明・清時代の漢民族と満州族の文化、社会、政府の大きな違いにはどのようなものがあったのでしょうか?

ほんの部分的な話題しかできずに恐縮なのですが、清王朝の場合、官僚制度は満州族の貴人と科挙に合格した漢民族の地方出身者の二重構造になっており、やはり漢民族の方が出世するための苦労が多いものですから、満人は恨まれやすく、康有為のように一方に於いて科挙に合格したことを大いに自慢しつつ、一方に於いて光緒帝をうまく使い、憲法を導入して満人中心社会の終焉を狙うようなトリッキーな人物も出てくるわけです。彼のしたことは清皇室を維持しつつも清王朝の無力化を狙うものであるため、科挙に合格した官僚の身分としては自己矛盾をきたすのですが、ルサンチマンの塊になってしまっているので、光緒帝の命を危険にさらすところまで突き進むわけですね。一方のもうちょっと古い明王朝の場合、漢民族の王朝ですから、官僚制度に上に述べたような複雑な構造を抱える必要はなかったわけですね。ですが、最終的には社会矛盾みたいなことが原因で滅亡していきます。案外、清王朝の方が、自分たちは少数民族だという自覚が強いため、民衆を慰撫する努力をしたのかも知れません。

今書きつつ、「皇帝の末路」という言葉が思い浮かんだのですが、最も特異な人生を歩んだのは清朝の最後の皇帝の溥儀だと思いますけれど、明の最後の皇帝の崇禎帝は李自成に包囲される中、家族をほぼ皆殺しにして自殺してますから、その悲惨さという点では明の方が凄まじい最期を迎えたと言えると思います。



なぜ天皇は敗戦後も、民衆の支持を維持することができたのですか。またそれは戦前の国家神道や戦後のGHQと何か関係はありますか。ドイツ皇帝やロシア皇帝、清皇帝は天皇と違ってなぜ民衆の支持を失ったのですか?

皇帝の存続と民衆の支持は関係ありません。軍が支持するかどうかです。ドイツ革命は絶対に死ぬ命令を拒否した海軍の将兵たちの反乱から始まったとされますが、要するに軍の支持を失ったことによりウイリヘルム二世は亡命せざるを得なくなりました。ロシア革命の場合、やはり第一次世界大戦であまりに無謀な動員をニコライ二世が命じ続けた結果、軍が彼を見放し、民衆が宮殿に乱入するのを傍観した結果起きたことですので、やはり軍の支持を失ったからだと言えます。清の皇帝の場合、幼少だった溥儀個人に落ち度があったとは言えませんが、清の軍部を握っていた袁世凱が臨時大統領になれることを条件に清王朝を裏切って孫文と結んだことで辛亥革命が成功するわけですのね。ですので、やはり軍を握る袁世凱の私利私欲の結果ですから、清王朝は軍の支持を失った結果、滅亡したと言えるわけです。日本の天皇の場合は軍の支持を失ったことがなく、戦後は軍が解散したものの、アメリカ軍がその代わりをしましたから安泰だったのです。確かに昭和天皇は国民的に人気があったと思いますが、もしアメリカ軍が昭和天皇を支持しなければ、天皇制は消滅していたに違いありません。



リットン調査団の日本と満州国に対する「心証」

石原莞爾や土肥原賢二などの関東軍参謀たちが共謀し、柳条湖で満州鉄道が爆破されたのは蒋介石の国民党軍に参加している張学良とその兵力による秘密工作だとの言いがかりで満州全域が僅かな期間で占領されたのが満州事変だ。石原莞爾本人は、長い目で見て日本対アメリカの世界の覇権国を決める決勝戦で日本が勝つために後背地として満州を確保したつもりだったのだが、日本国内で過度な熱狂が生まれ、むしろ中国大陸への関心が強まり、最終的に何もかもめちゃくちゃになってしまう、その第一歩だったと言うことができるだろう。石原莞爾は頭が良かったに違いないが、人望がなかったので日本を彼の理想の方向に引っ張っていくことができなかった。彼の最大の誤りは自分に人望がないことを過小評価していたことかも知れない。

