頼朝の死の秘密

頼朝は本来、七百年も続いた武士政権のパイオニアとして尊崇されてしかるべき人物であるとも思えるのですが、実際にはさほどぱっとした扱いを受けているとも言い難いようにも思えます。たとえば大河ドラマで頼朝が主人公になったことはあったでしょうか?私の記憶の限りで言えば、否です。頼朝の武勇伝のようなものも、やや分量が少ないように思えます。たとえば家康であれば人質時代のこととか、三方ヶ原の戦いとか、関ケ原とか、多くの人が知る大きな見せ場のようなものを幾つも持っていますが、頼朝はそういうわけでもありません。源平の戦いの主役は義経だという印象が強いですし、鎌倉幕府の主役は源氏というより北条氏です。

もちろん、頼朝がスーパービッグネームであることに違いはなく、特に徳川時代は尊敬や研究の対象になっていたことも否定できませんが、しかし、その割にやはりあんまり人気もないし、語られることもありません。

それもそのはず、彼が歴史の大舞台に登場した挙兵の時、当時としてはおじさんの30歳を過ぎたあたりですし、実際に戦ったのは弟たちですし、その後、弟たちを殺したという点で、どうも暗い印象を拭うことも難しいからなのだと言っていいと思います。本当にこの人は歴史を作った大人物なのでしょうか?それほど有能な人だったのでしょうか?私にはちょっと疑問が残るというか、彼は単なるパペットのような人で、虚像のイメージだけが語り継がれていて、実際は・・・なように思えてなりません。私は藤沢市民なものですから、どちらかと言えば源氏に同情的な土地柄で暮らしていると言っていいとも思うのですが、やはり鎌倉が頼朝の土地であると考えた場合、藤沢は義経が足止めされた土地であり、義経の首洗い井戸があり、義経を信仰する白旗神社があるという土地柄でもあるため、頼朝に対してはやや冷ややかで、より義経びいきな土地だとも思えますから、それで私もちょっと頼朝には冷たい視線を向けてしまっているのかも知れません。

で、そのような頼朝なのですが、どうも、その亡くなり方もやや秘密めいたものになっており、私のように頼朝に対してあまり同情的でない人物からすると、どうやら頼朝の死には複雑な背景があるのではなかろうかとの邪推をしたくなる要素が多少見え隠れしているようにどうしても見えてしまいます。

吾妻鏡によると、頼朝は相模川にかけられた橋の橋供養の帰りに落馬して亡くなったということになっています。しかし、これってなんか、おかしくないでしょうか?頼朝がどんな人物であったのかというと、若いころは伊豆半島のあちこちの女性のところへ遊びに行くために馬でぱっぱかぱっぱかと伊豆の野山を駆け回っていた可能性が高く、要するにナンパに明け暮れていたと考えられるわけですね。伝説では曽我兄弟と同じ一族の八重姫が頼朝の子どもを産んだとされていますし、史実でも本来流刑の憂き目に遭っていた頼朝を監視する立場だった北条氏の娘の政子が頼朝に陥落してしまっています。ですから、そのような男が馬から落ちるって、戦場でならあり得るかも知れませんけど、既に戦争が終わって平和な時代の橋供養とかいう儀式が終わって穏やかに帰る道すがらに馬から落ちるって考えにくいように思えてならないわけですよ。頼朝が挙兵して最初に犠牲になったのは山木兼隆という平氏系の武士なのですが、彼は政子の父親の意向で政子と結婚したものの、結婚の最初の夜に政子が家を抜け出して夜通し走って逃げてきたというエピソードのある人物で、頼朝からすると自分の女を奪おうとした恋敵であったと言えるため、どちらかと言えば女性を巡る地元の不良が戦っているという雰囲気の要素が強く、源氏再興とか、以仁王の令旨に従うなどの大義名分は後から一応理由をつけたというように見えなくもありません。そんなわんぱく頼朝君がやっぱり馬から落ちるって、ちょっと考えにくいんですよ。

