つ貴族的優雅さを忘れぬ態度でジャッジしようとしたのがリットン調査団の仕事で、その成果がリットン報告書というわけです。

リットン報告書は北京で書かれ、当時の知識人らしく「満州とは」くらいの大上段から始まっています。リットン卿はインド総督もした人ですから、東洋についてはよく知っているという自負もあったのでしょう。カエサルの『ガリア戦記』で「ガリアは3つに分けられる」から書き出しているのを理想とする人が多いので、どうしても、ついつい、満州とは、中国とは、日本とは、みたいな大袈裟な話から入っていきたくなるのかも知れません。また、リットン卿としても自分の知性を発揮する絶好のチャンスでしょうから多少気負った感じもあったのだろうと思います。

リットン報告書では歴史的経緯を説明した上で、満州国は国際法違反であると結論しています。当時の国際法は、国際連盟の精神と連動して整備されたようなものだと言っていいと思うのですが、19世紀的な弱肉強食の世界、国益のために戦争をする世界、侵略戦争を是とする世界を辞めましょうという精神で構成されています。ウッドロー・ウイルソンの民族自決もその精神の一部であり、侵略戦争ダメ絶対!=諸民族は自分たちで意思決定する権利がある。他民族に意思決定されない(注意 民族とは何かという問題は今回はちょっと置いておきます。またいずれ議論できる日も来ることでしょう)。という思想が当時は特別重視されていました。第一次世界大戦でヨーロッパが荒廃し、科学技術の進歩が良かったのか悪かったのか大量破壊が可能になってしまい、もはや戦争はできない、戦争やってたら人類の文明が滅んでしまうという危機感が出発点になっています。この考え方は第二次世界大戦後の国際法にも影響していて、たとえばポツダム宣言でも日本の将来の政治形態は日本人が自分で決めると書かれてありますし、東京裁判でキーナン主席検事が「人類の文明を守るための裁判」と主張したのも、第一次世界大戦で世界は戦争には懲り懲りだと思ったのにも関わらず、また世界大戦をやってしまったので、第三次世界大戦を予防するための裁判だ!と言っているわけです。ここでは、その是非善悪を問うているのではなく、そういう考え方で彼らが仕事をしていたということを理解するために議論しています。東京裁判については考え方が分かれるでしょうが、一応、私はここに述べているような視点で理解しています。

で、以上のような国際法の観点から言って、満州国は国際法違反だとリットン卿は判断しました。満州地方は日本軍によって占領されていて、溥儀は傀儡に過ぎない。従って、溥儀を君主と仰ぐ満州地方人民の自発的分離独立運動と認めることはできないので、民族自決の精神にも合致しないと判断したわけです。さて、ここからがさすがは世界一の二枚舌の国であるイギリスらしい解決方法が提案されます。日本側はリットン卿に対し、主として2点を強調していました。

1は満州国は民族自決の理念に合致している。
そして2番目に、満州地方を手に入れるために、日本はめちゃめちゃ苦労したんだ。

ということです。1と2の言い分は完全に矛盾していますが、日本側は両方言い張りました。日露戦争で10万人の兵隊が死に、20億円の借金を作った。今もポンド建てで借金を返済している最中だ、そこを汲んでくれよと情に訴えたわけですね。で、リットン卿は日本側の主張1を認めてしまうとヨーロッパに帰ってあいつは馬鹿だと言われるのが嫌なので、1については明確に否定します。しかし、二枚舌が普通なので、日本が情に訴えて来た部分は受け入れてあげましょうという提案がなされました。満州国を独立国として認めることはできないが、日本に権益追求の優先権があることを認め、ついでに国際管理ということにして、ま、細かいことはこれから考えることにして、国際連盟の強い国でうまく分け合いましょうよ。日本は多めに獲ってもいいから、その他の国にもちょっとづつ分けてよ。そしたら、矛盾してるところとか、目をつぶってあげないわけでもないよ。というわけです。

満州地方がもし国際管理になっていたら、ロシアの南下も心配しなくていいし、国民党にも手が出せません。そして利権は日本に優先権がある。こんなにいい話はちょっと考えられません。なんとおやさしいイギリス様と思ってしまいますが、日本側は「満州国は民族自決の精神に合致する独立国だと認めろ」と強弁して話をまとめようとはしませんでした。ああ、これがニッポンの悲劇と思わず天を仰ぎたくなってしまいます。