日露戦争で大連・旅順を含む関東州及び南満州鉄道を手に入れた日本は、満州地方全域を手中に収めることを意識するようになるが、その収め方については様々な在り方が研究されたようだ。たとえば日本の直接領有も検討されたが、第一次世界大戦後はパリ不戦条約で侵略戦争が国際法違反と認識されていたため、この手法は却下された。国際社会の理解を得られるとはとても思えなかったからだ。とすれば、ウッドロー・ウイルソンが提唱し、国際連盟の理念である民族自決を大義とすれば諸外国は手出しできないだろうとの計算が働き、張学良を満州国皇帝にする案と溥儀を引っ張り出す案が立案され、溥儀が選ばれた。おそらく、溥儀と張学良それぞれにアプローチがあり、より脈ありというか、より言うことをききそうなのは溥儀だと関東軍は判断したに違いない。なにしろ張学良は蒋介石に従ってはいるが、その軍事力は蒋介石を凌いでいた。当然、関東軍とも場合によっては一戦交えるという構えでくる。一方の溥儀は丸腰で抵抗の術がない。それでいて満州人で元清朝の皇帝という都合のいいプロフィールを持っている。結果として溥儀は売国奴呼ばわりされ、今も歴史的な評価は低いし、いろいろな人の回顧録や伝記を読んでもさんざんな書かれようである。張学良は愛国の士としてのイメージが中華圏では定着しているため、書籍での書かれ方も大抵の場合は同情的で、敬意が示された書かれ方もよく見られる。人間性というのは大事なものである。後に西安事件で張学良は蒋介石に要求を認めさせた代わり、半世紀にわたって軟禁される運命を辿った。だが、ともに西安事件を起こした、いわば同志のような存在である楊虎城の場合、12年にわたって監禁され、最期は一家全員惨殺されている。西安事件によって蒋介石が抱いた憎悪の深さを物語るものだが、張学良は命は助けられたし台北の温泉も出てくる別荘地で主として読書に埋没する生活を送った。奥さんも一緒である。蒋介石は時々張学良を訪ねていたと、張学良本人がインタビューに答えているのを読んだことがあるのだが、蒋介石は張学良を罰してはいるものの憎んではいなかったことが分かる。父親の張作霖が馬賊からの叩き上げだったのに比べ、張学良は生まれながらのプリンスで、素直で善良で上品で教養があるというプリンスの良い面がよく表れ、結果としてはそれが彼を救った。彼は蒋介石に対して率直であり、我欲を求めなかったので、蒋介石にすら愛されたのだと言うことができるだろう。

それはそうとして、その張学良の軍隊を関東軍は武力で排除し、張学良の代わりに溥儀を大連まで船で運んで満州国建国にひた走るのだが、中国が国際連盟に提訴することで世界の注目を集め、日本の侵略行為だと認識され批判が強まっていく。日本側は国際連盟の調査団を満州に派遣することを提案した。調査団をうまく取り込むことができれば全てうまくいくと考えたのだろう。この日本側の提案が受け入れられ、イギリス人のリットンやフランスの外交官であるクローデルなどで構成される調査団が組織され、公平を担保するために日中双方から随員も出された。中国側は顧維鈞という中国外交関係のトップ中のトップを送り込んでおり、手足となるスタッフも相当な数に上ったらしいので、日本より中国側の方が実は遥かに役者が上だったことが分かる。日本側の外交を甘く見る傾向はおそらく今日までも続いており、いろいろ知れば知るほど暗澹たる心境になるが、今回の話題もそうだ。リットン調査団は日本の提案によって派遣されたが、調査団の委員たちは基本的に中国の主張を支持するようになった。クローデルはやや立場が違ったが、それは日本が正しいと考えるからではなく、現実問題として日本がパワーを持っているから、日本の主張を無視することは不可能じゃないかという、消極的な理由からだった。

委員たちは、日本の説明を聞けば聞くほど、満州事変が日本の陰謀によって行われたと確信するようになった。話ができすぎていて、とても現地住民の自発的独立運動とは信じることができなかったからだ。関東軍の動きは手際が良すぎたため、事前に共謀していたと受け取られたのだ。臼井勝美先生の『満州国と国際連盟』(1995 吉川弘文館)によると、リットンは日本の強情な態度に愛想をつかし、日本は満州問題で妥協すれば望む全てを手に入れることができるが、満州問題に固執しているため破滅するだろうと予見したという。事実、その通りになった。日本外交のトップにいた内田康哉はリットン氏との会談の場に於いて、リットン氏から問いただされたあらゆる妥協案を拒否した。内田は一切の妥協を拒否しただけでなく、帝国議会で満州問題で妥協するくらいなら日本を焦土にすることも厭わないという、いわゆる焦土演説まで行った。私には内田の演説が不気味な予言のようにすら思えてしまう。経済の分野でたまに言われる予言の自己実現が政治・外交・戦争の分野で起きたのだろうかと思えてしまうのだ。

