昭和史54‐東亜経済ブロック‐遅れて来た帝国

昭和14年10月ごろの資料の読み込みをしたのですが、一方で「来年は紀元は2600年」と華々しく書き立てつつ、物資の不足に相当に悩んでいたことも見えてきます。「日本帝国」は内地の他に千島、南樺太、北海道、沖縄、台湾、朝鮮半島、関東州、南洋と諸方面に広がっていただけでなく、満州国、汪兆銘政権という傀儡政権も作っていたので、影響力を及ぼした範囲はかなり広いため、私もその全てを追いかけることは、まあ、そもそも無理と思ってはいるのですが、植民地の一つである台湾では電力供給の調整、物価の統制、米の消費の抑制の呼びかけ、国債購入の奨励と、これだけ挙げただけでもどれだけ物資に困っていたかが分かります。全て一重に蒋介石政府と戦争するためにここまで国力をつぎ込み、国民には我慢を呼び掛けているわけですから、これでアメリカと戦争をしようというのもそもそも無茶な話と言えますが、もう一歩踏み込んで言えば、アメリカの経済制裁のきっかけになった南仏印進駐の主たる動機は蒋介石包囲にあり、ハルノートを受け入れたくなかったというのも、突き詰めれば蒋介石との戦争を止めるよりはアメリカと戦争した方がまだましだという発想があったと言え、どうしてそこまで、国を潰す覚悟で蒋介石と戦い続けようとしたのか、個人的にはさっぱり理解に苦しむところです。

とある昭和14年10月21日付の情報機関の発行した機関紙では「日満支ブロック」という言葉が出てきます。イギリスやフランスが自分たちの植民地を囲い込んで、そこでうまく回しているのだから、日本も帝国の領域+満州国+汪兆銘政権で友好親善経済ブロック確立というわけです。但し、上述したように物資の確保に汲々としていたわけですから、はっきり言えば、満州国と汪兆銘政権の支配地域の資源も日中戦争の続行のために使用したいというのが本音のように思えます。「紀元2600年」に合わせて東京夏季オリンピック、札幌冬季オリンピック、更には東京万国博覧会まで誘致して盛り上げようとしていたわけですが、それは全てリソース不足のために中止されるという、がっくしな事態に陥って行くわけですから、読んでるこっちががっくしです。当該の機関紙には、帝国の植民地で暮らす華僑の人たちの汪兆銘政権支持の声明のようなものも出されており、果たして華僑の本音がどこにあったのか、本音では蒋介石を支持しつつ、帝国に慮って汪兆銘政府を支持することにしていたのか、或いは一部には本気で汪兆銘を支持して「日満支」親善友好を願っていたのか、もはや永遠の謎ですが、やはりどうしても、そこまでして蒋介石と戦い疲弊しなくてはならなかったのかが、繰り返しにはなりますが、理解に苦しんでしまうのです。当該の機関紙では、何度か蒋介石がコミンテルンで組んでいるから、コミンテルンの拡大を抑えるために、要するに防共のために蒋介石と戦わなくてはならないと書いていたことがあるのですが、その前から日本帝国と蒋介石は戦争状態に入っていたため、順序が逆ということになってしまいます。もうちょっと言うと、一方で防共と言いつつ、ノモンハンでえらい目に遭わされて、その後は日ソ不可侵条約へと発展し、あれほど目の敵にしていたソビエト連邦を友邦と見做して、ソ連が参戦してくるまではソ連の仲介による太平洋戦争の講話を模索するという本末転倒へと日本帝国の運命は流れて行ってしまいます。いろいろなものを読めば読むほど、読みつつ考えれば考えるほど、日本帝国の末路が意味不明なものに思え、日本人として結論としては「がっくし」となってしまうわけです。


