源氏物語と摂関政治

平安時代、天皇が直接政治に関わって意思決定をする時代は終わり、代わりに藤原氏による摂関政治が通常運用されていくようになります。

藤原氏による摂関政治がどういうものかをなるべく手短に述べてみたいのですが、まず天皇の皇后を必ず藤原氏の女性にします。で、皇后が生んだ男子を次の天皇に即位させます。そうすると、皇后の実家の藤原氏のお父さんは、天皇の母方の祖父という立場になります。ですから、眷属という観点から言えば、この藤原氏のおじいちゃんは天皇よりも立場が上になります。ですので、天皇が幼少の間はこのおじいちゃんが摂政として天皇の代わりに政治を行うわけです。摂政は天皇代理ですね。で、天皇がだんだん成長して大きくなってくると、摂政は必要ありません。天皇は大人になったらなんでも自分でできるからです。ですから、建前上、摂政は終了します。代わりに関白が天皇の代わりに政治をします。関白の場合は、天皇代理ではなく、天皇に対して政治の責任を負うという感じですね。戦前の内閣が天皇に対して責任を負っていたのとイメージとしては近いと思います。建前としては、天皇は素晴らしいので、摂政に頼らなくていいんだけれど、政治のような汚れ仕事は関白がやりますから、どうか帝は毎日楽しく過ごしてくださいという感じでしょうかね。誰が関白をやるかというと、天皇の母方の祖父として摂政をしていた人が引き続き関白をやります。メンバーは同じなんですね。要するに形式を整えて藤原氏が政治権力を完全に握り、天皇は実権を失っていきます。とはいえ、これで両者が持ちつ持たれつ、うまくやっていたのが摂関政治とも言えるでしょう。天皇家に政治の実権を奪い返そうとしたのが白河上皇による院政の開始ということになりますが、これまた次回以降になると思います。で、このシステムが機能し続ける限り、天皇の母親は必ず藤原氏の摂関家の人でなくてはいけませんでしたから、逆に言うと天皇の息子でも、お母さんが藤原摂関家の人でなければ用済みというか、生きていると逆に命を狙われるかも知れないので一休さんみたいに早々に出家したりするということになるんですね。

さて、この摂関政治の最盛期がいつかと言えば、非常に有名ですけれど、藤原道長の時代だったわけです。ただし、道長自身はもともと藤原摂関家のトップだったわけではないんですね。藤原摂関家のトップを氏の長者と言ったりしますけれど、道長にはお兄さんがいました。で、このお兄さんが道隆という人なんですが、お酒が大好きな人で、関白まで上り詰めるものの、糖尿病で死んでしまいます。で、道長にチャンス到来というわけです。おそらくはあちこちに賄賂も送って様々な工作に明け暮れたと思うのですが、兄道隆の息子が藤原氏の氏長者になることを阻止することに政治生命をかけて成功し、自分が氏長者になることを一条天皇に認めてもらいます。道長は権力強化のために、自分の娘彰子を一条天皇の皇后にします。実はこれはかなり強硬策だったのです。というのも、一条天皇には既に、藤原道隆の娘の藤原定子という女性を皇后にしていたんです。天皇は権力者ですから側室を複数持つことは問題なかったんですが、皇后二人は一条天皇以前にはありませんでした。つまり初めてのことでした。皇后は天皇の正妻さんなわけですが、一条天皇には正妻が二人いたわけです。清朝最後の皇帝だった溥儀には第一夫人と第二夫人がいたのは、ラストエンペラーという映画でも描かれていますが、溥儀の正式な妻は飽くまでも第一夫人だけであって、第二夫人とはランクが違っていました。それくらい正式な妻は一人というのが近代以前の東洋でも普通な概念なわけですが、一条天皇には同格の皇后が二人いたわけです。その異例ぶりをご理解いただけますでしょうか。

そして、道長の娘の彰子の家庭教師になったのが、源氏物語を書いた紫式部というわけですね。ちなみに、ライバルの皇后である定子の家庭教師が清少納言です。時々、おもしろがって紫式部vs清少納言みたいな語られ方をすることがありますが、世代的には清少納言の方が若干上で、両者は面識はなかったみたいです。紫式部は清少納言をライバル視していたみたいですが、清少納言からすれば自分の引退後に紫式部が出てきたみたいな感じなので、どうでもよかったんじゃないですかね。