リットンたちは日本の立場にすっかり愛想を尽かし、予定を切り上げて報告書の作成に入る。予定を切り上げた理由は、日本側といくら話し合っても同じ反応しか返してこないので、意味がないからだ。このように思うと、中国の外交力が勝っていたからリットン調査団が中国側についたというよりは、日本外交があまりに稚拙だったので、日本はオウンゴールして外交的な敗北をしたのではないかと思えてしまう。

それでもリットン調査団は日本の権益を大幅に認める提案をした。中国の主権を残した状態での自治政府を作るというものだ。それは国際管理をうたってはいるが、事実上日本が好き放題できる広大なエリアの設置を国際社会が認めるというもので、中国のメンツを立てつつ日本には実益を与えた。それをこともあろうに日本は拒否するのである。本当に頭を抱えたくなってくる。当時の国際連盟日本全権だった松岡洋右は奮闘し日本の立場は正当であると主張し続けた。イギリス側が日本と裏交渉を持ちかけてきたのは、松岡の舌鋒の鋭さも影響したのではないだろうか。イギリスからの裏交渉に松岡は飛びつきたかったが、東京にいた内田康哉からの訓令でそれもごわさんになる。内田康哉は国際連盟から脱退すれば、決議にしばられなくてもよくなるじゃん♪と考え、松岡に脱退の訓令を送っていたことが最近の研究で明らかにされている。日本は決議に於いて完全に孤立し、否決は日本の一票のみで、ほとんどが賛成。いくつかの加盟国は日本に対する遠慮で棄権した。日本に国際社会の理解がないのは明らかだった。松岡はこの決議の直後に脱退を表明し、その場を去る。場が凍り付いたらしいのだが、それは日本外交の幼さに対する驚愕であっただろう。世界を敵に回すような話じゃない。いくらでも妥協できるじゃないか。なのに…というわけだ。松岡は一連のできごとは失敗だったと認める内容を日記に書き残したが、真犯人は内田だと言っていいだろう。

リットン調査団の心証を悪くし、国際連盟加盟国のほぼ全てから満州国を否定された日本は、それでも満州を維持しようとした。その代償は明治維新後に確立した国際的地位の全てだったわけで、個人の人生でも、あまりに執着が強すぎると身を滅ぼしかねないという教訓としたい。



関連動画




溥儀と宦官

最近、どういうわけか、なんとなく宦官に関する書籍を何冊か読んだ。宦官は今となっては過去の時代のもので、ましてや日本には関係がなく、今さら宦官に関する知識を得てもしかたがないといえばしかたがないのだが、清末期の中国の歴史を知りたいと思った際に、宦官について多少の理解を持つことは有効だと言えるだろう。また、20世紀後半くらいまでは2000年続いた宦官の最終世代がまだ生きていて、インタビューも複数残っている。彼らは光緒帝とか溥儀とか西太后に仕えた経験があるので、生き証人としても貴重なため、インタビューもまた興味深い。インタビューを参照した論考も多い。

で、いろいろ読み進めるうちに分かってきたことは、宦官に対する考え方によって、その記述が大きく異なってくることだ。宦官は男性器を失っているがために、欲望の向かう先が富と権力へと先鋭化していき、そのため貪欲で、しかも権力者の近くにいるため影響力を発揮しやすく、国家の意思決定にも関わるが視野が狭いため最終的に国家を滅ぼす。ホルモンバランスも崩れているので外見や声なども異様。異形の者に操られる末期清王朝。みたいなイメージで描かれていく。

一方で、宦官には宦官の美があると考える書き手もいる。そもそも宮廷内部で勤務する宦官は眉目秀麗であり、おっさんくさくなることは絶対にない。ホルモンバランスが未知の領域なので、美しさもまた絶世の感あり。従ってモテる。最上級の王宮で仕事をしているため、マナーに詳しく気品に溢れている。教養もある。見た目よく、中身よく、マナーもできるのだから、結構完璧な存在だとすら言えるだろう。たとえば浅田次郎さんの蒼穹の昴で登場する宦官は、そういうタイプだ。宦官に憧れる人すら出てきそうな勢いだ。