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昭和史27‐五族自由平等

とある情報機関の機関紙を追いかけている中で、昭和13年7月1日付の号でちょっと興味深いものを見つけました。盧溝橋事件から1年、即ち現代風に言えば日中戦争が始まって一年経っているわけですが、日本軍の占領地に対し、台湾総督府からも宣伝慰撫のための工作班を送り現地の住民に対して宣伝活動をしてたり、治安維持活動をしたりして「皇軍」に協力したという内容のことが書かれてありました。

で、果たして何をしたのかはちょっと曖昧で分からないのですが、以下のような旗を作ったというようなことを書いてあります。それは厦門治安維持会旗章というもので、縦長の旗になっており、上の方には黄色の上に太極旗が描かれ、下には「五族自由平等」と書かれてあります。五族とはたしか、日本人、漢人、朝鮮人、満州人、モンゴル人ではなかったかと記憶しています(満州国の国旗がその五つの民族を示すものになっていたため)。

さて、果たして気になるのは果たしてそれがどこまで功を奏したかということです。漢人は血族単位での結束を最も重視するため、はっきり言えば、五族がどうした、平等かどうかなどということはあまり気にしません。親孝行、祖先崇拝を非常に重視するため、かなりはっきり言ってしまえば、それ以外の血縁のない人に対して、ほとんど無関心なところがあり、諸民族平等は確かに理想ではありますが、そもそも彼らはそういうことに関心はありません。尚のこと、残念ながら当時の日本帝国はわざわざ必要もないのに彼らの生活圏に乗り込んできているわけですから、歓迎されるわけもなく、歓迎されざる客が五族自由平等を唱えたところで笛吹けども踊らずといったところにならざるを得なかったのではないか、或いは表面的には協力的でも実際は全く関心を持たなかったのではないかと想像します。無根拠な想像ではなくて、儒教圏を知っている人ならば、通常、そう至らざるを得ないと言えるくらいの常識の範疇と言ってもいいかも知れません。

当該の号によると、昭和13年7月1日から15日まで台北市公会堂で「支那事変博覧会」なるものを開催するとの広告が載っていましたので、また近いうちにその資料にも出会えるかも知れません。その場合はまたこのブログで紹介したいと思います。

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張鼓峰は朝鮮半島と満州国とソビエト連邦の入会地みたいな感じになって、どこに主権がはっきりとは分からないエリアにあり、日本側も軍を置くというようなことはせず、ソビエト側も同じく積極的に介入するわけでもなく、なんとなくにらみ合いになる時期が続いていたことがありました。

昭和13年7月29日、ソ連側が進撃し、同地域の占領を目指します。山稜地帯ですからそこを奪取すれば満州、朝鮮エリアをかなり遠くまで見渡せるので何かと有利という、当然といえば当然の理由で、ある意味早い者勝ちと考えてソ連側が軍を出したようです。

日本側は夜襲をかけ、ソ連軍を撃退しますが、その後、一進一退の泥仕合が続けられることになります。日本にとってこの戦いの最も大きな意味は、日本軍が始めて機械化された部隊と衝突する経験をしたということにあると言えるかも知れません。第一次世界大戦にまともに参加していなかった日本軍は原則として歩兵が銃剣を持って突撃すれば根性で勝てるという、日清戦争・日露戦争の神話のようなものを是としており、これは少なくとも陸軍では太平洋戦争の末期ごろまでこの神話を信じていたわけですが(硫黄島、沖縄戦あたりから、考えが変わり、必ずしもやられっぱなしという感じではなくなったようにも思えるので、完全に末期のころは違ったと言えるのではないかと思います)、当時のとある情報機関がその模様について述べている機関紙によると、ソ連側はそこまで本気ではなく、局地戦でことを収めようとしており、中国に肩入れしているという立場上、うちもがんばってますよということを示す目的で、一応、戦争してみたらしいというような観測が述べられています。