次は国際連盟で松岡洋右が強弁している最中に起きた熱河作戦についてやってみたいと思います。




日中戦争6 満州国の溥儀

1932年3月1日、第一次上海事変の停戦協定もまだ結ばれていない最中、満州国の建国が宣言されます。満州国の政治的なトップに溥儀を執政として据えて、事実上の関東軍の傀儡国家を成立させたことになります。

満州地方を関東軍が占領した後、日本領にするか、どこかの軍閥と手を組んで自治領みたいにするか、独立国家にするかは意見が割れたようですが、結果としては溥儀を利用した独立国家にする道を関東軍は選びました。第一次世界大戦を経験した後の世界秩序の中で、露骨に日本領を拡大することは既に憚られる状態だったこともありますが、溥儀は満州民族の君主ですから、満州地方の住民の自主独立運動、民族自決の帰結として満州国が建国されたのだと強弁する材料にすることができたことや、溥儀は自前の軍隊を持っていませんから、一度取り込んでしまえばとことん傀儡として利用できる、溥儀に抵抗するだけの力はないと見抜いたということもあると思います。

溥儀は紫禁城から追放された後、天津の租界で、特にやることもなく適当に遊んですごしていたわけですが、関東軍からの満州行きのオファーに対し、共和制だったら行かない、帝政だったら行くとの条件を出し、関東軍サイドが帝政だと約束したことを信用して満州へと秘かにわたって行きました。

で、どうなったかというと、皇帝ではなく執政という最高行政官みたいな肩書を与えられたわけですから、ちょっと騙された感はあったのではないかと思います。溥儀は徹頭徹尾、清朝の再建のために日本を利用しようと考えていたところがあるようですが、日本側は清朝の再建は全然考えていなかったという温度差、不協和音を感じてしまい、溥儀についつい同情してしまいます。

溥儀は二年ほど執政としての立場を真面目にこなし、念願かなって満州国の皇帝に即位します。関東軍から見れば、満州国の皇帝で、溥儀の主観では清朝の復活です。やはり温度差、不協和音はあったと思いますが、溥儀としては皇帝に返り咲くことができたことで、それなりに満足はしたかもしれません。中国のドラマで溥儀を扱っているのを見ると、わりと日本が戦争に敗け始めて大変なことになっている時期に、何も知らず呑気にタバコを吹かしてご機嫌に遊んでいる溥儀が描写されていたりしますので、当時はご満悦だったというのが定説になっているのかも知れません。ベルトリッチの『ラストエンペラー』を見ると、ずっと悲劇的な人世で、そんなご満悦どころではないのですが、まあ、溥儀本人の主観を想像するに、天国から地獄へのジェットコースターを何度も経験していますから、相当に疲労困憊する人生だったのではないかと思います。

溥儀は正確には三度、皇帝になっています。一度目は光緒帝が亡くなった後に三歳で指名されて即位した時です。その後、辛亥革命で廃位されますが、袁世凱が亡くなった後で張勲のクーデター的策略で再度皇帝の座に座り、二週間にも満たない短い期間ですが、清朝が復活しています。そして三度目が満州国皇帝即位というわけです。

実に大変な人生です。その後、満州国建国についてはリットン調査団が入っていろいろ調べて、民族自決ではないと結論されてしまったり、日本の国際連盟離脱につながったり、ソ連邦参戦の時には口に出すのも憚られるような酷いことが起きたりと重苦しい歴史の出発点になったというか、満州地方に固執したために日本はほろんだみたいなところもありますから、満州は日本の重苦しい過去の中心みたいな場所なのだなあと、ブログを書きつつ、改めてためいきをついてしまいます。




日中戦争4 満州事変‐石原莞爾と張学良

張作霖氏が殺害される事件が起きた後、息子の張学良氏‐この人は20世紀の東アジア関係史で最も謎に包まれた人物と言えるかも知れないですが‐が張作霖氏の軍隊と地盤を継承します。張学良氏にはいくつかの選択肢がありました。一つは南下の機会を模索するソビエト連邦と連携すること、もう一つは大陸での権益の拡大を模索する関東軍と連携すること、三つ目は軍閥が群雄割拠する中、力を伸ばしてきた蒋介石氏と連携することです。