私が読んだ宦官関連の本から得た感想としては、宦官が清朝の運命を左右するような決定的な意思決定にか関わった痕跡はどうもないらしいということだ。たとえば義和団事件の際に、清朝が列強に宣戦布告をするというような場面で宦官がああするべきだ、こうするべきだなどと述べていたなどの話はない。辛亥革命の際、もっとも影響力を発揮したのは袁世凱だが、袁世凱は宦官ではない。

宦官が宮廷内部でアヘンを売って儲けていたというエピソードはあるが、資本家になったというエピソードはないから大きな視点から見れば小商いに過ぎないとすら言えるだろう。

溥儀が宦官と遊んでいた話は多いが、宦官は基本的に奴隷みたいな存在なので、ひたすら溥儀の意思に合わせて行動するのが宦官だ。皇帝にとって宦官は奴隷であると同時に友達だ。しかし政治の相手ではない。

「最後の宦官」という呼ばれ方をした宦官は何人かいて、本当に本当の最後の人が誰なのかはちょっと悩ましい問題ではあるが、その中の一人に李連英という人物がいて、映画になっている。西太后に仕えた彼は、映画の中でどこまでも優しく西太后を包み込むような存在であり、西太后は体調不良の中、李連英におんぶされて最期を迎える。自分が一番弱っている時に体を預けることができるのが宦官というわけだ。中国映画なので、宦官がどういうものかというイメージはより我々よりも実感がともなった感じになっているとは思うのだが、宦官は優しく穏やかで、滅私奉公の精神を貫いている。ここまで徹してくれるのであれば、ちょっとくらいお金持ちになって余生を暮らしてもいいんじゃね?と思えるレベルだ。

『覇王別姫』という梅蘭芳を題材にしたで登場する宦官は、清朝が滅亡したことへのやり場のない怒りを抱え、男性器を失っているためにやはりやり場のない欲望の処理に困り、不正蓄財は思いっきりしているので、それで美少年を買い続けたりしてやがて破産する。この映画での宦官のイメージは悪いというか、かなり気の毒なものだ。但し、中国映画の場合、辛亥革命以前の権威は原則否定されなければいけないので、溥儀のことも西太后のことも大抵は思いっきり批判的な視線で描かれている。中国映画を観ると、清朝関係者は全員最低な人間ばかりみたいな錯覚すら起こしそうになる。実際はどうかは知らないが、全員最低ということはさすがにないだろう。ということは上にあげた李連英の映画の方がやや異色なのかも知れない。史上最悪のイメージの西太后と李連英の心温まる日常というのは、案外と新鮮かつチャレンジングな内容なのだろう。

エドワード・ベアは溥儀の伝記を書くために宦官に取材して思いっきりキレまくられてしまい、インタビューそのものが破綻してしまっている。エドワード・ベア自身の東洋人蔑視も酷いので、宦官の方が心を開いてくれなかったのだろう。エドワード・ベアは田中上奏文が本物だと信じていたような人物なので、あんまり相手にしても仕方がなさそうな気もする。

中国人の賈英華が溥儀に仕えた宦官の孫耀庭にインタビューした時は、結構なんでも赤裸々に親しい感じで話ができているようなので、やはりインタビューはインタビュアー次第なところもありそうだ。このインタビューを読むことで宦官に対する理解はかなり進むのではないかと思える。宦官について知りたい人がどれだけいるかはわからないが、中国近現代史の理解にもつながるので読んで損はない。溥儀の私生活についてかなり突っ込んだことを話しており、私は政治上のアクターとしての溥儀には関心はあるが、彼の私生活には関心がないため、あんまり詳しく述べられても食傷してしまうのだが、溥儀の人物像を知る上では確かに有効だ。

最後の宦官で有名な人でもう一人、小徳張という人がいるのだが、その人に関連する本はまだ読んでいない。読んでみて、新たな知見が得られたらブログに備忘として書き残したい。



日中戦争7 リットン調査団

満州事変が起き、満州国が誕生して溥儀が執政に就任するという流れが東洋で起きている一方で、西洋では中華民国から満州国は国際法違反によってつくられたものだとする提訴が国際連盟に対して行われ、日本側でも国際法に違反していないことは証明できるという姿勢を貫き、要するに諸方面が同意した上でイギリスのリットン卿を団長とするリットン調査団が組織されます。