この戦いは長期化せず、当時駐ソビエト公使だった重光葵が停戦を申し入れ、その段階でそれぞれが守備しているラインでそれ以上動かないということが決められたのですが、実際の戦闘ではソ連軍が後半で本気を出し、相当な規模の軍を投入し、日本軍に空爆も浴びせ、日本側は全滅に近い大きな被害を受けたと言われています。一方で、最近の研究ではソ連側の方が被害の実数として大きかったことも分かっているようですが、構図としてはノモンハン事件と全く同じだったことが分かります。つまり、日本側は現地軍だけで根性で戦うのに対し、ソ連側は一点集中で大量の軍を送り込み、どれほど被害がでようとも、そんなの関係ねえと資源を注ぎ込んで、勝ちを収めるという構図が全く同じなわけです。

私が読んでいる当該情報機関の資料ではそういったことには触れてはいません。インテリジェンスの甘さを感じざるを得ないと思えてなりません。張鼓峰事件の教訓が生かされることはなく、ノモンハン事件でも同じ展開を見せたということは、自分にとって不利なことには目を向けないという陸軍の致命的な体質があったのではないかと思えてしまいます。

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昭和史18‐南方電波戦

とある情報機関の発行していた機関紙の昭和13年3月1日付の号で、南方電波戦という小見出しのついた記事がありますので、ちょっと紹介したいと思います。その記事によると台湾に強力な電波を発する放送局を建設し、宣伝放送をやろうというわけです。意外と東京ローズの声も当該放送局の電波に乗せて放送されることになったかも知れません。

当該記事によると「放送機は科学日本が世界に誇る国産機を備へ、206メートルの鉄塔を築き、来年五月頃迄に工事を完了し、十月には早くも我が日本帝国の声を強力電波に乗せて南洋各地に送ることになった」と書かれています。今もその鉄塔が残っているかどうかは分かりません。206メートルと言えば当時としてはかなりのものですから、探しに行ったら残っていないとも言い切れません。

その記事では続いて世界各国の放送局がどうなっているかを表にしており、日本では東京に二つ、各150キロワット、満州の新京に100キロワットのものがあるほか、アメリカやドイツ、イギリス、イタリア、ソビエト連邦など各地の放送局の場所とワット数が書かれてあります。驚きなのは、大抵の放送局が100キロワットか150キロワットであったのに対し、アメリカのシンシナチにある放送局とソビエト連邦のモスクワにある放送局がそれぞれ500キロワットの力量を持っていると書かれていることです。さすがはアメリカとソビエト連邦と妙に感心したくなります。

果たしてどのようなことが放送されたのかは現状では分かりません。資料を読み進めていくうちに明らかになるかも知れません。昭和13年の段階で南洋方面に向けてラジオ放送を計画していた、宣伝放送を南洋方面でやろうとしていたという事実はなかなか興味深いもので、日本帝国がアメリカの経済制裁が行われる前からじわじわと南進を計画していたことを示す資料として価値があるのではないかと思います。

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斎藤実内閣‐事件を呼ぶ首相

犬養毅が515事件で倒れた後、朝鮮総督を二度務め、シーメンス事件で失脚していた斎藤実が後継首相として西園寺公望に指名されます。

西園寺は荒木貞夫から「陸軍は政党政治には協力しない」と告げられており、昭和天皇からは「ファッショな人物は絶対にNG」と言われていたため、海軍出身でかつリベラルと目されていた斎藤実で双方の意見をまとめたという印象です。西園寺は政党政治志向の持ち主であったと考えられていますが、軍部が執拗に非政党政治を追及してくることをかわし切れなかったという感じで理解しています。

斎藤実はとにかく事件と一緒に生きた人という印象が強いです。朝鮮総督時代には爆弾テロに遭遇し、ドイツの企業から海軍の幹部に贈賄があったとされるシーメンス事件で失脚し、斉藤実内閣自体も平沼騏一郎の陰謀説がある帝人事件で総辞職し、226事件で非業の死を遂げます。新聞記者の世界には事件を呼ぶ新人というのがあって、その人物が配属された先ではやたらと事件が起きるという伝説みたいなものがありますが、斎藤実もまた、事件を呼ぶ軍人だったのかも知れません。