とすれば、落馬したというのは、本当にそういうことがあったわけなんじゃなくて、何らかのメタファーなんじゃないかなと思えてくるんですね。武士が、或いは政権のトップにいる人が落馬するというのは、要するに失墜する、権力の座から引きずり降ろされる、戦いに敗れるというような意味合いを含むはずです。ですから、事の本質は頼朝落馬ではなく、頼朝失脚なのではないか、頼朝は権力を北条氏に奪われて殺された、あからさまに殺されたわけではないかも知れないけれど、謀殺されたということをダビンチコードみたいに「落馬」という言葉で暗に示し、後世に伝えようとしたのではないかと考えれば、頼朝が落馬したと吾妻鏡に書かれていることも、しっくり来るのではないかと思えてきます。とすれば、相模川の橋供養の帰りというのは鎌倉を中心とした相模地方が安定状態に入り、戦乱の時代から北条氏による平和の時代へと橋渡しが行われ、用済みになった頼朝は供養の対象になったと読むことも可能ではないでしょうか。もしかするとちょっとうがちすぎかもしれませんが、以上のような読み方が不可能ではないとも思えます。

考えてみると頼朝は北条氏のパペットとして歴史に登場し、北条氏のパペットとして去って行ったように見て間違いないと思います。彼にはそもそも自分の意思で何かをするということはできませんでした。源氏の棟梁という貴種ではありますけど、挙兵した時は島流しにされている罪人の身であり、兵隊は北条氏が用意する、金も北条氏が用意する、それこそ馬も船も食料も北条氏が用意するというわけですから、北条氏に逆らうことはできません。頼朝の活動を見て行けば、まずは木曽義仲を滅ぼし、次いで平氏を滅ぼして、次に邪魔者であり弟でもある義経を殺し、ついでに義経とともに平氏滅亡に功績のあったもう一人の弟の範頼も殺し、要するに源氏の信頼できる仲間がくしの歯が欠けるようにいなくなっていって、裸の王様みたいになっていって自分もいなくなった…という風に見えます。木曽義仲、平清盛、源義経、源範頼、彼らが全て滅亡したことで北条氏の天下になります。頼朝は北条氏のための露払い役であって、用済みになって消されたのではないかと私には思えてなりません。

今回は想像力をたくましくしてみました。全て私の憶測ですので、古い歴史の謎に挑むという感覚で楽しんでもらえればいいと思います。頼朝ファンの方がいらっしゃったら、本当に申し訳ありません。私、ここまでやっちゃうというのは、やっぱり義経のことが好きなんでしょうね。多分。清盛の方がもっと好きなんですが。今回はこんな感じです。ありがとうございました。



平清盛の死

後白河との決裂を決意した平清盛は、後白河を幽閉します。清盛としては自分の孫が安徳天皇であるため、もはや後白河は不要だったのです。そして後白河も公家たちの間に増えつつあった清盛打倒派閥にかつがれそうになっていたため、両者の決裂は必然であったかも知れません。

後白河の息子の一人である以仁王は、後白河幽閉という清盛のクーデターを受け、平家打倒の令旨を全国に発します。この令旨が源頼朝や木曽義仲の挙兵の口実になりましたから、以仁王が平氏滅亡のきっかけを作ったとも言えますが、もとを正せば清盛が後白河を幽閉したことに端を発しているわけですから、清盛が自ら災難を招いたと言ってもいいかも知れません。

以仁王は皇族ですので、本来、命を奪われることはないのですが、そこは清盛です。安徳天皇の勅命として、以仁王を源氏姓に臣籍降下させます。皇族からただの人になった以仁王のところへ部下を送り、命を狙わせました。以仁王は脱出し、延暦寺を頼ったもののうまくゆかず、奈良の興福寺を頼ることを決心します。そして興福寺へたどり着く途上で追いつかれて戦死したと平家物語では伝えられています。