実際に満州地方を歩いた期間はそこまで長かったわけではなく、東京や北京なども訪問し、日中双方の要人、その他当事者そのものと言える溥儀とも面談するなどしてリットン卿は実際のところを判断しようとしたわけです。調査と言っても諜報活動のようなことをしたというよりは、公正明大且つ貴族的優雅さを忘れぬ態度でジャッジしようとしたのがリットン調査団の仕事で、その成果がリットン報告書というわけです。

リットン報告書は北京で書かれ、当時の知識人らしく「満州とは」くらいの大上段から始まっています。リットン卿はインド総督もした人ですから、東洋についてはよく知っているという自負もあったのでしょう。カエサルの『ガリア戦記』で「ガリアは3つに分けられる」から書き出しているのを理想とする人が多いので、どうしても、ついつい、満州とは、中国とは、日本とは、みたいな大袈裟な話から入っていきたくなるのかも知れません。また、リットン卿としても自分の知性を発揮する絶好のチャンスでしょうから多少気負った感じもあったのだろうと思います。

リットン報告書では歴史的経緯を説明した上で、満州国は国際法違反であると結論しています。当時の国際法は、国際連盟の精神と連動して整備されたようなものだと言っていいと思うのですが、19世紀的な弱肉強食の世界、国益のために戦争をする世界、侵略戦争を是とする世界を辞めましょうという精神で構成されています。ウッドロー・ウイルソンの民族自決もその精神の一部であり、侵略戦争ダメ絶対!=諸民族は自分たちで意思決定する権利がある。他民族に意思決定されない(注意 民族とは何かという問題は今回はちょっと置いておきます。またいずれ議論できる日も来ることでしょう)。という思想が当時は特別重視されていました。第一次世界大戦でヨーロッパが荒廃し、科学技術の進歩が良かったのか悪かったのか大量破壊が可能になってしまい、もはや戦争はできない、戦争やってたら人類の文明が滅んでしまうという危機感が出発点になっています。この考え方は第二次世界大戦後の国際法にも影響していて、たとえばポツダム宣言でも日本の将来の政治形態は日本人が自分で決めると書かれてありますし、東京裁判でキーナン主席検事が「人類の文明を守るための裁判」と主張したのも、第一次世界大戦で世界は戦争には懲り懲りだと思ったのにも関わらず、また世界大戦をやってしまったので、第三次世界大戦を予防するための裁判だ!と言っているわけです。ここでは、その是非善悪を問うているのではなく、そういう考え方で彼らが仕事をしていたということを理解するために議論しています。東京裁判については考え方が分かれるでしょうが、一応、私はここに述べているような視点で理解しています。

で、以上のような国際法の観点から言って、満州国は国際法違反だとリットン卿は判断しました。満州地方は日本軍によって占領されていて、溥儀は傀儡に過ぎない。従って、溥儀を君主と仰ぐ満州地方人民の自発的分離独立運動と認めることはできないので、民族自決の精神にも合致しないと判断したわけです。さて、ここからがさすがは世界一の二枚舌の国であるイギリスらしい解決方法が提案されます。日本側はリットン卿に対し、主として2点を強調していました。

1は満州国は民族自決の理念に合致している。
そして2番目に、満州地方を手に入れるために、日本はめちゃめちゃ苦労したんだ。

ということです。1と2の言い分は完全に矛盾していますが、日本側は両方言い張りました。日露戦争で10万人の兵隊が死に、20億円の借金を作った。今もポンド建てで借金を返済している最中だ、そこを汲んでくれよと情に訴えたわけですね。で、リットン卿は日本側の主張1を認めてしまうとヨーロッパに帰ってあいつは馬鹿だと言われるのが嫌なので、1については明確に否定します。しかし、二枚舌が普通なので、日本が情に訴えて来た部分は受け入れてあげましょうという提案がなされました。満州国を独立国として認めることはできないが、日本に権益追求の優先権があることを認め、ついでに国際管理ということにして、ま、細かいことはこれから考えることにして、国際連盟の強い国でうまく分け合いましょうよ。日本は多めに獲ってもいいから、その他の国にもちょっとづつ分けてよ。そしたら、矛盾してるところとか、目をつぶってあげないわけでもないよ。というわけです。

満州地方がもし国際管理になっていたら、ロシアの南下も心配しなくていいし、国民党にも手が出せません。そして利権は日本に優先権がある。こんなにいい話はちょっと考えられません。なんとおやさしいイギリス様と思ってしまいますが、日本側は「満州国は民族自決の精神に合致する独立国だと認めろ」と強弁して話をまとめようとはしませんでした。ああ、これがニッポンの悲劇と思わず天を仰ぎたくなってしまいます。

