源氏滅亡と鎌倉御家人の闘争

源頼朝が亡くなった後、息子の頼家が二代目を継ぎますが、そのあたりから北条氏は露骨に源氏外しに動きます。誰もが疑問に思うであろうことに、北条政子は自分の嫁ぎ先が滅亡することに加担しただけでなく、息子が殺されることにも協力的だったのだろうか?ということではないかと思います。私も長年疑問に思っていました。歴史上、自分の嫁ぎ先を憎んだ女性は大勢いると思いますし、黒澤明の『乱』という映画でも楓の方は嫁ぎ先を憎んで様々な策略を繰り出していきます。ですが、自分の子供を野望のために犠牲にするような母親がいたかと言えば、思い当たりません。思い当たるとすれば唯一、北条政子なわけです。北条氏が編纂した歴史書である『吾妻鑑』では、北条政子も北条氏の政権を正当化する役割を担っていますが、あれは勝利者が適当に自分たちにとって都合のいいように書いた歴史書なわけですから、あまり信用できるものではありません。あくまでも何が起きていたのかを知るための手がかりや参照にできる書物でしかないと言えるでしょう。そこでも北条政子はふすまの後ろで陰謀を盗み聞きしたりして、なかなかアクロバティックな活躍を見せていますが、じっくりと経過を見つめていくと、どうやら政子も騙されていたのではないかという気がしてきます。

源頼家は独裁的な人物であったために鎌倉御家人たちから問題視され、伊豆の修善寺に幽閉され、御家人たちの合議によって意思決定される、いわば寡頭制の政治が行われたことになってはいますが、頼家がめちゃめちゃ暴君だったと述べているのは吾妻鏡だけで、頼家の真実の姿というのはちっとも分かりません。で、おそらく、北条政子としては、政治権力は自分の実家である北条氏が握るとして、頼家には政治からは退場してもらい、修善寺に温泉に入ってゆっくり楽しく過ごしてもらおうという考えがあったのではないかと私には思えます。頼家が修善寺で殺されるとは全く想像していなかったのではないでしょうか。頼家が悪い人物であったとされるエピソードの一つに蹴鞠が大好きというのがあったみたいなのですが、蹴鞠くらいいくらでもやらせてあげればいいわけですから、母の政子としては修善寺で好きなだけ蹴鞠しなさい、かわいい息子よ。くらいの感じだったかも知れません。もうちょっと突っ込んで考えてみると、鎌倉で政治に首を突っ込んでいたら本当に殺されてしまうかも知れませんから、追放という不名誉な体裁ではあれ修善寺まで逃がしておけば命だけは助かるという計算もあったかも知れません。もちろん、頼家としては政治に関心があったでしょうし、修善寺のような遠いところに幽閉されるのは嫌だったでしょうから、政権復帰も目論んだかも知れませんが、頼家の殺害については、北条氏としては政子の同意を得る必要はないんですよね。政子の知らないところで動けばいいんですよ。じゃ、北条氏の中で誰がやったのかと言えば、まあ、間違いなく政子の父親の北条時政でしょうねえ。時政は後に息子の義時と娘の政子の連合勢力によって追放されていますが、北条時政はぎりぎりまで頼家の弟で三代目を継承した実朝の殺害を企んでいたと考えられており、かなり危ないやつだったようです。ですから、源氏滅亡の真相は政子の父親である北条時政が主導して行われ、政子が反発して時政を追放したという流れの中で起きたという風に考えてもいいと思います。