紫式部は宮中に仕えながら源氏物語を書いたわけですが、これが平安貴族の間で大ヒットし、紫式部は一挙にスターみたいになったそうです。一条天皇も源氏物語を愛読していて、紫式部の生徒である彰子とは、源氏物語が共通の話題になり、そのおかげで仲良しになったみたいなイメージでとらえられているみたいです。

源氏物語を真面目に読めば気づきますが、主人公の光源氏ってキャラクター的には結構、テキトーなんですね。光源氏が政治の世界でどうやって生き延びていくかとか、そういった男性目線からの切実な内容は省略されています。光源氏は出世も失脚も復活もするんですが、細かいことは書かれていません。紫式部にとって、そんなことはどうでもいいからです。顔はいいけど、中身は最低というキャラクターで、紫式部は意識してそんな風に書いています。なぜかというと、紫式部はあちこちの女と遊ぶ悪い男のために涙する女たちの姿を描きたかったからだと私は理解しています。光源氏がものにしていく女性たちのプロフィールや心情、容姿などに関するディテールの細かいこと。具体的で、リアリティがあり、平安時代の貴族の生活が分かるだけでなく、心情ということに関しては、現代でも多くの女性の共感を得られるものになっていると言っていいのではないかと思います。

光源氏のモデルは藤原道長なのではないかという説もあるみたいなんですが、はっきり言ってどうでもいいですよね。仮に光源氏のモデルが道長であったとしても、紫式部は道長を描きたかったわけではないからです。

そういうわけで、藤原道長の摂関政治全盛期に誕生した源氏物語について今回は述べましたが、先に述べましたように、平安後期から末期にかけて、上皇による院政が行われ、摂関政治は衰退していきます。それについてはまた次回やりたいと思います。



浮舟と薫と匂宮

『源氏物語』は光源氏の人生ということで一般に定着していますが、その後半部分、浮舟と薫と匂宮のことについてはさほど語られることはありません。ただ、私は与謝野晶子の現代語訳を読んだ限りでは、後半の四割近くが薫と匂宮の事が書かれており、無視するにはちょっと分量が大きい、付け足し程度と考えるわけにはいかないくらいの存在感があるように思えます。

紫式部が書いたのか、それとも別人が書いたのかについては諸説あるようですが、言語学的計量分析をして助詞の使い方の違いなどから別人説を採るということもあるようです。

私の読んだ印象としても前半の光源氏の描き方と後半の浮舟と薫と匂宮の物語とは、なにかが違うなあという印象を得ます。もし、予備知識なく別々に読めば、別人が書いたと思うかも知れません。

光源氏のストーリーの場合、物語のシークエンスはさほど重要ではありません。個別に登場してくる女性の心理や境遇を、極端に言えば一話完結風(厳密には違いますが)に描いていて、光源氏は女性を描くために必要なツールとして登場しているという感じがします。光源氏は飽くまでもツールですので、一人いればそれで良く、男性が多すぎるのはかえって面倒で想定される女性読者にとっても読みにくいという面があるのではないかという気がします。

一方で、浮舟と薫と匂宮の物語はシークエンスがしっかりしており、浮舟が登場する前の大君、中君も浮舟と薫の運命的な出会いのための前ふりとしての役割は大きく、浮舟と薫の間に匂宮がわって入り、三角関係に悩んだ浮舟は宇治川に身投げ。人々は浮舟が自ら命を絶ったものと思い込み葬儀まで済ませるが、実は浮舟は死にきれず、坊さんに助けられて暮らしていたというプロットの立て方は光源氏のそれとは大きくかけ離れています。

どちらがよりおもしろいかという問いを立てるなら断然、浮舟と薫と匂宮の物語の方がおもしろく、男女の機微だけでなく物語全体の流れを楽しめていいように思います。

さて、果たして浮舟と薫と匂宮が紫式部によって書かれたものかどうかというところに戻りますが、人間は何十年も生きていれば文章の雰囲気が変わってきます。そのため、前半と後半で作風が違うとしてもそれだけを理由に別人が書いたということはできないように思います。光源氏の物語はいわば女の情念と恨み節ですが、浮舟と薫と匂宮の物語では、浮舟を中心に薫と匂宮が右往左往し疑心暗鬼になりますが、もし、紫式部が前半で女の苦しいところを描いて、後半では男に仕返しをしてやろうと思って書いたのだとすれば、それはそれで筋が通るようにも思えます。