斎藤内閣では日満議定書を結んだほか、運命の国際連盟脱退をしています。1930年代の政権は一つ一つの選択がまるで狙ったように国際的孤立と最終的な滅亡へと着々と進んでいるようにも見え、やはり、日本はそういう運命だったのか…と思わなくもありません。

近年では日本全権として国際連盟の総会に臨んだ松岡洋右は国際連盟の脱退を避けたいと考えていたことが分かっているようです。天皇もしくはその側近から国際連盟の脱退は避けてほしいと内々に伝えられていたと言います。私は松岡洋右はとんでもない帝国主義者なのではないかという印象を以前は持っていましたが、最近の研究が正しければ、まっとうな常識人だったと言えるかも知れません。

ヨーロッパの総会で松岡が孤軍奮闘している時、関東軍は熱河作戦を行い、更に占領地を広げていきます。この難しいタイミングで関東軍は一体何をしているのか…とため息をつきたくなりますが、関東軍の作戦地域の拡大により、松岡は更に厳しい立場に追い込まれていきます。イギリスが本音ベースで話し合おう(列強でおいしいところを分け合おう)と持ちかけ、松岡はそれを渡りに船と考えたようですが、東京では「国際連盟を脱退すれば、満州のことで経済制裁を受けずに済む」という考えが持ち上がり、松岡に「脱退せよ」との訓令が届きます。松岡は後に「脱退したことを激しく後悔した」という主旨のことを書き残していますが、以上のような経緯を見れば、確かに後悔するであろうと思える展開です。松岡が東京を説得してイギリスの提案に乗ることができれば、太平洋戦争は起きなかったかも知れません。

ただ、陸軍はまるで過食症の患者のようにどこまでもどこまでも拡大し続けようとしていましたから、日本という国が当時の陸軍という組織を抱えている限り、どこかで日本は破綻したのではないかという気がしなくもありません。

斎藤実内閣の次は、岡田啓介内閣で226事件が発生します。誰か陸軍を止めてくれ…。

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犬養毅内閣‐最後の政党政治

民政党の若槻礼次郎が満州事変の時局収拾のための挙国一致内閣を作ることを断念し総辞職したことから、西園寺公望は憲政の常道にのっとって野党第一党の政友会の総裁である犬養毅を首相に指名します。犬養毅は首相に就任すると衆議院の解散総選挙を行い、政友会は議席を大きく伸ばします。当時はどうも「与党」に人気が集まりやすい傾向があったのかも知れません。

犬養毅は満州問題について、主権は蒋介石の国民党にあることを認めつつ、実質上は日本が支配するというプランを持っていたようですが、それが軍部からの反発を招きます。私個人としては軍部は一体何をしたいのか、終わりなき拡張主義に首を傾げざるを得ません。

犬養毅は野党時代、ロンドン軍縮条約に反対しており、これははっきり言えば政権を論難するための議論の議論のようなもので、政治家が外国と軍縮について決めるというのは天皇の統帥権の干犯で憲法違反だという論陣を張ります。「統帥権」さえ持ち出せば、政治家は軍に介入できないという議論の構成を「アリ」にしてしまった意味で、犬養の責任は重いように思えます。

満州問題の穏健な収集路線が軍から反発を受けていたほか、ロンドン軍縮条約に反発する海軍の将校が、若槻礼次郎を狙うつもりが若槻内閣が倒れて犬養内閣になったことで、拳を振り下ろす先を失くししまった感があったものの、それでも犬養をヤレという勢いで5.15事件を起こします。犬養はロンドン軍縮条約に反対でしたから、海軍にとっては味方してくれる政治家の筈ですが、条約を破棄するわけでもなく、そのまま行きそうだったので、ヤッたということは議論の筋道としては分からなくもありませんが、そもそもロンドン軍縮条約は日本の要求をほぼ満たしており、それでも殺したいほど不満に持つというのは、理解不能というか、軍部の突出したいという勢いが止まらなくなったというか、この時期のころから、軍部の独裁国家を作りたいという一部の関係者の願望が実現化しようとしていた、おかしな時代に見えてしかたがありません。知れば知るほど暗い気分になってきてしまいます。