次は国際連盟で松岡洋右が強弁している最中に起きた熱河作戦についてやってみたいと思います。




日中戦争6 満州国の溥儀

1932年3月1日、第一次上海事変の停戦協定もまだ結ばれていない最中、満州国の建国が宣言されます。満州国の政治的なトップに溥儀を執政として据えて、事実上の関東軍の傀儡国家を成立させたことになります。

満州地方を関東軍が占領した後、日本領にするか、どこかの軍閥と手を組んで自治領みたいにするか、独立国家にするかは意見が割れたようですが、結果としては溥儀を利用した独立国家にする道を関東軍は選びました。第一次世界大戦を経験した後の世界秩序の中で、露骨に日本領を拡大することは既に憚られる状態だったこともありますが、溥儀は満州民族の君主ですから、満州地方の住民の自主独立運動、民族自決の帰結として満州国が建国されたのだと強弁する材料にすることができたことや、溥儀は自前の軍隊を持っていませんから、一度取り込んでしまえばとことん傀儡として利用できる、溥儀に抵抗するだけの力はないと見抜いたということもあると思います。

溥儀は紫禁城から追放された後、天津の租界で、特にやることもなく適当に遊んですごしていたわけですが、関東軍からの満州行きのオファーに対し、共和制だったら行かない、帝政だったら行くとの条件を出し、関東軍サイドが帝政だと約束したことを信用して満州へと秘かにわたって行きました。

で、どうなったかというと、皇帝ではなく執政という最高行政官みたいな肩書を与えられたわけですから、ちょっと騙された感はあったのではないかと思います。溥儀は徹頭徹尾、清朝の再建のために日本を利用しようと考えていたところがあるようですが、日本側は清朝の再建は全然考えていなかったという温度差、不協和音を感じてしまい、溥儀についつい同情してしまいます。

溥儀は二年ほど執政としての立場を真面目にこなし、念願かなって満州国の皇帝に即位します。関東軍から見れば、満州国の皇帝で、溥儀の主観では清朝の復活です。やはり温度差、不協和音はあったと思いますが、溥儀としては皇帝に返り咲くことができたことで、それなりに満足はしたかもしれません。中国のドラマで溥儀を扱っているのを見ると、わりと日本が戦争に敗け始めて大変なことになっている時期に、何も知らず呑気にタバコを吹かしてご機嫌に遊んでいる溥儀が描写されていたりしますので、当時はご満悦だったというのが定説になっているのかも知れません。ベルトリッチの『ラストエンペラー』を見ると、ずっと悲劇的な人世で、そんなご満悦どころではないのですが、まあ、溥儀本人の主観を想像するに、天国から地獄へのジェットコースターを何度も経験していますから、相当に疲労困憊する人生だったのではないかと思います。

溥儀は正確には三度、皇帝になっています。一度目は光緒帝が亡くなった後に三歳で指名されて即位した時です。その後、辛亥革命で廃位されますが、袁世凱が亡くなった後で張勲のクーデター的策略で再度皇帝の座に座り、二週間にも満たない短い期間ですが、清朝が復活しています。そして三度目が満州国皇帝即位というわけです。

実に大変な人生です。その後、満州国建国についてはリットン調査団が入っていろいろ調べて、民族自決ではないと結論されてしまったり、日本の国際連盟離脱につながったり、ソ連邦参戦の時には口に出すのも憚られるような酷いことが起きたりと重苦しい歴史の出発点になったというか、満州地方に固執したために日本はほろんだみたいなところもありますから、満州は日本の重苦しい過去の中心みたいな場所なのだなあと、ブログを書きつつ、改めてためいきをついてしまいます。




日中戦争4 満州事変‐石原莞爾と張学良

張作霖氏が殺害される事件が起きた後、息子の張学良氏‐この人は20世紀の東アジア関係史で最も謎に包まれた人物と言えるかも知れないですが‐が張作霖氏の軍隊と地盤を継承します。張学良氏にはいくつかの選択肢がありました。一つは南下の機会を模索するソビエト連邦と連携すること、もう一つは大陸での権益の拡大を模索する関東軍と連携すること、三つ目は軍閥が群雄割拠する中、力を伸ばしてきた蒋介石氏と連携することです。