とはいえ、近代文学に限ったことかも知れませんが、他人に読ませて金をとれるものを書こうと思うと、作家が一回の人生で描き切れることには限界があり、生涯に一テーマだけを書き続けることしかできないというある種の経験則のようなものがあると言われています。だとすれば、かくも違った物語を同じ人間が書けるのかという疑問が呈されるのも尤もなことです。

どちらでもいいと言えばどちらでもいいことですが、考えるのを楽しむという感じでちょっと考えてみました。

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光源氏の晩年

『源氏物語』で描かれる光源氏の晩年は必ずしも幸福なものとは言い難いものになっています。向かうところ敵なしだったはずの光源氏ですが、晩年期に入ると玉鬘にも相手にしてもらえません。

紫の上を説得し、女三の宮を妻として引き取りますが、頭中将の息子の柏木に取られてしまいます。もはや若くて美しい光源氏の全盛期は終わり、若い人たちへといろいろ譲らなくてはいけなくなっていきます。しかも、女三の宮は柏木の子どもを妊娠し、薫を出産しますが、光源氏は立場上、いろいろなことを知りつつも自分の子どもとして育てることになります。過去に自分と藤壺中宮との間で誕生した子どもが天皇の子どもとして育てられ即位したことの因果がめぐってきたわけです(一応、光源氏は皇統の男系男子ということになりますので、王朝交代みたいなことにはなりません。そこは作者も注意していたのだろうと想像します)。

光源氏は柏木に対して怒りを感じますが、息子の夕霧は柏木の親友で、どちらかと言えば柏木の味方をする感じです。葵上は光源氏が女三の宮を引き取ったことの心理的ショックで寝込んでしまい、そこには六条御息所の怨霊まで登場します。ここでも光源氏は過去の好き放題したことの因果を引き受けさせられているというところと思います。

紫の上が亡くなって、光源氏は人生の無常を感じ、出家し、やがて『雲隠れ』します(亡くなった)。

若いころに派手だったことを思えば寂しい晩年ですが、当時としては晩年期に出家して静かな生活を送ることは普通だったとも言えますので、生活に困ることになったわけでもなく、普通の晩年だったと言えなくもありません。

ただ、紫の上が亡くなったことで意気消沈し、出家→雲隠れへの展開に、紫の上が光源氏に対する絶対的な存在感を持っていたことが印象づけられ、そういう意味では他の女性たちとは別格の不動の存在ですから、紫の上が紫式部本人を投影したものだと理解するのが至極全うなように思えます。

光源氏は多くの女性にとっては「にくいけど、にくみきれない」素敵な男性であり、そういう複雑な綾が描かれるのが『源氏物語』ですので、寂しい晩年であったとしても、無残ということはありません。出家して亡くなるというところに潔さも見られます。1000年近く読まれ続けるだけあって、読めば読むほど、また、思い返せば思い返すほどよくできてるなあと思わずにはいられません。

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光源氏と頭中将

光源氏には頭中将(かしらのちゅうじょう)という親友がいます。頭中将は母親が皇族なので血筋的にも光源氏と比べて圧倒的に負けているとも言い難く、また、光源氏に比べれば劣るであろうけれども美男子という設定になっています。「雨の夜の品定め」では、むしろ頭中将の方が世慣れしていて、光源氏に男女の機微を「教える」スタンスで登場しており、光源氏はその時に聴いた話にインスパイされて女性を渡り歩く人生をスタートさせますので、ある意味では光源氏に決定的な影響を与えた人物と言うこともできるかも知れません。また、若くてかっこいい男性二人が仲良くしている姿は微笑ましいとも言え、現代風に言えば男性アイドルのセット売り的な効果も期待でき、『源氏物語』がより奥深い物語になっている要因の一つとして、頭中将を忘れることはできません。