以仁王が戦死した直後、清盛は安徳天皇を連れて福原遷都を強行します。福原は今の神戸なんですが、清盛が日宋貿易の関係で開発していた土地なんですね。それで、安徳天皇をそこに住まわせて、平安京から福原へと遷都しようというのが清盛の目論見でした。前々から計画していただろうなとは思いますが、以仁王の事件があって清盛は遷都を急いだのだろうと思います。おそらく、以仁王は清盛にとってノーマークで、まさかこの男から平氏の盤石さが崩されそうになるとか考えていなかったのではないでしょうか。清盛は、京都という古い都で何重にも絡みついている人間関係の綾のようなものに驚愕したはずです。京都の公家社会を打破し、真実に平氏中心の日本を作るには、京都を捨てるしかないと決心がついたのでしょう。清盛にとって幸いなことに、安徳天皇は完全に自分の手の内にありますから、天皇の名のもとに何でもできるという自信もあったことでしょうね。もう、後白河のボディガードみたいなことをする時代は終わったんだ、これからは平氏が皇室をも超えていくんだという遠大な夢も描いていたんだと思います。そういったもろもろ全てを清盛は福原遷都に託したんだと思います。

しかし、反発は強かった。公家たちは自分たちの力の源泉は京都の地縁血縁だと知りぬいているので、動こうとはしないわけです。しかも間の悪いことに、源頼朝が挙兵し、石橋山の戦いでは頼朝が敗走していますが、その後房総半島経由で鎌倉に到着し、準備を整え、軍勢を西へ向けて動かし始めていました。そして有名な富士川の戦いでは平家軍は実際に戦闘が始まる前に逃走するという赤っ恥をかいています。このようなこことが起きると、どうしても権力者は求心力を欠いてしまいます。求心力が失われると、書類上は完璧な命令でも、どういうわけか実行されません。物事が滞ります。部下たちがサボタージュするからなんですね。

清盛は福原で安徳天皇を抱え続けることを断念し、京都へ帰還します。清盛は京都に於ける反平氏勢力一掃を計画しますが、その標的は仏教勢力でした。特に奈良の興福寺・東大寺の勢力を根絶やしにしようと考えたのだと思いますが、兵力を派遣して焼き討ちします。奈良の寺社の多くが焼き払われたと言われており、東大寺の大仏殿も消失し、後に頼朝が再建しています。清盛がここまで仏教勢力を敵視したのも、仏教の地縁血縁が公家支えているとの見方をしたからでしょうね。しかしこのことで、清盛は完全に支持を失いました。仏敵認定までされてしまいました。

過去複数回にわたって清盛の話題を扱って来ましたが、清盛は安徳天皇を得たことで権力の絶頂を迎えたものの、文字通りおごれる平家は久しからずになっていったとがよく分かります。それまで後白河とバランスを保って権力を維持していたのが、後白河幽閉という荒っぽい手段に出たり、福原遷都の強行とか、奈良焼き討ちとか、非常に焦って物事を進めようとしていたことも感じ取ることができます。おそらくは安徳天皇の祖父として絶対的な権力を得たことからの慢心があって、遠慮ない手段を選んだのでしょうけれど、同時に、最高権力者になったはずなのに、物事が思ったように進まない、公家たちが自分の期待した通りに動こうとしないことへの怒りといら立ちもあったのではないかと思います。非常にフラストレーションがたまる状態になってしまい、パワーバランスを保つという慢性的に緊張する状態を受け入れることができず、荒っぽい手段を用いてでも最終的な解決をはかろうとしていたことが見えてくるようにも思えます。未来永劫、平氏が支配する日本を築くためには、公家社会を打破するしかないと決心し、そのためにはなんでもやったわけですが、結局は打破しきれず、自らの政治生命を終わらせてしまうことになってしまいました。