で、結果として張学良氏が蒋介石氏との連携を選びます。普通に考えて、当時、張作霖氏が関東軍によって命を奪われたことは既に知れ渡っていましたから、人情の問題としても関東軍との連携はさすがにないだろうと思います。一部には実は張学良氏はソビエト連邦の工作員で、それで蒋介石氏に近づいたんだとする説もあるようですが、私は噂で聞いたことがあるだけなので、まあ、そういう噂もありますよ、くらいに留めておきたいと思います。張学良氏の回想インタビューは音声、動画、書籍など複数ありますが、私が中国語で発行された最近の回想ものの書籍では、若いころにどんなガールフレンドと付き合っていたかを張学良氏がいきいきと語っているような内容で、しかも実名を出していますから、本当にこんなものを外に出していいのかとも思いましたが、後に起きる西安事件については一切の口を閉ざしているあたり、墓場まで重大な何かを持って行ったことは確実で、それが何なのかは永遠の謎になると思います。

さて、張学良氏が満州地方で実力を保ちつつ蒋介石氏と連携することは、関東軍にとってはなかなか面倒なことだったと言えると思います。関東軍が割って入る隙のようなものがありません。全ては張作霖氏を殺害した河本大作大佐が悪いのですが、そっちの方は放置したまま、どうやって割って入るかということを考え抜いた石原莞爾が柳条湖事件を立案します。当時、中村大尉が諜報活動中に張学良麾下の部隊に殺害されたこともあって、現状をなんとかしようと関東軍が模索していた様子も感じ取れます。繰り返しになりますが、河本大佐の件をうっちゃってなんとかするというのは、ちょっと難しいことではなかったかとも思えます。

いずれにせよ、1931年9月18日、板垣征四郎大佐や石原莞爾中佐らが柳条湖での南満州鉄道を破壊し、それを国民党の軍の仕業であると自作自演して先端を開きます。土肥原賢二、甘粕正彦が奉天占領に動き、関東軍は満州地方全域を手に入れる方向で動いていき、天津で亡命生活を送っていた愛新覚羅溥儀を迎え入れて独立政権の確立を目指します。日本領にせず、独立傀儡政権の確立へと動いて行ったことは、パリ不戦条約のような第一次世界大戦後の新しい国際秩序の中で、あからさまな侵略行動がとれない時代に入ったからだと説明することもできると思います。




『ラストエンペラー』の孤独の先にある孤独とさらにその先の救い

『ラストエンペラー』は清朝の最後の皇帝であり、後に満州国の皇帝に即位した人物で、日本の関東軍とも深い関係があったことで知られる溥儀の人生を描いた映画です。

映画の前半はずっと紫禁城の内側でのできごとが描かれます。どの場面も一幅の絵のように美しく、現代の我々の生活とは全く異なる別世界が実際に存在したのかのように思えて来ます。実際に紫禁城で撮影されていて、あちこち建物が傷んでいますが、これもいい意味でリアリティを持たせることの役割を果たしているように見えます。少年溥儀は紫禁城から出ることを許されず、巨大な宮殿の中で監禁されているかのような息苦しさとともに成長していきます。唯一心を開いた相手であろう乳母とも引き離され、孤独を噛みしめます。

溥儀と周辺の人たちは将来の清朝の復活を期待しますが、軍閥によって紫禁城を追放され、天津で暮らします。実際には日本疎開にある邸宅を借りて、そこで相当に放蕩したようです。

だんだんお金が無くなっていきます。二人の妻と数十人の従者や元清朝関係者を抱えているにも関わらず、好き放題に贅沢しますので少しずつ追い詰められていきます。蒋介石からは年金が支払われていたはずですが、追い付かなかったみたいです(原作とされるエドワードベアの『ラストエンペラー』では一階をレストランにしたことになっていますが、あまり儲からなかったというか、儲かっとしても、これも消費に追い付かなかったような気がします)。そのような時、第二夫人が離婚を申し出ます。このことは物見高い天津中の新聞に書かれ、溥儀は大きく面子を失いますが、彼のように古代世界から抜け出て来たような人物であっても、20世紀的な人間の悩みやつまづきから自由になることはできませんでした。映画では、「新しい時代の女性」を象徴するかのように、明るい希望に満ちた音楽とともに第二婦人が出ていくところを描いています。深い絆で結ばれていたであろう家庭教師のレジナルドジョンストンは帰国してしまいます(満州国建国後、溥儀は乳母とレジナルドジョンストンを満州に招待していますので、実際の歴史でも溥儀がこの二人を自分の人生にとって必要な存在だと思っていたことが推し量れます)。