そうはいっても、頭中将の役回りはわりと気の毒というか、光源氏と競い合いこそするものの(他の男はそもそも競い合いのステージに立つことすらできないので、競い合えるだけでも頭中将は凄いということになりますが)、勝つのは光源氏と決まっており、そういう意味では引き立て役をさせられているとも言え、やっぱちょっとかわいそうだなあと思えなくもありません。ちょっと飛躍したたとえかも知れないですが、ルパン三世と銭形警部の関係に似ていなくもないなあと個人的には思えます。

『源氏物語』は光源氏が主人公ですから、主人公以外の脇役の扱いが小さくなるのは当然と言えば当然ですが、空蝉や六条御息所、朧月夜、明石の方などはそれぞれの登場部分で作者がそれぞれの女性の立場、心情、その行動などをよく捉えて描いているのに対し、頭中将はわりとどうでもいいというか、適当というか、ありきたりというか、光源氏の光彩をより偉大にさせるためだけに登場してくる感がどうしても残り、その辺り、繰り返しになりますが気の毒に思えてきます。

そうはいっても、私は頭中将の隠れファンはいるのではないかと睨んでいます。必ず負けるということではある種のアンチヒーロー的存在であり、アンチヒーローが好きだという人は必ずいるので、男性読者の中には「俺はむしろ頭中将に感情移入できる」という人はいるでしょうし、女性読者でも「私が想像する光源氏と頭中将では、頭中将の方が好きなタイプだ」という人はそれなりにいるのではないかと思います。必ず負けるという設定ですから、判官びいき的に頭中将を支持するという人もいるのではないかなあとも思うのです。

もちろん、もし、光源氏に生まれてくるのと、頭中将に生まれてくるのではどっちがいいかと問われれば、私は「光源氏の方で」と答えるとは思いますが。

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葵上は光源氏の息子の夕霧を出産しますが、難産で、産後の経過がよくなく亡くなってしまいます。その際、六条御息所の生霊が現れ、六条御息所がもののけになってとりついて殺したということになっています。

能の『葵上』では霊験あらたかな修験者が現れて六条御息所の怨霊を浄化しますので、能と原作の『源氏物語』とでは結末が違っていて、能の方はある意味ではハッピーエンドになっています。

それはともかく、『源氏物語』の原作では葵上は亡くなってしまいますけれど、六条御息所が怨霊のような酷い人間として描かれているかと言えばそういうことはありません。生霊は自分の意思で出したら出さなかったりできるものではなく、六条御息所本人も、最近は葵上に襲いかかる夢を見るのはどういうことだろうかといぶかしがったりしています。個人的な印象としては紫式部は六条御息所に深く同情しているという気がしなくもありません。女性として六条御息所の気持ちはよく分かる、その立場になれば生霊くらい出て行くのがむしろ道理というものだくらいの心境が書き手にはあったのではないかと思われてなりません。

光源氏と葵上は必ずしも仲の良い夫婦ではなかったものの、懐妊→出産で葵上への愛情を新たにし、これからを楽しみにしていたときに葵上が亡くなってしまいましたので、ひどく落胆してしまいます。また、六条御息所の生霊が現れたことから、彼女に対しては冷淡な気持ちも抱きます。

私が光源氏はただものではないなあと思うのは「ああ、葵上が亡くなってしまった。悲しい…そうだ、若紫」という脳内の切り替えの早さです。若紫は後に紫の上と呼ばれて光源氏にとってはなくてはならない人だったという設定になっていますから、物語全体から見れば、アリと言えばアリなんでしょうけれど、こういう時も我が身のかわいさ全開で、「別の女性(若紫)で慰められるなあ」とすぐに考えられるその精神的なタフさに驚きを感じます。紫式部が「男とはなんだかんだ言ってそんなもの」と思ってそういう書き方にしたのだろうかと思うと、その男性観にも二重で驚いてしまいます。

ただ、光源氏が酷い人物なのかと言えば、必ずしもそうではなく、女性に対しては貪欲ですが、金銭や地位に関してはわりと淡泊で執着心がないように見えます。もっとも、最初から与えられているものが大きいんだからそりゃそうだとも思えなくもないですが、もっと上へ行きたい、もっと金持ちになりたいというのが一切出て来ないので、「嫌なやつ」とも見えません。むしろそういう俗的な執着心がないからこそ、清潔感すら感じられ、長く読まれたのではないかとも思えます。