そしてその翌年、清盛は熱病に倒れ、命を落とします。私は清盛暗殺の可能性があるような気がしてなりません。清盛はすでに60代のおじいちゃんでしたが、突然熱病に倒れ、数日で死んでしまうというのは、高齢による内臓疾患とかとは全く違うことが清盛の体内で起きたことを示すものではないかと思えるのです。しかも、福原遷都を強行したことは、安徳天皇を利用して公家社会を京都の地縁血縁から引き離そうという決心があると見ぬかれてしまいしたから、清盛暗殺すべしと考える人がいてもおかしくありません。清盛暗殺を企図する人たちにとって、平家が奈良のお寺を焼き討ちしたことは、これ幸いと思えたかも知れません。これで清盛を殺したとしても、罪悪感を抱かずに済むからです。黒幕はやはり後白河だったのかも知れませんねえ。やはり八咫烏が皇室を守るために動いたのでしょうか。月刊ムーみたいな話題になっちゃいますが、これは完全な私の憶測です。




源平の戦いをざっくりがっつり語る

白河上皇が院政を始め、保元、平治の乱のころには既に天皇を退位した後で院政をするというのが一般コースとして認定されていきます。しかし、嘘か本当かは分かりませんが、白河上皇は異性関係が激しく、鳥羽上皇の息子である崇徳天皇は「実は白河上皇の息子なのではないか?」という噂が流れていたようです。源氏物語みたいな話です。

鳥羽上皇は自分の子どもではない崇徳天皇を厭い、白河天皇が亡くなると崇徳天皇を強引に退位させ、鳥羽上皇と美福門院の間に生まれた近衛天皇が皇位に就きます。順調であればその後は近衛天皇の子孫が皇統を継承していくはずでしたが、近衛天皇が17歳の若さで亡くなります。崇徳天皇の母親の待賢門院は崇徳天皇の息子の重仁親王皇位継承を望みますが、おそらく信西の暗躍もあって待賢門院が自分の息子の系統に皇位を継がせるべく、雅仁親王が次の天皇に指名され、後白河天皇として即位します。

院政は現役天皇の父、祖父でなければできないという不文律があり、後白河天皇は崇徳上皇から見て異母弟であったため、崇徳上皇の院政への希望は断ち切られます。

鳥羽上皇がなくなると、崇徳上皇は源為朝などの武士を集めて武力による実権の掌握を目指しますが、後白河天皇サイドに集合した平清盛、源義朝と知恵袋の信西が先制攻撃をかけ、数時間で勝敗は決し、崇徳上皇は流罪となり、その他、崇徳上皇に味方した源氏平氏の武将たちは首を斬られます。保元の乱です。

後白河天皇は退位し、二条天皇が即位します。後白河院政が始まります。

信西は後白河上皇の信頼を得て独裁的な政治を進めますが、院の近臣の一人である藤原信頼が全く出世させてもらえません。また、信は平清盛を厚く遇したのに対して、源義朝は冷遇します。新体制で冷や飯組になった藤原信頼と源義朝が結びつき、平清盛が熊野詣に行っている間にクーデターを断行。後白河上皇と二条天皇は幽閉されます。また、信西は逃走先で自決に追い込まれます。平治の乱です。

事態を知った平清盛が帰京し、一旦は藤原信頼に服従の姿勢を見せますが、機会を見計らって後白河上皇と二条天皇の奪還に成功。藤原信頼は斬られ、源義朝は関東へ向けて敗走中に家臣の長田忠致によって殺されてしまいます。この長田忠致という家臣は源平の戦いが始まると源氏の家臣として働きましたが、平氏追討が終わると、源義朝の息子である源頼朝によって処刑されています。やはり裏切るというのはよくありません。因果が巡ってきます。