犬養毅には森格という側近がいて、犬養曰く「森は危険すぎるから手元においた(野放しにすると何をするかわからない)」ということらしいのですが、5.15事件では森が軍人を手引きしたという噂が流れ、なんともきな臭い、こんなところにフィクサーが隠れていたのかと思うと、愕然とするというよりも、その手のフィクサー気取りがあちこちにごろごろいて、追放しても追放しても出てきますので、もう、日本の運命は滅亡するところまで突っ走る以外に道はなかったのかも知れません。暗いなあ。実に暗い…。

犬養政権後の後継首相選びでは軍が強気で、政友会も対外強硬派の首相を出したがっており、西園寺はとりあえず、八方収めるために海軍出身だが穏健派と見られた斎藤実を後継首相として推薦します。西園寺の心中には自分の理想とする政党政治の在り方と、実際の政党人の在り方の乖離が激しすぎて絶望的なものがあったのではないかという気がします。これで政党政治は実質的に終了し、後はもう無理難題が押し通って後戻りできない滅亡への一方通行へと入って行ってしまいます。

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浜口雄幸が暴漢に襲われて執務が不可能になったことが原因で、浜口内閣が総辞職すると、西園寺公望は浜口雄幸と同じ民政党の若槻礼次郎を二度目の首相に指名します。浜口内閣は失政によって総辞職したわけではないため、憲政の常道にのっとり、西園寺は民政党政権を持続させました。

第二次若槻内閣では、日本の運命を決定づけたとも言える満州事変が起きており、外務大臣の幣原喜重郎が平和外交を進めようとしますが、中村大尉が張学良の配下に殺害されるたという事件が公表されたことで民意が激高していたため、幣原の対外融和策は「軟弱外交」と批判されます。

陸軍大臣の南次郎は若槻内閣の一員として協調路線に協力しようという意思はあったようなのですが、陸軍部内の強硬派からの突き上げを受け、板挟みの状態になってしまいます。満州事変は石原莞爾が独自の判断で勝手に起こしたと言ってもいいものですから、政治の側からは予算を止めるという対抗措置も不可能ではありませんでしたが、南次郎はそこまで踏み込むわけでもなく、現場の暴走を黙認、または追認していき、いわば成り行きまかせで主体性を失っていたように見えなくもありません。

若槻礼次郎は事態不拡大の方針で臨もうとしましたが、現場が勝手に動くことを抑えることができないことで、内閣が同様し始めます。内大臣の安達謙蔵は政友会との連立政権を組む挙国一致内閣を作ることで内閣の主導権を強めようと動き出し、当初は若槻もそれに乗ろうとしましたが、平和外交主義の幣原喜重郎と緊縮財政主義の井上準之助が反対します。政友会と連立すると政策に影響が出ますので、思うように政治ができなくなるというわけです。

若槻は幣原と井上に押し切られ、一旦はまとまりかけた政友会との連立を白紙に戻そうとします。安達謙蔵が内大臣を辞職することで丸く収めようとしましたが、頭にきた安達が辞表を出さずに自宅にこもりきったまま出て来ないという状態に陥ってしまい、内閣不一致で第二次若槻礼次郎内閣は総辞職へと追い込まれます。

このように見ていくと、昭和初期で軍部が台頭していく中、首相が軍への指揮命令権(統帥権)を持っていなかったこと、他の大臣を罷免する権限を有していなかったことが、日本の政治の大きな弱点になっていたことが分かります。伊藤博文は首相に権力が集まり過ぎないように配慮してそういう仕組みにしたのだと思いますし、首相指名権が元老にあったというのも、明治維新創業者世代が現役だったうちは真の意思決定者は元老であり、首相は実務者のトップに過ぎないという意識から生まれたことだと思いますが、幸運に恵まれた創業期と違い、この時期になると首相に嵌められた手枷足枷が柔軟性を奪い、責任のある意思決定ができないまま、滅亡へひた走りに走ったと思えなくもありません。