さて、とはいえ、三代目の実朝は生きてるじゃないか。なんでそれでも源氏は滅亡したの?という疑問は残ります。実朝を殺したのは頼家の息子なわけですが、その少年は実朝が政権を奪うために頼家を殺したのだと信じていたそうです。血縁的に言えば彼が源氏の四代目の棟梁になっていたはずですが、北条氏に捕らえられ、殺されています。これで源氏滅亡のミッションがコンプリートされたということになりますけれど、頼家の息子をたきつけたのが北条氏じゃないのかとの疑問も湧いては来ます。実朝が殺害されたのは鎌倉の鶴岡八幡宮の石の階段であると言われていますが、八幡宮への神事へ向かう前、御家人の一人の大江広元が涙を流して防御用の衣服を身に着けるように頼んだとされています。古代ローマの独裁者になったジュリアス・シーザーが殺害される日の朝、鶏をいけにえにした占いで非常に運勢が悪いことが示唆されたのに出発してやられてしまったという話がありますが、ちょっとそれを連想してしまうような、ドラマチックな一幕であったと言えます。この時、本来、実朝と一緒に出発する予定だった北条義時は直前で体調不良を訴え、事情を一切知らない別人がその代わりをつとめます。そして実朝と義時の代役の二人が殺害されました。この流れを見れば大江広元と北条義時はその日実朝が殺害されることを知っていたとの疑惑を拭うことはできません。北条義時にたきつけられた頼家の息子が実朝を殺し、その子も義時によって殺されたというわけです。大江広元も事情を知ってなんとか穏便に実朝を救いたいと思ったけれど、そういうわけにはいかなかったということに読み替えることが可能なわけです。

さて、このように露骨な源氏潰しを北条氏が行っていったわけですから、同時代に生きた鎌倉御家人たちが気づかないわけがありません。北条氏vs御家人たちの熾烈な戦いがあったことは、私が何もここで述べなくてもよく知られていることです。たとえば梶原景時という御家人は、義経が西国で平氏を追討していた時に、頼朝に命じられて監視役として従軍していたというような人物で、頼朝への厚い忠誠心を持っていましたが、他の御家人たちとの軋轢が強くなりすぎて鎌倉を立ち去らざるを得なくなり、北条氏の領地で一族もろとも殺害されています。想像力をたくましくするしかないですが、北条氏が他の御家人たちをたきつけて梶原景時を孤立させ、殺したと考えることはさほど不自然なことではないように私には思えます。他にも和田義盛が北条氏に盾突き、三浦氏と一緒に北条氏と戦う予定だったのが、直前で三浦氏が寝返り、孤立して和田氏滅亡に至るという和田合戦もありました。そして和田義盛を見捨てた三浦氏も後に北条氏によって滅ぼされています。

北条氏には必勝の方程式のようなものがあって、それは敵を団結させないこと、敵を分裂させ、一人だけ選んで孤立に向かわせて殲滅する。それを繰り返すというものであったのではないかと思います。気づくと北条氏に対抗できる御家人はいなくなっていました。将軍家も源氏が滅亡した後は、藤原氏からもらってきた公家将軍で、公家将軍があんまり言うことをきかなくなってきたら追放して、多分殺して、今度は皇族の宮将軍を傀儡として利用しています。

そのように知略で天下を獲った北条氏もその最期は非常に気の毒な、同情を禁じ得ないものでした。今も鎌倉には北条氏最期の土地が残されていますが、哀悼の意をもたずにはとても訪問できる場所ではありません。鎌倉時代の御家人でその後も生き延びた武家はたくさんあります。たとえば島津氏は鎌倉幕府の御家人であり、薩摩地方のいわば地方官として就任し、明治維新まで生き延び、今も島津さんと言えばそれはそれは立派なお家柄です。島津氏とまではいかなくとも、甲斐地方の武田氏も鎌倉時代に地方官として任命された家柄で、織田信長に滅ぼされるまで数百年にわたり甲斐源氏として生き延びたわけです。ですから、思うのですが天下を獲るというのは非常にリスキーなことかも知れません。天下を獲らずにわりとそこそこな武家であれば明治維新まで生き延びることができたかも知れないのに、北条氏の場合、天下を獲ったからこそ激烈で悲壮な最期を迎えなければならなかったわけです。その前の平氏もそうですね。蘇我氏だってその点では同じと言えます。天下を獲るのは浪漫があるとは思いますが、子孫が迷惑するかも知れませんね。