こうして後白河上皇と平清盛という因縁の両雄が並び立つことになります。

平清盛は二条天皇を支持し、後白河上皇による院政を阻止しますが、後白河上皇は二条天皇を退位させて新しい天皇を即位させることによって院政復活を狙います。そうこうしているうちに二条天皇が亡くなり、その息子の幼い六条天皇が即位します。この時点では後白河上皇と平清盛は政敵ですが、どういうわけか再び手を結び、六条天皇を退位させて高倉天皇が即位します。ちなみに清盛は瞬間風速的に太政大臣になり、すぐに辞職して表向きは引退します。高倉天皇の中宮に清盛の娘の徳子が入り、男の子が生まれます。要するに代々藤原摂関家が手にしていたポジションを平清盛が手に入れたことになります。表向きの引退がこういう場合、あんまり意味がありません。清盛は福原遷都に精を出します。もともとアントレプレナー的な気質で、福原に遷都して日宋貿易を活発化した方が得に決まっているという合理精神が働いたものと私は思いますが、同時に貴族を根城の京都から引き離すことで、実質的に朝廷を私物化しようという挑戦もあったように思えます。

ところが、奢れるものは久しからず。ここからいろいろおかしくなっていきます。平家討滅と謀議する鹿が谷の陰謀事件が露見し、後白河上皇の関係も疑われ、清盛と後白河上皇の間に溝が入ります。更に後白河上皇は何かと理由をつけて平氏の荘園を奪い取ろうとし始めます。切れまくった清盛はクーデターを断行。福原から京都に入り、後白河上皇を幽閉します。後白河上皇は人生で何度となく幽閉される人です。ジェットコースターみたいな人生です。

高倉天皇と平徳子の間に生まれた安徳天皇が即位し、清盛は天皇の外祖父として人生の最高潮を迎えていたはずですが、思うように行かなくなります。後白河上皇とは互いに譲歩して和解が探られていたところへ以仁王が挙兵。自ら親王を称し(王では天皇になれないが、親王なら天皇になれる。血統的には違いはないが、呼称の違いによってその立場が分かるように設定されている)、全国の武士に平氏追討の令旨を出します。この令旨が正統性を持つかどうかは別にして、源義朝の息子で伊豆に流されていた源頼朝が、あろうことか頼朝監視役の北条氏に担がれて挙兵。頼朝は石橋山の戦いで惨敗して真鶴から房総半島へ脱出しますが、その後鎌倉に入り、そこから源氏の棟梁として源氏系の武士に命令する立場であることを宣言します。そこへ源義経がかけつけてようやく役者が揃います。以仁王は宇治川の戦いで討ち死にします。しかし平清盛が熱病で急死。平家の命運に暗雲が漂います。

木曽義仲が挙兵し、京都に迫ると、平氏一門は福原へ脱出。解放軍の役割を期待されていた筈ですが、義仲軍は暴行略奪を繰り返し、京都市民からの支持を失います。義仲の切り札は以仁王の息子を囲ってあることで、以仁王の息子を天皇に即位させることを画策しますが、後白河上皇はそれを一蹴。安徳天皇の異母弟の後鳥羽天皇が即位します(この後鳥羽天皇は後に承久の乱を起こします)。このことで西国に逃れた平家が戴く安徳天皇と、京都で後鳥羽天皇と、天皇が同時に二人存在している異常事態が発生します。歴史的な動乱期ですので、これくらいのことは起きても全く不思議ではありません。

木曽義仲は後白河上皇から朝敵扱いされ、鎌倉から軍を率いてやってきた源義経と激突。義仲軍は敗れ、義仲は戦死します。晴れて源義経入京。京都の鞍馬寺で何事もない人生を送るようにに教えられて育った若者が、一機に時の人になります。

平氏は態勢を立て直して福原エリアまで復活してきますが、義経は一の谷の戦いで平氏を背後から襲い、敗走させることに成功します。義経は京都では大人気で、後白河上皇から検非違使にまで任命されますが、鎌倉では不人気で、頼朝は義経を警戒して冷遇し、他の武士たちからも「戦いかたが小賢しくて武士らしくない」などの讒言が飛び交うようになります。京都で育ち、京都で大事にしてもらっている義経が、関東からは冷遇されれば、心理的には鎌倉よりも京都に近くなるに違いありません。気の毒というか、自分も義経の立場なら、いいもん、僕、京都で。と思うかも知れない気がします。