光源氏の政治的な立場が危うくなり(要するにに女性関係が派手すぎて京都に居られなくなった)、一旦、須磨へ隠棲しますが、そういうのをさらっとやってしまったり、平安京へ帰るための運動も特にしなかったりというある種の潔さに私は「ちょっといいやつかも」と思わなくもありません。須磨では明石の方が隣の部屋へ逃げるのを更に追って行って目的を遂げますので、そのあたり、さすがに光源氏の本領発揮ですが、読めば読むほどいろいろと考えさせられます。小説には自分の人生を省みるために読むという面がありますが、源氏物語を読んで、私は自分の人生をついつい振り返ります。「心を尽くして言葉を尽くせば、相手は必ず反応するということを光源氏は経験的に知っていた」というあたりの言葉も、自分の過去を振り返るのに非常にいい材料になります。「そういえば…」などと思ったりします。源氏物語って深いなあ。と思います。

『源氏物語』が好きだという女性は多いですが、女性もきっと物語に登場するそれぞれの女性たちに自分を投影したりできるからはまるのだろうなあなどと想像します。

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ある宮廷での宴が終わった夜、光源氏がちょっといい気分で歩いていると、可愛い感じの若い女の子がいるので、ついつい袖を引っ張ってみた相手が朧月夜です。

朧月夜ははじめのうちは「誰だこいつは」と思っていますが、声の感じから光源氏だと分かります。しかも光源氏は「深き夜のあはれを知るも 入る月のおぼろけならぬちぎりとぞ思ふ」といきなり「僕たちは運命なんだ。さあ、しましょうよ」と初対面から直球勝負してきます。朧月夜「光源氏が私の初めての人なら、ま、いっか」とあっさりと受け入れます。

後で光源氏は「あの可愛い女の人は誰だったんだろうなあ。家柄はいいだろうから、ばれるとちょっとやばいなあ」と自分の身を心配します。私には自分がかわいいだけの男にしか見えないのですが、紫式部が描きたかったのはまさしく「自分がかわいいだけの男」ではなかったかとも思います。

その後、関係が発覚し、光源氏が失脚する運命へとつながっていくのですが、わりとすぐに復活するので、長い長い源氏物語ですから、いわば物語のアクセントのようなものにも思えます。

注目したいのは源氏は平凡な女性には関心が湧かないという点です。宮中に出仕する女御は大勢いて、光源氏の立場ならいくらでも好きなだけ、ということになるのですが、光源氏は基本、やんごとなき立派なお家の深窓の姫君か、下級貴族の家の娘でも何らかのおもしろみがありそうな女性、または場合によっては老女だったりします(ただし、かなり妖艶な感じの)。

今で言えば、大企業の一般職の女性には関心がなくて、女子アナ、アイドル、社長令嬢、銀座クラブのママというような、一般的に言うところの高嶺の花を狙っていきます。読み進めれば、それが光源氏のある種の病癖なのだと紫式部は自覚的に書いていることに気づいてきます。

普通の男なら人生で上に挙げたような女性たちのうちの一人とでも結婚できれば生涯の功名みたいなものですが、いとも簡単に次々とというところに光源氏の凄味すら感じてきます。

紫式部の「男って…全く…」という嘆きも聴こえてきそうな気がしますが、同時に「それでもやっぱり光源氏みたいな男が好き。女なら分かるはず」という心の声も聴こえてこなくもありません。

源氏物語を読み進めると、光源氏の「俺がふられるわけがない」という揺るぎない自信も感じます。天皇の息子で神様級の美貌という無双にその自信は裏打ちされており、読めば読むほど「おー、役者が違うぜ」と唸るほかはなくなってきます。

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若紫はまだ幼少のお姫様ですが、光源氏はこの子をもらいうけて自分好みの女性に育て上げることができるのではないかという期待を持ち、是非にもらいたいと何度も若紫の家に使いを送ったりします。

若紫の家の人こそいい迷惑で、いろいろと理由をつけては、というよりも「若すぎるから」という至極全うな理由でその申し出を断り続けます。そりゃそうです。で、ある日、源氏は家の人が少ない時を見計らってまだ幼少の若紫をなんと連れて帰ってしまいます。そこまでやるか?!と誰もが驚く一場面です。