西園寺は若槻礼次郎が内閣不一致で総辞職したことを受け、失政による総辞職であったことから、政友会の犬養毅を後継首相に指名します。この政党政治の終焉が近づいていきます。

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田中義一内閣がいろいろな意味で残念な件

田中義一は原敬内閣と第二次山本権兵衛内閣とで陸軍大臣を務めた人ですから、政党政治を全く理解しない人というわけではなかったかも知れません。ですが当時、マスコミをコントロールすることの重大さに気づき、陸軍省新聞班を設置したりしていますので、大正デモクラシーに対する反発心も持っていたかも知れず、ある意味では大正時代の軍縮・協調外交・政党政治路線への反動勢力の先頭に立つような形で首相に就任します。

政友会では高橋是清が人事の紛糾で首相の座を退いた後、政友会総裁の後継者を探しますが、過去の政争が根をひきずってしまい、適切な人物が見当たらず、やむを得ず外部から田中義一を総裁として招きます。そして若槻礼次郎内閣が不祥事続きで辞職した際、憲政の常道に従い、野党第一党の政友会の総裁である田中義一が首相に任命されるという展開になります。憲政の常道は新たに作った不文律のようなものですが、民主主義の定着を狙ったものであったため、貴族院議員の田中義一に大命降下するというのは、ルール上全く問題ないにも関わらず、衆議院で選ばれていない人物という意味では憲政の常道の核になる部分が骨抜きになった見てもそんなに外していないと思います。

外交では幣原喜重郎の対外温和路線を否定して対中強硬策を採用しており、在留邦人の保護の名目で三度にわたって山東地方に出兵しており、途中で田中義一が開いた東方会議でも対中強硬路線を堅持しつつ、関東軍は投入しないという意味不明な迷走を見せており、河本大作大佐が起こした張作霖暗殺事件は、その田中義一への意趣返しとの見方もあります(河本が蒋介石に抱き込まれたんだーっ!という意見もあるかも知れません。私にはそれを判断するだけの知見がありません。すみません)。

さらに鉄道疑獄事件と文部大臣が辞める辞めない問題もあり、田中義一内閣は行き詰まりを見せ始めます。止めを刺したのは昭和天皇で、昭和天皇が、張作霖事件の犯人が河本大佐だと分かっているのにそれを隠そうとする田中義一に対し「お前なんかやめろ」と言ったという人もいれば「側近に田中は嘘つきだから、もう顔を見たくない」と言ったことが田中の耳に入って観念したという人もいるようで判然としませんが、昭和天皇は後に「田中義一の時には介入し過ぎた」と後悔するような回想をしているので、踏み込んだ発言があったのかも知れません。昭和天皇も30歳くらいでまだまだ若いですから、かーっと感情的になることがあったとしても不思議とも思いません。ただ、首相の責任を放り出したいと思っていた田中義一が「天皇陛下の怒られた」という格好の口実を得て辞職したような気もなんとなくしてきます。

こうやって見ていくと、高橋財政だけがお札の半分だけ刷ったものを銀行に山積みして預金者を安心させるという頓智のきいた奇策が光っているものの、それ以外、特に外交では残念な部分が多く、憲政の常道に疑問符がつけられるような展開になったのも私の目から見てもったいなくも思え、残念な内閣という意見になってしまいます。

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『ラストエンペラー』の孤独の先にある孤独とさらにその先の救い