その後、屋島の戦いでは義経は再び平氏を背後から襲って敗走させることに成功し、次いで壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡に追い込みます。幼い安徳天皇が三種の神器と一緒に入水し、水天宮として祀られることになります。三種の神器のうち、草薙の剣は回収できず、あれはレプリカで本物は熱田神宮にあるともされていますが、本当のところはよく分かりません。

平家追悼の仕事を終えて義経は鎌倉へ凱旋しますが、鎌倉の手前の腰越から先に入れてもらえず、涙ながらに切々と訴える腰越状も送りますがダメで、義経は京都へ向かいます。京都で頼朝の刺客に襲撃され、怒り心頭で反頼朝の兵を上げますが、兵隊が集まらず、吉野に落ち延び、次いで安宅の関を通って奥州藤原氏を頼ります。奥州藤原氏では義経を迎え入れ、当初は頼朝と対決する時の大将にと期待されていましたが、庇護者の藤原秀衡が亡くなると、後継者の藤原泰衡は自らの軍で義経の居所を襲撃し、義経は自決に追い込まれます。泰衡は義経の首を鎌倉に届けることで恭順の姿勢を示しますが、義経の首を届けたことそのものが謀反人の義経を匿っていた動かぬ証拠であるとして、頼朝は奥州藤原氏を攻め滅ぼし、かくして一連の大動乱が幕を閉じたというわけです。

その後頼朝は後白河上皇と対面し、融和が図られますが、頼朝は「あいつは信用できねぇ」と言っていたようです。その源氏も遠からず直系は途絶えてしまいます。


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源氏滅亡の諸行無常

壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した後、源頼朝は弟の義経を追放し、奥州藤原氏を滅亡させ、更には京都に行って後白河法皇とも話をつけて万事順調に行ったように見えます。一連の戦火で燃えてしまった東大寺大仏の再建は頼朝天下取り事業の最後の総仕上げといった感があります。

しかしながら、それからほどなく頼朝は亡くなってしまいます。吾妻鏡での書かれ方が曖昧でよく分からないことが多く、落馬して川に落ちて溺死したとも、糖尿病だったとも言われます。また、北条氏陰謀論みたいな話も囁かれますが、無理からぬことと思います。

頼朝は血筋こそ素晴らしいもので、源氏の棟梁でなければ征夷大将軍になれないという慣例を築き上げることができましたが、現実的には北条氏の力に頼らざるを得ず、北条氏という実態の上に頼朝というお神輿が乗っかっていたということもできるように思います。北条氏がいなければ何もできないのです。「神輿は軽くて〇ーがいいby小沢一郎」の法則に従い、北条氏は源氏直系を次々と暗殺していきます。あまりに無惨なのでドラマとかにはかえってなりにくいように思えます。

二代目将軍の頼家は修善寺に幽閉され、高い確率で北条氏によって暗殺されています。その弟の実朝は頼家の息子の公暁によって殺され、公暁は北条氏に捕まって殺されるという、暗殺の連鎖が起きてしまっており、そのような事態の流れをコントロールしていたのが北条氏と言われています。繰り返しますが、無理からぬことです。北条氏にはやろうと思えば実行できるだけのパワーがあり、かつ、その後、北条氏の時代が続いたわけですから、後世、そのように考えられたとしても全く不思議ではないように思えます。

さて、北条氏には頼朝の妻の北条政子がいます。息子の頼家は修善寺に幽閉されている時、政子に「寂しすぎるので友達を修善寺に送ってほしい」と頼む手紙を送っていますが、政子それを無視し、代わりに刺客を送ったということになるわけですが、自分の本当の息子に対してそんなことができるのだろうかという疑問がどうしても湧いてきます。母が実家の権力のために実の息子を殺す(北条氏の他の人がそれをやったとしても、少なくとも政子はそれを黙認した)ということが本当にあり得るのだろうか。もし本当だったとすれがそれはさすがに恐ろしすぎるために、歴史が語られる場所では敢えてあまり触れられていないように見えます。