普通だったら水なり塩なり被せて帰らせるほどの不躾な行為ですが、源氏は話し方や振る舞い方が上品なので、ちょうどいい追い出すきっかけを掴むことができず、それどころかやっぱりさすが天皇の息子という怪しからぬお血筋と身分が物を言い、光源氏が連れて帰ると言い張るのを体を張って止めることができません。源氏はここでも「世間にばれると体裁が悪いから」と口止めし、堂々と若紫を車に乗せて連れて変えてしまいます。

若紫は不安がって泣いたりしましたが、光源氏は自分の屋敷にある珍しい家や遊び道具を持って来させ、宮仕えを放棄して若紫をなつかせることに腐心します。この辺り、ナボコフの『ロリータ』で変態フランス人脚本家が珍しいものをいろいろコレクションしていて、それで少女たちの気を魅了しようとするのとほとんど同じに思えます。

このような傍若無人がまかり通るのも光源氏には天皇の息子という絶対的な地位の名誉があって、そこには逆らえないという心理的な圧力をどうしても家人が受けてしまうことと、類稀なる美しさについつい同情的になり、光源氏の思う通りにしてもらうことでご機嫌麗しくしてもらえるのなら、少々の無理でも受け入れるという人々の態度があるからこそです。

男は地位と名誉と金であるという、わりと分かりやすい見も蓋もない話になってしまうのですが、老境を迎えて孤独な人生を送る姿は、いわば『パパはニュースキャスター』の田村正和が最終回で栄枯盛衰を知るところとも共通しているようにも思え、光源氏は物語の最期で因果応報を知るわけですが、そのあたりに原作者の紫式部の深謀遠慮が垣間見ることができるような気もします。

また、知らないところに連れて来られて泣いている若紫をいろいろと一緒に遊んでなつかせてしまうあたりには、うーむ、なんというか、光源氏の手練手管というか、こっちこっちで深謀遠慮と思え、ぐぬぬ…な相手のように思えます。

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『源氏物語』は平安貴族の生活を知るのに役立つ書物ではあると思いますが、光源氏の所業から、平安貴族が奔放だったと理解するのはもしかすると若干、早計かも知れません。

というのも光源氏は血統はぴか一な上に臣籍降下した自由の身で、且つ、なんといっても神様級の美しさでどこでも評判になっているために女性の方が関心を持っているからこそ多くの恋愛を成就させており、しかも「ばれると困る」というのがいつもついて回りますから、やはり光源氏だけが特別で、通常の場合は現代と同じか、あるいはもっと保守的だったのではないかという想像が働いてしまいます。普通だったら男がいくら通ってきても簡単には入れないものの、光源氏だからついついその魅力に抵抗できなかった、或いはそれぐらいのぴか一に突出した男でなければあちらこちらへ遊んで歩く資格はないのだ(by 紫式部。想像)と著者は考えていたのではないかという気もします。

また、光源氏は本当は自分の子なのにその子が天皇の子として扱われる、他人の家の子を勝手に連れて帰るなどの無茶ぶり、無理ゲーをしているケースが多く、当時としてもタブーなこと、やってはいけないこと、あってはならない衝撃的な内容が書かれていますので「飽くまでも物語であって、通常はそうはいかないのだ」ということなのではないかとも思えます。

特に夕顔の場合、密会中に死んでしまいます。嫉妬をする六条御息所の生霊によって命が失われたと受け取るべきかどうかで議論が分かれるようですが、そこはともかく、密会中に死んだのがばれるといろいろ困るのでこっそり葬儀をしてしまうことの方が問題です。夕顔の家では夕顔がいなくなったことで心配しますが、探しようがありません。死んでますので絶対に帰ってきませんから、待てど暮らせどどうにもなりません。また、お坊さんにお葬式をやってもらうにしても、お坊さんはどこのだれか分からない人のために念仏を上げるという非常識なことを承諾させられます。