藤沢本町で義経を祀る白旗神社

湘南地方をてくてく歩けば、この土地が源氏と深く結びついているということに気づくことができる。たとえば江ノ島電鉄腰越駅というところがあるが、義経はかつて、ここで腰越状を書いた。平家を滅亡させた後、京都で後白河上皇から検非違使に任命された義経は、その新しい肩書・地位を土産に意気揚々と鎌倉へと引き上げてきた。そして鎌倉の手前の腰越で頼朝に足止めされている。鎌倉に独立政権を構想していた頼朝は、義経が京都で検非違使の職位を手にして帰ってきたことが鎌倉武士への裏切り行為だと非難したのだ。私にはこれは半分正しくて、半分は言いがかりなのではないかと思える。義経が京都にとどまれば、検非違使の職位を活かした仕事をするかもしれないが、鎌倉に帰ってくれば、その称号は単なる飾りである。外国で名誉市民の称号を受けて帰ってきたらスパイ呼ばわりされる程度の理不尽さが、頼朝にはある。しかし、義経が頼朝の政権構想を甘く見ていたこともある程度は本当なのだろう。義経の心中には、京都で要職を得れば、鎌倉でもいい扱いを受けるのではないかという甘い期待があったに違いない。鎌倉武士の政権にとっては、そのような下心こそ、京都貴族につけこまれる危うい要素なのだ。だがしかし、それなら兄が弟を諭して検非違使を辞めさせればいいことで、何も命を奪わなければならないほどの大事とはとても思えない。そのあたりに頼朝の陰険さのようなものを、もう一歩踏み込むとすれば、頼朝のスポンサーである北条氏の冷酷さをも見えてくるのである。

腰越だけでこれだけ語れるのだ。相模湾沿岸まで範囲を広げれば、更に頼朝の事跡と出会うことになる。小田原の山手の方へ行けば、頼朝が平氏に敗れて逃走した石橋山がある。頼朝は石橋山を下りて真鶴へ逃れ、そこから海路、房総半島へと脱出した。頼朝の人生で最大の危機であったはずだが、彼は徹底して逃げ延びることで難を逃れた。逃げるは恥だが役に立つのである。ましてや体育会系的ロックンロール風のノリで生きる源氏武士であっても、そのあたりをリアリズムで乗り切れるかどうかが生死を分けたと言えるかも知れない。北条氏のゆかりの土地まで探せば、神奈川県は宝の山みたいなところなので、それは楽しいのだが、義経に話を戻す。

そういうわけで義経は腰越から引き返し、京都でしばらく過ごした後、頼朝の追手から逃れて静御前と別れ、弁慶とともに各地を放浪し、東北地方の奥州藤原氏を頼り定住しようとするが、頼朝の恫喝に屈した藤原氏の手によって命を奪われることになる。手を汚したのは藤原氏だが、頼朝がやらせたようなものだ。頼朝はおそらく、義経が怖かったのだろう。頼朝の権力を担保するのは北条氏のパワーしかないが、義経の方が担ぎやすいと判断されれば、頼朝は殺されてもおかしくない。どちらかと言えば義経の方が能天気で、扱いやすく、担ぎやすそうな気もしなくもない。なら、義経を殺そうと頼朝は決心したと考えることもできる。