二代目将軍は放蕩が過ぎたとされていますが、はっきり言えば、放蕩くらいどうということはありません。放蕩程度なら、酒と女と遊び仲間を与えておけばいいので「軽い神輿」としていなしていくことができるはずです。梶原景時が死んで守ってくれる人がいなくなったのが彼の死の原因の一つという話もあります。

本来平氏系である北条氏が、源頼朝にベットしてその賭けに勝ったわけですが、より確実なものにするために源氏の直系を根絶やしにしたとすれば、どこかで北条政子も腹を括ったということになりますが、その辺り、全然証拠が残っていないので、推量することも不可能で、小説のように考えることしかできません。

奢れる平家は久しからずの諸行無常とはよく言われますが、源氏の歴史もまた諸行無常で、大変に暗澹たるものです。平家と源氏のご本家は滅亡したにも関わらず、源氏平家政権交代説があるように、その後も武士の時代は源氏系と平氏系の武士(含む、自称)が入れ代わり立ち代わり政権を奪い合い、「源」姓と「平」姓が使われ続けて行ったこともまた興味深いことだと思えます。



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平清盛と源頼朝の違い

平清盛と源頼朝の違い



平清盛と源頼朝はいわば平安末期の両雄と言ってもいいのですが、その発想法には大きな違いがあり、その違いが最終的な勝利の行方を左右したようにも思えます。

平清盛は保元の乱平治の乱で勝ち抜き、平安京の宮廷内部で出世した人です。白河上皇の落胤説があり、今となっては確認のしようもありませんが、そんな噂が流れるほどに戦争だけでなく宮廷内での政治でも勝利を収め、信西なき後の朝廷の事実上の頂点に立ちます。ただ、良くも悪くも将来の見通しの効く人で、彼の力の源泉が日宋貿易にあったからかも知れませんが、福原遷都を目指します。

当時、後白河上皇には自由はなく、清盛は安徳天皇の外祖父ですので、内輪のイエスマンだけで話を進めて瀬戸内海に臨む福原であれば今後いっそう貿易で儲かる上に、平安京という藤原貴族の根っこを遮断することができますので、朝廷全体を平氏のものにできる、悪い言い方をするならば朝廷と皇室の私物化を図ることができると考えていたように思えます。

私は天皇‐藤原氏の権力維持ラインに挑戦したものは滅ぼされるという日本史の法則みたいなものがあるように思うのですが、平清盛はその触れてはいけないところに触れてしまったように思います。高倉上皇はいずれかの段階で平氏に見切りをつけて藤原氏と手を結んだようにも思えるのですが、それはそうとして、福原遷都は成功せず、平清盛は急病に倒れ、ほどなく病没してしまいます。毒殺説が流れるのももっともな気がしなくもありません。

一方の源頼朝は天皇‐藤原権力ラインそのものへの挑戦はしていません。関東圏を事実上分離独立させ、後は守護地頭でじわじわと、という感じです。後白河上皇が京都利権代表者として源頼朝と会談を重ねて近畿と関東の相互不干渉で合意したのは、天皇‐藤原ラインには触らず、戦力では頼朝優位という状況下で、頼朝の関東に於ける独立政権も認めるというように相互に妥協できたからです。

頼朝がそこで収めることができたのは、伊豆で育って「自分は関東の武士だ」という自己アイデンティティを持つことができていたからかも知れません。そのため、京都に関心があんまりなかったという見方もできなくはなさそうに思います。清盛は京都の政界を突っ走ってきたために、自分だけ神戸で好きにするというちょっとワイドな視野からの選択肢を持つことができなかったのかも知れません。この辺りが両者の運命を分けたのではないかなあという気がします。

病床の清盛が一族に「ことごとく頼朝の前にむくろを晒すべし」と遺言したそうですが、本当にそういう結果になってしまったので、それについては平家物語的諸行無常と同情をついつい感じてしまいます。