で、結果として張学良氏が蒋介石氏との連携を選びます。普通に考えて、当時、張作霖氏が関東軍によって命を奪われたことは既に知れ渡っていましたから、人情の問題としても関東軍との連携はさすがにないだろうと思います。一部には実は張学良氏はソビエト連邦の工作員で、それで蒋介石氏に近づいたんだとする説もあるようですが、私は噂で聞いたことがあるだけなので、まあ、そういう噂もありますよ、くらいに留めておきたいと思います。張学良氏の回想インタビューは音声、動画、書籍など複数ありますが、私が中国語で発行された最近の回想ものの書籍では、若いころにどんなガールフレンドと付き合っていたかを張学良氏がいきいきと語っているような内容で、しかも実名を出していますから、本当にこんなものを外に出していいのかとも思いましたが、後に起きる西安事件については一切の口を閉ざしているあたり、墓場まで重大な何かを持って行ったことは確実で、それが何なのかは永遠の謎になると思います。

さて、張学良氏が満州地方で実力を保ちつつ蒋介石氏と連携することは、関東軍にとってはなかなか面倒なことだったと言えると思います。関東軍が割って入る隙のようなものがありません。全ては張作霖氏を殺害した河本大作大佐が悪いのですが、そっちの方は放置したまま、どうやって割って入るかということを考え抜いた石原莞爾が柳条湖事件を立案します。当時、中村大尉が諜報活動中に張学良麾下の部隊に殺害されたこともあって、現状をなんとかしようと関東軍が模索していた様子も感じ取れます。繰り返しになりますが、河本大佐の件をうっちゃってなんとかするというのは、ちょっと難しいことではなかったかとも思えます。

いずれにせよ、1931年9月18日、板垣征四郎大佐や石原莞爾中佐らが柳条湖での南満州鉄道を破壊し、それを国民党の軍の仕業であると自作自演して先端を開きます。土肥原賢二、甘粕正彦が奉天占領に動き、関東軍は満州地方全域を手に入れる方向で動いていき、天津で亡命生活を送っていた愛新覚羅溥儀を迎え入れて独立政権の確立を目指します。日本領にせず、独立傀儡政権の確立へと動いて行ったことは、パリ不戦条約のような第一次世界大戦後の新しい国際秩序の中で、あからさまな侵略行動がとれない時代に入ったからだと説明することもできると思います。




『ラストエンペラー』の孤独の先にある孤独とさらにその先の救い

『ラストエンペラー』は清朝の最後の皇帝であり、後に満州国の皇帝に即位した人物で、日本の関東軍とも深い関係があったことで知られる溥儀の人生を描いた映画です。

映画の前半はずっと紫禁城の内側でのできごとが描かれます。どの場面も一幅の絵のように美しく、現代の我々の生活とは全く異なる別世界が実際に存在したのかのように思えて来ます。実際に紫禁城で撮影されていて、あちこち建物が傷んでいますが、これもいい意味でリアリティを持たせることの役割を果たしているように見えます。少年溥儀は紫禁城から出ることを許されず、巨大な宮殿の中で監禁されているかのような息苦しさとともに成長していきます。唯一心を開いた相手であろう乳母とも引き離され、孤独を噛みしめます。

溥儀と周辺の人たちは将来の清朝の復活を期待しますが、軍閥によって紫禁城を追放され、天津で暮らします。実際には日本疎開にある邸宅を借りて、そこで相当に放蕩したようです。

だんだんお金が無くなっていきます。二人の妻と数十人の従者や元清朝関係者を抱えているにも関わらず、好き放題に贅沢しますので少しずつ追い詰められていきます。蒋介石からは年金が支払われていたはずですが、追い付かなかったみたいです(原作とされるエドワードベアの『ラストエンペラー』では一階をレストランにしたことになっていますが、あまり儲からなかったというか、儲かっとしても、これも消費に追い付かなかったような気がします)。そのような時、第二夫人が離婚を申し出ます。このことは物見高い天津中の新聞に書かれ、溥儀は大きく面子を失いますが、彼のように古代世界から抜け出て来たような人物であっても、20世紀的な人間の悩みやつまづきから自由になることはできませんでした。映画では、「新しい時代の女性」を象徴するかのように、明るい希望に満ちた音楽とともに第二婦人が出ていくところを描いています。深い絆で結ばれていたであろう家庭教師のレジナルドジョンストンは帰国してしまいます(満州国建国後、溥儀は乳母とレジナルドジョンストンを満州に招待していますので、実際の歴史でも溥儀がこの二人を自分の人生にとって必要な存在だと思っていたことが推し量れます)。