溥儀は関東軍に要請されて満州国へと渡ります。清朝復活の希望を託せるからです。しかし関東軍は彼を操り人形としか扱いません。彼の主体的な意思はそこには存在しません。3歳の時に紫禁城に招かれ、その後、一切の主体性を認められずに生きてきた彼にとって、自分が主体的に生きられないことへのもどかしさや怒り、周囲への不信感を抱え、それを増大させていきます。残った第一夫人は運転手と不倫関係になります。運転手は殺害されます。他にも溥儀のことを扱った映画では、運転手が命を絶たなくてはいけなくなるものもありますが、この映画の原作とされるエドワードベアの『ラストエンペラー』では疲れ切った溥儀が男に金を渡して立ち去るように命じただけだったと述べています。実際はどうだったのかは分かりません。殺されてもおかしくないとは思います。エドワードベアの『ラストエンペラー』という作品は東洋人への偏見が少し強すぎるように思うので、どこまで本当のことを取材しているのか私には疑問に思えますが、そういう記述もあるという程度に抑えておきたいと思います。

終戦の時、溥儀は一旦ソビエト連邦に抑留され、その後、中国に引き渡されます。戦犯収容所に入れられ、10年以上に渡る人格矯正を受けます。収容所内での所長と溥儀の会話では、溥儀が「あなたは私を利用しているのだ」という台詞があり、所長は「利用されるのはそんなに嫌なことか」と言います。溥儀は自分が利用対象に過ぎず、人間として尊重されていないと感じ、それが自分の人生でもあるように感じていて、人生に深く失望しています。

溥儀は釈放され、北京で普通の市民の女性と結婚し、文革の最中に亡くなります。映画では最後に溥儀の近くにいるのは彼の弟です。文革の街を二人で歩きます。文革で弾圧されている収容所の所長に再会します。彼は紅衛兵たちに対し「彼は素晴らしい教師なんだ」と訴えますが、押し倒されてしまいます。人生で初めて、全く自由な自分の心から彼は発言し、他人を助けようとします。晩年になって人間性を取り戻したと言うか、ようやく感情、或いは衝動に身を任せるということを手に入れたように見えます。

晩年の溥儀に対しては優しい視線が送られます。映画全体のやたら細部までしっかりしているリアリティ、登場人物の表情や目の動き、身のこなし、どれもが考え抜かれていて、何度見ても「ああ、ここでこんな表情をしていのか…」と今まで気づかなかったことに驚くということがよくあります。それほど、ディテールまでしっかり作りこまれている映画なのだと思います。

主役のジョンローンは香港で孤児として京劇のスクールに拾われ訓練を受けたとのことですが、京劇の基礎と、後にアメリカにわたって訓練された演劇の基礎の両方を持っており(トニー賞を二度受賞)、一つ一つの動きが、一言でいえば美しいです。何度観てもほれぼれするクールな映画です。

細部に於いては史実とは少し違うところもあるようです、溥儀は紫禁城に隣接するようにして建っている父親の邸宅には自転車で行っていたらしいですし、少年時代は電話を好き放題にかけて胡適を紫禁城に呼び出すようなこともしていたようです。弟に命じて紫禁城の財産を天津に移動させていたり(将来を見越してか?)など、わりと自由にできていたところもあったようです。また、坂本龍一が満州国の片腕の陰の支配者甘粕正彦の役をしていますが、実際の甘粕満州映画協会理事長は両腕のある人でしたし、満州国の陰の実力者ということはなかったようです。満州映画協会が工作組織としての一面を持っていたとする指摘もあるようですが、それはおそらく同撮影所で制作したものを上海や台湾などで上映することによる宣伝活動ということではなかろうかと思います。そう考えれば、国策映画会社がそのような任務を負っていたとしても普通に納得できます。

話が脱線しますが、満州映画協会によって台湾を舞台に李香蘭主演の『サヨンの鐘』という映画が撮影されます。台湾人に対する宣伝映画なのですが、未だに全編を観ることができていません。台湾で上映する宣伝映画を満州映画協会が作ったということは、それだけ満州の映画産業が発達していたと見ることもできるため、なかなか興味深い現象だと思います。

スポンサーリンク