『ラストエンペラー』は清朝の最後の皇帝であり、後に満州国の皇帝に即位した人物で、日本の関東軍とも深い関係があったことで知られる溥儀の人生を描いた映画です。

映画の前半はずっと紫禁城の内側でのできごとが描かれます。どの場面も一幅の絵のように美しく、現代の我々の生活とは全く異なる別世界が実際に存在したのかのように思えて来ます。実際に紫禁城で撮影されていて、あちこち建物が傷んでいますが、これもいい意味でリアリティを持たせることの役割を果たしているように見えます。少年溥儀は紫禁城から出ることを許されず、巨大な宮殿の中で監禁されているかのような息苦しさとともに成長していきます。唯一心を開いた相手であろう乳母とも引き離され、孤独を噛みしめます。

溥儀と周辺の人たちは将来の清朝の復活を期待しますが、軍閥によって紫禁城を追放され、天津で暮らします。実際には日本疎開にある邸宅を借りて、そこで相当に放蕩したようです。

だんだんお金が無くなっていきます。二人の妻と数十人の従者や元清朝関係者を抱えているにも関わらず、好き放題に贅沢しますので少しずつ追い詰められていきます。蒋介石からは年金が支払われていたはずですが、追い付かなかったみたいです(原作とされるエドワードベアの『ラストエンペラー』では一階をレストランにしたことになっていますが、あまり儲からなかったというか、儲かっとしても、これも消費に追い付かなかったような気がします)。そのような時、第二夫人が離婚を申し出ます。このことは物見高い天津中の新聞に書かれ、溥儀は大きく面子を失いますが、彼のように古代世界から抜け出て来たような人物であっても、20世紀的な人間の悩みやつまづきから自由になることはできませんでした。映画では、「新しい時代の女性」を象徴するかのように、明るい希望に満ちた音楽とともに第二婦人が出ていくところを描いています。深い絆で結ばれていたであろう家庭教師のレジナルドジョンストンは帰国してしまいます(満州国建国後、溥儀は乳母とレジナルドジョンストンを満州に招待していますので、実際の歴史でも溥儀がこの二人を自分の人生にとって必要な存在だと思っていたことが推し量れます)。

溥儀は関東軍に要請されて満州国へと渡ります。清朝復活の希望を託せるからです。しかし関東軍は彼を操り人形としか扱いません。彼の主体的な意思はそこには存在しません。3歳の時に紫禁城に招かれ、その後、一切の主体性を認められずに生きてきた彼にとって、自分が主体的に生きられないことへのもどかしさや怒り、周囲への不信感を抱え、それを増大させていきます。残った第一夫人は運転手と不倫関係になります。運転手は殺害されます。他にも溥儀のことを扱った映画では、運転手が命を絶たなくてはいけなくなるものもありますが、この映画の原作とされるエドワードベアの『ラストエンペラー』では疲れ切った溥儀が男に金を渡して立ち去るように命じただけだったと述べています。実際はどうだったのかは分かりません。殺されてもおかしくないとは思います。エドワードベアの『ラストエンペラー』という作品は東洋人への偏見が少し強すぎるように思うので、どこまで本当のことを取材しているのか私には疑問に思えますが、そういう記述もあるという程度に抑えておきたいと思います。

終戦の時、溥儀は一旦ソビエト連邦に抑留され、その後、中国に引き渡されます。戦犯収容所に入れられ、10年以上に渡る人格矯正を受けます。収容所内での所長と溥儀の会話では、溥儀が「あなたは私を利用しているのだ」という台詞があり、所長は「利用されるのはそんなに嫌なことか」と言います。溥儀は自分が利用対象に過ぎず、人間として尊重されていないと感じ、それが自分の人生でもあるように感じていて、人生に深く失望しています。

溥儀は釈放され、北京で普通の市民の女性と結婚し、文革の最中に亡くなります。映画では最後に溥儀の近くにいるのは彼の弟です。文革の街を二人で歩きます。文革で弾圧されている収容所の所長に再会します。彼は紅衛兵たちに対し「彼は素晴らしい教師なんだ」と訴えますが、押し倒されてしまいます。人生で初めて、全く自由な自分の心から彼は発言し、他人を助けようとします。晩年になって人間性を取り戻したと言うか、ようやく感情、或いは衝動に身を任せるということを手に入れたように見えます。