溥儀は関東軍に要請されて満州国へと渡ります。清朝復活の希望を託せるからです。しかし関東軍は彼を操り人形としか扱いません。彼の主体的な意思はそこには存在しません。3歳の時に紫禁城に招かれ、その後、一切の主体性を認められずに生きてきた彼にとって、自分が主体的に生きられないことへのもどかしさや怒り、周囲への不信感を抱え、それを増大させていきます。残った第一夫人は運転手と不倫関係になります。運転手は殺害されます。他にも溥儀のことを扱った映画では、運転手が命を絶たなくてはいけなくなるものもありますが、この映画の原作とされるエドワードベアの『ラストエンペラー』では疲れ切った溥儀が男に金を渡して立ち去るように命じただけだったと述べています。実際はどうだったのかは分かりません。殺されてもおかしくないとは思います。エドワードベアの『ラストエンペラー』という作品は東洋人への偏見が少し強すぎるように思うので、どこまで本当のことを取材しているのか私には疑問に思えますが、そういう記述もあるという程度に抑えておきたいと思います。

終戦の時、溥儀は一旦ソビエト連邦に抑留され、その後、中国に引き渡されます。戦犯収容所に入れられ、10年以上に渡る人格矯正を受けます。収容所内での所長と溥儀の会話では、溥儀が「あなたは私を利用しているのだ」という台詞があり、所長は「利用されるのはそんなに嫌なことか」と言います。溥儀は自分が利用対象に過ぎず、人間として尊重されていないと感じ、それが自分の人生でもあるように感じていて、人生に深く失望しています。

溥儀は釈放され、北京で普通の市民の女性と結婚し、文革の最中に亡くなります。映画では最後に溥儀の近くにいるのは彼の弟です。文革の街を二人で歩きます。文革で弾圧されている収容所の所長に再会します。彼は紅衛兵たちに対し「彼は素晴らしい教師なんだ」と訴えますが、押し倒されてしまいます。人生で初めて、全く自由な自分の心から彼は発言し、他人を助けようとします。晩年になって人間性を取り戻したと言うか、ようやく感情、或いは衝動に身を任せるということを手に入れたように見えます。

晩年の溥儀に対しては優しい視線が送られます。映画全体のやたら細部までしっかりしているリアリティ、登場人物の表情や目の動き、身のこなし、どれもが考え抜かれていて、何度見ても「ああ、ここでこんな表情をしていのか…」と今まで気づかなかったことに驚くということがよくあります。それほど、ディテールまでしっかり作りこまれている映画なのだと思います。

主役のジョンローンは香港で孤児として京劇のスクールに拾われ訓練を受けたとのことですが、京劇の基礎と、後にアメリカにわたって訓練された演劇の基礎の両方を持っており(トニー賞を二度受賞)、一つ一つの動きが、一言でいえば美しいです。何度観てもほれぼれするクールな映画です。

細部に於いては史実とは少し違うところもあるようです、溥儀は紫禁城に隣接するようにして建っている父親の邸宅には自転車で行っていたらしいですし、少年時代は電話を好き放題にかけて胡適を紫禁城に呼び出すようなこともしていたようです。弟に命じて紫禁城の財産を天津に移動させていたり(将来を見越してか?)など、わりと自由にできていたところもあったようです。また、坂本龍一が満州国の片腕の陰の支配者甘粕正彦の役をしていますが、実際の甘粕満州映画協会理事長は両腕のある人でしたし、満州国の陰の実力者ということはなかったようです。満州映画協会が工作組織としての一面を持っていたとする指摘もあるようですが、それはおそらく同撮影所で制作したものを上海や台湾などで上映することによる宣伝活動ということではなかろうかと思います。そう考えれば、国策映画会社がそのような任務を負っていたとしても普通に納得できます。

話が脱線しますが、満州映画協会によって台湾を舞台に李香蘭主演の『サヨンの鐘』という映画が撮影されます。台湾人に対する宣伝映画なのですが、未だに全編を観ることができていません。台湾で上映する宣伝映画を満州映画協会が作ったということは、それだけ満州の映画産業が発達していたと見ることもできるため、なかなか興味深い現象だと思います。

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