現代であれば、密会中に女性が命を落とすようなことがあった場合、当然、まず、痴情のもつれが原因ではないかと相手の男性に疑いがかかります。私は夕顔が死ぬところを読んだとき「これって実は光源氏がやったのを作者がぼかしているのでは…」と考えてしまいました。むしろその方が合理的と言えるはずです。

いずれにせよ、夕顔が亡くなった後、葬儀こそ密かにとはいえ済ませ、後は全く素知らぬ顔をして他の女性に恋心を抱いて心を痛めたり悩んだり、純愛を口にしたりする光源氏に対して、いろいろな意味で「こいつ、すげぇな…」という感想を抱いてしまいます。

人の死に関わるような重大な秘密をたった一人で処理しまうことは不可能で、秘密を共有する周辺者がいるわけですが、その人たちが一様に悩む光源氏に同情し、光源氏のためならどのような骨折りも厭わず、お役に立てることに幸福を感じています。いろいろな意味で凄いというか、人間を超越しています。

平安時代の人も「まじか?そこまでやるか?」と思いつつ読み進めたのではないかと思います。

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平安時代、若い男は毎日寝る場所が違ったようです。平安の貴族社会という閉ざされた空間でのことですから、泊まる場所をあちこちに確保するためにはいろいろと信用がなくてはいけません。信用は自分の行動で築き上げていくのが現代人の我々にとっての常識とも言えますが、当時はなんといってもお血筋です。光源氏は天皇の息子ですので、そういう点では問題はありません。そうは言っても泊まった先で不品行があったり、まかり間違って喧嘩でもしようものなら次から泊まり行くわけにもいきませんので、夜ごと泊まる場所を選んで渡り歩かなくてはいけないというのは随分疲れる人生だという気がしなくもありません。

友達と「どんな女性がいいか」という談義に花が咲いた時、「中流の家の娘さんが一番いい」と言われたことを覚えていた光源氏は、ある夜、陰陽道的にちょうどいい方角の家に泊まりに行きます。泊まった先が中流の貴族の家で、「お、友達が一番いいと言っていた中流のご家庭だ。娘さんに会えるといいな」と思い、夜な夜な寝所に入って行った場所にいたのが空蝉です。

光源氏は所期の目的を達しますが、空蝉がしくしく泣くので困り果てます。そうは言っても「あー、空蝉よかったなあ」という感想が何度も胸にこみ上げてくるのでまた会いたいといろいろと画策します。しかし、全く相手にされません。空蝉の弟を自分の味方に引き入れていろいろと手引きさせますが、やはりもうもう一度会うことができません。「私のことをめちゃめちゃきらいなのか。そうか…酷い人だ…死んでしまいたい」くらいに光源氏は落胆します。

ところが空蝉は光源氏のことが本気で嫌いだというわけではなく、一度きりの出来事を思い出しては胸を熱くしています。ただ、空蝉は人妻で、光源氏とは身分が違うので本気になっても幸せになれないという固い決心から拒絶を繰り返していたわけです。

この辺り、女の人はこういうことを考えるのか…と男性の私は参考になるというよりはむしろ驚きに満ちているという感想を得てしまいます。

光源氏は空蝉の弟の手引きで再び夜間に空蝉の屋敷に忍び込むことに成功しますが、それに気づいた空蝉は衣一つ残してどこぞへか逃げて行ってしまいます。それに気づかない光源氏は軒端荻(のきはのおぎ)という別の女性の寝所に入り、「あ、空蝉ではない」と気づきますが、今さら「人違いでした」と言うわけにはいかないなあ、ま、いっか、この人でと考え「今までいろいろと手を尽くしてこの屋敷に連絡しようとしていたのは、実はあなたのことが好きだったかなのです」と嘘をつき、「本当の恋は他人に知られずに秘めていることの方が奥深くていいものなのですよ。他人にばれてはいけませんから、お手紙のやりとりとかもしませんし、あなたも今夜のことは誰にも言ってはいけませんよ」と言って聞かせて帰って行きます。