晩年の溥儀に対しては優しい視線が送られます。映画全体のやたら細部までしっかりしているリアリティ、登場人物の表情や目の動き、身のこなし、どれもが考え抜かれていて、何度見ても「ああ、ここでこんな表情をしていのか…」と今まで気づかなかったことに驚くということがよくあります。それほど、ディテールまでしっかり作りこまれている映画なのだと思います。

主役のジョンローンは香港で孤児として京劇のスクールに拾われ訓練を受けたとのことですが、京劇の基礎と、後にアメリカにわたって訓練された演劇の基礎の両方を持っており(トニー賞を二度受賞)、一つ一つの動きが、一言でいえば美しいです。何度観てもほれぼれするクールな映画です。

細部に於いては史実とは少し違うところもあるようです、溥儀は紫禁城に隣接するようにして建っている父親の邸宅には自転車で行っていたらしいですし、少年時代は電話を好き放題にかけて胡適を紫禁城に呼び出すようなこともしていたようです。弟に命じて紫禁城の財産を天津に移動させていたり(将来を見越してか?)など、わりと自由にできていたところもあったようです。また、坂本龍一が満州国の片腕の陰の支配者甘粕正彦の役をしていますが、実際の甘粕満州映画協会理事長は両腕のある人でしたし、満州国の陰の実力者ということはなかったようです。満州映画協会が工作組織としての一面を持っていたとする指摘もあるようですが、それはおそらく同撮影所で制作したものを上海や台湾などで上映することによる宣伝活動ということではなかろうかと思います。そう考えれば、国策映画会社がそのような任務を負っていたとしても普通に納得できます。

話が脱線しますが、満州映画協会によって台湾を舞台に李香蘭主演の『サヨンの鐘』という映画が撮影されます。台湾人に対する宣伝映画なのですが、未だに全編を観ることができていません。台湾で上映する宣伝映画を満州映画協会が作ったということは、それだけ満州の映画産業が発達していたと見ることもできるため、なかなか興味深い現象だと思います。

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遠藤周作と満州

遠藤周作は世界中の様々なところに出かけて取材し、作品を書いた作家です。フランスへの留学経験があるため、フランスのことはよく出てきますが、もう一つ、満州のことも彼はよく書いています。

 遠藤は少年期を大連で暮らしており、両親の離婚に伴って母の実家のある神戸へと転居しました。そのためか、遠藤の描く大連の思い出は寂しさや悲しみに満ちているように感じられます。『海と毒薬』、『深い河』で描かれる登場人物にとっての満州はどれも悲劇的、または寂寥感にあふれており、彼がかの地でどのように心象風景を形成していったかを知る手がかりになっていると言うこともできるでしょう。

 遠藤周作は犬が好きなことでも知られている人ですが、満州時代に満州犬を可愛がっていたことと、母と帰国する時に犬とも別れなければならなかったことが、犬好きとも大きく関係していることでしょう。

 大連で出会った中国人には親愛の情を込めた描き方をしており、満州時代に自宅に来ていたボーイの少年との友情が感じられる他、日本人に売り物を徹底的に値切られる売り子への同情も読み取ることができます。

 遠藤よりも少し年上の作家たち、安倍公房や三島由紀夫が小説作品に自身の主張を刻み込んで行ったのに対し、遠藤の世代、いわゆる第三の新人と呼ばれる人たちの作品には主張よりも心の旅を書くことに関心が強かったようにも思えます。或いは心と主張が不可分になっていたのかも知れません。

 満州は日本の侵略によって作られた植民地国家と言ってよいですが、それだけに、同時代を生きた人たちの中では満州と関わりがあったという人も大勢いました。そういう時代の人の書いた満州に関することを読み解いていくことも、日本の近現代史を理解する上での有効な手助けになるのではないかと思います。

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