頼朝はその後800年にわたり日本を支配した武家政治のファウンダーであり、武士道精神が今もある程度日本人の行動様式や思考様式に影響を与えているとすれば(たとえば不祥事が起きた会社の社長が辞任するのは、武士が切腹することで責任を果たすという思考様式に準じている)、頼朝の存在感は半端ないのだが、人気があるのはやはり義経だ。義経は平家を滅亡させるだけの優秀さを持っており、たとえば戦前の軍はひよどり越えを真剣に研究して近代戦に活かそうとした。京都育ちというなんとなく雅なプロフィール、五条大橋での弁慶との対決という、子どもも喜ぶエピソード、静御前との別れという、男女のあや、強い兄に追われる弱気弟に対する判官びいき、歌舞伎の題材になり、能の題材になったのは、こういった義経の様々なアイテムが素晴らしすぎるからで、頼朝にはこのようなアイテムはない。頼朝にあったのは権力だけだった。その権力も、心もとない。頼朝は北条氏の傀儡だったのだから。京都のお寺で育てられた義経は、伊豆で女の子をナンパする以外にやることのなかった頼朝よりも遥かに都会人で教養人で、洗練されていたに違いない。もっとも、その素晴らしい頭脳から生み出される功利主義的戦法は、関東武士の美学に会わず、部下や同僚から思いっきり嫌われてしまったのだから、本当に気の毒だ。

確かに義経は頼朝によって犯罪者として処理されることになった。とはいえ、義経は上に述べたように日本史で一番人気がある人物なのだ。そのままというのはあまりに気の毒だ。で、小田急線藤沢本町駅を降りてすぐ近くにある白旗神社の御祭神が義経というのは、納得できることなのである。源氏の象徴である白旗に笹りんどうの紋章は、一時、大陸騎馬民族にも似たようなシンボルが残されていると言われ、義経ジンギスカン説の根拠とされることもあった。白旗神社で見た笹りんどうの白い提灯は、ここが本物の義経由来の土地だということを表している。歴史をマニアックに愛好するものにとってはなかなかぐっと来る場所である。



平治の乱の裏シナリオ

平治の乱は、保元の乱の勝者だったはずの人々が分裂し、最後は平清盛が大勢を制したことで、つとに知られている出来事です。個人的には、この政変には裏シナリオがあったのではないかという気がします。

藤原信頼が源義朝と手を組み、信西を殺し、後白河上皇と二条天皇を擁して京都政権を手に入れます。熊野詣に出かけていた平清盛が政変を知り急いで帰郷。二条天皇が平氏の拠点である六波羅に脱出し、それを知った後白河上皇も脱出します。天皇と上皇の両方が脱出したことを後で知った藤原信頼は逃走。後に捕まって斬首されます。源義朝も関東へ帰る途中で家臣に殺されてしまいます。結果、平清盛が全てを手に入れて全盛期を築くという流れになっています。

この流れを見て思うのですが、藤原信頼は、後白河上皇に弓を弾いて、新政権は世論の支持を得ることができると本当に思ったのでしょうか。藤原信頼はそもそもが後白河上皇の近臣ですので、後白河上皇の無力化は即、自分の無力化につながります。信頼がそのことに気づかなかったのが私には不思議なことのように思われます。

平安貴族は二条天皇派と後白河上皇派に割れており、政治の実際的な権限は保元の乱の後は後白河天皇と一緒に中央に出世した信西が握っています。取り合えず信西を排除することで二条天皇派と後白河上皇派が手を結んだともとれますが、信頼が前面に出て後白河上皇の居所を燃やさせるあたり、二条天皇派がシナリオを書いたような気がしなくもありません。

そのように考えると、藤原信頼は随分かわいそうな人で、二条天皇派に踊らされ、裏から糸を引かれて踊っていた哀れな人形のように見えてきます。彼本人に政局観のようなものは多分なく、真珠湾攻撃の後で、山本五十六が周囲に「これからどうする?」と言ったといわれていますが、同様に藤原信頼にも「これからどうするか」を考えていなかったように見えます。あるいは安心しきって二条天皇派の裏でシナリオを書いている人にまかせきってしまっていたのかも知れません。

平清盛は一旦は服従の姿勢を取り、その後、好機を見て天皇と上皇を自分サイドにつけていますが、これも「信西を排除した後は清盛に信頼を排除させて一件落着」の筋書きがあったものの、その後平氏政権が総取りするのは想定外で、慌てて今度は清盛排除を計画し、ところが源氏政権ができて更に想定外…というような流れだったのではないかという気がします。