息を吐くように嘘をついてそれでオッケーと思っている光源氏には驚きますが、その嘘を信じるしかない軒端荻こそいい面の皮で気の毒にも思えます。

会話の端々から見えて来るのは、平安貴族では「噂」が流れるとかなりの痛手になるということと、壁に耳あり障子に目ありで、光源氏が空蝉にあれこれと手を尽くしてコンタクトしようとしていることはわりと周囲の関係者に筒抜けになっているとういことです。光源氏と言えば、奔放に遊んでいるというイメージがあり、更に言えば平安朝の時代にはそうやってみんな奔放だったのではないかという誤解も生じがちですが、他人にばれると結構やばいということは現代と同じく、本来ならば奨励されないということが分かります。また、それゆえに人々が耳目をそばだてるというのは現代と同じかも知れません。光源氏は結構、リスキーな行動を重ねていたとも言えるかも知れません。

光源氏は人生の後半でこそ紫の上に死なれてすっかりしょげてしまいますが、若いころには文字通り次々と恋愛という冒険に挑戦し、ハイリスクハイリターンな勝負で何度も勝っていくわけですが、紫式部が何度も強調しているように、それは光源氏の顔が神様クラスに美しいからだというのが大前提です。紫式部は「男は顔だ」と言いきっているに等しいようにも感じられ、私は「そうか…顔か…努力より生まれつきの素質の問題なのだな…」と嘆息するしかありません。

もっとも、かように偉大な光源氏ですら、空蝉に身を焦がし、恋愛で悩むわけですから、「恋愛は当たって砕けろだ」というプラス思考もありかも知れませんが。

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光源氏と紫の上

源氏物語は登場人物が大勢いる上に、それぞれに身分、家系、性格などがくどくどと盛り込まれてくるため、だんだん誰が誰だったかが分からなくなり途中でどうでもよくなってくるのですが、基本的には光源氏と紫の上の二人の物語だという風にとらえることができると思います。

紫の上が著者の紫式部本人であることはまず間違いのないことと思います。光源氏があれよあれよと出世するので藤原道長がそのモデルだとする説もあるようですが、光源氏は天皇の直接の子どもですから、ちょっと微妙かなあとも思います。

光源氏は次々と多彩な女性たちと恋愛関係を発展させていくため、光源氏のもてっぷりにどうしても注目が行きますが、光源氏はいわば理想のスーパースター。天皇の子どもなので血筋的には文句なし。顔もいい。遊びも知っているおもしろい男。更にお母さんが早くに死んでしまい、臣籍降下させられるという悲劇性もきちんと与えてあるという、絵にかいたようないい男です。逆に言えば、個性のない、誰でもない、ただの人形のような存在とも言えます。

むしろ、熱心に描かれているのは女性たちの方で、ほとんど平安女性のカタログみたいになっているようにも思えますが、その頂点に立つのが紫の上です。光源氏生涯にわたって必要な存在であり、紫の上が死んでしまったら源氏も落胆して出家して亡くなってしまうというくらい偉大な存在です。

光源氏の浮気性に悩まされつつ、赦し、受け入れ、ため息まじりに時にはほとんど諦めて突き放す。紫の上の光源氏の関係には、紫式部の男性観が色濃く投影されており、光源氏に浮気されまくって気の毒な存在だけれど他の並みいる女性たちが彼女の立ち位置を奪うということは絶対にできない、源氏が最後に帰ってくる港ですので、女性たちの間に於ける紫の上の存在には絶対性があり、そこに紫式部の自意識を見出すこともできそうな気がします。

光源氏の浮気性には、男に対する諦めが投影されていると観ることもできそうですが、源氏がいろいろ楽しく過ごすことについては描かれていたり、苦労が描かれるにしてもそれは女性を口説くための苦労であったりして、仕事の苦労、文字通りの宮仕えの苦労などはほぼ省みられていないため、なるほど確かに女性が描く男性像だと合点がいきます。男同士の相克が描かれる部分もありますが、変な言い方をすれば分かりやすく適当で、いかにもラブコメに出てくる男同士の関係に近く、浮気性で適度に男同士のプライドの張り合いもあるという感じでは『うる星やつら』の諸星あたるにも似ています。

歳をとった後の光源氏は自分の子どもではない人物を世間体のために自分の子どもとして育てなくてはならず、紫の上は死んでしまい、一人ぼっちになって寂しい最期を迎えることになっています。若いころに好き放題したつけを払わされたという格好にもなっていると言えますが、紫の上の死後に落し前をつけさせるというあたり、紫式部ってすごい人です。