当初、信西排除というわりとミクロなシナリオだったのが、あまりに大袈裟に仕掛けを作り込み過ぎて幕引きがうまくいかず、策士策に溺れる展開だったのかも知れません。

さて、最初に裏でシナリオを書いたのは美福門院か、それとも藤原経宗か…。美福門院が同じ年に亡くなり、後白河上皇がその分自由に動けるようになったことが不確定要因となって、世の中が変わって行き、全く想定していなかった平氏政権の誕生→源氏政権の誕生→武士の時代と流れて行ったようにも思えます。

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保元の乱に見る勝ち方

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保元の乱は、弟が後白河天皇として即位することで院政への道が閉ざされた崇徳上皇が切れまくり、兄との権力闘争で不利になっていた藤原頼長がそこに加わり、源氏と平氏が分裂して天皇方と上皇方に分かれて戦争になったことは、つとに知られています。人間関係が複雑で、名前も似たような人がいっぱい出てくるので、誰が誰だかよく分からなくなってしまいそうですが、

勝利者      敗者
後白河天皇 vs 崇徳上皇と、
藤原忠通  vs 藤原頼長

とだけ抑えておけば、だいたい理解していると言っていいのではないかと思います。『保元物語』では、上皇方の源為朝が、戦争に負ける側を美しく描くという価値観に則って美化されているため、彼の活躍が目立ちます。天皇方についた義朝もびびって一旦退却するという場面も描かれますが、実際は数時間でけりがついたようです。

この戦いで勝者と敗者を分けたものは何か、という点について『保元物語』では、崇徳上皇サイドがわりと悠長に事を構えていて、為朝が「先手必勝、夜襲をかける」と建言したのを「天皇と上皇の戦争なのにそんな品性のない戦いができるか」と退け、朝になったら出陣して日中堂々と雅に戦おうと計画していたところ、後白河天皇サイドでは義朝が信西と相談して「先手必勝、夜襲をかける」で合意し、早々と兵を出しています。

このように見ると「先に決断をした方が戦争に勝てる」という法則性を見出すことができるかも知れません。とはいえ、21世紀に生きる我々は真珠湾攻撃で先手必勝しようとしつつも無残に日本が敗けたことを知っていますので、先手必勝であればいいというものでもないように思います。

『保元物語』によれば、源為朝が豪傑で敵を寄せ付けず、一進一退を繰り返したとされており、義朝が信西に「崇徳院の居所に火をつけるのがいいと思うが、恐れ多くてできない」という使者を送り、信西の方から「今手をゆるめてどうする、いいから燃やせ」という返事を受け取ってそれを実行し、崇徳上皇たちは脱出。雌雄が決しました。

このように見ると、一旦決心した後は怯むことなく、臆することもなく、前進し、良くも悪くも後先考えず、勝てそうな見込みを得られるものは全部やる、という姿勢によって勝利を得たことが分かります。

太平洋戦争では、国民には強気のメッセージが送られていた反面、真珠湾攻撃後の戦略については指導者たちは弱気と強気が入り混じって煩悶しており、いざいよいよという時に判断の迷いによって追い詰められていく場面が幾度も見られます。

そう思うと、より早く、そしてより強く決心した方が勝つ。ということも言えるかも知れません。

ただし、前提条件として、保元の乱では後白河天皇サイドが兵力において勝っており、後白河天皇が「現政権」に当たりますので正統性という点からも優位で、周囲の協力を得やすいという環境があったということを忘れることはできません。勝てるという環境が整った上で決心するという正攻法的な決断の手順が踏まれているとも言えますので、やはり運頼み、出たとこ勝負では周到に準備している相手には勝てないということの証左になるような気もします。何事も周到さが肝心要なのかも知れません。私のようなしがないブロガーに言えたことではありませんが…。

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